高杉晋作の「革命日記」

高杉晋作の「革命日記」 (朝日新書)

高杉晋作の「革命日記」 (朝日新書)

 高杉晋作が幕末に清国に行ったというので、どんなことを感じたのか知るために購入した。
 「遊清五録」という、上海で欧米列強の脅威を痛感した旅日記である。この時のことについては、以前紹介した丸山昇の「上海物語」(講談社学術文庫)で概要が紹介されている。1862年文久2年)4月29日に長崎を出港し、7月14日に上海から帰国している。高杉が24歳の時である。本の帯には「上海の地は、イギリスやフランスの属地といってよい」「わが国といえども油断してはならない」と記してあった。

 「遊清五録」は「航海日録(正・続)」・「上海淹留」という日記と、「内情探索録」・「外情探索録」・「粼陽雑録」という情報記録からなっているが、本書に収録されたのは、「航海日録(正・続)」。
 幕府の貿易視察に幕府役人の従者として乗り込んでいる。乗組員は水夫を含め51名で、その他にイギリス人操船スタッフ13名等がいた。
 阿片戦争でイギリスに敗れた清国は、南京条約と言う不平等条約を結ばされ、貿易の主導権を握られ、租界も出来ていた。
 5月5日呉淞江に到着し翌日上海へ。その第一印象を、「ここは支那第一のにぎやかな港である。ヨーロッパ諸国の商船、軍艦数千膄が停泊している。帆柱は林森として津口を埋めようとしている。陸上は諸国の商館の白壁が延々と続き、城郭のようだ。その広大厳烈なことは、筆紙ではとうてい表せない。」と表現している。
 勿論、現在とは比べようもないが、当時の江戸や萩と比べると、各段の賑わいであったろう。高杉が上海に行った時、中国では太平天国の乱の最中であり、銃撃の音も聞こえていた。
 5月23日の日記では、「すべての西洋人宣教師は教えを外国に広める場合、必ず医師を従えて来る。」そして現地で病み、かつ窮している者があれば救い、入信させる。これは宣教師が教えを広めるための術なのだ。わが国の士君も予防すべきだ。」
 高杉の日記を読むと、彼が主君に対して忠誠なことと、師である吉田松陰を敬愛していたことが深く理解される。テレビドラマや映画、司馬遼太郎が描いた高杉を私は知らない。
 江戸幕府がなくなる年の1867年(慶應3年)3月29日、そのことを見る前に彼は29歳の命を閉じた。



  岡山・吉備津神社 2003年3月8日購入




俚謡 (湯朝竹山人 辰文館 大正2年刊 1913年)から
○山々が高うて 彼(あ)の家(や)が見えぬ 彼の家可愛や 山憎や
○思ふ殿御が 野辺御座るなり 涼し風吹け 雨降るな
○狭い広いと 我が寝た部屋を 今は他所目(よそめ)で 見て通る