こづかい三万円の日々

40代の男がアニメ、映画、音楽などについて書いています。Twitter:@tegit

魔法にかけられて

 傑作。
 おとぎの国のお姫様が現実社会に迷い込んで……という引きから予想されることしか起きない映画だが、逆に言うと、その引きから期待されることが、ディズニーのクオリティですべて達成されているということでもある。これぞハリウッド・エンタテインメント!と喝采したくなる出来だ。

 物語にはルールがある。現実に比べて突飛ではあっても、物語のなかで筋が通っていればOKだ。
 ディズニーアニメはとくにそのルールが強固で、ときに強固すぎるために陳腐になってしまっていた。
 『魔法にかけられて』の場合、プリンセスであるジゼルが現実世界に飛び出すことでそのルールを一旦分解する。ふつうのパロディ映画ならここで終わる。パロディの義務は基本的にルールの否定だけだからだ。
 しかし、ディズニーがディズニーの否定をするだけで終わるわけにはいかなかったのだろう。当然だ。2Dアニメの人気が落ち、映画戦略がうまくいかず、ディズニー的規範も世の中で廃れているいま、エンタテインメントの職人として世界の人々に長年夢を与えていた人々が、自己否定だけをして終わっていいわけがない。
 かくしてお姫様はおとぎの国のルールを現実世界で高らかに宣言する。真実の愛のキスが全てを超えるのだ、と。
 どんなに世界が変わろうと、真実の愛のキスだけは変わらない。これがディズニーにとって譲れない最後の一線であり、ディズニーが20世紀のあいだずっと、人々の心に植え付けてきたよき遺産なのだ。

 個人的には、この「真実の愛のキス」というルールだけを残して、ほかのすべての夢、物語が人々に与える甘いものすべてを打ち壊してしまってもよかったのではないかと思う。ぼろぼろになったお姫様と、愛に裏切られ歪んだままの男が、それでもただ、「真実の愛のキス」だけを拠り所に、結ばれる……。
 そういう無茶なディズニーアニメも観てみたいと思う。当然無理なんだけど*1

 ジゼルが宣言するルールはクライマックスでみごとに回収される。
 脇役たちも、それぞれが劇中で宣言したルール(=伏線)に従ったエンディングを迎える。
 余韻として残るのは、物語のルールがみちびく、豊かな感動だ。物語は、ルールに従って展開するにもかかわらず、最後には強烈な開放感をもたらす。なぜなら、物語のなかにルールはあっても、物語自体は自由だからだ。物語自身は無限に広がりうる。

 そしてたぶん、「真実の愛」も同様なのだろう。

 ↑主題歌のPVでもアニメが観られるが、今回の画風は監督ケヴィン・リマの2Dアニメ作品『ターザン』と似ていてかなり好みだった。
 古風だけれど、日本のアニメの雰囲気も取り入れて、かつ、ちょっと新しい。

*1:それは、ディズニーに育てられ、ディズニーに反抗してきた日本のアニメの仕事なんだろう