[今さら読書1]鷲田清一『ちぐはぐな身体 ファッションって何?』ちくま文庫、2005

ちぐはぐな身体―ファッションって何? (ちくま文庫)

ちぐはぐな身体―ファッションって何? (ちくま文庫)

本書は、衣服やファッションに関する哲学的エッセイである。私たちにとって身体というものがいかにもあやふやなものであり、いかにそうした身体を日々加工しながらーたとえば服を着るということを通じてー生きているのか、という視点から、特にファッションやモードといった現象について議論が展開されている。

以下、感想を3点。

1点目。
ここで扱われるトピックは、私たちの日常的な感覚の中から身体のもつ意味を再発見させてくれるものである。少し難しいかもしれないけれど、「からだ」や「文化」にこだわる学部の学生には、ぜひこうした日常的な風景から身体を捉え直すセンスを磨いて欲しい。特に近代スポーツ的な身体観に染まった人たちには、まずは身体というものがいかに「ちぐはぐ」なものであるかを実感するところから始めて欲しい。

2点目。
これは後に『聴くことの力』などで本格的に展開されていくところだけれど、自己と他者の「関わり」が極めてリアルなまま哲学と接合されていくことは、鷲田哲学の魅力の一つであると思う。例えば、清潔願望についての議論の中での、衰弱したアイデンティティの補強戦略の記述は、例えば若い学生に「関わり」を意識化させるための優れた題材であると思う。


「衰弱したアイデンティティのぎりぎりの補強、それを個人レベル、感覚レベルでみればたぶん「清潔願望」になる。じぶんがだれかということがよくわからなくなるとき、じぶんのなかにほんとうにじぶんだけのもの、独自のものがあるのかどうか確信がもてなくなるとき、ぼくらはじぶんになじみのないもの、異質なもの、それにちょっとでも接触することをすごく怖がる。じぶんでないものに感染することでじぶんが崩れてしまう、そういう恐ろしさにがんじがらめになるのだ。じぶんのなかになんの根拠もないまま、じぶんの同一性を確保しようとするなら、〜ではないというかたちでネガティヴにじぶんを規定するしかない。じぶんは女ではない、子どもではない、白人ではない、病気ではない……。
 そういうことすら確認できないときは、だれか一人を異物としてまつりあげて、こいつがいるからクラスがうまくいかないんだというしかたで他者を作り上げ、そしてそれをバイキンのように駆除するというかたちで、「われわれ」の同一性を確認し、その「われわれ」の一員として自己を同定するという方法をとる。(中略)
 そういうことすら不可能なとき、じぶんの同一性がほんとうに壊れかけていると感じるときは、ぼくらはどうするだろうか。いつでも同じことをくりかえすというしかたで、同じじぶんというものを確認しようとするかもしれない。学校に行くときに、かならず同じ時間に同じ場所を通る、同じ店の前で道を渡る。あるいはどんなときでも同じ服を着るというふうにだ。あるいは、過剰に論理的になるということもある。ひとと話すときにも、中身のあいまいな話はしないで、論理的に筋の通ったはなしをする。相手がちょっと前に言ったことと矛盾するようなことを言うと、きびしく糾弾するということもある。これらは「過剰な合理主義」といわれる徴候なのだが、要するにじぶんの内部でかくにんできないじぶんの同一性を、外から見えるかたちで確認しようというわけだ。(中略)
 さらにそういうことすら不可能なとき、ぼくらはじぶんではないもの、他なるものの感染、あるいはそれとの接触を徹底して回避しようとする。清潔症候群というのも、まさにそういうコンテクストで現れてきたのではないだろうか。」(pp.129~131)


また、他者の他者としての自己という問題は、グループにおける人間形成を捉える上での1つの視点を提供してくれる。教育の文脈で、「意味ある他者(significant others)」の重要性について語られることがあるが、そこでは単にロールモデルとしての意味だけでなく、「意味ある他者の他者」としての自己の発見という要素についても見ておく必要があるということだろう。そして、対人援助の場面での他者性の重さについての記述は、こうしたことが実際に社会の現場でいかに見落とされるかを気づかせてくれるものだと思う。


「ぼくらはじぶんの存在をじぶんという閉じられた領域のなかに確認することはできない。ちょっとややこしい言いかたをすると、ぼくらには《他者の他者》としてはじめてじぶんを経験できるというところがある。ぼくらはじぶんをだれかある他人にとって意味のある存在として確認できてはじめて、じぶんの存在を実感できるということだ。(中略)要するにじぶんの存在が他者にとってわずかでも意味があること、そのことを感じられるかぎり、ひとはじぶんを見失わないでいられる。」(p.132)

「他者の他者としてのじぶんの存在が欠損しているとき、ぼくらは、他者にとって意味あるものとして自分を経験できない。だから、そういうことが続くと、ぼくらはじぶん自身になるために、「じぶんで、他者の世界のなかに妄想的に意味ある場所をつくり上げる」という絶望的ないとなみのなかに自分を挿入していかざるをえなくなる。他人という鏡がないと、ぼくらはじぶん自身にすらなれないということだ。
 このことは、自他の相互的な関係だけでなく、教える/教えられるという関係、看護する/看護されるという関係のように、一見一方通行的な関係についてもいえる。教師も看護師も、教育や看護の現場でまさに他者へとかかわっていくのであり、そのかぎりで他者からの逆規定を受け、さらにそのかぎりでそれぞれの〈わたし〉の自己同一性を補強してもらっているはずなのだ。ところがここで、「教えてあげる」「世話をしてあげる」という意識がこっそり忍び込んできて、じぶんは生徒や患者という他者たちとの関係をもたなくても〈わたし〉でありうるという錯覚にとらわれてしまう。そしてそのとき、〈わたし〉の経験から他者が遠のいていく。」(p.133)


3点目。
「ちぐはぐな身体」にまとうファッションやモードについて考えるとき、「学習」も一つのモードであると考えることができるだろう。そこでは「学ぶ内容」自体に意味があるのではなく、学んでいる文脈にこそ意味が見出される。そこで求められているのは「学んでいる私」のイメージそのものである。学習市場やそこでの「消費としての学習」は旧来の生涯学習・社会教育の文脈では、価値の低いものとして扱われがちであったかもしれないが、そこでの個人個人の文脈に寄り添うとき、そうした「消費としての学習」の背景に、一人ひとりの逼迫した「生」の危うさやちぐはぐさが垣間見えるのではないだろうか。カルチャーセンターなどで展開されるアイデンティティゲームの中にこそ、旧来の生涯学習・社会教育研究が見落としてきた、社会の矛盾や生きにくさが潜んでいるように思われる。こうした文脈における学習の意味についても、いずれ考えてみたいと思った。