バルザック『セラフィタ』とメアリ・ダグラス『儀礼としての消費』のこと

セラフィタ

セラフィタ

セラフィタ、どんな話かなあ、パリかなんかの、ゾラ的な、ちょっと薄汚く小汚い、売春婦的な何かの話かなあと思って読んでみたら、いきなり舞台がノルウェーで、スウェーデンボルグなんかが出てきて、冒頭のセラフィトゥスとセラフィタが交互に出現するあたりのおもしろさはものすごかったのですが、後半ドストエフスキーばりに各人のセリフが何ページも続き、そのセリフがすべてを説明してしまいしかもまったくおもしろくなく、だらだら妄想が垂れ流しになってるなあ、というあたりはキリスト教徒でもなんでもなければ国書刊行会的幻想がそんなに好きでもない人間には苦痛というか、えっ?なんでオチのわかってる話でこの残ページ量なの?という思いがどうしてもぬぐえず、結局この小説は、セラフィタの設定だけ取って、頭の中で萩尾望都のマンガかなにかに勝手に漫画化して、その妄想を楽しんだ方がはるかにおもしろい、というところに落ち着きました。それにしてもスウェーデンボルグって何者なんだ・・・


儀礼としての消費 財と消費の経済人類学 (講談社学術文庫)

儀礼としての消費 財と消費の経済人類学 (講談社学術文庫)


ホカートの『王権』がおもしろかったので、最近出たえらい系の本で王権とかそういう風なタイトルのこの本を買ってみましたが、これはあまりに専門的というか、アイデアはいいけど書き方が下手みたいな(なんというか文章で人にものを伝える能力が下手すぎ)スケッチのようなもので、全然おもしろくありませんでした。
ネットでは誉めてるのか誉めてないかわからない、なんでこれがちょっといい本扱いになってるかわからないけど、いい本扱いになってるし、いい本だと思おうか。みたいな紹介しかなかったのでここに無益なことではありますがこの本がおもしろくないということを明記しておきます!!この本はおもしろくない!!

どういうところがおもしろくないかというと、これはもう僕が素人だからとしか言いようがないのですが、まず、消費というもののとらえ方について、人がものを買うことを言ってるのか、それとも人が何かを使うことを言ってるのかがまったくはっきりしないこと。前者ならともかく、後者を儀礼と言ってしまうのはようするに「人間の生活はひとつの儀礼である」ということで、何か言ってるようで何も言っていない、ただの言った気になってること、ということになるのではないかと思いました。どうしてそれが経済学との「架橋」なのかが全くわからず途方に暮れてしまいました。

「財の消費は社会的である」というのはスゴイ!と思ったのですが、しかし一方で、例証としてひっぱってこられるのは、どこかの文章からの恣意的な、「たしかに言われてみればそうかもしれないけど」レベルの引用で、しかもそれがものすごくせせこましい、例えば人を家に招くことみたいな、それ厳密に言えばそれ1つで独立した消費とかとは関係のない文化の領域になるんじゃないか?というところで、人がそうやって人を招こうと思ったりとか、自分のキャラを確立するのにお金がかかるから、だから消費ということはされるんだ、という、ふたを開けてみればそれで?としか言いようがないごくごく一般的なことを、自分の言ってることは学的に間違ってないといわんがためだけの迂遠なクソみたいな言い回しをもって叙述されるので、読んでいて学術的な専門用語や歴史的背景がわからないことからくる、「こいつの言ってることは絶対めんどくさいだけで真実ではないが、ではどうおかしいかと言われると、そもそもこいつのしゃべってることが意味不明なので何も言えない」という歯がゆい感想しか出てこない、そういう学術的な言辞で立場を守られているようなへんな感じがあり、それが一層不快でした。へんな、たしかにそういうグラフを描けばそういうことは言えるよ、でもそのグラフにそもそも正当性があるのかがわからないんだよ、みたいなどこかの大学のかわいそうな教授の人が書いた新書に出てくるようなグラフもまったく意味がわからない・・・

一見深い顔をしていますが、言っているのはようするに、人間がものを買ったりするのには意味があり、意味とは社会的なものなので、そういうところを経済学だけでなく、人類学的な視点から分析すれば、よりいっそうそのことが判明するはず、みたいなこと。問題はそういう当の人類学がぽたぽた焼のうしろに書いてあるおばあちゃんの知恵袋的なものしか出せていないことで、それを堅苦しく狭苦しくせせこましく、きっとかろうじて言えるだけの部分だけを死体みたいに次々並べるだけのことしかできていないために、この本で提出された貴重なアイデアが死んでる、ということだと思います。なんというか、これならこの本のタイトルだけ覚えて、あとは自分の頭で妄想した方が楽しいという本でした。あまりにも残念すぎる。。

きっとメアリ・ダグラスと浅田彰いうどこかで聞いたような名前のネームバリューと、講談社学術文庫というTHE知的みたいなイメージによって、その印象を(講談社が)非常に自分たちにとって得なふうに操作しているような本ですが、とにかく全くおもしろい本ではなく、ああ、こういう本を読んでいるから頭が悪くなるんだなあ、という感じの存在価値のないがり勉君御用達の本なので、あまり読んだり買ったりすることはオススメできません。これを読むくらいなら、もっとちゃんとした古典の本を読んだほうがいいんだと思います。というかこの本しかこういう分野のこういう本がないからこの本が古典になってしまっているまでで、もっとこれからこういう分野のこういう研究が間違いでなければいい本はいっぱい出てくると思うので、それを待つかしたほうがいいと思います。なんというか古典って、そういう面でも大切なんだなあと思いました。この人の『汚辱と禁忌』は絶対読まないぞ・・

なんというかポストモダンとかああいうのって、難しい言葉ばかり覚えたがり勉君(社会経験ぜろ以下)が、そればっかり延々使ってしょうもないことを書いたせいで、そのしょうもなさがエライことのように錯覚されて、実際中身がなんにもないスカスカだったために、後世にそこから何も引き継げないという重大な影響を及ぼした、ただそれだけのことのように思えてきました。こういうのっていいことだとは思えませんね・・・。