白い画用紙

10代のころは、白い画用紙を、自分の人生に例えたとしたら
ほとんど、まだ、しろいまんま、という気がしていて
だから、こわくて
だから、わくわくもして
だから、あまり、考えられない気がしていました


自分って?よくわからいということが
あるようにも思います
可能性がたくさんあるようにも、思えたり
自分が全然、しっかりできなくて、自分が全然制御できなくて
人を傷つけたりのくりかえし


いま50代になって、少しですが
仕事のしかた、自分がどんなふうに仕事をするのか
わかりかけてきたようにも、思います
画用紙のある部分はうまった、その画用紙に書いてきて
いままで、いいなというところを、もう少しましな、発展させた
というか、洗練させた、やりかたで、もう少し描いていくのは
できそうというところでしょうか?


そういうことで、少し不安は減りました
自分がどんなふうに、画用紙に向かうのか、そういうやり方が
見えたということで。


でも画用紙の全部が埋まることなんてない
いいえ、うめたくもない
画用紙のある部分、半分以上はやっぱり白紙においておきたい


10代のころと、いまとなにがちがうのか?
それは「向き合う」ということの、やりかたがわかったということ
大事な人と向き合い、大事なことを、やる
そういう向き合い方


人財育成ということが、ひとつ、自分の仕事の柱だと思っています
ひとつのやりかたは、スポーツのコーチをまねます


テニスで、いいストローク、いいボレー。ポジションのとりかた
などなど、コーチから、「いまのプレイがいいね」といわれます


この、ある作業、仕事、テニスでいえば、プレイのひとつが
「正解」なんだ。それをくりかえすことで、正しい技術が身に着くよと
教えるということ。これが、コーチの役割のひとつだと
思います


そのためには、自分だったら、社員の人が、赤裸々に自分の状態を
報告してくれるということが、大事だと感じています


プロジェクトで、テストの工程をやってるとします
そのテストは、どういう目的でやってるのか?自分はその目的を
理解しているか。またその目的を達成するために自分がやってる
テストのやり方は、最適だと評価できてるのか?


いま、数行で書いたことについて、「自分事」でいつも考えています
という技術者は、私は信用しますね


コンピュータの技術者について、いま、仕事が複雑になりすぎとか
スキルが必ずしも、マッチしない、自分の志向性ということが
そのポジションに必ずしも、マッチしないなど、あって
なかなか、「自分事」で仕事にあたるということが、割合と
して減ってるようにも、感じるのです


私が、このブログや、実務の報告の場面で、ときどき、スポーツの
場面に例えて、ある社員がやってることを、お互いの理解度を
高めようとして、やっていますが、そうしたこと、相手はどこまで
心に響くように、聞いてくれてるのか?
これも、常に反省のいることのように思います


私が、指導受けてる、テニスのコーチは、たとえ話が好きです
そのたとえ話、ちょっと「くどいな」と思うことがままあります


「ボールを打つやりかた、一番簡単なのは、フラットです。難易度が
あげて、スピンをかける、ということもあります
フラットとスピン、たとえるなら、ひらがなと漢字です
いくら、ひらがなのほうが簡単といっても、書きなれてなければ
ひらがなでも、うまく書けませんよ。漢字のほうが、書きなれてれば・・・」


などなど。言いたいことはわかりますが、たとえ話ってそんなに
有効でしょうかね?


じゃあ、自分は?
こういう反省はいつもしたいところです


画用紙は、まだまだ、白いところが残ってるようです