『月に寄りそう乙女の作法』感想

まずはネタバレなしで話をしましょう。「ああ楽しかった!」。おわり。



以下ネタバレあり。


既に色んなところで言われているように、この作品はルナ様シナリオとユルシュールシナリオが特に優れておりましたが、その中でもルナ様シナリオ、そこにおける女装主人公の扱いがマジ白眉でした。
「主人公が女装して女子校に潜入する」、そのようなゲームは沢山あります。てゆうか(抜きゲーを除くと)女装主人公モノの最も基本的な構造と言えるでしょう。女装し、女子校に入った主人公は、そこで女子として生活し、学友ないしは近い位置にいるヒロインたちと仲良くなり、そして女装がバレた末に恋仲となる/あるいは恋仲となった(近い状態となった)末に女装がバレる、―――だいたいこんな感じの流れを採っている作品が多いです。その辺は、ここで話題に挙げてる『月に寄りそう乙女の作法』におけるルナ様シナリオも似たようなもの。しかしですね、ルナ様シナリオは、これがほとんど「百合」のような中身であり、しかも「主人公が女役」みたいなポジションなのです。これが素晴らしい。これが最高。大宇宙の真理がここにある!
たとえば『恋する乙女と守護の盾』『アッチむいて恋』などは女装主人公ですけど、主人公の中身は男性のそれとほとんど変わっていません。口調はともかく、思考が女性になりきっているわけではない。主人公である男性が「女装すること」により女装男子になる際に、外見だけでなく内面の擬態(=女性化)が、上記の作品ではあまり為されているとは言いがたいわけです。だから、たとえば『アチ恋』なんかは、プレイしていて「今この主人公は女装している状態なのか、通常の男でいる状態なのか」がたまに分からなくなってしまうくらい。これは優劣の話じゃなくて、単に彼らが、外見は女性化しても内面まで女性化していない、普段と大きくは変わっていないということです。
逆に(ほぼ)完全に女性化している作品としては『花と乙女に祝福を』があります。これは単に女性化するわけではなく、指示対象がいるからでもあるでしょう。主人公の彰が、双子の妹である晶子に変装(女装)し、彼女になりかわるというのがこの作品です。晶子となって学園で過ごすのですから、周りにいる人たちに・晶子の親友や幼友達にすらバレないように、彼は晶子になりきらなくてはならない。故に彼は完全に晶子化=女性化するわけです。
また、ほとんど素じゃん、というタイプの女装主人公もいます。一番は『処女はお姉さまに恋してる』シリーズでしょう。男性でいるときも、女性でいるときも、殆ど変わっていない。見た目も内面も、ちょっと調節加えただけじゃんとしか思えないくらいの変化しかない―――その程度の変化しかないのに、変身出来ている。つまりそれは、ほとんど素、と言って過言ではない。同じようなことは『天使の羽根を踏まないでっ』にも言えますね。あれはもうちょい、無性的な色、つまり、そもそも男でも女でもないからどちらにもなれる、みたいな面が強いですが、要すればそれも「ほとんど素」だと言える。また『るいは智を呼ぶ』『ねがぽじ』なんかも主人公はほとんど素で女装しているのですが、前者は幼少時からの定められた女装、後者は女装ではなく自分がそういうものだと思い込んでいる(そして事実そうである)作品なので、ちょっと意味合いが違ってきます。ちなみにこの辺の人はみんなウィッグ付けなくて女装できているという点からもまた、(身体的にも)ほとんど素であるというわけです。男性―女性と別たれていない/別たれなくても大丈夫だからこそ、身体的な区別・スイッチが必要ない。男性である自分と女性である自分が殆ど変わりないか、殆どシームレスか、元から殆どどちらかでしかない。


さてそれでは、『月に寄りそう乙女の作法』の主人公、小倉朝日=大蔵遊星はどうかというと、ちょっとこの子はとんでもない歪みを抱えています。ここで突然ですが『俺たちに翼はない』のネタバレをします。何故かというと、この作品は、『俺たちに翼はない2』でもあるからです。


『俺つば』、最後の最後の部分です。なんか色々あって生まれ育った町に戻ってきて、なんか色々過去とか思い出して、なんか色々と決着を付ける部分。実はこれは「嘘」です。かつてこんなことがあって、あんなことを言われて、俺はこう思って、そしてこうした、みたいなことが語られるのですが、そのうちの幾つかは「嘘」である。全部が全部嘘だというわけではないですが、いくつか嘘が混じっています。詳しくは、昔書いた俺つば感想(http://nasutoko.blog83.fc2.com/blog-entry-56.html/記事内の一番下の方)とか参照して頂けると。
で、その「嘘」とは何かというと、世界を金色に輝かせるための魔法です。鷹司くんは、過去に対していくつか、自己正当化とか美化みたいなことをしているのですけど、しかしそのお陰で立ち直れている。自分の犯した罪のために自らに奈落行きを強いたとか、小鳩を守ることが母の遺言だとか、実はこれは事実・現実とは微妙に異なるんですけど、しかし鷹司くんの中ではそういうことになって、そしてそうであるからこそ、新たに歩き出すための力を得た。
これが「俺たちに翼はないこともないらしいぞ」と語られる「翼」ですね。たとえばグレタガルドみたいな全く現実を飛び越えたものを現実として誂えることは出来ないけれど、目の前に炭酸水かざして世界が金色に輝いているように見ることは出来る。その程度の、自身の現実のコントロール、「翼」なら、誰もが持ってる、誰もが使える、誰もが羽ばたける。私たちが生きているのは「自分自身の現実」であり、もっと大文字の現実とか、真実や本当の世界とか、そういうものに生きているわけでは決してない。本当の現実とか、世界の真実とか、そんなものは僕らが生きている自分自身の現実には何ら関係がない。自分自身の生きる現実、そこは変えることが出来る、そこは動かすことは出来る。たとえばグレタガルドみたいな、本当の現実や世界の真実からあまりにも遠ざかったものは不可能だけど、自分の心ひとつで変えられる程度のものなら、人間、変えることは出来る。そう、例えば作中で散々語られた言葉、


俺が変われば世界も変わる。
空の色は自分次第。
世界なんて、おまえらみんなたちの心の中にあるチャンネルをひねれば、いくらでも変わってしまうものなんだぜ。


では今作、『月に寄りそう乙女の作法』ではどのような言葉が語られたか。


着るもの変われば自分が変わる。
見方が変われば世界が変わる。
「意思だよ、意思。自分でこうだと願う意思。意思が希望を生んで、希望が夢を育てて、夢が世界を変えるんだ」


そもそも、プレイ開始から最初の30分のところ。悲劇、大蔵遊星の生涯。わざわざそういう風に書かれているのは、本当にあれが大蔵遊星の生涯であり、あそこで死んで、終わって、生まれ変わったからです。どのようにかというと、少し長いですが以下の引用部。

遊星の母「あなたはもう十分、誰かの為になれる強い男の子。よかった、お母さん安心したわ」
掠れた涙声でそう囁いて、力いっぱい抱きしめてくれた。
泣きたくなるくらい温かくて柔らかかった。
大蔵遊星「お母さま、ありがとうございます」
ぼくも母の体に腕をまわして言った――
――言った、ような。言わなかったような。
大蔵遊星「ぼくはこのお屋敷に生まれて良かったです。ありがとうございます」
違う。
それは違う、それは言ってない。言いたかったけど、言ってないんだ。
大蔵遊星「ぼくはお母さまの子に生まれて本当に良かったです。ありがとうございました」
違う。そうじゃない。それは言えなかったんだ。
これはなんだ。これは嘘だ。これは記憶じゃなくて願望だ。まぼろしだ。
だって、本当はあのとき、お母さまにちゃんとお礼なんて言ってないのだから。
だって、まさかこれが今生の別れになるだなんて、夢にも思わなかったのだから。
住むところが離れ離れになったって、たまには逢えると思っていた。
がんばって旅費を稼げば年に一回くらいは会えると思っていた。
いつか大人になれば、またふたりで一緒に暮らせると思っていた。
だからあのとき、ぼくはちゃんとしたお礼なんて、言ってないんだ。
だからぼくはあの日に帰って言いたかったんだ。
ずっとずっと言いたかったんだ。
告げられなかった言葉が、伝えたかった思いが、ずっとずっと錘みたいにぶら下がっている。
それはとても重いんだ。
どうせ都合のいいまぼろしなら言わせてほしい。
力のかぎり叫んでみたい。
大蔵遊星「お母さま! ありがとう!」
大蔵遊星「産んでくれてありがとう!」
記憶の中の母が微笑った(わらった)。
過去が変わってぼくも笑った。
大蔵遊星「ぼくは! 誰かの為になる、立派な大人になります!」
大蔵遊星「お母さまのように毎日笑いながら生きていきます!」
大蔵遊星「生まれてきて幸せです!」
声「ありがとう」
ごめんねじゃなかった。
母が初めて――
――ぼくにありがとうを言ってくれた。

テキストに書かれているとおり、彼が自分で言っているように、これらはまぼろしです。嘘っぱちです。現実ではないわけです。しかしこうして、生まれ変わったのです。この一連のまぼろしを通過した直後に、スタンレーの「まだ死にたいんだ?」という問いに「生きたいです」と返し、兄の「何をしていた」という問いに「生まれ変わっておりました」と返した。
始まりは嘘です、まぼろしです。”そんなことは現実には無かったけれど”、母に感謝を告げて、生まれたことに祝福を与え、自らの出自を肯定した。そういった嘘の過去を捏造することによって、大蔵遊星は今の大蔵遊星=小倉朝日になったわけです。ここがまさに『俺たちに翼はない』のラストと同じです。てゆうかこの作品、俺つばが(プレイ時間にして)30時間かけて辿り着いたところにたった30分できちゃったよ! だから『月に寄りそう乙女の作法』は『俺つば』の続編でもあるのです。『俺つば』のラストシーンが、『月に寄りそう乙女の作法』の冒頭にあるのだから。
それは現実ではない。しかし心的現実ではある。ならば自分の中においては現実と変わりない。たとえば、朝日が「母に愛されていたのではないか」みたいなこと言って、ルナが「そうなんじゃない」みたいに返すシーンが印象的ですが。

朝日「自分でそう思っているうちに、母は私が側にいたことを喜んでくれていたのではないかと思うようになりました。もちろん確かめたわけではないですが」
(中略)
ルナ「でも、うん。君は君の母親から愛されているよ。確かめようがないんだから、それは事実だ」

自分でそう思っていて、思い込んでいて、いや、正しくは「思い込めていて」、そして確かめようがないのなら、それは事実なのだ。勿論、真の出来事としてあったという事実ではなく、彼の心の中であったという事実として。だからこそ、それは、自分自身の力になる。翼になる。「過去が変わって……」―――「過去が変わって世界が変わった」「過去が変わって自分が変わった」「過去が変わって世界が輝いた」、そんな言葉が朝日の独白として作中で何度も出てきますが、そこで言う「過去が変わった」というのは、このまぼろしのことです。実際に過去が変わったわけではない。タイムマシンでもない限り、現実に過去を変えることは不可能だ。この出来事は本当の現実では起きなかった。しかし、心の中の過去を変えることは、タイムマシンなんかなくたって出来る。自分の記憶、自分の思い出、自分の中のそれ―――つまり自分自身の現実(=心的現実)、それを変えてしまうことは出来る。そして、それを変えたからこそ、生まれ変わり、立ち上がり、生きたいと思えた。過去を変えたからこそ、自分が変わり、世界が変わり、輝きだした。

そうやって生涯を閉ざしたのが大蔵遊星で、そして生まれたのが大蔵遊星=小倉朝日です。

さて、大蔵遊星=小倉朝日の人生の指針は、既に銘記されています。

過去が変わってぼくも笑った。
大蔵遊星「ぼくは! 誰かの為になる、立派な大人になります!」
大蔵遊星「お母さまのように毎日笑いながら生きていきます!」
大蔵遊星「生まれてきて幸せです!」

上の引用部にもあったこれと、遺書。

『ああ楽しかった!』
たった一言、豪快な殴り書きだった。
今ぼくの生涯は、とつぜん出逢った年上の友人によってその方向性を定められてしまった。
遺書に恥じぬよう、楽しく生きなければと思った。

誰かの為になる人間となる、母のように笑いながら生きる、生まれてきて幸せだと言えるように、「ああ楽しかった!」と最後に言えるように。
それが彼の見つけ出したもの、過去を変えることによって変わったもので、俺つば流に言うならばそれが彼の翼、つり乙流に言うならばそれが彼の「意思」。
この遺書を開く直前のテキストはこうなっています。

ぼくは一度死んで、生まれ変わったのだろうか。
変わってもいいのだろうか。
いや、変わりたい。
これがぼくの意思だ。
強く願いながら、例の遺書とやらを開いた。

大蔵遊星は死んだ。大蔵遊星から生まれ変わった。大蔵遊星から変わりたい。それが大蔵遊星=小倉朝日という「意思」。スタンレーの言葉を借りれば、まさにそこがはじまりとなるわけです。「意思だよ、意思。自分でこうだと願う意思。意思が希望を生んで、希望が夢を育てて、夢が世界を変えるんだ」。変わりたいという意思が、自分を新たな場所に導き(日本に行き)、服飾という希望を生んで、デザインをしたいという夢が育まれ、デザインをしたいという意思が、ルナ様(ないし他のヒロイン)という希望を生んで、彼女の為になり一緒に服を作るという夢を育て、それがまた……と、そのサイクルが延々と続いていく。たとえばルナ様シナリオのラスト数クリックの時点に及んでさえなお、衣装を作り、どんどん先に進み、「きっとまたぼくの世界は変わる」と語っている。自分は、自分自身という世界は、自分と彼女という世界は、どこまでもいつまでもなんどでも変わっていけるわけです。簡単に言えばそれが『俺つば2』としての結論。自分自身の世界を変えられると見せた『俺つば』の続きとして、その世界はまだどんどん変わっていくと見せたのが『つり乙』。作中の言葉を引けば、

もう過去に戻りたいなんて思いません。たとえあなたに感謝の言葉を告げられるとしても、彼女と離れることになった一ヶ月前に戻れるとしても、ぼくは時間を戻したいなんて思いません。
だから明日の彼女に今すぐ会いたい。会って、ぼくはいま幸せですと告げたい。
あなたの笑顔はぼくの世界を変えてくれました。過去が変わり世界が輝き、生まれてきて幸せだと感じました。
彼女の笑顔は世界をまた新しく変えてくれました。明日が変わり未来が煌き、生きていて幸せだと感じています。
彼女はぼくを[必要だ」と言ってくれました。お互いを求めあう間柄とはなんて素敵な関係でしょう。

ルナ様シナリオのラストの方からの引用です。「あなたの笑顔はぼくの世界を変えてくれました。過去が変わり世界が輝き、生まれてきて幸せだと感じました」―――ここまでは俺つばと全く同じだけど。「彼女の笑顔は世界をまた新しく変えてくれました。明日が変わり未来が煌き、生きていて幸せだと感じています」―――ここからが、その続き。自分自身の世界を変えることが出来る。生まれ変わることが出来る。生まれてきて幸せだと感じることが出来る。それは、まさに大蔵遊星=小倉朝日がそうであるように、”一人でも為せる”。でも、明日が変わり未来が煌き、生きていて幸せだと感じるそれは、誰か大切な人の笑顔は、自分が必要として自分を必要としてくれる人の存在は、”一人では為せない”。まぼろしでも嘘でも心的現実でも、そんなものはでっちあげられない。意思を持って立ち上がり、希望を抱いて歩き出し、夢を追いかけたその先にあるもの。俺が変われば世界も変わるし、空の色は自分次第だし、チャンネル回せば世界も変わるけれど、そこに未来は含まれていない。それはまだ「意思」でしかない段階。その先を見よ。その先はここにある。自分自身の世界は自分自身で・自分ひとりで変えられるけど、それ以上の世界は自分ひとりでは変えられない。簡単に言うとそういうこと。だからもうここでは、「もう過去に戻りたいなんて思いません」と、あの始まりとなったまぼろしすらも半ば否定している。もうそんなものは必要ではないと。今の自分には。この大蔵遊星=小倉朝日には。


で、なんか長くなった上に全然へたくそにしか書けていない感じですが、『俺つば』の続きとしての『つり乙』はそんな感じです。自分の世界は自分で変えられるが、自分の世界以上の世界は自分だけでは変えられない。もちろん、上に挙げた引用部分は、その殆どがゲーム冒頭あるいはゲーム終盤であって、つまり冒頭から色んなことがあった末にあの終盤に至るのであって、大蔵遊星=小倉朝日にとっては何よりその色んなことの中身が大事なのですが、ボクが改めて語れることなんてそこには何もないので、女装主人公の話に戻りましょう。

ルナ様×朝日が最高なのは、言っちゃえば「仮想百合」だからでもあります。女装している主人公のことを(正体は男だと分かってない段階で)ヒロインが好きになる、っていうのはよくありますが、たいていはキスしたり告白したりする前に女装バレしてしまうものです。が、この作品はそれをしません。つまり、ルナは、朝日のことを女だと思い込んで、それでも惹かれてしまって、実は男だなんて微塵も思わないまま、本格的に好きになって、キスしてしまって、朝日は女なのに好きになってどうしようみたいに思い悩んで、それでもやっぱり好きで、イチャイチャして、告白キメてしまって、そしてまたイチャイチャするのです―――女同士だと思いながら。
これ、あえて男役・女役(攻め・受けでもいいけど)を別けるなら、基本的には朝日が女役を担っているのがたまらないのです。マジ最高。ゴッドじゃねこのシナリオライター。そもそもルナが雇い主・朝日が使用人という権力関係があり、故に(恋愛関係関わらず)行動は基本ルナが起こし・あるいは決めて朝日はそれを受け入れるという仕組みになっていて、さらにルナが才能溢れる・朝日がそれに憧れるという憧憬の構図がある。まず関係性の上でルナ様が上位に立っている。さらに朝日=遊星さんは、セックスのやりかたも分からないし、今までオナニーどころか射精をしたことすらないという、言わば性的な意味では男性未然的であるわけです。もちろん性格においても朝日さんは男性的というわけではない。てゆうか、大蔵遊星=小倉朝日は、今まで「男性」であったことは一度もないし、朝日に女装するまでは「女性」であったことも一度もないんじゃないでしょうか。この人はそもそも性別がどうこう問われないような場所でしか世界に接していなかったので。自分を男性と・女性と意識する必要も、そう規定する必要も、一度もなかった。射精すらしないのだから、身体の方もそれを求めていなかったのではないか。誰かを好きになったこともなかったのだ。あーすいません、ちょっとこの辺は筆が走りすぎっぽいですね。まあ少なくとも、りそな「昔の話をするなら、兄こそもっと英国紳士のような王子キャラだったと記憶してますけど」遊星「僕? え、そうだっけ? ジャンに会った辺りで、お母さんみたいにもっと明るくなりたいって思ったのは覚えてるけど……」と言ってるように、お母さんの影響が物凄く大きかった。お母さんになろうとしているかのように。
でまあ、だから、朝日さんは女性になれるし、遊星さんとして男性にもなれるわけです。てゆうか作中でまさに”そうなって”います。本当にどちらにもなれている。そんな彼だからこそ、どちらかというと女役になれて、だから我われプレイヤーは、朝日視点で愛でられるのも、ルナ様視点で悶えるのも、どちらもいくらでもたくさん楽しめる。本当に素晴らしい! しかも、「恋人関係」「主従関係」と、最後の最後まで、そのどちらでも選べるようになっている。しかも主従を選んだらアレですからね。Navelがまさかあんなことまでしてくれるとは思いませんでした。マジブラボー。
えー、つまり纏めると、この仮想百合をどのような視点からも堪能できるところが最高だなぁと。これは仮想だからいいんですよね。常に、嘘をついてる・騙してるという裏がある。常に、ルナの思いもこの状況も、嘘の上に成り立っているものだという真実がある。ルナにとってそうでも、朝日にとってそうではなく、朝日にとってそうでも、ルナにとってそうではない。ルナの(見ている)世界と朝日の(見ている)世界の違いが裏側に明確に隠れている。そうやって常に緊張感が保たれ、常にギャップが築かれ、故に徹底的に結末や決定的なものが回避され続ける。そういったところが特に良いのです。仮想百合である。仮想である。嘘である。まぼろしに支えられている。この「百合」は。―――もちろん、仮想百合が終わったその先は、まぼろしでも何でもない現実なのだけれど。


ということで、俺つばの続編として、あるいは仮想百合として、ルナ様シナリオ最高という話でした。他にも、ユルシュールシナリオなんかもかなり好きなので、次の機会があったら何か書こうかと思います。