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ギロチン

2017-12-15

母性のディストピア感想

母性のディストピア読んだんだけど…。


議論が錯綜し過ぎていて全体像を上手く説明するのが難しいんだけど、あえて要約するのなら、アメリカによって仮構された虚構の国である戦後日本では、憲法改正による対米自立・再軍備化も(三島由紀夫江藤淳)、またアメリカ庇護の下での平和主義も(柄谷行人)、共にその政治的な欺瞞性を隠蔽する成熟のフリをしているに過ぎず、また、村上春樹的な文学のように、自らは手を汚さずに、女性を人身御供にすることで、擬似的に獲得される歪な父性、また青年男性的な自己実現欲求のことを、母性のディストピアと称しているようである。


そして、誰よりもその戦後日本的な欺瞞を自覚しながらそれに挑んだ、宮駿、富野由悠季押井守も、また母性のディストピアという壁を崩せなかったことが、滔々と語られる。以上がこの本の論旨である。


まあ、戦後日本はアメリカによって創造された虚構の国家って認識自体、極右に接近するヤバ味を含んじゃっている気がするんだけど、それはいいとして、現実/虚構、父性/母性、物語/情報、国家/市場、外部/内部みたいに全てを二項対立にして語っているけど、しかし、現実から独立した虚構もなければ、国家に依存しない市場もないわけで、色々と無理があり過ぎる気がするのだが。


また、宮崎、富野、押井の三人の、現実による敗北でもって、戦後日本人男性的な成熟の可能性は終わったと高らかに宣言されているんだけど、どうなのかな。たしかに、この三人だけを切り取ってみれば、たしかに、日本における、男性的なヒロイズムや成熟の不可能性は突破出来なかったように見えるけど、しかし、ドラゴンボールワンピースを挙げるまでもなく、ヒロインの犠牲や母性に依らない、少年や青年男性的なヒロイズムや成熟の達成なんて幾らでも見られると思うのだがね。たしかに、少年マンガは衰退しているのかもしれないけど、だがその可能性を退けてしまうのは早すぎるんじゃないか。後、母性のディストピアを回避するための、同性の関係性や友情による物語の可能性にしたって、そんなものは、キン肉マンジョジョの奇妙な冒険とか、昔から繰り返し提示されてきたものじゃないのかしら。


それに、母性の井戸に落ちてしまった富野ガンダムに対して、ガンダムWが理想化されているんだけど、だけど、あの女子をターゲットにしたボーイズ・ラブ的な関係性だって、女子が主体性放棄して美少年に萌える事ができる父性のディストピア的とも言える構造を孕んでいるし、しかもリリーナが君臨することによって、設定の破綻や混乱が何となく収縮していく母性のディストピア的な範疇に入るあらすじだったと思うのだけど。


あと末尾で、世界を物語ではなく情報の束として捉えることで、イデオロギー的な党派性から解放されていく、オタクgoogle的なプラグマティストの可能性が示されているんだけど、それも現実には、菊池誠みたいな理系クラスタのように、リアリスト気取りで真偽不明の出鱈目を垂れ流す、亜流のネトウヨを純粋培養する危険性があるという形で、半ばその不可能が実証されているんじゃないだろうか。例えば、少子化対策男女雇用機会均等法を廃止せよとかいう、ミソジニー丸出しの文系院生の発言を見たけど、それだって本人はネトウヨイデオロギーから確信犯的に言っているつもりはなくて、あくまでも経済性・合理性という、市場と情報論的な観点から言っている疑いがあるように感じる。


だいたいからして、いくらザッカーバーグgoogleが国境を越えているからといって、英語が理解らなければ自然と母国語の壁を越えられないわけだし、その彼らですら未だに中国を攻略できていないし、またロシアみたいに国家戦略的フェイクニュースを垂れ流す勢力もあるわけで、インターネットは現実を拡張するにせよ、それは人間の身体や言語、文化教養や階級によって限定されうるし、また市場も国家から独立しているどころか、まだ従属しているものに過ぎない。そこら辺の議論は、読んでいて説得力が無かったし、著者もそのイメージをしっかり掴みきれていないような感じがした。まあ、著者本人が、イケダハヤトや家入一真のインターネッ党に接近するような、そそっかしいタイプだからねぇ。

2017-12-12

総じて政治というものに対するイメージが貧しいサブカル評論

母性のディストピアをちまちま読み始めているんだけど、でも相変わらず政治に対するイメージが狭いよなって思う。


まだまだ序章もいいところなんだけど、三島由紀夫江藤淳村上春樹 (それに加藤典洋を少し)を並列させて、(戦後的な政治空間は)アメリカ軍事力庇護の下での経済成長と、その中でも、また仮に対米自立したとしても、日本人は政治的な主体性回復できない(=父の不可能性)ことを自覚した上で、あえて家父長制的な父を演じて見せるか(三島、江藤的な戦前的超国家主義志向)、それか、女性を人身御供に捧げることで、擬似的に父性を回復していく(村上的な第三の道)のいずれかしかなかったという、お馴染みの宇野戦後史観が語られている。


もちろん、宇野の視点も重要だが、しかしそれだけをフレームアップすることで、初めから色んなものが狭められてしまっているような気がする。だいたい、政治というものは、護憲派があえて憲法9条を護持するよう詰め寄ることでも、ネトウヨが己と国家を一体化させることでも、またアメリカによって捏造された日本において、その平和憲法主義的な建前と、対米自立再軍備化という本音の中で揺れ動く戦後文学青年の自意識について禅問答することだけではない。


3.11以後は、言うまでもなく貧困や格差、レイシズム、労働や教育現場の荒廃、政治の独裁化などのように、生の政治の問題が再浮上している。だがそれすらも、未だにリアリティを感じられずにいる要因を、宇野は上記で記したようなことに求めているのだが、でもだからといって、「政治と文学」に代わって、「市場とゲーム」が優越するようになったわけじゃないだろう。むしろ、戦後のある時期から政治と文学が衰退し、市場とゲームが強くなり過ぎたからこそ、政治と文学に対するリアリティが消滅してしまったからじゃないだろうか? まあ、ある種のリベラル知識人や文化人たちが、政治で熱くなるなんてダサい、消費とコミュニケーションに戯れていることの方がカッコイイんだと、啓蒙し続けてきた成果が今に来て裏目に出るようになっただけなんだろうが。


だけど、政治=その個人自意識党派性の問題だと、短絡的に結びつけて相手を攻撃したがる癖は、何も宇野や東浩紀に類するような知識人だけでなく、ツイッターを根城にするインテリ本オタクや人文系オタクにも広く見られるものである。その代わりに、政治的に面倒なことは、左右のイデオロギーを超越した市場の見えざる手に任せておけば、自然に解決するだろうという、青識亜論みたいな素朴な市場原理自由主義者が、今の日本のサブカル文系における趨勢であるようだ。


まあ、市場とゲームに特化された日本の国民社会とサブカルチャーが、レイシズムや諸々の政治問題に対する処方箋になったかといえば、逆に、その負の側面を後押しするような真似ばっかやってきたように見えるけど。むしろ、どいつもこいつも、それを指摘して正そうとした者を、村八分にするような空気を作ってきたように思うし、実際に自分もはぶられてきたしね。


※追記

まあ、母性のディストピアとか言っている割に、戦後少年マンガ、とりわけ、80年代〜90年代にかけての少年マンガの考察が全くないのは何でだろうね? ドラゴンボールワンピースをあげるまでもなく、別にヒロインや母性的なものの媒介を無しに、ヒロイズムの不可能性(父の不可能性)を、乗り越えている作品なんて無数にあると思うんだけど。それは、戦後やポスト戦後を支配し続けている、母性のディストピアなるものの前では全く無力な想像力とでも言いたいのか。いや、んなことはないと思うし、市場とゲームとか言う前に、検討する余地はあると思うんだけどね。

2017-12-11

新自由主義は自然に発生したものではない

最近の人文系界隈では、市場主義と素朴な古典的自由主義への信仰心が強い傾向があるけど、しかし現況のグローバル経済は別に自然発生的に形成されたものではない。


まあ、そんなことは、サッチャリズムレーガノミックスの例をみても、新自由主義が意図的な政策によって創造されたものでしかないことは、明白だと思うんだけど。しかしそれを、左右のイデオロギーに縛られない、ある種の市場の見えざる手であると、素朴に信仰してしまうのは如何なもんかね。しまいには、在日コリアンを狙ったレイシズムですら、政治的な働きかけではなくて、市場によるルールと自由競争によって解決すべきという始末である。それは、青識亜論とその愉快な仲間たちみたいな原理主義カルトだけではなくて、宇野常寛さんですら、そういう風に思っていそうなフシがある。


また、今世界中で起こっているポピュリズムとは、市場と福祉国家が両立していた時代への揺り戻しでしかないと思うんだけど、日本は、未だに競争原理主義が社会を発展させるという幻想から抜け出せてなくて、人文系リベラル市場原理主義的な思考をベースにしている傾向が強いと感じられる。とか何とかいって、景気回復とか言っている割に、年々市場は縮小しているし、文芸・マンガにゲーム、音楽や映画すらもどんどん悲惨になっているけど。ここまで酷いことになっているのは、日本だけだよね?


その日本的な貧しさを、コミュニケーションとか何とかという取ってつけたよう屁理屈で誤魔化しているのが、今の日本の批評・評論界隈で流行っている言論だと思うんだけど、でも、市場原理を盾にして、右でも左でもない中立主義を気取るのは、どういうことなんだろうか。ぶっちゃけ、宇野常寛のPLANETSや、東浩紀のゲンロン界隈に集う連中なんて、微妙にネトウヨとはベクトルが違うだけのオルタナ右翼とでもいった方がいいんじゃない。所詮、左翼的なものに反発アピールするだけで、ネット的なポピュリズムから承認されるだけの、イージーな言論でしかないのだから。


だいたい、さして左派磁場が強くない日本で、さも知っているかのようにサヨクを叩いて、ネットでマウンティングしているような連中の知性なんて、大したレベルじゃないだろう。そういう連中って、単にツイッターフォロワーから承認されるために、ネトウヨ的なものに媚びてるだけじゃないの。だけど、残念ながら、それが今の日本のリベラル周辺における、コミュニケーション生存戦略の条件になってしまっているようである。しかし、その手のインテリ本オタクが、日本のレイシズム的な風土を下支えしているのがタチ悪いと思うんだけど、でもまあ、いくら言っても説得不可能だし、もう諦めているんだけどね。

2017-12-10

夜は短し歩けよ乙女見たんだけど…(DVD視聴)

開始20分で辛くなって、90分程度を最後まで見通すのが大変だった。


まあ、元から森見登美彦が苦手なのもあるけど。でも、ああいう勉学に友情そして恋に苦悶する、みたいなアナクロキャンパスライフにリアリティを感じる人も、まだけっこういるんだなってことに驚愕する。東京と違って関西では、ああいう気風が未だに残っているんだろうか? もし、東京が舞台だったら、佐藤健みたいな感じのいけ好かない美大生が主人公で、恋や周囲とのコミュニケーションの軋轢に揉まれていく、ダウナーな方向に行ってしまうのかな。


そう考えると、本質的には、ナードの妄想の域を出ない森見登美彦の世界観を、湯浅マジックでもって膨らませることで、より開かれていくものもあるのかなって思った。


「夜は短し歩けよ乙女」 Blu-ray 通常版

「夜は短し歩けよ乙女」 Blu-ray 通常版

2017-12-08

ノンポリは強い政治的な批判勢力にはならない。

またまたこの記事の続きだけど。


ここで言われている、「政治と文学」 と、「市場とゲーム」 って、対立するものではなく、相関するものだと考えたほうがいい。すなわち、政治と文学が衰退すれば、また市場とゲームも劣化するのである。だいたい、実体としての日本の市場規模も年々衰退しているし、そこで行われているゲームもますますしょぼくなっている感じではないだろうか。


まあ、バブル期から3.11ぐらいまでは、政治から切断されたところで、延々と市場とゲーム(消費とコミュニケーション)に興じられていたのかもしれない。でも、このネトウヨの時代に対して、市場とゲームの倫理に裏打ちされた、ノンポリオタクサブカルネトウヨでもサヨクでもない、オルタナティブになっているかといえば、微妙だろう。


それに、彼らが危機感を持つほど、文化人が政治的に左派旋回しているように見えないし、世間もインテリも、マジョリティノンポリのまま平常運転しているように思う。だから、わざわざノンポリたるべきだと、さも誇らしげに訴えかける意味なんてあるんだろうか。


そうでなくても、政治的な主体性を欠いた日本のサブカルチャーに、いまさらグローバルなコンテンツ力はないことは、コリアンカルチャーのグローバル的躍進と、中華マネーが日本を飲み込みつつあることを見れば、分かりそうなことだと思うんだけど。AKBが、K-POP的なものへの有効的な批判力になるかって? なるわきゃねぇだろうっていう(笑)。政治的なものへの無菌状態に、ネトウヨ的なものが感染して、再起不可能なほどにズタボロになっているのが、10年代・日本メインストリーム・カルチャーの実態であると思う。


例えば、欧米のオルタナ右翼アニメアイコンの多さを見たって、日本発のオタクカルチャーも、決して政治的な価値を中立化するものでないことを、証明したんじゃないだろうか。無論、その罪はオタクにないけど、それらを遠ざけられる主体性が、オタクカルチャーの中にある感じでもない。だから、思想的にもクールジャパンなんてものは、とっくに死んでいるといってもいいのだ。


まあ、日本のサブカルチャーなんて、ネトウヨが暴れまわっている傍らで、それを黙って見過ごすことしかできないのだ。そのくせ、ネトウヨとケンカする勢力が現れると、ネトウヨの肩を持ってそれらを全力で潰そうとする傾向がある感じに見えるけど(笑)。


でも、ぬるま湯のナルシズムに浸かりながら自己啓発するのでなく、自己嫌悪と復讐することで、何かを乗り越えるべき時期にあるんでねぇかね。