コトバノウタカタ

よしなしごとをつらつらとつづるばしょ。

チャイルドバッグ

昨日、チャイルドシートの話をしたので、それに関連して今回は「チャイルドバッグ」の話。チャイルドバッグというのは子供の鞄ではなく、自動車関連の用語だ。これは「チャイルド」と「エアバッグ」からなる造語で、子供を膝などに座らせた状態で事故にあい、子供がエアバッグのように親のクッション代わりとなって押しつぶされることを表現した言葉だ。ブラックジョークな造語ながら、それなりに世の中にも浸透してきている。それだけ、実際にチャイルドバッグの状態が発生しているということだろう。

実際に車に乗っていると、チャイルドシートを使わないどころか、「チャイルドバッグ」の言葉通り子供を親の膝に乗せていたり、子供が車の中で飛び跳ねていたりする車を見かける。そんな状態でもし事故にあったらと思うと恐ろしくて仕方がない。子供が自分の体に押しつぶされて死ぬのだ。あるいはフロントガラスを突き破って車外に放り出されて死んでしまうのだ。親の怠慢のせいで、助かったかもしれない命が失われてしまうのである。

事故なんてそうそう起きるものではない、という人もいるかもしれないが、絶対に事故らない人なんて世に存在しない。法を破ってまで、我が子を殺す可能性を高めるような行為をしていることは信じられない。

実際にチャイルドシート未使用時の死亡率は、チャイルドシート利用時に比べて4倍も高いらしい。にも関わらず、チャイルドシートの利用率は50%ほどにしか満たないようだ。大人が自らの判断でシートベルトを締めず死んでしまうのならまだいい。それは自己責任*1だ。しかし子供は違う。子供にはまだ自らの命を天秤にかけるような分別はない。その判断力のない子供を守ってやるのが、親の、大人の責務ではあるまいか。


確かに、チャイルドシートはけっこう高い。それだけのために数万円の出費をしなければならないことに躊躇するのはわかる。しかも事故らなければまったくの無駄な出費になってしまう。しかし、それを使っていれば、万が一事故ったときに子の命が助かる可能性が4倍に跳ね上がるのだ。数万円の投資でそれが叶うなら、むしろ安い買い物ではなかろうか。

法令が云々の問題ではなく、子の親としてこれだけは本当にきちんとした方がいいと思う。むしろ、チャイルドシートを使っていない親を見ると「あの人は子を殺したいんだろうな」と悪態さえつきたくなるほどだ。正義とか道徳とか臭いことはあまり言いたくはないのだが、こればかりはどうにも看過できない。

鳥取は全国平均よりもさらにチャイルドシート利用率が低いと聞く。実際にチャイルドシートを使っていない車を見る機会は多い。また身内を見ても、その意識があまり高くないことがわかる。うちの親や親類なども、子をベビーシートやチャイルドシートに乗せたときにグズっていると、「そんなの乗せなくてもいいじゃん」というようなことを言う。しかしこれだけは譲れない。私は自分の胸で子の頭をトマトを握るようにぐちゃりと潰すことだけはできない。


苦言ばかりを呈していてもアレなので、私なりに思うところを。チャイルドシートを選ぶときにまず重要なのは安全性。これに関しては、昨日も紹介したチャイルドシートアセスメント情報が有用だろう。しかしそれだけではない。私が重要だと思う点は「簡易性」と「快適性」。

簡易性は親にとって重要なこととなる。取り付けやすさ、子の乗せやすさが手軽でなければ、チャイルドシートを使う意欲が削がれてしまう。簡単便利かつ確実に子供を乗せることができれば、親も「面倒くさいからちょっとくら使わなくてもいいいや」となることも減るだろう。

いっぽう快適性は子供にとって重要なことである。チャイルドシートに乗った途端から延々ぐずっていたら、親もチャイルドシートを使いたくなくなってしまうだろう。どういうものが快適なのか、子供に聞くわけにもいかないので判断は難しいが、そういうデータも探せば出てくると思う。

情報収集に関しては、今はネットという便利なものがあるので、検索してみればけっこうあっさりと出てくると思う。チャイルドシートの評判、比較評価などを調べてみて、自分の子に合いそうなものを選ぶ。それがひいては「チャイルドシートを使う」気持ちを引き出してくれることだろう。

関連サイト

*1:この言葉、イラクの事件以来使い辛くなってしまった。

世界オカルト事典

世界オカルト事典

世界オカルト事典


いまなんとなく読んでいる本。トイレに入ったり、ゲームの待ち時間にちらっと開いたり、本当に暇で暇で何もすることがないときに開く程度なので遅々として読み進まないが、それでもなんとなくいつも手の届くところに置いている。

この本はもう10年くらい前に買った本で、先日実家に帰ったときにたまたまこの本が目についたので引っ張り出して持ってきた。以前もだらだらと読んでいてそのまま途中やめになっていたと思う。今度こそは最後まで読もう、というほどの気負いもないが、何度も同じところを繰り返して読んでいるのもバカバカしいのでなんとかしたいとは思っている。

この本、元は西洋で出版されたもののようで、悪魔や魔術、超能力などについて書かれている。比較的客観的に事象や人間の行動、考え方、歴史的経緯や体系などが記述してある。真偽を議論するのではなく、事象を淡々と記述するというスタンスを取っている。例えば悪魔などについては、悪魔の説明からはじまり、どのようにしてその悪魔が生まれたかの経緯なども書かれている。かといってオカルトを否定するわけではなく、微妙に考える余地を残した書かれ方がしているように思う。

以前にも少し書いたが、私はオカルトに対する関心が強い。信じるわけではないがそういう話を読み聞きするのは好きだ。なのでこの本のようなスタンスは割合しっくりくる。しかしまだまだ序盤。全部読み切るのにいったいどれだけかかるかわからない。

いのちの違和感


「いのちの はてなダイアリー*1」というはてなダイアリークラブがある。これは、落ち込んだり、精神的に疲れている人などに暖かい言葉をかけて励ましてあげよう、という趣旨のクラブだ。その趣旨についてはそんなに悪くないと思う。不特定多数の人間に励まされるというのがどういう励ましを与えられるのか私にはわからないが、人によっては効果的に励ましを得られることもあろう。はてなのネットコミュニケーションを上手く利用したシステムだと思う。

しかし私はこのキーワードにある種の違和感を感じている。その理由について自分なりに少し考えてみた。


まず気になっているのはこのキーワードが出来た経緯だ。いまでこそ励まして欲しい人が日記中に「いのちの はてなダイアリー」と書き込み、それに対してボランティアが励ましの言葉を書き込みに行く、という形式になっている。しかしこのキーワードが出来た当初は「死にたい」とか「つらい」などの言葉をキーワードにして引っ掛けて、それを書いた人の日記へ押しかけて励まそう、という趣旨のものだったのだ。まず「死にたい」やら「つらい」やらをキーワードで引っ掛けるということ自体かなり悪趣味だし、そこへ勝手に押しかけ励ましをするというのは問題外だ。実際に論争が起き、二転三転して現在のような「助けを求めた人の元へ励ましに行く」というスタイルになった。

趣旨が更新されたモノに対して、以前の趣旨を理由に文句を付けるのもどうかと思うが、しかし趣旨が変わったといっても以前の趣旨に対する印象が払拭されるわけでもない。私の中ではまだ以前の趣旨の悪印象が尾を引いている。


二つ目。たぶんこれが大きな理由なのだが、「いのちの」という肩書きが大仰過ぎるのだ。実際に「いのち」に関わるほど悩んでいる人がこのような形式の助けでなんとかなるとは思えないし、逆に「いのち」に関わるほどではなく、ちょっと励まして欲しい人にとっては重過ぎるタイトルだ。また命に関わるほどの問題を扱うにしてはこの形式は簡単で安易過ぎる。励ます側が下手な励ましをして事態を悪化させる可能性だってある。鬱状態の人に「頑張れ」なんて言ってしまう人なんかもいそうだし、逆に「死にたい」と言ってる人に「そう思うこともあるよね」などと言って安心感を与えてしまう人だっているかもしれない。専門的な知識のない人間が本当に追い詰められた人間に相対するのは危険なのではないだろうか。

「いのちの はてなダイアリー」のキーワード内には「自己責任で」との記述がある。しかし実際には誰がどうやって責任を取れるというのだろうか。この一句は、言い訳のために添えられた現実性のないもののように感じるのは私だけだろうか。


せめて、もっと適当なキーワード名であれば気にもならなかったかもしれない。「助けてはてなダイアリー」とか「はてなダイアリー相談所」くらいの名前にはできなかったのだろうか。そうすれば当初の悪印象も払拭でき、より趣旨に即した名前になったと思うのだが。

*1:リンク避けのためにスペースを入れている。