「子規漢詩と漱石 海棠の花」飯田利行と守大助の会で会報配達と集金

 12日(火)は夜に国民救援会徳島県本部委員会があったので、徳島市まで出かけ、守大助さんを支援する徳島の会の代表として支援の訴えを行った。20人余りの参加者で、皆さん入会してくれている頼もしい人達である。昨日(13日)は支援する会の事務局長と会報配達と会費の集金にいろんな団体を訪問した。15名ほどから集金できた。会費収入は会の運営を支える大事なもので、疎かにできない。この日の夜は我が家であわ9条の会の事務局会議があり、当面の行動を決めた。

 「子規漢詩漱石 海棠の花」(飯田利行 柏書房 1993年7月発行)を読んだ。2ヶ月に一回大阪地裁にB型肝炎訴訟の傍聴に行く。実は明日もその期日なので大阪に行くことにしている。我が家近くの土成から乗る高速バスは阪急三番街で停まるのだが、近くに「阪急古書のまち」があって、時々立ち寄る。本の中に領収書が挟まれていた。購入した(稀珍堂書店)神器のは2014年7月25日で、1,600円であった。
 著者の飯田利行は禅僧で高名な学僧である。いつかも紹介したが、彼は私の高校時代の漢文の先生であった。先生のことについては私が自費出版(2008年5月)した「孺子の牛(じゅしのうし)」で何度か触れている。「起承転結」(2004.10.18)「正法眼蔵随聞記」(2004.10.18)「高校生と正法眼蔵随聞記」(2004.12.24)である。
 ウキペディアの一部を引用しよう。飯田 利行(いいだ りぎょう、1911年1月7日 - 2004年[1])は、曹洞宗の僧、仏教学者、音韻学者。群馬県佐波郡赤堀村(現伊勢崎市)生まれ。1936年東京文理科大学漢文学科卒、駒沢大学専任講師。1940年京都東方文化研究所助手。1941年駒沢大学教授。1954年「日本仏典の表白諷誦に残存せる中国近世音の研究」で東京教育大学文学博士。1966年専修大学教授。1980年二松学舎大学教授。1985年『定本湛然居士文集訳』で日本翻訳文化賞受賞、95年仏教伝道文化賞受賞。全長寺住職、総持寺顧問。
 この経歴には書かれていないが、先生は私が学んだ東京都立田園調布高校で1954年4月から65年3月まで教鞭をとっていた。私が在学したのは61年4月から64年3月までであった。この時に曹洞宗道元の弟子の懐奘(えじょう)が書いた「正法眼蔵随聞記」についての読後感を夏休みに書くよう宿題が出された。後年生徒の感想文をまとめたのが「高校生と正法眼蔵随聞記」(邑心文庫 2001年)であった。
 先生は、「子規漢詩漱石 海棠の花」の「はしがき」にこう書いている。「子規、漱石の詩には、和漢洋にわたる蘊奥が凝縮されているので読めば読むほど妙味が湧いてくるはずである。」この時代の人にとって、和漢洋の学を身についけることは必須要件であった。子規と漱石の手紙のやり取り、漢詩や俳句のやり取りが書かれており、二人の交友がいかに深かったが理解されるのであったようだ。二人は多くの漢詩を書き残している。子規の俳句、漱石の小説だけを見ているだけでは、その書かれた背景や深みが理解されないのである。
 本書の冒頭の漢詩は、子規が12歳の時に書いたという。紹介しよう。脱帽である。
  聞子規
 一聲弧月下
 啼血不堪聞
 半夜空欹枕
 古郷萬里雲
 
  子規(ほととぎす)を聞く
 一声 弧月の下
 血に啼き 聞くに堪えず
 半夜 空しく枕を峙(そばだ)てば  
 古郷は 万里の雲

 空には一輪の月、地には子規の声。血を吐くような切ないその啼き声は、哀しく響き聞くにたえない。真夜中に、枕から耳を外してそばだてて、じっと聴き入れば、ふと万里も遥かなる故郷のことがしのばれてきた。

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 湯浅竹山人編「粹の懐」昭和2年(1927年)12月発行
◯仁義五常によしはづれても、立(たつ)るみさほは外にある。
◯あつき二人が恩ある人に、禮もいはれぬ此のしだら。
◯風を引たといふてはいれど、むねに覚への聲がはり。
◯親の落した初雷りに、しばし逢夜の道がたへ。
◯いやな人をば去(いな)せるやうと、立た箒木(ほうき)が主にまで。