紀伊半島16 高野山「壇上伽藍」


世界遺産『壇上伽藍』拝観料:根本大塔200円、金堂200円。
高野山の二大聖地のひとつ。819年(弘仁10年)に弘法大師が、真言密教の根本道場を開くにあたり最初に着手した場所。密教思想に基づき、境内には根本大塔、金堂など19の堂塔が建ち並んでいる。


ことごとく焼き尽くされてきた、壇上伽藍焼失の歴史!
994年大塔に落雷、御影堂を残して全焼し高野山衰退、1103年大塔再建、1149年大塔に落雷伽藍全焼、1150年金堂再建、1156年平清盛が大塔再建、1401年西塔焼失、1464年高野山大火、1521年大火で高野山壊滅状態、1522年金剛峯寺山王院本殿建立、1582年信長の高野山攻めの危機を脱し、1630年大塔に落雷諸堂塔焼失、1809年中門焼失、1816年三昧堂再建、1820年中門再建、1834年西塔再建、1843年落雷西塔を除き全焼、1847年御影堂再建、1660年金堂再建、1883年准胝堂再建、1926年金堂・六角経蔵・孔雀堂全焼、1932年金堂7度目の再建、1934年西塔・六角経蔵再建、1937年大塔再建、1983年孔雀堂・東塔再建。建てて火事、再建して火事、再々建して火事、再々々建して火事、再々々々々々建して火事、火事、火事!



所要時間はさっくり観て回って2時間くらい。高野山に伝わる『両壇遶堂次第(読経しながら右回りに巡る)』に則って、番号順に参拝するよう紹介されている。9番と14番と18番はどうした!番号順にというわりに、境内の見取り図がないので場所が分からず、私も探さず。


[  
悪人面のおっさんハンター。じゃなかった!弘法大師高野山へと導いた狩場明神(高野山の地主神)。密教の根本道場の地を求めていた弘法大師が、山の中で道に迷っていると、狩人に化身した狩場明神が現れる、という場面。狩人が従えていた黒と白の犬の道案内により、天野の社で丹生明神に出会い、ご神領である「高野」を授かった。後に弘法大師は壇上伽藍に御社を建て、両神を鎮守の神として祀られた。


1)「中門(ちゅうもん)」

西の「大門」が高野山全体の総門であるのに対して、「中門」は淨域である伽藍を結界する重要な門。大・中とくれば! 高野山の門はこの2つで「小門」はなし。1843年(天保14年)の大火で焼失し礎石のみ残していたが、高野山開創1200年記念大法会に併せて、172年ぶりに再建された。東西25m、南北15m、高さ16m。鮮やかな朱色が目を惹く美しい門。祝・1200年!


[ 
持国天像と多聞天(毘沙門天)像は、1809年(文化6年)年に起こった火災で焼失。その後、1820年(文政3年)年に中門が再建され、二天王も新たに造立された。その23年後の1843年(天保14年)に、またもや火災に見舞われ中門は焼失するが、二天王は類焼をまぬがれた。



“通常ならざる目を持つ者”と言われる廣目天。確かに!こちらは現代の大仏師・松本明慶師の手により新造されたもの。胸元の蝉は、蝉が音を遠くへ届ける生物であることから、“威嚇”の姿勢を表現したものだという。カワイイーと思って写真を撮ったけど威嚇!いや、威嚇って聞きかなきゃ分かんないけど。


2)「金堂(こんどう)」

弘法大師の手により最初期に建設されたお堂で、平安時代半ばから重要な役割を果たしてきた高野山の総本堂。御本尊は秘仏薬師如来で、金堂再建時に高村光雲仏師によって造立された。


3) 「登天の松と杓子の芝(とうてんのまつとしゃくしのしば)」
1149年(久安5年)、明王院(※)の如法上人が、この松より弥勒菩薩の浄土へと昇天された。って誰に聞いたんだ!ちょうどその時、食事の用意をしていた弟子の小如法は、その姿を見てあわてて後追い昇天!当時はこの松の周辺には芝が生い茂り、昇天の途中に小如法が握っていた杓子が手から落ちてきたことから、杓子の芝と呼ばれるようになる。ってどんな話だよ!


(※)816年(弘仁7年)創建。高野山に於ける最も初期の寺院であったと云われ、ご本尊は日本三不動の赤不動明王の感得像(イメージ的なやつ)。弘法大師の甥の智証大師円珍和尚が、修行中に感得した不動明王の姿を、その余りの有り難さに自分の頭を岩に打ち付け、岩絵の具に頭の血を混ぜて写しとられたと言われている。自分の頭をカチ割るほどの有難さ!ご本尊の御開帳は4月28日。観たかったなー、ちっくしょー!


4) 「六角経蔵(ろっかくきょうぞう)」
鳥羽法皇の菩提を弔うため建立された経蔵。この経蔵に納められた紺紙に金泥(金を粉末状にしてにかわ水で溶かした絵具)で浄写された一切経(仏教の経典の総称)は、重要文化財として霊宝館に収蔵されている。経蔵の基壇付近に把手があり、一回りすれば一切経を一通り読誦した功徳が得るといわれている。らっく楽!


5) 「御社(みやしろ)」

弘法大師が819年(弘仁10年)に山麓の天野社から地主神として勧請し、高野山の鎮守とした。社殿は三つあり、一宮は丹生明神、二宮は高野明神、三宮は総社として十二王子・百二十伴神が祀られている。現在の社殿は1594年(文禄3年)の再建で重要文化財に指定。


6) 「山王院」

山王院とは地主の神を山王として礼拝する場所の意味で、御社の拝殿として建立された。現在の建物は1594年(文禄3年)に再建されたもの。


7) 「西塔(さいとう)」

弘法大師は大塔と西塔を大日如来密教世界を具体的に表現する「法界体性塔」として、二基一対で建立する計画だったが資金難で工事が遅れ、弘法大師ご入定後の886年(仁和2年)に、真然大徳によって完成された。1834年(天保5年)に再建。金剛界大日如来胎蔵界四仏が奉安されている。朱色の根本大塔より渋くてカッコイイ!


・「中門柱材の切り株」

西塔の裏側。中門建設のために伐採された樹齢374年の桧を、下層柱として使用している。


8) 「孔雀堂(くじゃくどう」

1926年に焼失し、1983年に弘法大師御入定1150年御遠忌記念事業として再建される。本尊の孔雀明王像は快慶作で、重要文化財に指定され霊宝館に収蔵されている。


9) 「逆差しの藤(さかさしのふじ)」
1016年(長和5年)に高野山へ上られた祈親上人(奥の院で千年燃え続けている、消えずの火のうちの1つを献灯した高僧)が、当時の荒廃した高野山の再興を誓い、「願掛け」として藤を地面へ逆さに植えた。しばらくして芽生えはじめた藤とともに、高野山の再興の兆しが見え始めたという。


10) 「准胝堂(じゅんていどう)」
973年(天禄4年)頃に建立。本尊の准胝観音は、得度の儀式を行う際の本尊として、弘法大師自ら造立されたと伝えられている。1883年(明治16年)に再建。


11) 「御影堂(みえどう)」

真如親王直筆の「弘法大師御影像」を奉納し、御影堂と名付けられた。地味だし観光客も全然見ていないなーと思っていたら、御廟と共に山上で最も尊厳を尚ぶお堂とのこと。なんと!そう聞くと急に立派なお堂に見えてくる。ホントか。残念ながら一般内拝が許されているのは、御逮夜法会(おたいやほうえ)の後のみ。


12) 「三鈷の松(さんこのまつ)」

密教の奥義を伝授された弘法大師は、帰国の際に真言密教を広めるにふさわしい場所を求め、唐の明州の浜から日本へ向けて、三鈷杵と呼ばれる法具を投じた。ダーツの旅か!するとたちまち紫雲たなびき、三鈷杵は雲に乗って日本へ向けて飛んで行った。



よく仏像が持ってるやつ。仏の教えが煩悩を滅ぼして、悟りを求める心を表す様をインド神話上の武器に例えて法具としたもの。


帰国した弘法大師は、狩人に化身した狩場明神から、夜な夜な光を放つ松があると聞き、唐から投げた三鈷杵が引っかかっているのを見つけ、この地を真言密教の修道場に決めたという。もはや伝承が神レベル!この「飛行三鈷杵(ひぎょうさんこしょ)」は霊宝館で見られる。


その松は三鈷杵と同じく三葉の松であり、「三鈷の松」として祀られるようになる。何度か植え替えた現在では落ち葉が縁起物として広まり、参詣者がお守りとして持ち帰る人気スポットに。そういう事ならば、落ち葉は雨でビッショビショになってるけど拾わなくちゃ!


帰宅後、拾った落ち葉を一度も見る事なくすっかり忘れていた頃。BSジャパンの旅番組『聞きこみ! ローカル線気まぐれ下車の旅』で、最終目的地が高野山の時があって、観光客から三鈷の松の落ち葉のお守り話を聞きこみした。ちなみにこの番組は面白いので絶賛お勧め!


で、ゲストタレントが30分探しても三葉の落ち葉はなく、フツーの二葉の葉だらけ。結局見つからなかった。うそー! この松の落ち葉なら何でもお守りだと思って、テキトーに最初に拾った葉を持って帰ってきた。二葉だったかも!多分、二葉だったかも!間違いなく二葉だったかも!



テキトーに拾ったのが三葉の葉で我ながらビックリ。


13) 「根本大塔(こんぽんだいとう)」拝観料200円。内部は撮影禁止

真言密教の根本道場のシンボルとして建てられた、高さ48.5mの日本で最初の多宝塔(下が四角くて上が丸い)。内部中央に胎蔵界大日如来、それを金剛界の四仏が囲んでおり、地下鉄構内のような太い16本の柱には十六大菩薩、四隅の壁には密教を伝えた八祖像(第八祖が弘法大師)が描かれ、堂内そのものが空海独自の立体曼荼羅として構成されている。鮮やかな朱色の柱と煌びやかな仏像がど派手!


14) 「対面桜(たいめんざくら)」
落雷で焼失した根本大塔を再建した平清盛は、大塔の桜の樹のもとで老僧に出会う。老僧は修理の礼を述べ、「ただし、悪行を行うことがあれば、このさき子孫まで願望が叶うことはないだろう。」と説き示され、その姿が消え失せたという。思いっきり脅してるんですけど! 清盛はこの老僧が弘法大師の化身と信じ、ますます信仰を深めたという。


15) 「大塔の鐘・高野四郎(こうやしろう)」
現在の銅鐘は1547年(天文16年)に完成した直径2.12メートルの大鐘で、日本で4番目に大きな鐘だっことから“高野四郎”と呼ばれるようになる。ホントかよ!


16) 「愛染堂(あいぜんどう)」

1334年(建武元年)、後醍醐天皇の勅命を受け、天下泰平と天子安穏を祈るために建立された。本尊は愛染明王で、後醍醐天皇の御等身といわれている。1848年(嘉永元年)に再建。


17) 「不動堂(ふどうどう)」

1197年に行勝上人(高野山一心院の開祖)の建立と伝えられている。鎌倉時代の和様建築で、平安期住宅様式を仏堂建築に応用したものとして有名。国宝に指定されている。


18) 「勧学院(かんがくいん)」
北条時宗高野山内の僧侶の勉学・修練のための道場として、金剛三昧院境内に建立。後の1318年(文保2年)に現在の場所に移された。本尊は大日如来。一般の立ち入りが禁じられている。


19) 「蓮池(はすいけ)」
江戸時代に度々干ばつが起こり、1771年(明和8年)に瑞相院の僧・慈光が、蓮池中央の島に善女竜王像(※)と仏舎利をお祀りした。


(※)干ばつが長引く824年、淳和天皇の命により弘法大師が祈雨したが一滴の雨も降らなかった。おかしいと思った弘法大師が調べると、その前にインチキ雨がバレて失敗していた法敵であり呪力強大な守敏僧都が、弘法大師の名声を妬んでの呪力の仕業と気づく。他人に雨を降らせないように出来るのなら、自分で雨を降らせる方が簡単そうだけど!


国中の龍神が水瓶に閉じこめられてしまっていたが、守敏より法力が上である善女龍王(頭の上に龍を乗っけてる八大竜王の一尊)が逃れているのを知って、天竺の池から呼び寄せ(ってどうやって!)国中に雨を降らせたという。そんなこんなで、かつて高野山で祈雨の法を行う時には、金堂に善女龍王の軸を掛けて祈願した。


20) 「大会堂(だいえどう)」
[ 
鳥羽法王の皇女・五辻斎院内親王が、父帝の冥福を祈るため建立。現在では法会執行の際の集会所的役割を担う。1848年(嘉永元年)に再建。


21) 「三昧堂(さんまいどう)」

929年(延長7年)に済高座主が建立されたお堂。済高師はこのお堂で「理趣三昧」という儀式を執り行っていたため、三昧堂と呼ばれるようになる。総持院から現在の場所へ移される際に、武士で僧侶で歌人西行法師が修造に関わったと伝えられる。1816年(文化13年)に再建。


22) 「東塔(とうとう)」

9度の熊野御幸を行った白河上皇(院)の御願で、1127年(大治2年)に醍醐三宝院勝覚権僧正(醍醐寺三宝院の初代座主)が創建。1843年(天保14年)に焼失し、1984年(昭和59年)に再建。


23) 「智泉廟(ちせんびょう)」
弘法大師の甥で37歳で亡くなった智泉大徳の御廟。


24) 「蛇腹道」
[ 
フツーに真っ直ぐな道だけど? と思ったが、弘法大師が竹ぼうきで蛇を払ったという伝説が残っているとか。いや、それがなんで蛇腹になるんだ。他には、お大師さまは高野山を「東西に龍の臥せるがごとく」と形容され、壇上伽藍を頭とするとこの小道が龍のお腹付近にあたるから、という説も。全然話がちがう!



こんな雨の降る日には、



出前箱型雨樋(勝手に命名)からジャバジャバ溢れ出る出る。