In Jazz(はてなダイアリー版跡地&元『My Favorite Things』)

ジャンル不問で好きなものを最小単位で語るブログ

こちらは跡地です。

こちらは2019年春に終了しました、はてなダイアリー版「In Jazz」、および開店休業してましたサブブログ「My Favorite Things」の跡地になります。
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このブログでは記事の更新はしませんが、はてなダイアリーのリンクがこちらに統合されてますのでここから過去記事を参照していただくのはありかなあと。
今まで非公開にしてましたが、そんな感じで公開することになりました。


https://terry-rice88injazz.hatenablog.jp/



…まあ実を言えば、データ移行する際にサブブログの方にも本ブログのデータを移行してしまっただけなのですが。
ブログ運営自体は新アドレスにて更新中ですので、よろしければそちらをご覧いただければと思います。

「少女☆歌劇レヴュースタァライト」アニメ#9 Act.2 舞台の中心で ”i” を叫んだケモノ 

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【舞台少女新生】

 

前項で長々と語った、ななの問題点を踏まえて、9話のレヴューオーディションです。本項では「何故ななは華恋に敗れたのか」、つまりはあれだけ実力のある彼女の敗因はなんだったのか、を検証していきます。そのために9話のレヴューオーディションの内容を紐解いていくと、あるキーワードが浮かび上がってきます。そのキーワードこそがななが負けるに至った最大の要因であるわけですが、順を追って見ていきます。

 

 

でも、あの日…

ひかりちゃんが転校してきてから、おかしくなっちゃった

(略)

何もかも変わってっちゃう 次のスタァアライト…

そんなの、私のスタァライトじゃない!

 

(中略)

 

ひかりちゃんが参加して始まった8人のオーディション

再演でいつも最下位だった華恋ちゃんはキャストから外された

でも──

華恋ちゃんの飛び入りで……

 

ひかりちゃんじゃ…ない

私の再演を変えたのは、華恋ちゃん?

~9話よりななのモノローグを抜粋~

 

始めにななの意識の移り変わりをおさらいしておきましょう。長らく「永遠の舞台」を再演し続けていたななにとって、予期せぬイレギュラー因子が出現します。それが神楽ひかり。彼女の転入によって、ななを取り巻く潮目はめまぐるしく変わっていき、今までのように思い通りにならなくなった事から「私のスタァライトじゃない」という台詞が彼女の口から飛び出してきたわけです。直後、レヴュー開演のメールが届き、ななは足早に地下劇場へと向かう事になるのですが、ここで本当のイレギュラーはひかりではなく、華恋なのでは?という推論にたどり着きます。

ななの「繰り返してきた」レヴューオーディションでは常に最下位だった華恋は、ひかりの転入によってオーディションの当事者から外された。キャスト変更はつつがなく行われ、新たなレヴューオーディションも滞りなく行われるはず、だった。しかし、ご存知のように華恋は1話でのひかりvs純那のレヴューオーディションに飛び入り参戦して、そのまま勝利してしまったのです。

 

 

イレギュラーはひかりの転入ではなく、華恋の乱入だった──ななの思い至った事は今までの構図がひっくり返ってしまうものでした。そもそも彼女の「永遠の舞台」が思い通りにならなくなったのは、新たな「8人目」ではなく「9人目」が期せずして現れてしまったせいです。「スタァライト」は8人で演じられる戯曲。本来であるならば、「9人目」は存在し得ないキャストである以上、イレギュラーはあってはならないのです。

 

 

では、戯曲「スタァライト」がどのような物語であるか。

理解している方も多いでしょうが改めて見てみることにしましょう。アニメだと折に触れて描写されていましたが、戯曲の全容が明らかになるのはこの9話が最初。舞台版#1から見ている方なら初回の段階から大まかな筋は既に頭の中に入っているかと。アニメ本編では9話Aパート冒頭、華恋は様子のおかしかったななを気に掛けつつ、ひかりの取り出したスタァライトの戯曲本(原本)を一緒に読んで、その魅力を再確認しています。

 

 

アニメにおける戯曲「スタァライト」の原題は「The Starlight Gatherer」。訳すれば、「星明りを集める者」となります。この原題自体はアニメ本編の展開とも符合するわけですが、それはさておき。気になるのは本の扉の文章でしょうか。これも本放送中にファンの間で考察のネタになっていましたが、念のため訳しておきますと、以下のように。

 

 星はすべて覚えている。

 『激昂』が『情熱』であった時を。

 『呪縛』が『信頼』であった時を。

 『逃避』が『勇猛』であった時を。

 『嫉妬』が『慈愛』であった時を。

 『絶望』が『希望』であった時を。

 『傲慢』が『誇り』であった時を。

 星は覚えている、それら全ての煌めきも皆。 

 

 

要は「スタァライト」の劇中に登場する、「六人の女神たち」を指している言葉なのですが、9話の内容にはそこまで密接につながるものではないので、ここでは軽く触れるだけにしておきます。後々の話数で触れることもあるでしょうし、これら戯曲本の扉に書かれているものは多かれ少なかれ、本編に登場する9人の舞台少女たちに当てはまるフレーズであることは言うまでもないでしょう。もちろん第99回聖翔祭で女神たちのキャストを演じているのは、主演の真矢とクロディーヌ、そして当時はまだイギリスにいたひかりを除く、華恋たち6人だったわけですが、その中でななは「絶望の女神」を演じていたという事は前項で触れた通り。なおかつその「絶望」は「絶望の輪廻」としてななの舞台への執着、ひいては彼女の現状を取り巻くものと化しているのです。

 

 

自己矛盾といっても過言ではない、「絶望の輪廻」を繰り返していたなな。しかし8話でのひかりとの対決でその輪廻が破綻し、今回の9話では真の「イレギュラー」である華恋と対峙する事となります。この三人を取り巻く軸としても戯曲「スタァライト」が存在しています。無論、戯曲「スタァライト」は作品の根幹を成す、重要なキーワードである事には相違ないです。が、華恋とひかり、そしてななの間にある戯曲「スタァライト」の存在が彼女たちの勝敗を大きく左右したと言えるのです。その為には戯曲「スタァライト」の顛末を見なければなりません。

本編では第99回聖翔祭での公演をザッピングしつつ、戯曲本を読む華恋とひかりと第99回聖翔祭公演を回想するななが交錯する形で戯曲「スタァライト」の筋が語られていきます。この為、三人のモノローグが入れ替わり立ち替わり聞けますが、基本的に話の流れをななが語り、作品の主題部分を華恋、それに付随してひかりが語る格好となっているのに注目しておきたいです。

 

 

星祭りの夜に運命の出会いを果たしたフローラとクレール。彼女たちは翌年の星祭りでの再会を約束しますが、その帰途でクレールは事故に会い、フローラとの記憶を失ってしまう。どうにかしてクレールの記憶を取り戻そうとするフローラは「星祭りの夜に星摘みの塔の頂きで星を掴めば、永遠の願いが手に入る」という古い伝承歌を信じ、クレールと一緒に塔に向かう事に。というのが物語の出だしです。

 

 

9話の段階で、戯曲「スタァライト」の物語は華恋たちの繰り広げる物語にそこまで深く関与していないのは先に触れた通り。ですが、戯曲「スタァライト」は作品の根幹を成している大きな柱の一つでもあります。故に語るべきなのですが、ここではひとまず大体の筋を書き出したこのシーンのモノローグ抜粋をご覧いただきましょう。戯曲「スタァライト」のあらましはなんとなく把握できるはずです。

 

スタァライト──

それは星の光に導かれる女神たちの物語。

これは遠い星の、ずっと昔の、はるか未来のお話。

(略)

遠い約束で結ばれた二人(※フローラとクレール)。

(略)

500年前に幽閉された、眠り、死にゆく女神たち。

激昂、逃避、傲慢、呪縛、嫉妬、絶望──

なぜここに囚われたのか

どんな罪を犯したのか

永き時の中、それすらも忘れてしまった女神達

(略)

女神たちの黒き感情に切り裂かれながらも、二人は塔の頂上へ。

(略)

星の輝きに目を焼かれたフローラは塔から落ち、

クレールと永遠に離れ離れになった。

そして頭上では星々がまたたき続けるのだった。

~9話よりモノローグ抜粋~

 

先に説明した物語の出だしを含めてまとめるのならば、TV版では「(クレールの)失われた記憶を取り戻すために、星摘みの塔を登ったクレールとフローラの結びつきが引き裂かれていく」という筋の悲劇であることが分かります。「スタァライト」が悲劇であることは舞台・アニメ一貫して明示されていますが、ここで注目してもらいたいのは赤字で示した「遠い約束で結ばれた二人」という部分。このフレーズ自体は劇中の主役、フローラとクレールの二人の関係を言い表していると同時に、彼女たちを中心にした物語である事も強調している文言でしょう。つまりどちらか一方に偏るわけではなく、「『ふたり』で繰り広げられる、ひとつの物語」であるという事。文字通り、ふたりの主人公が立つ舞台だからこそ、フローラとクレールというキャストの絆が強調されているわけです。

 

 

『ふたり』でひとつの物語」、これは序盤にキリンが発したフレーズでもあります。戯曲「スタァライト」にしろ、本作で描かれる華恋とひかり、ひいては舞台少女たちの物語にしろ、この「『ふたり』でひとつの物語」という概念が大きな影響を及ぼしており、同様に登場人物たちの行動をも半ば支配する、強い言葉であると見ていますが、それこそ「遠い約束で結ばれた二人」というのはこの前提に立ったからこそ出てきた言葉のように思えますね。物語の強制力と言ってしまうと陳腐でしょうけども、それほどに強い結びつきを表していると言えそうです。さらに同様の意味合いを持つフレーズが舞台版でも出てきているので、そちらにも触れておきましょう。以下、抜粋した台詞を引用。

 

(幼華恋)「この世界に輝く星たちをつかめる唯一の場所、タワー・オブ・ディスティニー。暗い場所こそ輝く星──」

(幼ひかり)「輝きがなければ、きっと私たちは哀しい生き物──」

<略>

(幼ひかり)「あの頂上で輝きを掴むのが私の運命? それとも──」

(幼華恋)「この地上で星の輝きに照らされるのが私の宿命?」

(幼ひかり)「誰も教えてくれない答えを出すべく、私たちが幼い頃に見たあの舞台の名は…」

(幼華恋)「『ザ・スタァライト!」

(クレール)「あの頂上で輝きを掴むのが私の運命? それとも──」

(フローラ) 「この地上で星の輝きに照らされるのが私の宿命?」

(幼華恋)「『スタァライト』に立つ、たった8人の出演者──」

(幼ひかり)「選ばれし者たちだけが背負う、舞台のまばゆいライトたち…、でもこの物語は悲劇」

(幼華恋)「一年に一度だけ、祭りの夜に出会える親友」

(幼ひかり)「矛盾を超えた友情で結ばれる二人の少女

(幼華恋)「もし、空に輝く星たちの欠片を集めれば、二人で幸せになれる」

 

 

TV版では「遠い約束で結ばれた二人」が舞台版だと「矛盾を超えた友情で結ばれる二人(の少女)」として表現されています。言葉のニュアンスとしては後者の方がより論理を超えた強い関係性で結ばれているのに対して、前者のニュアンスはかなりファジーな関係性である、というのも見えてきます。前者の方が作品の設定周りが明確になっているためか、後者より全体の意味合いが曖昧になっているのですよね。寓話性が高くなっているというか。出だしの「これは遠い星の、ずっと昔の、はるか未来のお話」からしても5W1Hがよく分からなくなっていて、その戯曲の中で語られるモノローグそのものが物語に描かれる登場人物の関係性を具体的に浮かび上がらせる作りになっていますね。観客はクレールとフローラの関係性に注視していれば、周囲に流れる曖昧な時間と空間*1をさほど気にすることもなく、その「ふたり」の描いていくドラマに没入していく。戯曲「スタァライト」はかなり抽象的な舞台劇である一方で、クレールとフローラという「ふたり」の関係を際立たせ、観客の心に響かせる物語である事が見えてきますね。

 

 

(華恋)「親友のためなら危険を顧みず、奇跡を起こそうとするフローラの勇気」

(ひかり)「記憶をなくしても、親友との約束だけは忘れなかったクレールの強さ」

(華恋)「いい!」

(ひかり)「うん、いい」

 

そしてそんな「ふたりの物語」に魅了された者たちが、ここに。戯曲の筋立ては悲劇なのにもかかわらず、またそれぞれに思い入れる所が異なりながらも、華恋とひかりは戯曲「スタァライト」に、そして「舞台」に強く心を惹かれて、同じ場所に立っている。華恋とひかりの二人が「遠い約束で結ばれた二人」であり、「矛盾を超えた友情で結ばれる二人の少女」であるのは、前回の8話やそれこそ初回の描きからも明白でしょう。劇中のフローラとクレールがそうであるように、華恋とひかりもまた戯曲「スタァライト」を通じて結ばれたをお互い感じているのは言うまでもありません。それこそが戯曲「スタァライト」を大好きな二人が、舞台に強く惹かれ続ける所以の一つなのです。

 

kotobank.jp

 

ただし「」は元の意味を辿っていくとリンク先にも示されているように「人の心や行動の自由を束縛すること」という意味が先にあって、それが転じて「人と人との断つことのできないつながり。離れがたい結びつき」という現代的な語意に推移している言葉ですので注意が必要です。「絆」とは一見代えがたく尊い、それこそ切っても切れない大切な結び付きとして現代人は使いがちですが、語句の意味としては「呪い」と言い換えてもいい、強制力を持った言葉であるという事実は踏まえておくとまた見えてくるものは違ってくるはずです。

 

 

さて、そういった所で今回のレヴューオーディションは「絆のレヴュー」なのですよね。しかもレヴュー曲は「星々の絆」なわけです。けれど、この曲の歌詞を見ていくとどこかおかしい事に気付くのではないでしょうか? 作中で歌われるレヴュー曲の中でもこの「星々の絆」が最も短い歌詞であるのは、皆さんも知っての通りだと思います。

 

 

 

 

ななと華恋が掛け合うこのレヴュー曲はわずか8行の歌です。CDを持っている人は歌詞カードを確認してほしいのですが、見るとお互いに4行*2ずつ歌い分けている事が分かりますね。さらにななのパートに注目してみると、この曲の「奇妙さ」が見えてきます。以下、歌詞を引用。

 

決して誰にも邪魔はさせない

私だけの永遠の舞台

~9話レヴュー曲「星々の絆」より抜粋~

 

 

「絆」と名がつく楽曲にも関わらず、なんとななは「私だけ」をことさら強調した歌詞を歌い出しています。しかも歌い出しは「決して誰にも邪魔させない」と来てます。「離れがたい人と人の結びつき」を表す「絆」を掲げたレヴューオーディションとレヴュー曲でななは「絆」を歌わず、歌詞にもあるように「舞台」について歌っているのです。

「星々の絆」に感じるわずかな奇妙さは、なな自身の「孤独」という不安から引き起こされた、「舞台」への執着である事に疑う余地はないでしょう。しかし「決してだれにも邪魔されない」以上、永遠の舞台は「私だけ」で演じなければいけないというパラドックスも発生しているのです。「孤独」を恐れ、みんなと作り上げる「舞台」に執着し続けてしまった結果、さらに「孤独」を深めてしまったのは何とも皮肉です。

 

 

舞台に実った たわわな果実

だけど みんな柔らかだから

誰かが守ってあげなくちゃ

99期生 大場なな 私が守るの

ずっと何度でも! 

 

これを踏まえてななの名乗り口上を見ていくと、「舞台」という容れ物へ執着しているからこそ、そこに収められている「柔らかな果実」を自分が守らなきゃいけないという論理なんですよね。「星々の絆」に描かれているパラドックスはななを追い詰めていきます。舞台という器にある柔らかな果実たちを守らなくてはという気持ちだけが前に出て、舞台少女としてその器に入っていこうとしない事こそがななを苛む孤独、あるいは「眩しさ」の正体であり弱点でもあるのです。ななはひかりや華恋をイレギュラー呼ばわりしていますが細かく見ていくと、レヴューオーデションにおいて役回りがはっきりしていないのはむしろ大場ななの方であるようにも見えてきます。とてつもない(だろう)回数を繰り返した「輪廻」はその届かない「眩しさ」への渇望以上に、なな自身の立ち位置が定まっていない故に起こってしまった絶望だったのかもしれません。同じ舞台に強く固執しているのも、7話感想からつぶさに語っているように「自分の役割」が明確であることが大きな要因である事は間違いないでしょう。

 

変化は悲劇を連れて来る

~9話レヴュー曲「星々の絆」より抜粋~ 

 

 

であるから、「星々の絆」の歌詞でななは変化を嫌うのですよね。ここでの「悲劇」というのは、あくまでなな自身の立場から見たものに過ぎません。「変化は(舞台に)悲劇を連れて来る」と一見、主語を大きく捉えがちですが、ななの歌唱パートである事や文脈の流れを考えれば、ここでいう「変化」とはななの身に降りかかるものであり、「悲劇」にも同じことが言えます。つまり「変化(=ひかり、華恋)」が「(ななにとっての)悲劇」を連れて来るという事なのです。

ところが「星々の絆」の歌詞の奇妙さを見た時、ひかりと華恋はレヴューオーディション、その大元である戯曲スタァライトに描かれる物語においてむしろ正しい行動を取っているのです。戯曲「スタァライト」が「悲劇」として描かれる物語である事は作品の根幹を成す基本設定としてファンの知る所です。物語の中でフローラとクレールの絆に変化が起き、悲劇へと向かうのは戯曲「スタァライト」にとっての必然*3に過ぎず、その作品に魅了されたひかりと華恋がレヴューオーディションにおける「変化」となって、ななの舞台を脅かす事も必然性のある事象なのですね。ななにとってみれば、イレギュラーなのは二人の方なわけですが。「ふたりでひとつの物語」である戯曲「スタァライト」、ひいてはその演目を巡って争われるレヴューオーディション、つまり「舞台」においては大場ななこそがイレギュラーな存在である事が立証されてしまいます。第99回聖翔祭で公演された戯曲「スタァライト」の舞台に思い焦がれながらも、その実、舞台に必要とされていない、というよりも舞台に立たなけばならないという情熱が自己の内側から燃え上がらないまま燻ぶっているのが大場ななという舞台少女なのです。

 

 

(華恋)「わたしはひかりちゃんと二人でスタァライトするの!」

(なな)「……っ!! 大嫌いよ、スタァライトなんてぇっっ! 

 

ここまで掘り下げて、ようやく。この問答です。「ひかりと出会って何かが変わったのか、何が違うのか、何のために舞台に立つのか」というななの問いかけに対して、華恋の答えは非常にシンプルに「ふたりでスタァライトする」と返しているこの場面。直後、「スタァライトなんて大嫌い」と言い放つななにどうしても引っ掛かってしまうんですよね。「実はそうだった」にしても、この言葉に至るまでの布石がこれまでのエピソードや描写に皆無だから余計に、「大嫌い」と強い否定語で表す必要がどこにあるのか。最初聞いた時、わずかに違和感が残った事は確かです。

しかし長々と大場ななについて語ってきた事でこの「大嫌い」というななの否定は理解できるのではないでしょうか。戯曲「スタァライト」は「ふたりでひとつの物語」であり、フローラとクレールに魅了された華恋とひかりは劇中で繰り広げられるような「絆」を感じ、レヴューオーディションという舞台の上で再び出会った。一方、ななは「星々の絆」で歌っているように「絆」よりも「舞台」に心奪われ、囚われ続けている。

 

 

「舞台」に強く執着しているのは、一人で舞台に立つしかなかった中学校時代の記憶とそんながらんどうな自分を受け入れて「役目」を与えてくれた聖翔音楽学院第99期生のみんな、そして全員で「舞台」を作り上げるという事の楽しさを肌身に実感した事が直接の要因と言えるでしょう。しかしこれらの要因だけでは戯曲「スタァライト」を「大嫌い」だというには根拠として弱いのですよね。 結局、ななは「舞台」に執着している以上、演じられる演目についてはなんであっても良かったと言えます。「みんな」で一つの舞台を作り上げる過程と喜びを経験した事の方に、ななは強い「眩しさ」を覚えているわけですから。99期生たちが3年間演じる演目が戯曲「スタァライト」でなくても、同様の強い印象がななの中には残ったはずです。

戯曲「スタァライト」が「大嫌い」な理由を解き明かすためにはTVアニメの前日譚コミック「少女☆歌劇 レヴュースタァライト オーバーチュア」(作:中村彼方、画:轟斗ソラ)のななのエピソードを参照しましょう。以下、引用。

 

 

以上。 このエピソードで描かれているように「みんな誰かの事を想ってる/想われている」のをななは「羨ましい」と吐露している。「オーバーチュア」はTVアニメ本編の1年前を描いた作品である事からも、この引用箇所で回想されているのは中学時代のななです。「想ってる/想われている」以上に演劇部と掛け持ちしてくれている同級生たちには「演劇」の他に大事なものがある。けれどななにとってその大事なものこそ「演劇」イコール「舞台」です。たった一人の演劇部だったという経験が「誰かの事を想ってる/想われている」事へ羨望のまなざしを向けてしまうのは想像に難くないでしょう。そういった羨望があるからこそ、「想ってる/想われている」ふたりが離れ離れになる「悲劇」を嫌うわけですね。それは同時に「想ってる/想われている」事への憧れと無認識が裏返しになっている証拠でもあります。「星々の絆」でななが絆の事を歌っていないのも、そして今回の華恋や8話でのひかりとのレヴューオーディションで敗北するのも同じ理由から起きています。

 

 

論より証拠です。8話レヴュー曲「RE:CREATE」の歌詞を見ていきましょう。再び9話レヴュー曲「星々の絆」の歌詞も照らし合わせながら、以下に抜粋・引用します。

 

二人の夢が開くわ

(中略)

会いたかったよ キミにずっと

もう一度繋ぐ星の絆 奇跡起こせる

~8話レヴュー曲「RE:CREATE」より抜粋~ 

 

「大切」に出会って 私たちは強くなる

繋がったの 星の絆 いつまでも守るよ

~9話レヴュー曲「星々の絆」より抜粋~ 

 

どうでしょうか。 8話レヴュー曲「RE:CREATE」の大部分を占めるひかりの歌唱パートと「星々の絆」における華恋の歌唱パートはなんと「星の絆」でリンクしているのです。しかもどちらも「もう一度繋ぐ」「繋がったの」再び絆が結び付いた事を歌っているのですよ。これこそがななの敗因と言えるでしょう。ななにとって、別離は悲劇そのものであり二人は出会う事は二度とないと認識しているから「大嫌い」となるわけです。「星々の絆」において「絆」ではなく「舞台」を歌っているのはななが「舞台」に強く執着しているのもそうですが、今まで「絆」を感じる経験がなかった点に尽きます。中学時代は掛け持ちしてくれる同級生がヘルプで入ってたりした事もあったようですが、基本的には一人の部活動。いわゆる「同類」、舞台少女たちと共に舞台を作る事を経験したのは聖翔に入学してからなのは言わずもがな。ななにはその段階からして得難い経験だったのです。故に「舞台」には執着するが、戯曲「スタァライト」の筋書きには「大嫌い」と言えるのですね。大場ななは「絆」を今まで認識してこなかったし、同様に相手もいなかった。だからこそ、「悲劇」によって引き裂かれてしまう関係がそこで終わってしまうものだと考えたとしても不思議ではないでしょう。

一方でひかりと華恋はそれぞれに「星々の絆」がもう一度繋がる事を示し、ななの持つ認識を「日々進化する舞台少女の姿」とともに打ち砕いているのが、8、9話のレヴューオーディションの顛末と言えます。「RE:CREATE」「星々の絆」の歌詞を突き合わせて見ればわかりますが、どちらの曲もひかりや華恋のパートに対してななのパートは所在ないんですよね。それはななの執着しているものが「舞台」であり、華恋やひかりのように対象者の存在する執着ではない事が影響しているのもそうですし、「星々の絆」で歌われるように舞台という「容れ物」の中の「たわわな果実」にまで興味が及んでない、というのもまた事実なんですよね。一口に言ってしまえば「孤独」であるがゆえに「絆」がない事が、レヴューオーディションにおける大場ななの強さと弱さを表裏一体にしているように思えます。

「決して誰にも邪魔されない永遠の舞台」を演じ続けなければならない世界を独りで抱え込んでしまう大場ななという「少女」は、前項で語ったように『見つけてくれる』他者を必要としている人間なのです。その為には「永遠の舞台」という自分だけの世界から自ら出ていかなければならない。しかし「変化」が連れてくる悲劇に怯えるあまり、舞台少女としての役割、つまり生きる意味を与えてくれたその「舞台」に執着し続けてしまっている。本当の自分と演じている自分の違いに気付けないまま延々と、です。従って、華恋が以下の場面で取った行動は無自覚にせよ*4、かなりの強硬策だと言えます。

 

 

ごめん、なな 

 

「一瞬で燃え上がるから舞台少女はみんな、舞台に立つたびに新しく生まれ変わるの」と諭し、「絶望の輪廻(=永遠の舞台)」を断ち切った華恋がその言葉を向けたのは、『ばなな』ではなく「大場なな」でした。

 

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思えば、7話の第99回聖翔祭の打ち上げで『ばなな』と名付けた張本人が直接引導を渡した格好ですが、「大場ななが舞台少女である事」「舞台に執着し続ける理由」一致していない事に本人が気付いていない以上はこうなる他なかったと言えそうです。当然ここまでのプロセス自体も観客(視聴者)の観点から、実際の物語描写から感じ取ることの出来た内面、あるいは機能的なプロセスであることは留意しつつ、ですが。

 

 

ともあれ、ななが守ろうとしている「永遠の舞台(=絶望の輪廻)」は誰かが一人でも欠けてしまったら舞台は「終わってしまう」。一方でその「舞台」は「舞台少女」の観点から否定されて然るべきものであるという事は7話の真矢が言っている通りであり、この場面で華恋が取った行動も同じ「正しさ」を伴ったものであると言えます。

日々進化しているから「同じ」は有り得ない。

ななが「変化」を嫌うのもそうですが、それ以上に華恋(と、ひかり)の「何が変わった」のか、どうして「きらめていて、まぶしい」のかが分からないのはこの段階でのななの価値観の違いが決定的だともいえるでしょう。「ふたりでひとつの物語」である所の戯曲「スタァライト」で描かれる物語をななはネガティブに捉えているけど、華恋(ひかり)は9話で描かれる通り、悲劇の物語にも拘らずフローラとクレールの「絆」に強く心惹かれているわけです。作品の捉え方としてはポジティブだと言えます。そこに自分たちを重ね合わせているのもあるのか、「RE:CREATE」や「星々の絆」で歌われているように「再び繋がった」事への奇跡も感じている。ずっと「孤独」だったななにとっては「想ってる/想われている」という「絆」も「別離」あるからこそ生まれる「再会」も想像の範疇を越えていたのです。「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ」と言いますが、「別離」というものがななの身近な経験*5だったから、戯曲「スタァライト」の筋を「大嫌い」と捉えていたのかもしれません。

かくしてななは「ふたり」に敗北する事で「舞台への執着」から強制的に解き放たれました。しかし、ななは「舞台少女」としてリセットがかかっただけですので、前へと進むにはそれを後押しする力が必要です。つまり「からっぽになってしまった」少女の情熱がめざめるためには自分自身を再定義しなければなりません。それではいよいよ舞台少女、大場ななの「情熱がめざめるとき」を考えていきましょう。

 

【You're Not Alone】

 

では、ここで9話から7話前の2話について振り返りたいと思います。

 

terry-rice88injazz.hatenablog.jp

 

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「舞台への執着」から抜け出た大場ななについて話すためには、星見純那について触れなければなりません。というより、2話は9話との対比構造にあるので、9話の結びを語るには不可欠なパーツだと断言できます。そして大場ななと星見純那という「ふたり」に垣間見える共通項を追ってみていくと、「大場ななという舞台少女」もおのずと見えてくるのです。ここでは当ブログの感想を参照しながら、話を進めていきましょう。

 

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2話での純那がどうであったか搔い摘んで説明してしまうと、「自分星を掴もうと人一倍努力を重ねるも、周囲との届かない実力差に焦りを感じ、余計に空回してしまう」状況でした。スタァになりたいという理想に対して、そこに遠く及ばない自分に苛立ちを覚えているのですね。

 

観客気分なら出てって。

出てって。

彼女たちを越えていかないと、舞台の真ん中には立てないの。

~2話より純那の台詞を抜粋~ 

 

引用した台詞には純那の焦りが良く表れています。並みの努力では追いつけない実力差を肌身に感じている一方で、99期生の主席と次席のパフォーマンスに脅威を覚えず、憧憬のまなざしを持って見ているクラスメートの生温さに苛立っている。今、目の前のトップに立っている者たちをまず越えていかないと、憧れた「舞台」の中心に自分が立つ事が出来ない。それが分からない周囲と自分の志の差に思い余って出てしまった言葉を担任の櫻木先生に窘められているわけです。

 

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「舞台」に強く意識が向いている分だけ、自他ともに厳しさを求めてしまい、かえって孤独を深めてしまっているというのが2話における純那の立ち位置なのです。と、ここまで書けばお分かりでしょうが、純那の執着は当ブログお馴染みの「三つの執着」で言う所の「舞台」です。

 

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再三の繰り返しはしませんが、2話で語られている事からも分かるように純那とななは同じ執着に囚われており、さらに純那は2話時点において「舞台」への思いが強いあまりに孤独を深めているのです。この点からも7~9話にかけて繰り広げられるななの「孤独」とも共通しています。といっても、大場なな本人の感じる「孤独」は中学時代にまで遡ることが出来るのは語られている通りですね。二人の中に共通項は存在しているわけですが、それぞれの「執着」と「孤独」はニュアンスが異なっています。ななについては7話からここまで語って来たので、ここでは純那の「執着」と「孤独」にのみスポットを当て、見ていきます。

純那の「執着と孤独」は、無自覚さと複雑さを伴ったななのものとは異なり、非常に表裏一体です。「舞台と舞台少女の関係」と言っていいほど、この作品における正統派な印象を与える「執着と孤独」と言えるでしょう。

 

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ずっと勉強ばかりしてきた私が、初めて見つけたきらめく夢。

偉い人、賢い子じゃない私だけの星

出会ってしまった、巡り合ってしまった

あの日私は生まれ変わったの、舞台少女に

(中略)

このオーディションはチャンス。私はこのチャンスを逃さない。

絶対に逃がせない。

私は私の星を手に入れる

私の舞台を終わらせないために!

~2話より純那の台詞を抜粋~

 

以上の引用は2話のレヴューオーディション最中に純那が「舞台少女に生まれ変わった瞬間」を語る場面。同時に「自分星」を見つけてしまった瞬間でもあります。舞台少女たちの家族背景は作中においてあまり語られない*6のが特色ですが、純那の場合は語られる台詞でその背景が垣間見えてきます。ここでは「ずっと勉強ばかりしてきた」とあって、純那の家庭が教育熱心な家庭だというのが窺えます*7。「自分星」を見つけ、「舞台少女へと生まれ変わってしまった」のが8歳の頃ですから小学2年生の時点で勉強漬けであった事からも、両親が学術分野に従事している職に就いているか、高学歴でハイクラスな職業である事は想像できますね*8

純那自身、「舞台」との出会いを「夢」や「星」と例えている事からもそれまでの自分の中では考え付かなかった、あるいは存在もしていなかったほどの衝撃だったと言えるでしょう。この辺りは戯曲「スタァライト」に魅了された華恋やひかりと同様、観客席で見ていた「舞台」に憧れ、自らもそのステージに立ちたいと強く思ったわけですね。つまり彼女の「情熱がめざめた」のです。とはいえ、純那が華恋やひかりと異なっているのは舞台に「めざめた」年齢が遅かった*9のもそうですが、それ以上に家庭環境が大きく影響していると言えるでしょう。舞台版#1挿入歌「私たちの居る理由」にはその背景が滲み出ています。

 

期待されてきた未来

立派に生きることの期待

親の言うレールを破ってここまできたの

~舞台版#1劇中歌「私たちの居る理由」より純那ソロパート抜粋~ 

 

 

ここでいう「期待されてきた未来」と「立派に生きることの期待」というのが何を示すのかは分かりません。ただ先の台詞引用と合わせても、親が期待していた将来とは異なった進路を純那が選んだことは確実です。そしてここが華恋とひかりとの違いと言えます。二人は少なくともそれぞれの両親が子の進路を後押しているように思えます*10。一方、純那は自分の進路を一度反対されたらしいのが端々の描写から窺えますね*11。一般的な親の感覚からすれば、役者や舞台関係の仕事の不安定さは心配になるでしょうし、安定感のある職であればなおさらかと思います。想像するに、両親には難色を示されるも自分の行きたい進路を押し通した、というのは純那の頑なな性格を考えれば、当たらずとも遠からずと言った所でしょうか。

純那が「舞台」に執着する理由はそこに他ならぬ「自分星」を見出してしまったというのも間違いないのでしょうが、それ以上に本人の気持ちとしては進路を押し通した事で退路を断っているからこそ、是が非でも舞台の真ん中、ポジション・ゼロに立たなければならない思いも強いわけですね。そういった思いが強いあまりに「観客気分なら出てって」という言葉が口を衝いて出てしまうのも理解はできます。「舞台への執着」が空回りし、努力だけでは届かない実力差、そこから来る焦燥感と不甲斐ない自分と周囲への苛立ちによって孤立してしまう。一方で舞台に見たキラめきと輝く「自分星」を掴みたいと思ってしまったからこそ、「私だけの舞台」に立ちたい気持ちは収まらない。純那の中に渦巻く「執着と孤独」は舞台少女であるが為に抱えるべくして抱えてしまう「舞台少女のジレンマ」というべきものでしょう。理想と現実というか。そのギャップが大きければ大きいほど、苦悩し葛藤もする。純那もまたその溝が深さが分かっているから、少しでもそれを埋めようと必死になるのですね。

 

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一生懸命やっても、全然追いつけない。

どんなに努力しても追いつけない距離。

だからって諦められるわけがない。

なりたいの、スタァに

~2話より純那の台詞を抜粋~ 

 

純那の舞台に対する「執着と孤独」は「スタァになりたい」「私だけの舞台に立ちたい」思いに強く根差しているものであり、それはつまり「舞台少女」が持ちうる本能なのですね。「舞台に立つ事」を強く願う。これほどに強い感情はないでしょう。その執着ゆえに孤独になる事もある。しかしスタァを、ポジション・ゼロを、舞台の主役を掴み取るために諦めるわけにはいかない。舞台少女の生き様として非常に真っ当なものだと言えます。ですから純那の持っている「舞台への執着」というのは「舞台少女である」事とイコールで結べるわけです。

 

 

ううん、違うの。

嬉しいの。

私、この学園に来てよかった。

みんなで作る舞台がこんなに楽しくて、幸せでキラめいているなんて。

この舞台を、第99回聖翔祭のスタァライトを忘れない。

私が見つけた永遠の仲間と運命の舞台この日生まれたのです。舞台少女大場ななが

~7話よりななの台詞を抜粋~

 

諦めない、私だって舞台少女よ。

私だってスタァになりたいの!

~2話より純那の台詞を抜粋~ 

 

と、ここまで純那の「舞台への執着」を見た上で、ななの記憶する「舞台少女大場ななが生まれた日」のモノローグを見ると、先の項で語ってきたように「舞台を作り上げる」事に比重があって「舞台少女である」事に触れられていないのがよく分かります。「仲間と舞台を作り上げる楽しさ」を「運命の舞台」と見定めてしまっているので「舞台の上で演じる」事に対する執念はあまり強くないようにも見えますね。つまり「スタァになりたい」「私だけの舞台に立つ」思いに乏しいのです。それはななの舞台経験の無さも大きく起因していて、「舞台への執着」と「舞台少女」が彼女の中で結びついていない事が浮き彫りになっている証と言えるでしょう。ななにとっての「舞台への執着」はみんなで作り上げた第99回聖翔祭の舞台そのものであり、「舞台少女として舞台に立って演じる」事ではないのです。故にななは「運命の舞台」に固執しすぎて「舞台少女」である理由を見出せないまま、舞台での立ち回りを見失い孤立してしまったわけです。

 

 

純那とななは「舞台への執着と孤独」を抱えている。しかしそのベクトルは異なります。「舞台に立つ事」と「舞台を作り上げる事」、ふたりはそれぞれに「執着」しその結果「孤独」となってしまう。「舞台少女である事」を強く意識しすぎて孤立する純那、逆に全く意識しないせいで自分の恐れている孤独へ無自覚に陥ってしまうなな。似ているようで違っている、しかし同じ「執着と孤独」を持つふたりだと言えます。そんなふたりが9話終盤、夜の校舎中庭で鉢合わせしたのですね。寮では同室にも関わらず、お互いにお互いの領域へと不必要に踏み込んでこなかった二人*12がここでようやく自分たちの内面を交わすこととなった。

 

 

「絶望の輪廻」もとい「運命の舞台」から強制的に解き放たれたななが「私、間違っていたのかな?」と吐露するのを、純那が歴史上の名言を列挙して励ます9話クライマックスシーン。本記事ではその格言を一つ一つ見ていくよりも、先に挙げたレヴュー曲「RE:CREATE」「星々の絆」、加えて1話レヴュー曲「世界を灰にするまで」2話レヴュー曲「The Star Knows」の各歌詞を抜粋しながら、ななと純那の感情の交差を見ていこうと思います。少し引用が長くなりますが、逐一説明を挟んでいきますのでどうかひとつ。ここからはなんというかラップミュージックのMCバトルのノリでご覧いただければ。

 

 

きっと邪魔させない この世界を灰にするまで

誰よりも熱く燃え続ける 私の情熱は

~1話レヴュー曲「世界を灰にするまで」より抜粋~ 

 

決して誰にも邪魔はさせない

私だけの永遠の舞台

~9話レヴュー曲「星々の絆」より抜粋~

 

 まずは「世界を灰にするまで」「星々の絆」から、純那とななの「舞台への執着」のスタンスの差をよく表している部分です。先に説明した通り、純那は世界を灰にするまでは誰よりも熱く燃え続ける、「舞台少女の情熱」を歌っていますが、ななは誰にも邪魔させない「私だけの永遠の舞台」を歌っています。歌詞だけを捉えて見ると、同じ語句を使いながらもニュアンスの異なる意味を受け取られるようになっているのは、レヴュー曲及びアニメ本編の全歌詞を手掛けている中村彼方さんの本領発揮な所でありますね。純那は「舞台少女である事」を強く想い、ななは「永遠の舞台」を強く願ったというのがこのヴァースを取っただけでもよく分かります。ここではこの二つの歌詞が起点となります。

 

悲しみで廻る世界にさよならを

大事な人を守って

(そして何度も)何度も 絶望の前で折り返す

~8話レヴュー曲「RE:CREATE」より抜粋~ 

 

 

変化は悲劇を連れて来る

大切に守っていたいだけ

~9話レヴュー曲「星々の絆」より抜粋

 

罪に惹かれたが 落ちてくる時

譲れない夢がある 守りたい空がある

~1話レヴュー曲「世界を灰にするまで」より抜粋~ 

 

 

さらに「RE:CREATE」からも引っ張ってきて、「守る」という言葉をキーに「星々の絆」「世界を灰にするまで」と並べると、今度はななの弱さが浮き彫りになってくるのが分かるでしょうか? 「守って」とか「守っていたい」と口では言っているものの、「悲しみで廻る世界」というのは「別離」が身近な経験としてあったななの仄暗い不安から来る観点だと言えます。同様に「変化は悲劇を連れて来る」というのも「別離」イコール「変化」だと捉えるななの「変わりたくない」あるいは「この舞台(時間)をずっと続けていたい」という願望による恐怖でしょう。「私だけの永遠の舞台」を強く願いながらも、それが変化してしまう事を何よりも恐れているというのが大場ななの心の奥深い所に潜む「弱さ」に感じられますね。

 

慣れてきた当たり前の孤独

舞台が変えてくれたわ

変わりたくないこのまま 次には私まだ進めない……

時間よ止まれ 大人にならないで

〜舞台#1劇中歌「私たちの居る理由」よりばななパート抜粋〜 

 

先に挙げている舞台#1劇中歌「私たちの居る理由」の歌詞をもう一度見てみてもそれは明らかです。「慣れてきた当たり前の孤独」「舞台が変えてくれた」わけですが、「変わりたくなくて次にまだ進めない」わけですよ、みんなと作り上げた*13舞台がとても楽しくてキラめいていたから。そんな幸せな時間を終わらせたくないとは誰もが思うはずです。けど、始まりがあれば終わりもあるのも世の常ですね。言ってしまえば、ななは「終わらせたくない」と願って「永遠の舞台」を続けることで「絶望の輪廻」を繰り返す罪を知らずと背負い込んでしまっていたのが7話で描かれた事の顛末でした。

それがひかり、そして華恋とのレヴューオーディションによって打ち破られる事となるのはここまで語って来たとおりですが、「世界を灰にするまで」での「守りたい」純那側の視点だと言えます。純那は「譲れない夢」がある一方で、「守りたい空」があるとも語っています。前段の「罪に惹かれた星」をななだと解釈すれば、「星が輝く空」も守りたいと読む事も可能です。「罪に惹かれた星が落ちて来た時」とはまさに9話終盤で純那がななと対峙している場面を指していて、純那が「舞台少女である事」「スタァになって、ポジションゼロに立つ夢」も譲れないとしながらも、「罪に惹かれた星が再び輝く空も守りたい」と歌っているわけですね。もちろん「世界を灰にするまで」の歌詞が描かれた段階で、「RE:CREATE」「星々の絆」の引用部分をフォローするような作りとして構成されていたかは分かりませんが、このように並べて見ると純那がななへ手を差し伸べている風にも取れる連関性を持ち得ている事のも、今ご覧いただいた通りです。純那は続けて「The Star Knows」では以下のように歌っています。

 

理解者など誰一人 傍にはいなかったから

向かい風に煽られ心を焼いたの

何を求めているのかはあのだけが知っている

触れられない未来かは 誰にも分からないでしょう

戦い続けてた 自分自身の影と

何を求めているのかはあのだけが知っている

幕が開けば未来が 必ず迎えに来るはず

そう ここにいてはいけないもっと遠くへ

~2話レヴュー曲「The Star Knows」より抜粋~

 

タイトルの「The Star Knows」よろしく、「星が知っている」という曲の根幹テーマを純那が歌い上げる部分ですね。ここで歌われる「星」に着目してみると先ほど「世界を灰にするまで」で歌われた「罪に惹かれた星」はイコールで結びつけられそうです。「理解者など誰一人傍にいなかった」「向かい風に煽られ心を焼いた」というのはおそらく「舞台少女」の道を進路選択した純那の境遇そのもので、ここでの引用部分も純那自身の苦闘と信念が語られている内容であるのは疑う所はないでしょう。「星」に比して「未来」は純那の辿り着こうとしている行き先です。舞台に魅了されるのが遅かった分、触れられない、あるい辿り着けない「未来」を掴むために何を求めているのかは「星」だけが知っているわけですね。

 

(真矢)言いましたよね? 主役をかけてオーディションに挑みましょうと。 〔中略〕 恵まれた体躯、素晴らしく伸びる声、舞台全体を見渡せる視野。…なのに、あなたはなぜっ

~中略~

(真矢)みんなのばななさんでいたいがために、本気を出していないのならば、私は…    大場なな。あなたを赦さない

~7話より台詞抜粋~ 

 

これももう一度取り上げておきましょう。7話での真矢とななの会話ですね。ここは真矢が「本気でない」ななを叱咤する場面ですが赤字で示した通り、ななはトップスタァになれる資質を全て持っているにも拘らず、「永遠の舞台」に囚われているせいで真矢にこのように言われてしまっているわけですね。それは純那がいくら努力しても得られない天賦のものである事も事実です。ゆえに純那が目指す「未来」に求められる全てを「星」は知っている(持っている)のに罪に惹かれて落ちてきてしまった。それでも純那は「未来」に触れられるかは誰にも分からない。だからこそ幕が開けば、必ず迎えに来るはずとも歌い込むのですね。「舞台少女である情熱」を常に燃やし続ける事を怠らなければ、いつかは届くはずであると。純那はこう歌って、「あなたはどう?」とななに問いかけている。という風に結びつけると、純那の語る格言はどれも「失敗は恐れることではない」「諦めない」「これで終わりじゃない」というニュアンスが含まれたものであるのも頷けるのではないでしょうか。

 

あなたの事分からない だからこそ

語り合える 二人

朝が来るまで

未来は誰にでもある

~2話レヴュー曲「The Star Knows」より抜粋~

 

そうして読み込んでいくと、「The Star Knows」終盤の華恋が純那と掛け合うパートの歌詞は9話終盤の純那とななの対話としても符合するんですよね。あなたの事が分からないからこそ語り合う。そして辿り着こうとしている行き先(未来)は誰にでもある、という着地点として読めてしまいます。純那もななもお互いの胸の内までは分からないし、知らない。それでも互いに進むべき「未来」はあるはず、ということを華恋が歌う事で純那とななの関係性は繋がったのです。恐らく「ふたり」だけでは点は線にならなかったはずです。華恋というイレギュラー要素によって初めて、近くて遠い二人がお互いの事を見た。これもまた「変化」がもたらした結果だと言えます。

 

 

人にはさだめのがある

きら、明け、流れ

己の星は見えずとも、見上げる私は今日限り

99期生星見純那! 掴んでみせます、自分星!

~2話より星見純那の前口上を抜粋*14~ 

 

その「変化」があったからこそ、純那はななの傍らで「立ち止まらず前進する」自分の意志を言葉で示して励ましてみせた。ななはそんな純那を今まで「見たことなかった」から、驚いた拍子で笑ったんですよね。今まで繰り返してきた「永遠の舞台」では見ることが出来なかった姿だからというのもあります。けどそれ以上に「変化する事」を面白いと感じた事で、ななの認識と価値観が更新された。「舞台少女として」これは大きな一歩です。ななは純那を通じて「情熱がめざめた」。舞台少女の日々進化している姿を目の当たりにして初めて「変化」を受け入れる事が出来たのです。

 

 

一方でそれらをどう受け止めていけばいいのか、戸惑うななの背中を押したのも純那でした。「舞台も舞台少女も変わっていくもの」、であるからななもまた「舞台少女である」事を純那は認めて、抱きしめた。「(あなたも)舞台少女なら大丈夫」と舞台少女大場ななの進む未来を保証したのですね。がらんどうだったはずのななの内面(個性)に純那は舞台少女という中身を見つけたキャラクター(記号)と登場人物(実体)に分かれていたななの個性は純那によって初めて一致したのです。そして遂に────

 

 

知らなかった

ななってこんな大きいのに

怖がりで泣き虫で

子供みたい

~9話上記引用シーンより純那の台詞抜粋~ 

 

舞台少女大場ななは生まれた

純那の腕の中で、その産声を上げたのですね。いやあ、ここまで長かった。そうなのです。今までの語ってきた大場ななの精神構造と言いますか、心持ちをひっくるめての「子供みたい」なんですよね。「みんなで作り上げた舞台」が楽しくて、それがずっと続いていけばいいと願った。舞台#1劇中歌「私たちの居る理由」での「時間よ止まれ 大人にならないで」 という悲痛な叫びも、9話終盤以前のななが「子供みたい」であったから、日々成長していく周囲から取り残されていくような感覚に囚われたのは間違いなくあるのでしょう。ただそれも純那が受け止めたことでやっとななは「前に進む」事が出来たわけです。純那の持っていた情熱大場ななという「星」に火を灯したのは偶然でもなにもなく、必然だったのですね。

 

空の輝き 昨日と今日は違う

生まれたての星を届けたくて あなたに

~9話レヴュー曲「星々の絆」より抜粋~ 

 

ここでようやく大場ななにとっての「星々の絆」が機能します。生まれたばかりの星にキラめきを分け与えたのは星を見る人、つまり純那ですね。そしてあなたに受け渡したのがこのパートを歌う愛城華恋である事も見逃してはいけません。

 

あのだけが未来を知っているのなら

空を見上げて、そっと手を伸ばす

~2話レヴュー曲「The Star Knows」より抜粋~ 

 

同様に「The Star Knows」の締めの歌詞も華恋です。この部分は先に挙げた「星々の絆」と歌詞が対応している事からも未来が並列して存在しているのが分かります。こちらは星を見る人未来を知る星のために手を伸ばしています。反対に「星々の絆」はその星を見る人生まれたばかりの星を届ける、という風になっています。

 

 


「少女☆歌劇 レヴュースタァライト」 トレーラー 第1弾

 

 

思えば、今から5年前*15の6月に公開されたアニメ版の第一弾トレーラーでは引用した画像のごとく、「ふたり」の距離感は登場人物の組み合わせの中でも一番離れたもの*16であったわけで、この大場なな編ともいえる7~9話「舞台少女たちの絆が生まれる瞬間」を描いたものだったと言えるでしょう。そんな距離感の遠い「ふたり」の絆を華恋は結び付け、一人は舞台少女として再生産させているわけですからけしてやって来た「変化」は悲劇ではなかったという裏付けにもなっているのですね。*17

 

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大事なのは大きな視点を持つ事です。

自分自身を演じるのはこの一番小さな円。

大局的な視点から舞台を見る事で、自分の役割をより客観的に捉える事ができます。

~2話より教師の台詞抜粋~ 

 

と、同時にななも純那も自身に持って回っていた問題点は2話の授業シーンで語られた教師の言葉に尽きるのです。ななは大きな視点を持っていたけれど、自分を演じる小さな円を持ち得ていなかった。純那は小さな円は持っていたけど、舞台を見据える大きな視点を持っていなかった。似ているようで逆の問題。それはつまり、お互いがお互いの足りなかった所をそれぞれ補ってはじめてバランスが取れる、「ふたりでひとつ」の関係性なんですよね。まるでななの扱う二本の刀「輪(めぐり)」「舞(まい)」のように性質の似ているふたりでもあり、その実、特性が全く異なるふたりでもあるというのを体現してるともいえるのです。

 

 

『ばなな』から『なな』へ。

『ばなな』として大切に守っていた過去、時間を全てひっくるめてななは『舞台少女』大場ななとして再生産できた。それらを全て糧として「次の舞台へ」────。 前に進むことも変化する事も怖くない。傍らには「情熱」と「キラめき」を与えてくれたパートナーがいる。お互いがお互いに切磋琢磨しあえば、未来にはきっと届くはずだから。

 

未来はまだ真っ白なままのシナリオだね

書いて消してはまた描いて 私たちの夢を

~「願いは光になって」より、なな・純那のソロパート歌詞抜粋~

 

きっと大丈夫────。

 

 

 

 

 

 

 

以上

 

 

 

 

大場なな主演・演出

『バナナになった少女』

 

の公演はすべて終了となります。ありがとうございました。

 

……という仕掛けだったんですよね。戯曲「スタァライト」とは別に存在していた劇中作「バナナになった少女」はそのまま、ななという少女が「舞台少女」へと生まれ変わるまでの物語をコントロールしていたのですよ。大場ななが巻き込まれた数奇な生き様はそのまま彼女の一人芝居として演じさせられていた、つまり「舞台に生かされている」状態であったとも言えます。この記事の方で最初に挙げた、華恋の舞台の捉え方では「生き物」と表すことで自らが立つ「舞台」と舞台に立つ「自分」をイコールで結んでいるとしました。7~9話におけるななはまさにそれを地で行っていたのです、「バナナになった少女」の主演として。

事実、「舞台少女」大場ななとして再生産されてからそれまで舞台、アニメ、コミカライズにも出張っていた「バナナになった少女」の脚本は影形も見えなくなっていますから、なな自身が「舞台少女」として「次の舞台」へと歩みを進められた事で「ばなな」である必要がなくなったのとも符合しているわけですね。なんでこんな話をするかというと、それはつまり戯曲「スタァライト」もまた……*18

 

 

かくして舞台少女たちは出揃い、レヴューオーディションもいよいよ大詰め。

果たしてトップスタァの座に輝くのは誰か────。

という所でお時間となりました。

続きはまた次回に。

 

次回に続く

前回に戻る

 

※なお本感想はあくまで個人の印象によるものです、悪しからず。

 

*1:舞台であり世界でもある

*2:なな3行→華恋2行→なな1行→華恋2行の順で歌われる

*3:もちろん運命と言い換えていい

*4:というのは、ななの抱える問題以上にひかりとの間にある約束と執着が華恋の中では先に立っているから

*5:先回りすると再生産総集編のパンフレットに転勤族の家庭だったので引っ越しが多かったとの記載アリ

*6:例外はあれど、特段描く必然がないので

*7:再生産総集編のパンフレットでも出身校が大学の教育学部付属中学校となっている

*8:設定は明かされていないので類推すれば、という話

*9:あくまで他の8人と比べて

*10:劇場版では

*11:そうは言っても、きちんと学費は払っているようだけど

*12:前日譚コミックス「オーバーチュア」でもお互い「困った時はいつでも私を頼ってね」という所で留まっていた。※この作品でも3話(純那)と9話(なな)とこれも数えでエピソードが7話分離れてます

*13:ななにとっては初めての

*14:ここでの強調部分はそのまま劇場版の伏線です

*15:もちろん書いている時点で

*16:このせいか、舞台#1ではななと純那の絡む場面が全くなかった事もまた無関係ではありません

*17:放映当時にしても1年越しの伏線回収というのは流石にロングパスすぎる

*18:それとは別に9話を経た事でななと純那にはまた別の問題が生まれてるわけですが、それはまた別の話。追って語る事になるでしょう。

「少女☆歌劇レヴュースタァライト」アニメ#9 Act.1 永遠、心、離れて 

※こちらは2019年10月27日に本家ブログにて投稿しました、9話前半感想の再録です。※後編、完成しました。なお本家には全長版感想(※投稿しましたこちらから飛べます)を投稿いたします。ご了承ください



第9話『星祭りの夜に』
今回からBD-BOX最終3巻収録内容です。7話から続いていたばななのエピソードと戯曲『スタァライト』の全体像がおぼろげに見えてきた回でした。最終巻のトップバッター回として、今まで伏せられていた情報が開示されていくのに、こちらの処理が追い付かない程には密度のあるものだったかと思います。
さて、更新の日付を見てもお分かりの通り、この9話の感想はすでにアニメ版最終話が放映された以降に書かれているものになります。筆者も既に最終回まで視聴済みではありますが、延長戦という体で感想を続けさせていただく事をご了承ください。
理由は簡単で、いろいろ考え込んでいたら書くペースがどんどん低下していったという、よくありがちなものです。ここまで続けたのならやはり完走はしたいし、一方でリアルタイムで更新できなかったのが心苦しくもありますが、どちらにせよ最終話まで書いていけたらなと考えております。アニメ放映終了から1年が経過、再放送も先日終了していまいましたが、最後までお付き合いいただければ、と。
なお今回の更新は前編(Act.1)とさせていただきます。書き進めるうちに文章と書きたい内容が雪だるま式に増えていった結果、あまりにも長くなりすぎてしまったので、一旦区切りのいいところで切らせていただきました。この前編の文章だけではてな記法込みで3万字超ほどあります(本文は多分くらい2万字くらい?)ので、読む際はそれを踏まえてご覧ください。
物語の結末は知っていますけど、なるべくそこを意識せずに残りの話数を書いていくつもりです(説明の必要性があって先回りして語るかもしれませんが)。それにまだ作品展開が完全に終わったわけではないですし、こちらとしてはじっくり納得の行く形で書き上げて行きたいですね。今回の後編(Act.2)ともども、気長にお待ちください。


www.nicovideo.jp


今回も舞台#1の筋なども含むネタバレですので読み進める場合は以下をクリック(スマホなどで読まれている方はそのままお進みください)

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Little fragments『東映版Keyのキセキ』没寄稿文(未完成)


※こちらは以下の評論誌『東映版Keyのキセキ』へ寄稿予定だった論考のアーカイヴ(未完成)です。
 お話を頂き、書き進めてはいましたがこちらの執筆状況が芳しくなく、書き進められないまま締め切り期限が近付いたこともあって、こちらから取り下げたものとなります。 



タイトルは「出崎統の失敗~劇場版「AIR」について~」
劇場版「AIR」を取り上げ、結果的に評価の芳しくない作品(=失敗作)となってしまった本作を顧みて、「どうしてそうなったのか」を検証する論考の予定でした。
東映版Keyのキセキ』主催者のhighlandさんには流用の許可を頂いていますので、とりあえず未完成の形ではありますが、ひとまずサブブログのこちらでアーカイヴしておきます。
いずれ続きを書く機会があるかどうか分かりませんが、完成品を読みたいという奇特な方がいらっしゃればお時間を頂いて、本ブログに記事としての投稿も視野に入れています。キリの良い所まで書いてはありますが、論考としては思い切り途中で終わっていますので、それでも宜しければどうぞご覧ください。


以下より本文です。


■はじめに

劇場版AIR」が公開されて15年が経つ。そして同作の監督にして日本の戦後アニメ史における重要人物の一人である、出崎統が亡くなって9年。来年(2021年)には没後10年となる。時の流れの早さを嘆いても、時は止まることはない。進み続ける時計の針に私たちは経過した時間の、残酷なまでの長さを思い知らされるわけであるが。

この文章を読んでいただいている方々は「劇場版AIR」についてどんな感想を持っているだろうか。原作ゲームに比較的忠実であるだろう京都アニメーション版と比して、出崎統ならではの原作改変が施されている(なおかつ出崎自身はゲーム自体をプレイしていない、プレイするつもりもなかったということも重なって)劇場版は多少なりとも原作ゲームを触れている人間においては多かれ少なかれ違和感を禁じえず(別物として認識される事が多いだろうか)、極端な意見になれは否定や拒絶、駄作という酷評を受ける映画として現在に至っている。もちろん近年、肯定的な評価も徐々に出てきてはいるが、当時の批判は出崎自身の耳にも届き、実際堪えたと述懐してる。

誤解を恐れずに言うならば、「劇場版AIR」は失敗作である。しかし失敗作イコール駄作だという安直な結論には持ち込みたくはない、というのが本論の趣旨だ。『失敗は成功の母』とも言われるように、失敗を得て何かを掴むということはままあることだろう。出崎統という稀代のアニメーション監督がいわゆる「泣きゲー」の名作として当時すでに評価の定まっていたゲーム作品をどのように演出して、何に失敗したのか。結果的にこのコラボレーションは相乗効果を生み出せず、不発に終わっている点を鑑みて、「劇場版AIR」という作品を改めて紐解いていきたい。


■『映画』というモチーフ

(出崎)【ダスティン・ホフマン主演映画「卒業」を引き合いに】 
映画は90分の映画で、89分59秒つまらないのがあったとしてね、たった1秒スゴいのがあったらね、全部できちゃうの。だから、その妙な自信がさ、てか確信が、自分がどんどん絵コンテ書いてさ、「あ、時間がなくなる!もうわしちゃう!」って言いながらね、粘れるのはそれだと思うよ。つまり映画の何かってのいうのが、神様がそこでたった一瞬で全部をひっくり返して、全部をね、こうパァって輝かせてくれるものがあるはずだ! ってなかなかないんだけどさ。でもそれを探しながら行く(中略) すべてがこう飛躍できるっていうか、そういうのがあるんだっていう。それが面白いよ。


~「劇場版エースをねらえ!」オーディオコメンタリーより抜粋~

20年現在流通している「劇場版エースをねらえ!」BD収録のオーディオコメンタリーにおいて、出崎はこのように語っている。氏の映画(作り)観がよく表れている発言だろう。たった一秒、一瞬でも冴えたカット、シーン、描写がありさえすれば映画は成立し得るものである、という辺りに創作に対する自負と信念が滲んでいるのが分かる。この発言を引き合いに出したのは「劇場版エースをねらえ!」と「劇場版AIR」は極めて近いスタイルの構成がとられている映画であるということだ。「劇場版エースをねらえ!」は初出の単行本で10巻分、「劇場版AIR」は総プレイ時間が約20時間程度の原作をそれぞれ一本の映画にまとめているわけだがむろん制作のプロセスは異なる。「劇場版エースをねらえ!」は一度完結したTVアニメ版をきちんと原作の第一部完まで描く事に主眼が置かれ、ほぼリメイクに近い形で制作されている一方、「劇場版AIR」は原作のゲームクリアまでにかかる膨大な時間とそれに伴って展開される膨大なシナリオを大胆に削ぎ落として構成している。どちらも90分ほどの映画に収めるには原作内容が長大な量であり、作品として構成するにあたって展開の省略と肉付けが必要された点ではこの二作は共通している。

大きな違いは「劇場版エースをねらえ!」がほぼTVアニメ版で描かれた展開のリメイク、もしくは再編集版であることだ。一度通過した道である分、作品を俯瞰して捉えることが出来たと言える。対して「劇場版AIR」は前述したとおり、出崎が原作ゲームをプレイしていない事と、作品の抽出作業を脚本の中村誠に委ねていた事も相俟って、脚本は改稿に改稿を重ね(オーディオコメンタリーを聞く限りでは6度ほど改稿している?)、最終的には各稿のアイディアを繋ぎ合わせて、出崎が絵コンテを起こしている。そんな紆余曲折の末に出来上がった映画であり、コメンタリーやビジュアルブックの発言では準備稿での面白さ(出崎曰く文章に描かれていない「間」が面白かったそう)が改稿を重ねるごとに失われていってしまった、と語っていることからも生みの苦しみがあったことは窺えるだろう。

これら二作品についての共通項はこれだけではない。出崎が原作内容から映画というモチーフを形作るにあたって、取り出している物語要素にもその共通性を見出すことは可能である。氏の手がけた作品において、原作を忠実に再現した作品は皆無であるのはよく知られている話だ。原作内容を叩き台にして、出崎自身が作品を向き合う事で原作での描写よりも一歩踏み込んだものとなったり、作品解釈の奥行きを広げたりと、監督独自の解釈が良くも悪くも出来を左右していると言って過言ではない。「劇場版エースをねらえ!」「劇場版AIR」はその点でいうと非常に好対照だ。前者は出崎の手法が作品に対して見事に結実しているが、対して後者では出崎の解釈と作品内容が実は噛み合っていないのではという疑念が浮かんでくる。映画を構成する上で原石(原作)から切り出された大枠の要素において、両作が共通しているのは「男と女」「相手役との死別」あるいは「母親」の三点だ。同じ監督が手掛けているのだから当たり前だが、物語構造や性質においては重なるどころか、ジャンルすらもまったく異なる作品同士が「映画」となった際に、描き出された要素が似通うのはまさしく「個性」といって他ならないものだろう。しかしこれらの作品評価を眺めるに、出崎自身の「個性」が「作品」と噛み合ったのが「劇場版エースをねらえ!」であり、それらが噛み合わなかったのが「劇場版AIR」だと言える。これは興味深い現象ではないだろうか。かたや出崎の最高傑作のひとつと語り継がれる作品。他方、フィルモグラフィの中でも評価の低い部類に落ち着いている作品。どちらも「映画作品」であり、(物語の質感が違えど)出崎自身の「個性」がパッケージングされているのにも関わらず、この評価の落差は一体どういう事なのであろうか。

個性が噛み合った映画と噛み合わなかった映画。この二作品がどうしてそうなったかには何がしかの理由があるはずなのだ。元より原作を叩き台にして、自らの感性に基づいて作品を仕立ててしまうことから原作クラッシャーとも揶揄されてしまうことも少なくない出崎作品である。そして両作品ともに原作から離れた描きがあり、なおかつ上記のような共通項も見出せる映画なのだ。この事実から、この二作品は表裏一体の映画であるように筆者には思える。「劇場版エースをねらえ!」が成功例であるならば、「劇場版AIR」は失敗例なのである。出崎自身の「個性」にブレがないと考えるのであれば作り出された「成果」として、両作品の評価の温度差は面白いほどに違う。

なぜ「劇場版AIR」という映画は失敗してしまったのか。そこを紐解くために成功例である「劇場版エースをねらえ!」を踏まえて考えていきたいというのが本稿の趣旨である。


■『青春』というモチーフ

「劇場版エースをねらえ!」「劇場版AIR」の両作はそれぞれ趣の異なった映画だがどちらも青春を描いている。「劇場版エースをねらえ!」は主人公、岡ひろみがコーチの宗方仁にその資質を見出されて、テニスプレーヤーとしてその才能を開花させていくストーリー。「劇場版AIR」は旅芸人(なのだろうか)である国崎往人がとある海沿いの田舎町で出会った神尾観鈴とのひと夏の出来事を描いた物語として繰り広げられていく。前者は競技テニス、後者は原作のSummer編、平安時代を舞台にした翼人伝説をモチーフにしたエピソードをザッピングしながら、往人と観鈴の交流が主題である。青春を映画で描く、この映画が共通しているのは前項で上げた共通点からも明らかだ。では、反対にどこがどのように違うのか。一番の違いは各作の主要男性キャラであろう。

宗方仁と国崎往人。物語上において、各人ともヒロインを見守る相手役の役割を担っている。作品の性質上、宗方は(スポ根)少女漫画の主人公を叱咤する鬼コーチで、往人は美少女ゲームにおける(プレーヤー)視点人物である。なおかつ往人は登場するヒロインが抱える問題に(解決するのではなく)寄り添う人物としても描かれる、二面性を抱えたキャラクターであるのは言うに及ばない所だろう。宗方と往人の違いもまさにそこである。両作が物語構成的にスタイルが似ていると先にも述べたが、男性キャラの立ち回り方だけを取ってみると全く異なっている。端的に言えば、宗方はひろみの勝利を見届けたのち病床に臥してその命を全うし、対して往人は観鈴の死を胸に刻み、あてどない旅を続ける。これら映画の結末は非常に対照的だ。自分の夢をひろみに託して息絶えた宗方と観鈴の影が心に焼き付けられた往人。登場する男性の、物語の関わり方や主体性が異なるのは重々承知の上であるが、やはり宗方と往人はヒロインの関わり方、影響の与え方が正反対なのである。以下に各作劇中のセリフを引用する。


【町に訪れた理由(祭りの開催)と人ごみの集まるが嫌いなのに祭りならいいのかという観鈴の問いに対して】
(往人)「わからない…でも祭りならなんか、みんな血が燃えてて、本気で笑ってくれそうな気がする…」
観鈴)「そうなんだ、本気ならいいんだね……(往人は無言)……本気が好きなんだ……」
(往人)「…せえな! 関係ねえだろ! ……本気の本気なんてのはまだ見たこともない! 存在しないんだよ!」


【サーブ・レシーブの実力テストの説明の後に】
(宗方)「始めろ!! 時間を無駄にするな!! ……時間を無駄にしていかん」


これらのセリフは宗方と往人のスタンスを大きく分けるものであるように筆者には感じられる。一口に言ってしまえば、精神的に大人であるか子供であるかの差に過ぎないのであるが、ゆえにこれらのセリフの論点になっているのは、「青春」というモチーフなのだ。両者のセリフには「青春」のどこに自分の身を置いているのかが滲み出ている。「劇場版エースをねらえ!」における宗方はセリフ自体が多くなく、ましてや心情が語られる場面はごく限られているが、上記引用には彼が青春の「外側」に位置しているのが見て取れる。「青春」、つまりモラトリアムとは限られた時間の中でしか存在しえない空間なのだ。作中において宗方は20代後半(死亡時は27歳)であることからも、すでに「青春を通り過ぎた人間」として岡ひろみを始め、青春真っ只中の県立西高女子テニス部を「俯瞰」している。その長いようで短い「青春」という時間を無駄にするなと叱咤するのは、すでに通り過ぎた者としての「義務」であると同時に自身の余命に対する自省も覗かせているのが興味深い。それは「劇場版エースをねらえ!」自体がTVアニメでは描き切れなかった原作第1部を描き切るために物語を「俯瞰」して構成されている事とも符合している。青春を外側から見つめる宗方と内側からその二度とない凝縮された時間を生きる岡ひろみ。彼らの関係は師弟関係である以前に、そういった青春の内と外によって結ばれる関係性であり、いずれはひろみもまたその外側に出ていくことが運命づけられているといっても過言ではない。無論、映画ではそこに至るまでの描きはないが、いずれは乗り越えなければならない頂が示唆されているのは疑いようのない事実だろう。


(小黒) 出崎さんがこれを作ってるときに「光と影で青春を描く」と仰ってたという話を聞いた事があるんですが。

(出崎) 覚えてないけど、まあそらそうだろうね。というよりも青春というのは「光と影」ですよ。多分、自分の若いときのことを思い出してみると、そういう風に思い出としてね、影が恥ずかしいことだったり、光がちょっと得意なことだったりするのかもしれないけど、人によって違うけど、そういうコントラストで残ってるような気がする。 


~「劇場版エースをねらえ!」BD収録オーディオコメンタリー(出崎統小黒祐一郎)より~


このオーディオコメンタリーにおいて出崎自身が「青春」を「光と影のコントラスト」と認識していることが読み取れるが、これを作中に照らし合わせてみてば、ひろみが宗方に見い出され自らも不相応だと認識しながらも、お蝶夫人こと竜崎麗華を始めとした周囲の視線に耐え、テニスの魅力に目覚めていく一連の流れは起伏に富んだ影(過程)とその先にある光(結果)によって構成されているのが分かるだろう。先ほどの青春の外と内で考えるならば、青春の真っただ中にいるひろみはまばゆい光であり、それを外側に眺める宗方は死を背負う影でもある。宗方とひろみの関係性のみをピックアップしてゆくと、「光と影のコントラスト」とは二人の師弟関係そのものであるし、宗方に選び出されてしまったひろみの成功と苦悩のコントラストによって、作品が色濃く描かれている。その点からも二人の立ち位置が「青春」というシチュエーションにおいて、はっきりと分かれているのが作品の明快さにも結び付いているのではないだろうか。

(中村) いわゆる監督の特有の演出方式みたいに世の中で言われていることがあるじゃないですか。たとえば「黒み」とかもありますよね。「黒み」はやっぱ意味があってやられているというのはあると思うんですけど、たとえばそれってどういう意味合いっていう。

(出崎)いや、俺もねどっかでずるいなあと思ってるんだけど、光と影をある程度意識的にね、それを追っていくと映像は光と影でできているんだと思うんだけどさ。いつでも「黒」になれる。追っていくとね、「白」にもなれるし、光とつまり影の中で、これは影が、究極の画面なんだけどさ。心の中ってイメージがすごく強くて。そっから少し光が差し込んで「画面」になっていく。当たり前のことなんだけど、でもそれを心の中を、映像に出来ない時、逆に映像にしたくないって時に「黒」が来ちゃう。その割には「白い画面」はないんだけど、光があるとなんかやっぱりものが見えなきゃいけないだろうなっていう感じがしてて、そうなっちゃってるんだけど、変わっていくと思いますけどね。なんとなく自分のところで行き詰ったときに問題救済の一手として「黒い画面」が来ちゃったりするんですよ。


~「劇場版AIR」DVD収録オーディオコメンタリー(出崎統中村誠)より~


劇場版AIR」のオーディオコメンタリーでも先ほどの引用と似たニュアンスのことを出崎は発言している。ここでは直接表現と婉曲表現を白と黒、つまり光と影で住み分けているように読み取れるだろう。「画面」はこれらが混ざり合う形で成立するが、心情を読ませない表現として黒(影)が究極の画面となって表れてくるとしている。それはいわゆる仄めかし、あるいは婉曲表現となって、観客に解釈を委ねる事となるがやはりそこのコントラストがあればこそ、映像は成立していると出崎が言っているようにも思える。無論これらを青春に置き換えても、その事は明白だろう。特に「劇場版エースをねらえ!」においては、主要人物であるひろみと宗方を中心として、この「光と影のコントラスト」が作品全体に行き渡っている。「光と影で青春を描く」のが映画としての主眼であるのならば、恐らくどこから切り取ってもそのコントラストが成立している作品だという印象を持つのだ。では対して「劇場版AIR」はどうだろうか。再びオーディオコメンタリーでの発言を引用する。

(出崎) ほんとにこう、観鈴という人の若者としての危うさ、みたいのをね? 俺はすごく感じたのよ、最初。それがすごく面白いと感じたのよ。そういうことを映像で表現していく、というのはなかなかないから。ある意味で言うと僕は今まで色々、色んな仕事をやってきたけど、本筋の仕事だな、ってちょっとしたのよ。んで、一所懸命やってみようかなって思ってみてさ。

(中村) 僕もその原作を読んだ時に、その感じたのは若者がみんな殻に閉じこもってるなっていう感じがあって。で、原作だとそれがなんとなく打ち破られないままちょっと終わっちゃうみたいなとこがあったんですよ。で、それはなんかどうなんだろっていうのがちょっと気持ちの中にはあって。そこをこう、破る話みたいな? そういう方がいいんじゃないかって気持ちみたいのを少し入れてった、まあ入れてったんでしょうね。


(出崎) 若者がね?自分の世界の中に逼塞というかね、閉じこもって、で、そんな中で色々判断して、そういうことはね、殻から一見出られないようだけど、その。どっちみち大人になってくわけで。んで、世の中でもっともっと厳しいことに実際に出会ってってすると、その、殻に閉じこもっちゃいらんなくなるはずだと思うのよね。だから、それも描きたかったのよね、俺はね?でなんか人との出会いとか、まあそれはトラブル嫌いな人も多いけどさ。修羅場とか経験していくとそういう殻が死ぬと、「あの殻ってなんだったんだろ?」って思うぐらいにね、その脆弱なね、なんか薄いものになってってさ。いつの間にかその中から抜け出てる自分とかさ、なんか別のことに集中して、一生懸命に生きようとかすると、その殻が溶けてく、ような気がすんのよ。俺、まだ殻持ってるけどさ(笑) 


~「劇場版AIR」DVD収録オーディオコメンタリー(出崎統中村誠)より~


ここでは出崎が「劇場版AIR」を制作するきっかけを話しているのと、脚本を担当した中村誠の原作に対する印象が語られているのが興味深い。出崎本人が「本筋の仕事」と感じるに至っているのは、登場人物たちの持っている若者ならではの閉塞感から来る危うさに惹かれて、という所にあるようだ。中村の方も同じように原作ゲームの登場人物たち(というよりもメインの受け手である、当時の若い世代)の「殻に閉じこもった」感覚を掴んでいる。ここでいう「殻」というのと「青春(=モラトリアム)」は同義であると考えられる。つまり監督と脚本家、その両者ともが原作ゲーム(出崎は中村の準備稿を読んで、だが)から感じられる「モラトリアムに閉じこもる若者像」を打ち破る話として「劇場版AIR」を手掛けたという事で一致している。ここは「劇場版エースをねらえ!」がモラトリアムを内外から捉えている物語として描かれているのに対して、大きな違いだと言えるだろう。そういうテーマのもとに作られている作品であるからこそ、「劇場版AIR」は徹底してモラトリアムの内側の話なのだ。

ゆえに「劇場版エースをねらえ!」の宗方仁に対して「劇場版AIR」の国崎往人はモラトリアムの内側に属する人間である。年齢設定も22歳と20代前半であること(進学していれば大学生の年齢)からもまだ「青春の最中」にいるのは間違いない。出崎・中村の言う所の「殻に閉じこもった若者」であり、その閉塞感から生まれてくる焦燥や行き場のないエネルギーを抱えている人間であるのは、先に引用した劇中のセリフに込められた「本気の本気なんて存在しない」という斜に構えた諦念からも感じ取れる事だろう。両作の映画としての成り立ち方が異なるのは先に触れているが、「俯瞰」して捉えることが出来た「劇場版エースをねらえ!」に比べると、「劇場版AIR」は極めて主観的な映画だと言える。それはつまり「青春」の描き方としては当事者性の強いフィルムでもある、ということだ。

往人は青春の渦中にいる。ヒロインである神尾観鈴もそれは同様だ。「劇場版エースをねらえ!」での宗方とひろみの関係性はテニスという競技においての師弟関係、あるいは青春の内と外に隔てられた上下関係といえるだろう。青春を「光と影のコントラスト」と出崎の言うように捉えた場合、宗方とひろみではどちらが光でどちらが影であるかが明確に分かれていくが、往人と観鈴の場合はそれぞれに「光と影のコントラスト」を内包している。同じ渦中にいる男と女として、お互いの欠落を感じ取り、それぞれの内面の深い所で結びついていく物語として出崎は「劇場版AIR」を仕立てている。

往人が宗方と異なるのはこの部分である。宗方はその身を青春の外に置き、あるいは自らの死期が近いことも察して(あるいは国内女子テニス選手のレベルを底上げするという使命感から)か、ひろみとはコーチと選手の関係を超えることはなかった。むしろ彼らを結び付けているのはテニスという球技であり、宗方はひろみに亡き母親の影を見てもそれ以上の感情を起こすこともなかったのだ。岡ひろみの青春に恋愛という比重が大きくかかることはなかったのは、宗方自身が既に青春を過ぎた大人であり、同時に死の影を抱えた人物であったことが大きく起因しているだろう。どちらにせよ、二人の間に恋愛以上の関係が生まれなかった(ように見える)のは、感情から生まれる欲求や葛藤をスポーツによって昇華することが出来たからに他ならない。青春という「光と影のコントラスト」をスポーツという外的な要因で処理できる作品構造である事と、宗方という存在位置がその中心から外れている事、加えて背負わされている物語機能(道半ばでの死)も相俟って、映画の中ではひろみの青春に影響を与えてもわだかまりを残すことなく去っている。

逆に国崎往人の場合はまだ「取り残されて」いる人間だ。青春という大枠の中で観鈴と同じ場所に立っている。この二人の場合、間にお互いの感情や葛藤を受け止める緩衝材的要因が物語上に存在しておらず、お互いがお互いの感情や葛藤を受け止めなければならない構造となっている。それは原作が美少女ゲームという性質上、避けられない問題であるし、「エースをねらえ!」もスポ根ものという性質から映画で抽出された関係性がストイックなものになったとも考えられる。ともかく往人と観鈴プラトニックな域を抜け出さないが、それぞれの「光と影」を受け止める格好で深い結びつきを持つに至る。だが「劇場版エースをねらえ!」とは反対に死別して「取り残される」のが男性側である往人なのだ。青春という「光と影のコントラスト」を処理してくれる対象が失われてしまうことで、彼の心の中にはわだかまりを抱えてしまう。観鈴の死という大きな傷を抱えて、往人は再び放浪の旅に出る所で物語は終わるが、その感情の流れは「劇場版エースをねらえ!」のひろみが宗方の死を引き摺らず(むしろ知らぬまま)終わるのと比べても、非常にドロッとしたヘヴィなものに感じられる。たとえわずかな時間でも同じ青春を生き、お互いの「光と影」を共有しあった者同士だからこそ、死せる者と生きる者のコントラストが色濃く表れてくるのだ。青春の中に死んでいった観鈴と青春は過ぎても人生が続いてゆく往人、それは宗方とひろみの関係とは異なり、一方は青春の中に死を伴って閉じ込められ、他方、青春の中から外へ解き放たれて生きてゆく(もちろん解き放たれるためのダメージは負っている)という「生と死」のコントラストも重ねられている。コメンタリーでの発言を拾う限りでは、出崎は映画を通じてそのように作品を捉えていたように思えるのだ。

(以下発言は全て出崎) キャラクターたちがなんかこう変化しようとする時にね、それはその自分の意志と同時に周りの幸運というか、どんな厳しい状況でもね? それは幸運だと思うのよね、それは自分を変えなきゃなんない状況にぶつかったりするとね? だから俺、なんか殻ってそういうものだと思ってるし、大いに固まってるときにね、その殻に入ってる時に自分を見つめてくれればね、絶対溶けてくんだと思うんだよね。だからこの往人くんなんかもね、殻とかね

死んだのか、死に対する考え方って色々とあると思うんだけど、それが残っていくし、なんか誰か人の心に渡していくしっていうのはずるいけどさ、だけどそれがせめてもの救いだよね。だから往人が最後にね、観鈴のキーホルダー持ってるって、つまんねえことだけど! とりあえず俺の心の中にあいつが残ってるよみたいな。一生残れよ、この野郎!とかって思いで、俺はラストシーンつくったんだけど、でもまあ往人の、ねえまたねえ、きっとね、可愛い子なんか出会ったら、忘れちゃうんだろうなあ…(笑) それもまたしょうがないよな?


~「劇場版AIR」DVD収録オーディオコメンタリー(出崎統中村誠)より~

上記引用からも見て取れるが、若者のモラトリアムに閉じこもった状態を「殻」と出崎・中村両氏は表現している。どちらの認識もそれはいずれ破らなければならないものという点に立脚しているのは明らかだ。 かのヘルマン・ヘッセが代表作「デミアン」において「鳥は卵の中から抜け出ようと戦う。卵は世界だ。生れようと欲するものは、一つの世界を破壊しなければならない」と記していることからも分かるように、出崎は青春をヘッセの語っている「卵の殻」として捉え、往人や観鈴に破らせようとした。それが出崎の狙いであったように感じられる。

しかしその狙いは「AIR」という作品を考えた場合、やや的外れに思えるのも事実なのだ。「青春」というモチーフに基づいた映画における登場人物の構図としては物語の定型に則っているのだが、「劇場版エースをねらえ!」と比べると「劇場版AIR」、ひいては原作「AIR」そのものが作品として重層的な構造となっている為に、「青春」というモチーフだけを取ると「劇場版AIR」は物語として、「ズレ」が生じているように見えるのだ。それは先ほども説明したように作品自体が「青春」の当事者性の強い主観的な内容であり、同時に「青春(モラトリアム)」の中で登場人物たちがより内面に向かっていくことで深く結びついてく物語でもあるからだ。そしてそこにまつわるモチーフとして「恋愛」が絡んでくることとなる。次項では話題をそこへ触れつつ、映画に生じた「ズレ」を見ていきたい。

話数単位で選ぶ、2018年TVアニメ10選

さて、今年もやってまいりました。話数単位で選ぶ、TVアニメ10選です。
毎年、放映されたTVアニメの中から話数単位で面白かった回を選ぼうという企画。
新米小僧の見習日記さんが集計されている、年末の恒例企画です。
「話数単位で選ぶ、2018年TVアニメ10選」参加サイト一覧: 新米小僧の見習日記
大まかなルールは以下の通り。

ルール
・2018年1月1日〜12月31日までに放送されたTVアニメ(再放送を除く)から選定。
・1作品につき上限1話。
・順位は付けない。


本ブログは8回目の参加です。なお過去の10選は以下のリンクから。

話数単位で選ぶ2011年TVアニメ10選 - In Jazz
話数単位で選ぶ2012年TVアニメ10選+α - In Jazz
話数単位で選ぶ2013年TVアニメ10選+α - In Jazz
話数単位で選ぶ、2014年TVアニメ10選+α - In Jazz
話数単位で選ぶ、2015年TVアニメ10選 - In Jazz
話数単位で選ぶ、2016年TVアニメ10選 - In Jazz
話数単位で選ぶ、2017年TVアニメ10選 - In Jazz

筆者としては「記録を残す」という点で、企画に参加してます。なお今年に置きましては色々と「宿題」を残してしまっていますので、10選コメントについては手短にまとめてあります。むしろ全話見てない作品からの選出もしていて、かなり寄せ集めな感じです。ご了承ください。ちなみにスタッフ名等々は敬称略となっております。日付は地上波放映日、Web上の公開日の最速に準拠しています。


《話数単位で選ぶ、2018年TVアニメ10選》

・DEVILMANcrybaby IX「地獄へ墜ちろ、人間ども」(1/5)
(脚本: 大河内一楼/絵コンテ:湯浅政明/演出・作画監督:小島崇史)

原作の衝撃回に真っ向勝負をかけた一本。物語全体が不寛容さや人の獣性、死にまとわりつくエロスを描いた生理的嫌悪に背徳を覚える作品だったが、選定話数はその象徴ともいえる回。暴徒に祭り上げられた美樹の生首に艶かしさを感じさせる辣腕を思い知った。

多田くんは恋をしない 第8話「雨女だったっけ?」(5/24)
(脚本: 中村能子/絵コンテ・演出:藤原佳幸作画監督:山野雅明、瀧原美樹、凌空凛、伊澤珠美、菊池愛、助川裕彦、市原圭子)

人が恋に落ちる瞬間を描ききった一話。河口湖に野営し、星空を待つというベタなシチュエーションながら、奇を衒わずヒロインテレサの情緒を見事に活写した。平成末期の東京という舞台において、あえて「東京タワー」を出してこない試みなどその清新なドラマは地味ながらも冴えていた。

メガロボクス ROUND3「GEAR IS DEAD 絶望の果ての負け惜しみ。機械はハナから息しちゃない」(4/20)
(脚本: 真辺克彦/絵コンテ・演出:和田高明作画監督和田高明、原田大基)

あしたのジョー」を原案にして作られた近未来ボクシング作品。この回で、ジャンクドッグを始めとするチーム番外地が出揃った。アンダードッグ(負け犬)どもが明日なき明日を目指して向かおうとする姿は心惹きつけられるが作品がそれを完遂できたかはまた別問題。和田高明によるボクシング描写は流石といったところ。

働くお兄さん!第10話「レンタルDVD屋のお兄さん!」(3/9)
(脚本: 高嶋友也/監督:高嶋友也/シリーズ構成:宇佐義大/キャラクターデザイン:小田ハルカ)

ショートアニメ。2期をまったく見ることができなかったが、やはり映画ファンネタはコメディとして鉄板というか。キャラクターを始めとしてデザイン周りが非常に秀逸だったし、回を増すごとにおとぎ話を絡めたギャグ描写の拍車がかかってたのもドライヴ感があってよかった。この回はさるかに合戦。

・22/7 「あの日の彼女たち」day03 立川絢香(5/24)
(絵コンテ・演出:若林 信/作画監督堀口悠紀子

YouTube公式配信作品。秋元康による二次元アイドルグループ「22/7」の何気ない日々を切り取った内の一編。なんというか、こういう悪戯っぽさやはぐらかし方が思春期の少女らしい描写だが、それを堀口悠紀子という望外の人材によって描かれる作画と気鋭の若手演出家、若林信の競演によって成立させた企画者の慧眼が物を言う。百聞は一見にしかず。以下にリンクを張っておく。同シリーズはどれも必見。

・うちのメイドがウザすぎる! 第1話「うちのメイドがウザすぎる!」(10/7)
(脚本: あおしまたかし/絵コンテ:太田雅彦/演出:守田芸成
 /作画監督:伊澤珠美、杉田まるみ、鈴木絵万、濱口明、山崎淳

動画工房によりスクリューボール百合コメディ。とにもかくにも鴨居つばめというアンタッチャブルなキャラクターの一点突破で成立する、心に傷を負った幼女の超克ドラマだがそのアンバランスな物語を有無を言わさぬ作画力で押し切ったのは挨拶代わりの初手としてはこの上ないものだったかと。

ジョジョの奇妙な冒険 黄金の風 第4話「ギャング入門」(10/27)
(脚本: ヤスカワショウゴ/絵コンテ:木村泰大/演出:鈴木恭兵
 作画監督:森藤希子、重本和佳子、岩崎安利〔アクション〕/総作画監督:田中春香)

Vsポルポ(ブラックサバス)編。5部以降、複雑化の一途を辿ることになるスタンドバトルだがその魅力をアニメで表現する事に注力した話数だと思う。同時に5部の真の意味での「始まり」が描かれたエピソード。イタリアらしい陰影の濃さにジョルノという「黄金の精神」のストイックさもまた重なって、5部の凄惨さが浮き彫りになったのも見逃せない。

青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない第3話「君だけがいない世界」(10/20)
(脚本:横谷昌宏/絵コンテ:増井壮一/演出:篠原正寛/作画監督:宮粼詩織、三木俊明、石毛理恵/総作画監督:田村里美)

前年(Just Beause!)に引き続き、鴨志田一原作の選出。西尾維新の「物語シリーズ」フォロワーとも言うべき作品であるが、昨今「空気」とも呼ばれる、目に見えない「圧力」をテーマにしている辺りがオリジナルとは一線を画すか。その第一章の完結編。先祖返りしたかのような学園青春ドラマをどストレートに展開して、甦らせた点に目を見張る。青臭くもあり、若さゆえの歪みを調律するという点は非常に電撃文庫らしくもあるが、現代性も携えているのが面白さだろう。

HUGっと!プリキュア 第38話「幸せチャージ!ハッピーハロウィン!」(10/28)
(脚本: 横手美智子/絵コンテ・演出:平池綾子/作画監督:上野ケン/総作画監督:山岡直子)

ハロウィン回。15周年という事もあって「お祭り感」の否めない今年のプリキュアだが、あえて「らしい」話数を選んだ。今シリーズは若手である平池綾子が頭角を現した点が個人的に目を引く。「らしさ」は人によって異なると思うが、15年培ってきたスタイルに新味を加えるという点では、プリキュア初登板となった横手美智子ともども健闘していたように思う。特別なことはしない、「いつも」のプリキュアを演出することの大事さをこと強く感じた話数だった。

・少女☆歌劇レヴュースタァライト第12話「レヴュースタァライト」(9/28)
(脚本: 樋口達人/絵コンテ・演出:古川知宏、小出卓史
 作画監督:松尾亜希子,小里明花,谷紫織,清水海都,小池裕樹,錦見楽,杉山有沙,大下久馬,小栗寛子,櫂木沙織,角谷知美)

今年、アニメで一本選べと言われたら、この作品を選ぶ。結果的に「舞台演劇」をアニメーションで表現することに挑戦していた作品であるし、生の舞台には出来ない表現で追いつき追い越そうとしていた。「二層展開式少女歌劇」の名目が災いしたのか、間口の狭い作品となってしまった感はあるが、それ以上に一度惹き付けられたファンを逃さない(逃せられない)構造は強固でもある。短い文章ではこの作品は語り切れない。やり残した「宿題」も本作にまつわるものだが、何とか完遂したい所。選んだ話数に一言添えるとしたら、物語そのものが『レヴュースタァライト』だったという事。どういう事なのかは、別の機会に改めて。


【次点】
少女☆歌劇_レヴュースタァライト第3話「トップスタァ」,第6話「ふたりの花道」,第8話「ひかり、さす方へ」
HUGっと!プリキュア第15話「迷コンビ...?えみるとルールーのとある一日」、第29話「ここで決めるよ! おばあちゃんの気合のレシピ!」、第33話「要注意!クライアス社の採用活動!?」


《終わりに》
今年2018年の総括を書こうと思いましたけど、上手くまとまらないので割愛します。まあ、今年は時代を考えられるほどには作品を見ていないというのもあるので、ともあれ。
昨年の総括で、時代の空気はなにかしら「淀み」を帯びたものになってきている、と語りましたがこの一年を振り返ってみると、国内ではその「淀み」が恐ろしい速度で広がり「汚染」されてしまった、としか言いようのない停滞感あるいは疲弊がそこかしこで目に見えてきた年だったのではないでしょうか。

良くも悪くも今年を象徴したMV、Childish Gambino「This Is America」で表現されているように「この不条理な世界こそ、アメリカだ」といわんばかりに各国、内憂外患の状況が続いているし、日本も他人事ではないかと。加えて、「平成」がいよいよ終わります。そういった時代背景からも色々と岐路に立たされているのは言うまでもないだろう。零細ブログで現状を憂えてもしかたないけど、舵取りひとつでいつ急転直下してもおかしくはない状況であるのは確か。だから注視しなくてはならない、のだと思う。
という風に書いてもいいんですけど、別に政治的なことが書きたいわけではないので。色々くたびれてきているというのが肌感覚としてありますが…。観測範囲ではやはり世間的に百合作品の飛躍した年かなあとも思いますが、バズッた作品を熱心に見ていたわけではないのでそこを語るにしてもなんだかなあという感じが自分の中にあったり。いや、個人的には「少女☆歌劇_レヴュースタァライト」をずっと追いかけていたわけですが、いかんせん全話感想がまだ終わってないのが心残りといいますか。まだまだ自分の中でケリがつかずにいる作品なので、噛り付いてもやりきりたい所存です。なのでお待ちいただいている人たちはもう少しご辛抱を。時間はかかると思いますが自分でもやり遂げたいと思っていますので。
今年のアニメ鑑賞についてはそんな感じで情熱を傾けすぎたせいで、他が霞んでいるという状態がずっと続いている状況でしたね。こんなのは滅多にないことではありますが、もうしばらく続きそうです。というわけで今回は縮小版という形で記事をまとめてみました。まあなんとか10本かき集められたので良しとします。平成最後の年末がこれでいいのか、という気もしなくはないですが、今年の記録として心に刻めたので悪くはないでしょう。それではひとまず今年の締めとして。
以上が自分の「話数単位で選ぶ、2018年TVアニメ10選」でした。各所で関わりになった方々には本年もお世話になりありがとうございました。来年もまたお付き合いいただければ幸いです。それでは今年も残りわずかですが、よいお年を。

音楽鑑賞履歴(2018年11月) No.1279〜1286

月一恒例の音楽鑑賞履歴。

8枚。
今月からようやく2016年購入分に突入です。いやあ、長かった。
とりあえずDavid Bowie「★」の感想がかつてなく長くなってますが、いろいろあった年なので文量も増えた感じです。
気づけば今年も一ヶ月を切りました。今年もなんだかんだありますが、暮れが近づくと思うことも様々です。
とりあえずやらなければいけないことを処理しつつ、新しい年を迎えられればいいなと。
というわけで以下より感想です。


Bongo Fury

Bongo Fury

・75年発表20th(通算)。ザッパが学生時代よりの親友であるキャプテン・ビーフハートと共演した唯一のアルバム。基本的にビーフハートマザーズのライヴに参加した時の音源で、テリー・ボジオがザッパのアルバムに参加した最初の一枚でもある。内容は下世話な泥臭さと理知的な構成が入り混じっている
この盤を聞くだけでも、ザッパとビーフハートが同じ方向性を見ているようでまったく別方向の方法論で音楽をやっているということがなんとなく察せられ、お互いの仲がどうであれ、資質的には水と油なのは見て取れる。ザッパは理論的であるし、ビーフハートは感性が勝っている。
あくまでビーフハートがザッパのライヴで客演してる体裁なので、がっぷり四つで火花を散らしているわけではないので注意が必要だが、アクの強い両者の個性が絡み合っており、アルバムとしては他とは異なった独特さもある作品だ。全盛期ともいえる70年代中期のマザーズからの移行期でもあるの含めて。
本作はザッパ作品の中でもきわめてアーシーな作品でもある。73年の「オーヴァーナイト・センセーション」から本作に至るまでは、高度なアンサンブルと楽曲の密度の濃さの一方、土埃っぽい垢抜けないサウンドなのだが、その土臭さが特に濃厚なのだ。ぬかるんだ泥のような粘っこい演奏が聴けるのは珍しい
ビーフハートの影響があるのかは定かではないが、その雰囲気に呑まれて、楽曲もスマートというよりはなにかのた打ち回った印象が強く、ザッパ特有のスマートさが陰に隠れているようにも感じられるか。しかし聞けば、間違いなくザッパサウンドなのは確か。そういう点ではアクがさらに強くなった一枚かと。

★(ブラックスター)

★(ブラックスター)

16年発表28thにして遺作。自身の誕生日(1/8)にリリース、その二日後の1/10に亡くなるというニュースは世界に衝撃を与えた。この突然の訃報によって、さまざまな議論や賛否が渦巻き、このアルバムは死というバイアスのかかった過大評価であるという向きもあったが、改めて聞くとその像が見えてくる。もちろんこれはボウイが全世界へと向けた「遺言状」、あるいはスワンソングであることは疑いようもないし、ボウイはデヴィッド・ロバート・ヘイウッド・ジョーンズではなく、デヴィッド・ボウイとしての最期をこれ以上にない形で表現したのはいうまでもないが、あえてそこから一歩引いて考えたい。作品の内容はジャズバンドのマリア・シュナイダー・オーケストラのメンバーが多数参加したジャズ要素の強い作品という触れ込みであるが、プロデューサーのトニー・ヴィスコンティによれば、ケンドリック・ラマー、ボーズ・オブ・カナダ、デス・グリップスなどに影響を受けたものであるという。実際聞いてみるとわかるように、このアルバムは少なくとも「ロックアルバム」ではない。ヒップホップも入っているし、テクノもあれば、演奏陣の出自でもあるジャズも感じる。ヴィスコンティの語った影響先から考えると、これらが統合されたものが本作であると感じる。結果的にではあるが、本作でヒップホップとテクノを繋げたのはロックではなく、ジャズなのだ。いや、ロックもいわゆる新世紀ジャズとして市民権を得る、新しい形のジャズに内包されてしまっていると言い切ってしまってもいいだろう。ことこのアルバムにおいてはロックはまったく主体ではないのだ。
10分近くに及ぶ1曲目だけを聞いても、ビートの感覚、メロディの展開は少なくともロックの格式ばったものとは異なり、非常に自由かつ開放的だ。サビがありギターソロがあり、のようなものではなく、ボーカルと演奏が個々に独立していながらも呼応しており、なにかしらの塊として形作られている。生音と電子音のビートがユニゾンしたり、ギターやサックスなどがアドリヴのように曲空間に旋律を漂わせ、ボウイのボーカルも呼応するように変幻自在に乗っかっていく。もちろん歌詞の内容を見ていくと、迫り来る死に直面したボウイの内面を感じるがそれすらも音楽に導かれて出てきたものにすら思える。アルバム全体を聞いていくと、ジョン・フォードの演劇へのオマージュや、ゲイの間で使われた話法ポラーリ、「時計じかけのオレンジ」で使われた人工語ナッドサットなどの引用も本作の演奏とまったく等価に扱われており、その全てが有機的につながっている。まるで細胞が入れ替わるように。ボウイの歌唱もバンドの演奏もインプロヴィゼーションでもあり、めまぐるしく変化していく。ともすれば節操もない印象も受けるが、死が生を解き放っていくかの様にありとあらゆるものを呑み込んで収束していく様はマイルスの「ビッチェズ・ブリュー」で繰り広げられるパッションの逆流を見る思いだ。
そういった自由闊達さは非常にジャズ的であり、ボウイが根ざしてきたロックミュージックもその中のひとつに組み込まれていく。拡散から収斂へ。このアルバムの表現しているのはそういうものであると思う。だからこそ、I Can't Give Everything Awayと結ばれていく、そのプロセスが非常に美しくある。ロックスターからブラックスターへ。そして黒き星は次なるビッグバンに向けて眠る。だからこそ、今、最も生命的な現代のジャズに寄り添っていったのではないかと思う。完全に勝手な憶測ではあるが、最後の最後に「種」を残していった、んだろうと。今改めて聞くと、その音楽的な自由さに驚くばかりだ。自由とは創造性と置き換えてもいいかもしれない。このボウイの置き土産はそういう可能性を残しながらも、ひとまず「葬った」一枚でもあると思う。だからこれはロックアルバムではなく今最も自由に満ち溢れた「現代ジャズ」の一枚として聞いた方がすんなりと聞ける様な気がする。
ボウイの求めていた音楽や表現も本来はそういうものだったんだろうと、おこがましくも思うわけだが、ボウイが末期に表現した音楽がジャズであることはやっぱり皮肉的でもあるし、時代は変わったのだ。しかし、ボウイは最期までボウイだった。それでいいのだと思う。立つ鳥跡を濁さず。R.I.P.

META

META

16年発表1st。現状唯一作か。14年1月に「テクノリサイタル」と称して高橋幸宏がライヴを行った際のスペシャルバンドがそのままグループとして発展して製作されたアルバムがこちら。Leo今井砂原良徳テイ・トウワ、ゴンドウトモヒコ、小山田圭吾高橋幸宏といった錚々たる面子のスーパーバンド。
内容としては10年代型のテクノポップといっても過言ではないもので、YMOのオリジナルメンバーである高橋幸宏とそのYMOチルドレンたるミュージシャンの競演であり、高橋幸宏らしいウェットなメロディが全体を貫く中で、現代のテクスチャーを纏ったエレクトロサウンドがポップに響き渡る。
メンバーがそれぞれの特色を生かしつつ、楽曲によって入れ替わり立ち替わり、Voすらも替わって行く中で不思議と統一感があるのはなんというか、ディレクションが際立っているという印象を持つか。メンバーの砂原良徳自らがマスタリングを手掛けているのもあり、全体にグループの意図が行き届いた良作だ

curve of the earth

curve of the earth

16年発表5th。前作から4年ぶりの新作。故スティーブ・ジョブズがスピーチで内容を引用したことでも知られる『全地球カタログ』の監修者、スチュワート・ブランドの思想にインスピレーションを受けた作品。堅実かつ地に足についた佳作であった前作からスケールアップした印象を受ける。
前作のアーシーさを引き継ぎつつ、サウンドスケープの景色をタイトルのとおり、地球を俯瞰するような視点で捉えており、テンポはミドルが主体ながら、バントの持ち味であるサイケ感と宇宙的な浮遊感が重なって、果てしなく広がる空間を遊泳する心地になる。しかしそれが野放図にならないのがスゴい。
前作までに培った滋味あるメロディに一音一音に重みを感じ、自由に浮遊しているようで、軸足はきっちりと地球に根差している。指針がはっきりとした内容・演奏だからこそ、壮大なサウンドもバンドとして自然な変化に感じられるか。過去の経験の研鑽と積み重ねが結実した、最高傑作といっていい名盤だ。

ボールルーム

ボールルーム

14年発表6th。時代の流行に乗ってか、彼らなりのエレクトロポップスを志向したアルバム。音の感触は3rdに近いが、そちらはヒップホップ色もあり、比較的サウンドがソリッドだったが本作は80s前半オマージュが色濃い、滑らかでソフトなメロディーが際立つ作品。レトロモダンという点でも今風な印象。
しかし、元来のポップマニアな一面が功を奏して、かつてのエレポップが60年代のポップスやR&Bを下敷きに置いたように、過去から現在に至るまでの膨大なデータベースによる練り込まれたメロディを、カドの取れたシンセサウンドで鳴り響かせている。そこに卓越したセンスを垣間見る作り。
シンセの温かみのある音、というと語弊はあるがシンセ音にグルーヴを求める昨今の流れとは一線を画しており、オマージュにオマージュを重ねたウェットなメロディラインをシンセで奏でる心地よさに比重が置かれてる点にポップマエストロたる矜持を感じる一枚。聞けば聞くほどじわじわ染み渡る好盤だ。

adore life

adore life

16年発表2nd。現代ポストパンクガールズバンドの第二撃。ライヴツアーで鍛えたらしい、持ち味の骨太さには拍車がかかった印象。金属質なギターとよりソリッドになったリズムにはメンバーの確信に満ちたアディテュードを感じ、心強くもある。過度な派手さよりも、真に迫ろうとする求道的な趣も強い。
ストパンクと称してはいるが、本作はバンドサウンド以外のキーボードの演奏やゴシックロックやガレージ、メタル(ハードロック?)に接近した楽曲もあり存外、バリエーションにも富んだ作りが目を引く。反面、バンドの演奏が単調なせいか、その主体の演奏よりも、オブリガードに面白い響きを感じた。
この点ではけっこうサウンド等々、バンドそのものが柔軟になったとも考えられて、興味深いが同時にひとつのスタイルにこだわり続ける事も、ことロックという分野においてはかなり困難が伴ってしまうのは時代の流れゆえか。飛躍作だが、まだまだ余白があるはず。今後に期待を持ちたい。

創世記

創世記

83年発表12th。二匹目のどじょう狙いというべきか、Prophet 5の分厚いシンセサウンドによるエレクトリックブギーとアースらしいコズミックなディスコブギーとのギリギリの臨界点を見極めた一作。なかなかキワドいバランスで成り立っている印象で、一歩間違えば踏み外していた事も容易に想像できる作り
いずれにせよ、前作の成功再びという面は否めないが楽曲の質は非常に安定しており、サウンドプロダクション的には今、再評価されてもいい内容にもなっている。ホーンズを効果的に使う曲がある一方で、シンセ主体になっている楽曲もあり、方向性を模索していた、ということも見て取れる。
ただそれ以前に、バンド自体のキレと勢いが鈍りつつあるのも感じられるか。一定以上に仕上がっているのは確かなのだが、演奏も非常に「手慣れた」雰囲気でクリエイトするという面では減退している事は否めない。佳作ではあるが、最前線から足が遠のきつつある事も感じてしまう、翳りのある一枚か。

ゲット・アウト・オブ・マイ・ヤード

ゲット・アウト・オブ・マイ・ヤード

06年発表6th。意外にもソロキャリアでは初のギターインストアルバム。今まで本人のソロアーティストとしての拘りが、全編インストを頑なに拒否してたという趣旨がライナーにも書かれているが、内容も彼のソロキャリアを反映したようなもので、過度のテクニカル指向には陥っていない。
もちろんギタープレイヤーとしては確固たる実力の持ち主であるのは疑いようも無く、曲によってはテクニカルな趣向を凝らした演奏もしている一方で、彼のポップ志向やルーツのブルース、クラシックなどのエッセンスも抽出されていて、過去のソロ作の作風をインストに落とし込んでいる印象が強く残る。
重低音のへヴィさを押し出すよりかは、カラっとしたハイノートのギターフレーズをポップに響かせることを信条としているプレイヤーと言う印象もあってか、ファンク調の楽曲も重くならずに聴けるのが面白い。ソロとしての彼の魅力はインストアルバムでも変わりないことが確認できる作品。