熱帯夜の路上を広場にして芽生え始めた「これからの民主主義」と冷暖房完備の国会で繰り広げられる「これまでの民主主義」

会えるものであれば、会えばよい。元首相だろうが、前首相だろうが、現首相の野田佳彦だろうが、会って言いたいことを言えば良い。既に元首相の鳩山由紀夫首相官邸前の抗議行動に加わり、皆さんの思いを伝えると官邸に消えていったし、前首相の菅直人とは岩波書店の編集者あがりの小熊英二センセの仲介のもとで、毎週金曜日の首相官邸前抗議行動を立ち上げた首都圏反原発連合が7月31日に対話のテーブルについた。現首相の野田佳彦とも堂々と会えばよい。岩波文化人が動いたこともあってか、その親戚筋でもある朝日新聞は8月2日付の社説にも取り上げた。題して「市民と政治―分断か対話か瀬戸際だ」。朝日新聞の民主主義に対する認識は次のような一文に象徴される。

菅前首相は「話を聞くのはやぶさかではない」という野田首相の言葉を伝えた。早急に実現し、民主主義への絶望感を広げないようにすべきだ。

首相官邸前の抗議行動を主催する首都圏反原発連合と首相の野田佳彦が会って、野田が首都圏反原発連合の話を聞くことが、どうして民主主義への絶望感を広げないことになるのだろうか。そのような発想の根底にあるのは間接民主主義を物神化するイデオロギーにしか過ぎず、その手のイデオロギーに汚染された文章を社説として掲げる朝日新聞は「これからの民主主義」にとって敵対者にほかなるまい。朝日新聞が「これまでの民主主義」の守護神であることを社説をもって公然と表明したのだと言うべきかもしれない。「これまでの民主主義」は冷暖房完備の国会で繰り広げられる民主主義であり、「これからの民主主義」は熱帯夜の路上を広場にして芽生え始めた民主主義である。「これからの民主主義」は言わば可能性として芽生え始めたのであり、首相官邸前の抗議行動を主催しているのは首都圏反原発連合であるが、首都圏反原発連合とて、「これからの民主主義」の「部分」にしか過ぎないし、また首相官邸前に集まった民衆を「代表」しているものでもない。しかし、冒頭にも書いたように菅だろうが、野田だろうが、会えるのであれば、会ったほうが良いに決まっている。そのことによって主権者たる国民の投票によって選ばれた代議員が冷暖房完備の国会を舞台にどのような水準の「これまでの民主主義」を繰り広げているかを熱帯夜の路上を広場にして芽生え始めた「これからの民主主義」が顕わにできるはずだ。菅直人との話し合いで仲介に立った小熊英二センセが「菅様の舎弟」であったとしても、この日、菅直人は「狡猾な市民運動家崩れ」(田中康夫)として馬脚をさらけ出してしまったと言って良いだろう。岩上安身の次のようなツイートをお読みいただきたい。

大飯原発を再稼働させた野田総理を「脱原発依存の方向性」と擁護しながら、再稼働反対をシングルイシューとして徹底して訴えてきた反原連に接近し、政治利用しようとする厚顔さには恐れいる。原子力規制委員会の人事についても、まるで危機感がない。外国人に頼む? まともな話ではない。

消費増税を「シングル・イッシュー」として来た野田佳彦が「脱原発依存の方向性」にあるという菅直人の認識には恐れ入る。野田は消費増税にしてもそうだが、民主主義にとって重要な手続き、順番を経ずにひたすら「決める政治」を展開している張本人である。福島第一原発の過酷事故は完全に収束しているとはいえないにしても、これまでの経過を踏まえた検証と総括を行い、これを踏まえた上で今後のエネルギー戦略をどうするかというグランドデザインを描き、その理念に沿った形で原発を規制する組織を発足させ、原発を再稼動させるにあたっての条件を提示し、そのうえで必要とあらば原発を再稼動させる。冷暖房完備の国会で繰り広げられる民主主義が機能不全に陥っていないのであれば、こうした手順を愚直なまでに踏まえるはずだ。そんなことすら昨年末には事故の収束宣言までしてみせた野田佳彦を棟梁とする代議制民主主義はできなかったのである。2009年総選挙に際して民主党が掲げたマニフェストを民意にはかることなく反故にした野田佳彦原発問題でも民意にはかることなく暴走をはじめたのである。そのことに私たちは絶望すべきなのである。深く、深く絶望したうえで、そこから一歩を踏み出すべきなのである。noiehoieがツイートで指摘していたが、そのくらい「民主主義ってしんどくて、難しくて、めんどくさくて、ややこしい。でも諦めたらいかん」ものなのである。小熊英二センセや菅直人前首相よりも、路上を広場に変えようとしている「烏合の衆」に属する無名の人物のほうが、よほど民主主義の何たるかを理解しているようである。冷暖房完備の国会で繰り広げられる民主主義が熱帯夜の路上を広場にして芽生え始めた民主主義をどれだけ学ぶことができるのか、その学習能力が問われているのである。
ちなみに朝日新聞の社説が熱帯夜の路上を広場にして芽生え始めた民主主義の「温度」を理解できず、冷暖房完備の国会で繰り広げられる民主主義の守護神としてしか「現在」を語れないのは、朝日新聞が冷暖房完備の国会で繰り広げられる民主主義と利害をシェアしている「報道ムラ」のレッキとした一員だからである。朝日新聞も当然のごとく名前を連ねる国会記者会は国の所有物である国会記者会館を独占的に使用して恥じることがないということは、取材対象者たる冷暖房完備の「これまでの民主主義」にすっかり取り込まれてしまっているという以上のことでもなければ、以下のことでもあるまい。大手メディアは「原子力ムラ」を批判するよりも、まずは「報道ムラ」を自己批判すべきだろう。新聞なんてのは民衆から購読料をとっているのだから、ジャーナリズムとして民衆に奉仕するのは、商売として当然のことであるきずなのだが、それが全くできずに「政治家崩れ」をひたすら満喫するばかりである。