Hatena::ブログ(Diary)

In Jazz

2018-07-16

「少女☆歌劇レヴュースタァライト」アニメ#1 構成主義とシンメトリー

| 00:09

f:id:terry-rice:20180714224420j:image:w360

いやもうね、ちょっとアカンです。とんでもないものが始まってしまいました。

7/12に放映された「少女☆歌劇レヴュースタァライト

第1話『舞台少女』

皆さんご覧になっていますよね。なに、ご覧になってない?今ならYouTubeの公式チャンネルで1話が配信になっています。限定配信なので気になる人はお早めご覧ください。

D

まあ、見て分かるように少女革命ウテナライクな作品です。監督されているのはその「ウテナ」の幾原邦彦監督師匠と見定め、「輪るピングドラム」「ユリ熊嵐」と幾原監督の下で片腕を担った、古川知宏さん。幾原監督の直弟子といっても過言ではない方が監督されています。

なものだから、目聡いファンの皆様が食いつくのも至極当然で、1話放映後にTwitterの国内トレンドで1位になったほどにはバズッたのも、ある種必然の流れではありましょうか。

しかしです。

この物語は「二層展開式少女歌劇」。つまりはTVアニメと舞台で物語が連動して展開される作品なのです。もっと言ってしまえば、昨年の9月、または今年の1月に舞台「#1」アニメに先駆けて、公演されています。アニメより先行して、舞台が物語の幕を開けた状態でTVアニメの1話が放映になっているわけですね

今回はこれからアニメ第1話の感想をつらつら書いていきますが、筆者は昨年9月、今年1月の舞台版、または舞台版BDを繰り返し見た上での感想を書いていますので、舞台版をご覧になっていない方は是非ともご覧ください。その前提がまずないと重大なネタバレを出てくるかも分かりませんので、ご了承くださいませ。

というのもアニメの1話、舞台版の内容をインプットして鑑賞すると、あれやこれや引っ掛かるものがかなり多く「再生産」されていることに気づくわけです。反面、初見の人にはフレンドリーな作りだとも言えますが、これが舞台から追ってる人にはぜんぜん甘くないのです。その温度差が語れたらいいなと思いますがさてどうなることやらです。


以上を読んで理解したうえで、読み進めていただけばと思います。

当然ネタバレですのでそこも踏まえてお読みください。

それでは以下をクリックで展開します。


ロシア構成主義に支配されるアニメ

f:id:terry-rice:20180714232217j:image:w360

いきなりですがアニメ版の大前提、ひいては原監督作品との差異としても非常に大きい要素なので取り上げます。「少女☆歌劇レヴュースタァライト」はロシア構成主義アヴァンギャルド)」によって構成された作品だということです。

ロシア構成主義」とはなんぞや?という方は手っ取り早くWikipediaをご参照ください。以下にリンクを張っておきます。

ロシア構成主義 - Wikipedia

端的にいえば今で言うところの「前衛芸術(=アヴァンギャルド)」ではなく社会主義国家建設の下、勃興した「大衆芸術(=アヴァンギャルド)」という芸術運動です。従来の王侯貴族に親しまれる「芸術」ではなく、革命によって国家の主体となった「大衆」のための「分かりやすい芸術」です。現在の「ポップアート(デザイン)」へと直結する運動といえば理解は早いでしょうか。

従来の「芸術」とされてきた絵画、彫刻、陶器に限らず、写真や建造物、はたまた工具や農具といったものにまで創作の範囲が多岐にわたった「新しい芸術」だったわけです。その構成美や機能美から芸術性を見出す新しさが「前衛」と解釈されて、現在の意味に至るわけですがそれはさておき。

このため「構成主義」によって描かれた絵画は従来の物とは一線を画します。対象物の抽象化、あるいは幾何学化、象徴化、一言で強引にまとめてしまえば「記号化」してしまいます。「大衆」のための芸術ですので、記号や図形、文字で絵が構成された絵が次々に発表されていくことに。

話が逸れましたが、↑に挙げた「ワタシ再生産」はその「記号化された絵画」の意匠を借りたデザインといえるでしょう。元ネタ的な絵としては次の画像でしょうか。

f:id:terry-rice:20090331101030j:image:w360

このように写真、文字、図形の構成によって作られるいわば「大量生産」的な作品(実際、広告ポスターなどとしてデザインされた)として「芸術」が広まったわけです。その為の見た目のインパクトさと簡潔さが非常にイメージとしては鮮烈なものとなっています。「アタシ再生産」のデザインも同じ方向性で作られているもの、というのがよく分かりますね。

同様に「少女☆歌劇レヴュースタァライト」の最初のPVではこんなのも出てきます。

f:id:terry-rice:20180412101912j:image:w360

この円錐が象徴するものが何かは以前の記事(【ネタバレ注意】「少女☆歌劇 レヴュースタァライト」作品検証。 - In Jazz )でも触れましたが、これなんかも「抽象化された幾何学図形」という点では「ロシア構成主義」のデザインを模したものでしょう。

f:id:terry-rice:20180715010154j:image:w360

極端に簡略化された結果、デザインが先鋭化して絵そのものの芸術性が高まったのが面白い所で、絵などの平面構成においてはグラフィックアートの源流とも言えるかもしれません。

とまあこのように、ですね。作品の主幹となるデザインワークにこの「ロシア構成主義」を用いているわけです。このため、アニメ版においてはこの徹底した「構成主義」によって、画面が積み重ねられていきます。この辺りが幾原監督の諸作品と決定的に違う部分です。幾原監督のデザイン(というよりはアート)スタイルの信条はおそらく「美は乱調にあり」を徹底しているのだと思われます。たとえばTV版ウテナのコンセプチュアルデザインを手がけた長濱博史さんや劇場版ウテナ小林七郎さんによる背景美術やインパクトのあるビジュアルで畳み掛けたり、動作の省略によるメリハリのつけ方などなど、画面内の整合性を問わず、絵を繋げていく手法といえるでしょう。

対して、古川監督あるいはこの作品では構成主義」であるがゆえに「過程」を逃さないのが特徴的。画面を構成として重ねていくため、AからBへと移る動作の過程も「構成」要素なので省略は許さずアニメートしていきます。ある意味、画的な美しさを成立させるためには構造や過程を演出として「省略」する事も是とする幾原監督とはだいぶ異った手法のように見えます。この辺りはアニメーターとしても実力のある古川監督だからこその手法といえるのではないでしょうか。

省略とビジュアルインパクトの鮮烈さで尖った前衛的センスを押し出していく幾原作品と比べると、ひたすらに「構成」を次々に重ね、構築されることによって先鋭化した結果、前衛性を獲得したものこそが「少女☆歌劇レヴュースタァライトそのものなのです。

f:id:terry-rice:20180715180023j:image:w500

そういう点においては一番端的に作品を表しているのは「アタシ再生産」のBANKシーン。武器の鋳造、レヴュー服の設計と縫製、そして「アタシ」。「ロシア構成主義」によって律動する労働力(工場や紡績、縫製なんかは旧ソ連の趣を感じますね)によって、「アタシ」が「再生産」される過程を丹念に積み重ねていくBANKシーンは作品の象徴です。ウテナの「絶対運命黙示録」に比べると過程の手数が非常に多いのも「構成」している印象が強く感じられるかと。

この作品全体を「構成主義」が支配することで、物語も機能的に律動していくわけです。


シンメトリー(左右対称)で構成される画面】

では、「構成主義」によって物語はどのように展開されていくのか。もう少し掘り下げて語っていきましょう。前項で幾原作品と今作の違いを語りましたが、そこからさらに「特徴」を捉えて語りたいと思います。

アニメはもちろんアニメーション、つまりは画面の中で動く絵(映像)によって物語は展開されていきます。しかしここでは「画面」というものに注目してみたいと思います。「構成主義」に支えられた本作は動画以上に「画面」によって物語は紡がれていきます。当然ながらそれは「意味」を伴って構成されているわけなのですが、そこで浮上してくるキーワードシンメトリー(左右対称)」です。

おそらく古川監督が多用してる構図なのだと思うのですが、1話全編に渡ってシンメトリー(対称)構図がこれでもかと言うくらいに出てきます。これは本作に限らず、副監督を担当した「ユリ熊嵐」や「輪るピングドラム」でも僅かに出てくる構図だったりします。

f:id:terry-rice:20180715201802j:image:w360

(これはユリ熊嵐のOPから。古川監督のクレジットとともに代名詞らしさが強調されてますね)

とまあ、古川監督の名刺代わりのように1話ではこの対称構図が連発されます。もちろん意図があってこの構図を選択してるのだとは思うのですが、ひとえに本作の主人公、愛城華恋神楽ひかりの関係性などを表すことに使用されているのです。主だった理由としてはまずそこが立ちますが、ほかにも違った場面で対称構図も使われているので、それらもおいおいまとめて見ていきます。


f:id:terry-rice:20180715195627j:image:w360

1話のアバンタイトルから対称構図がオンパレードなのですが、まずはこの画像。舞台版で華恋とひかりが幼いころに観劇した時の座席で手を繋いでいるカット。これは彼女たちそのものが「対称」であることを物語っているんだろうと思いますが、多用されるシンメトリーの構図でも左右の意識があるか、中心の意識があるかでかなり色分けがなされているのですよね。


f:id:terry-rice:20180715195625j:image:w360

f:id:terry-rice:20180715195622j:image:w360

彼女たちの思い出から、彼女たちが立つ舞台が目の前に広がる構図、ここでも華恋とひかりが左右に立ち、中央が広がると舞台俳優科2年A組の7人たちがそれぞれシンメトリーにたたずむ構図。これも彼女たちが対の存在であるということを明確に打ち出している一方、まひるだけ一人なのも注目。実はこの上にひかりが横たわっているんですよね。なのでひかりとまひるで上下のシンメトリーとなっている、ということになります。

f:id:terry-rice:20180715215656j:image:w360

しかし、このアバンの8人のシンメトリーは非常に意味深なカットでもあります。それについては次項にて。

このように作中のシンメトリーについては、関係性を結びつけるという面と対称を配置して何かを物語るという意図を含む面がことさら強調されているのです。特に後者は先ほど言った左右の意識と中心の意識で言うと、この物語が舞台演劇が主軸であるということと、作中で示されたセンターポジションである「ポジションゼロ」にまつわる物語であることを考えれば、「中心の意識」が非常に重要であるのも頷けるのではないかと。


f:id:terry-rice:20180715195617j:image:w360

f:id:terry-rice:20180715195614j:image:w360

f:id:terry-rice:20180715195611j:image:w360

続く、三つの画像は東京タワーを中心に対称構図を取ったもの。これについては、古川監督がインタビューにおいても「全ては塔に集約される物語」と言わしめるように「物語の中心」であることを語る構図。と、同時に舞台版を見ているとこの東京タワーというなじみの深い「塔」が作中で語られる「タワー・オブ・ディスティニー(運命の塔)」であることの明示でもあるわけですね。その点でも、存在感を強調している構図です。真ん中の画像は華恋がそのタワーから落ちている画像ですが、これも次項にて。


f:id:terry-rice:20180715195609j:image:w360

f:id:terry-rice:20180715195606j:image:w360

f:id:terry-rice:20180715195603j:image:w360

華恋とひかりだけの空間にその東京タワーのふもとが浮かび上がるシンメトリー。最後の画像はOPのラストカット。ここでは背を向き合っている二人ですが、上二枚の画像はドアを隔てて、彼女たちの距離感が窺えるもの。最後の画像は別方向を向き合っているのに対して、寄り添ってはいるがドアを見えない障壁に見立てているのがなんとも切ない構図。と、同時に二人の関係性と物語が同じく「物語の中心」であることの強調でもあるはずです。


f:id:terry-rice:20180715200211j:image:w360

f:id:terry-rice:20180715200208j:image:w360

さて、次は少し趣が異なります。今度は「左右の意識」を軸にした構図。天堂真矢と西條クロディーヌを軸に石動双葉と花柳香子も配置したもの。左右対称を意識することで、キャラクターによるズレを強調している構図なのでしょう。実際、真矢とクロディーヌは最初のPVでも提示されたように「一見シンメトリーな関係に見えるがその実、アシンメトリー(非対称)である」事が提示されているカップリングである以上、上のように対称の構図において、その関係性の違いが表れるわけですね。

f:id:terry-rice:20180715205807j:image:w500

対して、双葉と香子。こちらは外見的にはシンメトリーでも何でもありません。ただ彼女たちは日本舞踊家元の孫娘とその名取の娘」という幼馴染の関係にあり、付かず離れずな二人であるという点を考慮すると、「内面的にシンメトリー」の関係である為に、二枚目の画面で中央で仲良くアイスを食べるという芝居付けをされている。

f:id:terry-rice:20180715211527j:image:w360

ただ最初のPVで提示されているように、その内面シンメトリーにも温度差があることを提示されているのでこれについても、中心の意識が働いているのではなく、真矢とクロディーヌ同様、左右の意識が働いていると見た方が正しそうではあります。


f:id:terry-rice:20180715200205j:image:w360

次はひかりが転入してきて、華恋がまひるといっしょに彼女を学生寮に道案内する始点の対称構図。これについては最初、華恋が入ってきて空いている中央の吹き抜けにひかりを迎え入れることを見せている構図でしょう。二人の再会を中心に寄せて、距離感を縮めようとしている。けど、まひるがいることで二人の世界に没入せずに場面がすぐに切り替わるのが妙味といえば妙味。


f:id:terry-rice:20180715200202j:image:w360

Bパートのレヴューシーンに移って、ひかりと純那。これからレヴューオーディションを戦う二人の関係性の変化を表すシンメトリー。歌いだしはまだクラスメートという関係がお互いの武器を首筋に突き立て、「ポジションゼロ」を争う相手同士へと劇的に変わる様を捉えています。

f:id:terry-rice:20180715230234j:image:w360

お互いの顔を中央に寄せることで、見知った仲であったとしてもレヴューオーディションは別であるということを強調している構図。それゆえにこの作品のテーマ軸のひとつであるフレーズが浮かび上がってくるのも秀逸な構図。

f:id:terry-rice:20180410154253j:image:w360

望んだ星を掴むためには、どんなに親しい友人(ひかりと純那はまだ浅い関係だが)とでも戦わなければならないオーディションに挑む苛烈さを感じられる厳しくも力強い構図であるでしょう。


f:id:terry-rice:20180715200159j:image:w360

f:id:terry-rice:20180715200156j:image:w360

f:id:terry-rice:20180715200154j:image:w360

f:id:terry-rice:20180715200151j:image:w360

最後です。ひかりを助けるためにレヴュシーンに乱入して、勝ってしまった華恋を「中心」としたシンメトリー。「中心の意識」の力強さもさることながら、舞台照明の光でさらに強調された構図になっているのに注目。「ポジションゼロ!」と舞台の中心で声高に宣言する華恋に当たるスポットライト。その照明の光が導くように彼女の「きらめき」が中心に置かれ輝く構図であり、最後の画面でそれを見上げるひかりの存在が影を落として、物語に対する引っかかりを感じさせてくれる。

とにかく華恋が舞台の光をまとって「中心」に立つことがこの作品の最重要ポイントであり、最大の問題であることを暗に仄めかすものであり、おそらくは作品構造全体の捩れへとも繋がっている、舞台版を見ていると非常に意味深な「画面」なのですが、アニメ版だけだとこの構図が実は歪んでいることに気づくのは難しいのではないかと。もちろんこの直後のひかりの台詞によって引き戻されはするのですが、意味の重さが大きく異なるはずです。そういった複雑に構成された構図でもあるのです。


と、ここまで拾えるだけシンメトリー構図を拾い上げたのですが、「中心の意識」が働いた構図が悉く華恋とひかり、そして「塔」たる東京タワーに当てられているものであるのがよくわかります。このように多用することで言外に物語の軸を指し示す手法であることもある事ながら、非常に機能的に構成された「画面」によって、1話のエピソードが支配されていることも手に取るようにわかるのではないかと。

これだけを取ってみても非常に「構成主義」に基づいた画面の積み重ねが物語進行をコントロールし、下支えしている。突拍子のなさがない分、極めて計算された構成のようにも感じられますし、実際そういう「構成」を意識したコンテなのは間違いないと思われます。複雑にではありますが、非常に整理されている印象もあり、ぱっと見た印象では非常にわかりやすい、しかし掘り下げると存外奥行きの深い映像に構成されているのがウテナと異なる特徴だと言えるのではないでしょうか。刺激的な画面ではない一方でミニマルに積み重ねた上で、レヴューシーンのパッション相対的にドラスティックさを帯びている、という点にも「構成主義」で構築された映像の積み重ねがあるからではないでしょうか。


【物語に仕組まれた『違和感』、そして】


さて、ここまで来て、いよいよ物語の方を見ていきたいのですが、大筋の展開は舞台版を見ているとそこまで目を引くものは多くはないのです。というのも舞台版で提示された情報のほとんどが、1話では明かされていないからです。逆に物語に絡むあれこれの枝を全てばっさり切り落として、レヴューオーディションの提示とそこへ巻き込まれてしまう華恋に視点を据えた作りになっていて、「いったい何が起きているのか」で構成された1話だと言えます。アニメからの初見組を考慮すると導入口としてはこの上ないものとなっているはずです。

f:id:terry-rice:20180715212513j:image:w360

そんな中で目を引く情報だったのが、こちらの画像。彼女たちが劇中で演じる事になるだろう戯曲スタァライト」の詳しい役名が提示されたことには注目したい所。まだ全容が明らかになっていない分、今後の展開でどのように物語へと関わってくるのかに期待大です。この中で6人の女神役のうち「激昴」「傲慢」「嫉妬」「絶望」は舞台版でも取り上げられたキーワード。残る「逃避」「呪縛」も気になりますが華恋とひかり以外の7人に振り分けられるだろうキーワードであることは間違いなく、誰が誰に当てはまるのか、という想像を巡らすのも舞台版を見ていると楽しめる要素のひとつではあります。

しかしです。

舞台版を見ていると、アニメの第1話はなにかおかしい。厳密に言うとTwitterのTLの話題を掻っ攫っていったレヴューシーンのあるBパートではなくAパートに張り付く違和感が非常に気になるのです。どんな違和感を持ったのか、そしてそれを意味するものとは。という所を語っていきます。




最初に目に付くところでは担任教師、でしょうか。

f:id:terry-rice:20180716011654j:image:w360

アニメ版ではこちらの名塚佳織さん演じる、櫻木麗先生が華恋たち俳優育成科2年A組の担任です。

一方、舞台版の俳優育成科2年A組担任はこちらの綿里鶴子(劇中では鶴子先生)f:id:terry-rice:20180718085813j:image:w200

アニメ版の先生が宝塚の男役だとすると舞台版は娘役の新米先生といった役回り。アニメ版はまだ担任しか出ていませんが、舞台はもう二人、教師が登場します。

f:id:terry-rice:20180718085738j:image:w200

2年B組舞台創造科担任烏丸ウラ羅(烏丸先生)、そして椎名へきるさんの演じる学年主任、走駝紗羽(走駝先生)

f:id:terry-rice:20180718085704j:image:w200

(以上、三つの画像は舞台版コミカライズより引用)

特に走駝先生は舞台#1でも重要な役回りで物語のけん引役としても立ち回った役柄です。しかし、アニメ版ではその三人の姿かたちはありません。というより担任が異なっていることに舞台版を見ている人にとっては疑問符が付きます。一方、実はアニメ担任の櫻木先生はアニメに先んじて前日譚コミックである「オーバーチュアで初登場したキャラです。

f:id:terry-rice:20180716010102j:image:w250

表記に揺れはありますが、読みは一緒なので同一人物でしょう。「オーバーチュア」がアニメの一年前を描いた作品なのでアニメ版はアニメ版で物語が進行している事になります。

どういうことなのか。アニメ版を見た舞台版鑑賞済みの人が持つ違和感はどうもこの辺りにありそうです。


担任が異なっている。となると、メインキャラ9人の関係性も舞台版とは印象が異なります。

端的に言ってしまえば「仲が良すぎる」のです。

f:id:terry-rice:20180715230236j:image:w360

f:id:terry-rice:20180715212516j:image:w360

舞台版がどういう物語であるかの仔細は語りませんが、舞台上の9人はお互いがお互いをライバルと意識し合い、歯に衣を着せぬ本音に近い言葉をぶつけあうギスギスとした関係であるのに対して、アニメ版はライバルであり仲間であることが強調されています、どちらかといえば共に競い合うクラスメートという浅くもなく深くもない関係性なのです。

それ故にひかりの転入場面も大分異なっていて、舞台版ではひかりが転入してきたことによって、それまで均衡を保っていたライバル関係が崩れることを恐れ、華恋以外はひかりを拒絶しますが、アニメ版ではひかりは難なく仲間として受け入れられています。というより、舞台版より本音を隠している分、逆に恐ろしくもあるのですが、ニュアンスとしてはアニメ版の方がよりリアルな人間関係といえます。

さらに言うと、1話で提示された「聖翔音楽学園の生徒は3年間同じ演目を文化祭である『聖翔祭』で披露しなければならない」という新情報。舞台版においても、台詞で一年前に戯曲スタァライト」を公演したことが仄めかされていますが、その過去の出来事にも違いが生じているのです。アニメ版は昼休みにばななが語るように「とても楽しかった公演」だったとされていますが、舞台版はその一年前の公演でなにかトラブルがあって、舞台版で展開される人間関係が形成されてしまったというようなニュアンスで話が進みます。それゆえにばななの「過去と決別しない」という意味深な発言も聞けたりします。

この温度差は非常に気になる所。もちろんアニメと舞台の表現媒体の差だろう、という意見もよくわかりますがこの作品は「二層展開式少女歌劇と銘打たれた作品です。舞台とアニメで物語が連動している以上、この描かれる物語から受ける印象の差は何かしらの仕掛けがあるものと見た方がやはり正しいように思われます。細かく見ていけば、もっと違いがあるのですがそれらについては先の展開を待ちたいと思います。というかまだ1話ですからね。


なぜこのような差異が舞台版とアニメ版で発生しているのか。違和感は増すばかりなのですが、そこを解き明かすヒントがアニメ版の1話にしっかりと組み込まれているのです。それがこちら。おそらく作品としても重要なシーンだろうと推察されます。

f:id:terry-rice:20180715212510j:image:w360

聖翔音楽学園に転入してきたひかりが転がすキャリーバックの滑車です。ひかりが右から左(←)へと教室に向かうシーンがありますが、それが突如。

f:id:terry-rice:20180715212508j:image:w360

歯車に変わり、進んでいた方向とは逆(→)へと回りだします。そして

f:id:terry-rice:20180715212505j:image:w360

入り組んだ時計仕掛けの歯車の一部になって、全体を動かし始めるのです。この歯車機構も如何にもな「構成主義」的な道具立てではありますが、あの複雑に組み立てられた歯車によって、何が動き出したのか。その直後の場面である華恋の夢と現実の境だろう、東京タワーが開く緞帳のなのだろうか判断は正直つきかねます。ただもし何らかの形で時間が操られていたとしたら、話は大分異なってきます。

舞台版BDを持っている人はぜひ確認してほしいのですが、ひかりの華恋を見つめる視線悲壮感にとても溢れているように見えてしまいます。確かに舞台版のひかりも余裕のない表情を見せる場面がいくつか存在するので、その切羽詰っている理由が一切ないのは気にかかります。と、同時に舞台版でのひかりの華恋に対しての態度はアニメ版以上に素っ気無く、まるで突き放すような所作までとる始末。アニメ版でもそうですが、舞台版ともにひかりは華恋への感情を押し殺しているのが鍵です。ただこちらも深度の差があって、アニメ版は華恋にはある程度、接触しますが一定の距離を保つ一方、舞台版は基本的に取り付く島もないほどに態度を硬化させている。そしてこういったひかりの態度の差があるにもかかわらず、舞台、アニメどちらにおいても華恋はまったく変わらないのです。


f:id:terry-rice:20180715212456j:image:w360

f:id:terry-rice:20180715212453j:image:w360

f:id:terry-rice:20180715212451j:image:w360

f:id:terry-rice:20180715212604j:image:w360

f:id:terry-rice:20180715195614j:image:w360

f:id:terry-rice:20180715213430j:image:w360

この作品全体の物語において、華恋はイレギュラーな存在です。クラスメートからはミソッカス扱い、本人も身の分を弁えているのか、ポジション・ゼロを競い合うという意欲も薄い。ある意味、なにも取り柄のない「アタシ」なのです。しかし、上の画像の対比では普段の「アタシ」と情熱の舞台に降り立つ「アタシ」が異なっていることが分かります。「塔」から突き落とされた「アタシ」はあの子と舞台に立つ約束を果たせないことを案じる一方、あの子を助けるために自ら舞台に飛び降りた「アタシ」は「再生産」される。

f:id:terry-rice:20180715212502j:image:w360

f:id:terry-rice:20180715212459j:image:w360

だからこそ、このAパートとBパートの華恋と純那の対比も分かりやすく際立つわけです。「スタァライト」の主役はまた真矢とクロディーヌだろうな、と半分諦め気分でごちる華恋を「オーディションも始まっていないのに勝手に決め付けないで」と迫る純那(彼女が親の反対を押し切って舞台の道を選らんだ努力家ということを知っているとこの台詞は重みがあったりもするわけですが)。サブタイトルにもなっている「舞台少女」としての心構えの差がよく現れている構図ですが、それがBパートだと逆転。「再生産」された華恋には「あの子と同じ舞台に立つ約束」のために「舞台少女」としてオーディションへと乱入してしまいます。心構えより想いが勝った結果、あっさりと純那を打ち負かしてしまう。

f:id:terry-rice:20180715200159j:image:w360

f:id:terry-rice:20180715200156j:image:w360

先ほども触れた華恋が舞台の中心に立つシンメトリーの構図。スポットライトの光によって、彼女が「作品の中心」であることがことさらに強調されていますが、それがこの作品の全てといってもいいかも知れません。一枚目の画像でも明らかですが、1話全体に渡って「構成」されてきたシンメトリーの中心には華恋が強調されていますし、この物語という舞台の中心に立つのも彼女であり、同時に情熱の舞台の「ポジション・ゼロ」に立って光を浴びるのも愛城華恋なのです。舞台の中心において強い煌きを持つ者。だからこそ「みんなをスタァライトしちゃいます!」と言い放てる。

f:id:terry-rice:20180715200154j:image:w360

なぜ「再生産」された華恋が「強い煌き」を持つのか、あるいは舞台の中心において光輝くことができるのか。その全容は舞台版でもまだ明らかになっていません。しかし、このアニメ版の積み重なって構成されたシンメトリーの中心に立つのが愛城華恋であることが本作を紐解く鍵でもあるのです。同様に舞台版でも「ポジション・ゼロ」に立つ者として、その個性が強調して演出されていること、また「本来はいない者」のように演出されていることからも、彼女が情熱ときらめきを奪い合うレヴューオーディションの中において、特異な存在であることが窺えます。だからこそ彼女がアニメ1話において物語の先導役である事にも違和感を禁じえないわけです。

愛城華恋は何者なのか。

舞台版では観客は舞台におけるあらゆる演技を俯瞰で見ることが出来ました。しかしアニメ版では不特定多数の視聴者がTVに写る画面の中で人物の視点を通じて物語を見通しているわけです。ここでは華恋の主観視点からアニメ版の物語を見渡すわけですが、いままで語ったように華恋自体がどうも信用できない語り手に思えて、仕方ありません。舞台版においてもアニメ版においても、キャラクター性に変化はない華恋ですが違っている点がひとつだけ。舞台では他の8人を「友達」と見ていますが、アニメでは「ライバルであり仲間」と見ているという事。アニメ1話の段階では「友達」と言ってないのです。

f:id:terry-rice:20180715200151j:image:w360

そのあたりの違和感を抱えながらアニメの物語は進行していきそうですが、そのイレギュラーである華恋を見つめるのがひかり。というより、華恋が「舞台の中心できらめきを放つこと」を是としない唯一の存在がひかりなのです。

f:id:terry-rice:20180716215132j:image:w360

アニメ1話で初登場した「星のティアラ」。これを勝ち取ったものこそがトップスタァになれるという説明がなされていましたが、振り返って、アバンタイトルを見返すと、以下の画面が提示されていることに気づきます。

f:id:terry-rice:20180715215656j:image:w360

f:id:terry-rice:20180715195622j:image:w360

華恋が純那に勝ち、ポジション・ゼロに立った時の背後に赤いベールで包まれた塔。アバンタイトルではそのベールが解かれ、階段が露わになっています。この「塔」が舞台版で言うところの「タワー・オブ・ディスティニー」だと考えると、「星のティアラ」は星の輝きを掴めるものと考えることが出来ます。

f:id:terry-rice:20180715200154j:image:w360

しかし、これもおかしい。ベールが解かれているということは既に一回レヴューオーディションが終わり、「星のティアラ」を得た者がいるということなのでしょうか。それを考えると次のアバンからのカットや「星のティアラ」の輝きの色はとても意味深です。

f:id:terry-rice:20180715215509j:image:w360

どちらも赤い。なお本作はキャラクターのパーソナルカラーが設定されていますが、「赤」がパーソナルカラーなのは他ならぬ華恋。関連性はまだ明らかにはなっていませんが、結び付けられるとしたらそれはつまり、という感じでしょうか。

f:id:terry-rice:20180715195619j:image:w360

f:id:terry-rice:20180715211534j:image:w360

f:id:terry-rice:20180715211531j:image:w360

その線で考えていくと1話アバンと最初のPVの始まりと終わりのカットも気になります。レヴュー衣装と学生服姿でそれぞれ輝く舞台に立つ華恋、一方レヴュー衣装と学生服が鏡面対称になっているひかり。しかも舞台は荒廃し、雨が降る。その水面にさかさまに立つ学生服のひかりの頭上には東京タワー。そして「覚えてる?あの約束のこと」からの「覚えているよ、あの約束のこと」という応答。

「いつか『スタァライト』の舞台に一緒に立つ」という約束は舞台版で提示されていますが、華恋とひかりを隔てているものがこの作品には存在しているということ。それが一体なんであるかはアニメ1話が放映となった現状においてもまだ明らかにはされていません。しかし、華恋が無自覚に「強い煌き」を輝かせることをひかりはよく思っていないという事は舞台版、アニメ版で共通している点でもあります。

f:id:terry-rice:20180715212601j:image:w360

f:id:terry-rice:20180715212558j:image:w360

1話のラストカットで「バッ華恋!」とひかりはそれまで見せなかった感情を爆発させています。彼女の本心が垣間見える場面ですが、ここも舞台版を見ていると、このひかりの行動は非常に幼い。舞台版においては「それ以上、近づかないで」と悲痛なほどに吐露しているのに対して、アニメ版は感情を抑えきれずに口に出してしまった、というニュアンスを感じます。この温度差もやはり気になるところ。ここまで構成に構成を重ねて、この物語の揺ぎ無い「ポジション・ゼロ」としての華恋をひかりは否定する。それが彼女のエゴなのか、切実なる願いなのかはこの先の物語を待つしかないでしょう。

最低限の情報のみを提示して、シンメトリーを積み重ねた複雑な画面構成の先に華恋とひかりの関係性を浮かび上がらせた1話でした。まだアニメ版において開示されていない情報はたくさんあります。それらと舞台版の展開がどのように連動していくのか。というより、既に舞台版とのズレもかなりあるのでアニメ版はそれらをどのように結び付けていくのかに注視していきたいところです。


【おわりに】

f:id:terry-rice:20180410134007j:image:w360

「少女☆歌劇レヴュースタァライト」のテーマはこのフレーズに集約されていますが、アニメ版はこれをどう描くのか。その中で、各キャラクターが自らの問題を乗り越えて、どのように「星を掴む」のか。そのような物語であると思います。

以上が、1話感想でした。舞台版から見ている人間にとっては読み込みがいのある1話でしたが、これがあと11話続くのかというとちょっと気が引けてしまいますね。ともあれ書けてよかったです。なによりかなり枝葉をそぎ落とした1話でしたので、舞台版を見ていても新たな読み込みが必要なほどには別の切り口で攻めてきたアニメ版は相当ストロングな出来になる事は間違いないでしょう。それが楽しみでもあり恐ろしくもありです。しかし開演してしまった以上、こちらとしても頑張って追いかけようと思います。

最後にここに書いたことはあくまで個人の感想ですので、今後の展開への予測が外れてても文句は言いっこなしでよろしくお願いします。むしろ予想を飛び越えてくれる展開が来てくれることが楽しみです。あと毎週この密度でやると自分が死ぬので、以後はあまり期待せずに。感想は毎週書けることを目標に頑張ります。

早くも2話目が楽しみです。ではまた。


次回に進む