こちら葛飾区水元公園前通信663

 この夏休み(自分のではなく、娘の、なんだけど)はけっこうプールに行った。稲毛海浜公園み行ったし、荒川遊園も行ったし、金町公園も行ったし、ってなぐあい。鹿児島でも、プールに海に川で泳いだわけだけれど。
 ということで、初めて常磐ハワイアンセンター、じゃなかった、スパリゾートハワイアンにも行きました。これは、町内会のもようしものということなのです。うちの町会を含め、4町会の親子が2台のバスで行ったというわけです。
 スパリゾートハワイアンに行くのは初めてでした。まあ、昔から有名なところだったので、一度は行きたいというところではあったし、入口まで行ったけれど、特に泳ぐわけでもないので引き返したという経験もありました。ちょっと温泉に入る、というような施設ではないですからね。
 それに、電車で行くと遠いというのもあります。福島県ですから。東北地方ですからね。そこまで行かないよっていうのはある。けれども、バスだと、常盤高速であっという間なので、まあ、いいかな、といったところでしょうか。
 初めて行ったスパリゾートハワイアンは、芋洗い状態のプールがたくさんあるというところで、幼児用プールも流れるプールも、まあ、人とぶつかりながらただよっているというか。そんな中で息子はちょろちょろしてすぐにいなくなるし、娘は娘で別のプールに行きたいって言うし、まあでも、そんな中でも、楽しかったみたいです。ぼくは大変だったけれど。ウォータースライダーが売り物なんだけれど、子供たちはそれが好きではないので、今回はやりませんでした。でもまあ、果てしなく並んでいたから、それで良かったかも。
 温泉には入らなかったんですけれど、というかプール以外のアミューズメントはどこも行かなかったけれど、子供たちはそれなりに満足していたので、まあ、よしとしましょう、というところですね。

 稲葉振一郎立岩真也の対談「所有と国家のゆくえ」(NHKブックス)を読んだのは、稲葉ではなく立岩に興味があったからです。
 障害者や高齢者の主権といったときに、立岩という名前がひっかかってくる。ぼく自身、人が持っている権利って、実は多くの人が持っているイメージと違うのではないか、というのはあって、そのことはレベッカ・ブラウンの「体の贈り物」について述べたときにも、上野・中西の「当事者主権」について書いたときにも、そもそも死刑制度がなぜ基本的な人権を否定するものなのかについてしつこく書いたときにもあった。それは、本質的な公平性の問題でもあるということです。そして、人々がそうした公平性に目をつぶっている限り、極端なことを言えば、死刑制度を廃止できるほど、まともな人権思想が根付かない限り、この国に希望はないのではないか、安倍や石原のような脳みその腐ったような人間を代表に選び続けるのではないか、そんな風に思っているわけです。
 でも、そうした中にあって、「弱くある自由へ」というタイトルの本を書き、「希望について」という新刊を出した立岩は、それは興味の対象となってくるわけです。じゃあ、それを読めばいいじゃないか、と言われればその通りなんですけれど、まあ、その前に軽く1冊、というわけです。
 立岩の「分配する最小国家」というのは、国家の機能を、加害の防止と生産財・労働・所得の分配に限っていくという。平等ということを重視したシステム像であり、分配は国家にとどまらないということもポイントです。そして、成長目指さないということまで言ってくれます。
 こうした発想は、よくわかるのです。大きな格差を持った社会というのは、精神的に豊かではない、そういうふうに考えているぼくとしては、平等を実現していくというのは、それはとても大切なことである、と。もちろん、だからといって、成長を否定しているわけではない。だが、成長によって、実質的に貧しい人が豊かになったとして、格差が拡大することを肯定しない、ということです。
 何だか、社会主義福祉国家が混じったみたいだけれども、そうなのかもしれません。
 いろいろ批判はあるにせよ、かつての55年体制に代表される、自民党社会党というしくみの中では、基本的に自民党が「利権」をふりまわす形で、相対的に地方に手厚い議員定数がある中で、「公共事業」という形で、所得を分配してきました。不要な労働をつくってきたということなど、さまざまな問題が指摘されるにせよ。あるいは、環境を破壊してきたにせよ。
 本当に必要なものを生産するための労働が分配され、適切に財が生産され、それを消費するために所得が分配されるとしたら、それはそれで豊かになると思うし、過剰な労働を必要としないのではないか、とも思うのです。というか、J・G・バラードは未来の労働について、1日に2時間くらい働けばいいし、仕事は遊びと同じもの、というようなことを言っていた気がします。なのに、個人の生産性は向上しているはずなのに、あまり労働時間が減っていないんじゃないかっていうのはあります。いや、本当はけっこう減ってきていて、ぼくが子供の頃は週休2日なんて考えられなかったわけですけれども。その一方で、過労があるわけなんですけれどもね。まあ、それはいいや。それはともかく、現在の景気拡大局面にあって、格差は広がり、非正規雇用が増える状況では、本当に経済成長って必要なの? とは思いますよね。
 これに対し、稲葉は経済成長が必要だと主張するわけです。パイが大きくなったほうがいいし、それによって環境問題も解決される、という。そこが論点になってくるし、経済理論からいえば、そうなのかもしれないけれども、それでいいの? ということになるかと思います。稲葉はいちおう、補完するものとしての社会主義を提案しているし、そこのところは、「マルクスの使いみち」なんかにもつながるのかもしれないのだけれども。
 それにしても、正直なところ、稲葉の対談っていうのは、すごくわかりにくい。稲葉自身の関心があって、立岩なりあるいは「マルクスの使いみち」における松尾匡なりに語りかけるわけなのだけれど、立岩も松尾も稲葉の関心や問題意識とずれがあって、結果として、対談の内容をぼくのような頭の悪い人にはうまく拾えないということになってしまう。本書でも、それぞれの書いた文章がわかりやすいだけに、なおさらそう思う。

 大塚英志の「物語の体操」(朝日文庫)も読みました。実は、今、大塚をテーマにしたエッセイを書いていて、「多重人格探偵サイコ」のマンガなんかも読んだりしているんですけれども。
 大塚のこの本は、専門学校で小説の書き方を教えたときのことをまとめたものなのだけれど、本当に手を動かす実習というふうなものになっています。同時に、手を動かすだけで小説の書き方が身につくというのは、それだけ小説の書き方を分解し、解析しているということになります。
 そうした中で、村上龍については、物語の構造をよくわかって構成されている小説としてとらえていて、まあ、その、テキストにしやすいですね、とか。そういう意味で、文芸批評を兼ねているところがあります。
 これがやがて、「キャラクター小説の作り方」につながっていくわけなんですけれど。
 それでもなお、大塚は、こうした方法で小説を書いたとして、優れた文学作品であれば、それ以上のものがあるのではないか、という期待を表明するし、なければないで、それはもうしょうがないや、っていうところです。
 ぼくはやっぱり、いくら技術的に小説が書けても、それだけではすまないものがあると思うし、そういう期待はある。何より、大塚自身が、「サイコ」の先の展開を、予想できなかったりする。いちおう考えているのだろうけれど、そうはならないことも知っているという。そこには書く人間の姿が何らかの形で投影されていると思うのです。
 ほんとうに、小説を読んでいて、一歩はずしてしまった瞬間っていうのが、すごく好きです。

 そんなことを考えながら、鷺沢萠の「ウェルカム・ホーム」(新潮文庫)を読みました。けっこう複雑な気持ちで。
 本来であれば、3つの中篇で構成されるはずの本書には、2つの中篇が収録されています。40歳目前の二人の男性と一人息子という家庭。一方は実の父親だけれども、もう一方はこの父子家庭に住みついてしまった友人。お金をかせぐのはイマイチだけれど、家事はOKというフードコーティネーターは、友人の子をせっせと育てるわけです。で、忙しく働くガールフレンドもいたりして、という。何ともいわゆる一般家庭とは大きくずれているけれども、でもこれも家族というわけです。
 そういえば、上野千鶴子の「女という快楽」には家族のアイデンティティのことが書いてあったけれど、それはすごく正しいと思っていて、それは何かというと、個人のアイデンティティが及ぶ範囲というのが家族になるという。そういう意味で、やはりまさしく家族として設定されているし、それがどんな関係であっても、本質的問題ではない、ということになる、むしろそれにより、アイデンティティのおよぶ範囲がクリアに見える、そうした中で、家族の居心地の良さというのを書こうとしている。それが鷺沢の小説ということになるかと思うのです。
 これだけポジティブな小説を書いていた鷺沢が、どうして自殺なんかしたのでしょうか。でも、読んでいると、鷺沢はこれらの小説を、ものすごく書き急いでいる、そんな感触があるのです。とりわけ、2編目の「児島律子のウェルカム・ホーム」はそんな気がします。
 ほんとうに、鷺沢は何に絶望したのでしょうか。それが、家族小説でのポジティブさと対照的なだけに、いたたまれないのです。

 スパリゾートハワイアンズでは、温泉には入らなかったけれども、近所の露天風呂には入りました。
 一つは、中野にある高砂湯という銭湯。なかなかこぎれいな入口で、狭いけれども露天風呂もあったりします。まあ、猫の額のような空しか見えないのですけれど。雨の日は、笠を貸してくれるそうで、これをかぶって露天風呂に入るとか。
 なんかおもしろかったけれど、タオルを置き忘れてきてしまいました。

 先週の土曜日は、娘がぼくの親たちと田舎に行ってしまったので、息子と温泉に行きました。ぼくの親が帰りに温泉に寄ってくるようなことを言っていたので、こちらも行こうかなあって。
 前々から気になっていたのが、金町駅から送迎バスの出ている、東京天然温泉「古代の湯」です。まあ、交通費は無料だから、いいかなあ、などと思っていたのですが、入場料は大人2625円だったかな。子供が1200円だったような。二人で3825円もとられました。高いです。あんまりです。
 でもまあ、露天風呂はそれなりに広いし、いろいろなお風呂があるので、お金さえ考えなければ、それなりに満足するわけなんですけど。本当に温泉で、茶色くてしょっぱいお湯が出ているわけです。
 まあ、こういう施設では、食堂なんかもあって、生ビールを飲んだりできるわけで、こちらは価格はまあまあでした。
 帰りに割り引き券をもらったのですが、500円引きだそうで、それでも2125円ですから、もう来ることはないよな、などと思うのでした。もっと安くして、人がたくさん入るようにすればいいのにな。
 送迎バスは自動車学校、ゴルフクラブ、ボウリング場と共用なので、どうにかなっているっていうところです。

 息子が温泉に行きたい、露天風呂に入りたいということをずっと言っていたのですけれど、それはとりあえず満足したわけです。
 なのに、翌日も、両親のうちに娘を迎えに行く途中で、露天風呂に入ってしまいました。
 西新井大師の裏にある湯処じんのびという銭湯です。銭湯なので、大人430円、幼児80円です。けっこう狭いスペースにいろいろなお風呂をつくっているので、なんだかせまっくるしい感じは免れないし、しかもけっこう混んでいて、それはちょっとイマイチだったかなと。露天風呂から見える空はわずかなものなんですけど、しょうがないかっていう。そんな銭湯なのに、生ビールが飲めるっていうのは、なんかすごいですね。上の階にはカラオケスペースもある。何より営業時間が休日は午前10時からっていうのがすごいですね。
 息子は入口にあったZゲージの列車をえらく気に入っていました。