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2012-01-02

2011年のしめくくりと明けましておめでとう

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2011年のうちにあげたかったのに全然間に合わなかったので苦し紛れにこのタイミングでアップします。ところどころ時制が変ですが、三が日は三秒ルールを提唱したいので気にしないでください。


2011年はあの地震ではじまった訳でもないのに、つい3月の地震を最初に考えてしまいますね。

地震後、被害の報道を受けてアップしたものすごく好きな水族館アクアマリンふくしまのことを書いたエントリを色々な方に読んで頂きました。
よみがえれ。 - tetzlgraph てつるぐらふ


その影で実は義理のご主人様(というまあ、にゃんこさんなのですが。いいお年でした)が亡くなったりもして、暫くお会いしていなかったのもあって結構ショックな日々を過ごしておりました。
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在りし日のお姿。ひゅー姐さんかっこいいっす。
実は毛むくじゃらの連中と生活を共にしたことがなくて(一夜を共にしたことは何度かある…って何この言い方!)まだまだこれからだと思ってたんですけどねえ。


また原発事故の件では、4月に

とかtweetしたりしたのですが、現実は残念な方向に行ってますよね…


5月には川端裕人さんのtweet六本木まで「見えないモノへの不安と向き合うセミナーを聞きに行きました。
あとid:doramaoさん、id:ebi_j9さんとお会いしました。思えばはてな経由とかtwitter経由の方にお会いしたのがこれが初めてでしたが、楽しく科博を見て楽しく焼きトンを食べました。モフモフ会写真分科会@国立科学博物館 - tetzlgraph てつるぐらふ


7月には東北に旅行しました。
2011 東北旅行 その1 東京→青森 - tetzlgraph てつるぐらふ
2011 東北旅行 その2 青森県 青森市浅虫→十和田→奥入瀬 - tetzlgraph てつるぐらふ
2011 東北旅行 その3 青森→福島 - tetzlgraph てつるぐらふ
2011 東北旅行 その4 アクアマリンふくしま - tetzlgraph てつるぐらふ
年賀状にはアクアマリンふくしまシイラを下から撮った写真を使いました。辰年?関係ないね!!


8月にはアクアワールド大洗にいきました。
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風評被害のせいでお客さんが前年比半分くらいとのことでしたが、この日はお盆真っ只中だったので混雑していました。
あと日赤東京都支部の「災害救護セミナー」というのを受講しました。2日間コースで炊き出し実習とかトランシーバ実習とかロープワーク実習とか搬送実習とか楽しかったです。
あと上野の夜の動物園に何度か顔出しました。仕事帰りに寄ってビール呑んだりね!


9月はid:ohira-yさんにtwitterで呼び出されて(笑)科博に恐竜展を見に行ったりしましたねえ。
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最後に上野バールで食べたマッシュルームのアヒージョが旨かったですねえ。(あれ食べ物のハナシが多いぞ)
現場を離れたのに名残惜しげに分析展なんか行ってみたりとかもして。
三十路クラスチェンジした日は妻と多摩動物公園デートしました(きゃは)


10月はtwitterで募集があった千葉市動物公園でのアフリカブッシュミートのトーク会に顔を出したり、日赤千葉県支部で救急救急員講習を受けたり千葉づいておりました。大学学祭にも行ったけど。


11月は帰省をして義実家の近くでまさかの人生初のヒルに噛まれる体験を orz。月の後半にはサイエンスアゴラ2日コース。


12月はMake:tokyo meetingへ。
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She's a Rainbow


翌週には仙台出張があったのをいいことにid:Poisonous_Radio さんとご飯を食べました。で延泊して松島水族館に行ったり。
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時間があったので仙台空港の方に出て津波の被害を受けた地域を歩きました。
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色々思うところあったのですが、まだ語るべき言葉が見つからない感じです。ただ、(こういう言い方は変ですが)実際に行ってみて良かったなとは想いました。

それから、科学未来館のイベント「「科学者に言いたいこと、ないですか?」 - tetzlgraph てつるぐらふ」を聴きに行ったり。
参加者の方にコメント頂いたりと予想外に反響があって感激致しました。


12月30日には年の瀬アクアマリンふくしま参りもしてきました。
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おみやげとスタッフさんに頂いたセイウチストラップ



とまあ色々まとめていると、まああんまりダイアリに書けてないことがおおくて反省です…2012年はもうちょっとアウトプットがんばろう。


2011年は、アゴラとかMakeとかもあって、id:doramao さん、id:ebi_j9 さん、id:ohira-y さん、id:Pines さん、id:yu-kubo さん、id:buhikun さん、id:kubohashi さん、タカハシ氏、id:yamagatamyclus さん、id:sun-and-moon さん、id:chochonmage さん、id:T-3don さん、id:norton3rd さん、id:Poisonous_Radio さんたちにお会いできました。他にtwitter関連の方々にもお会いでき、ただただ、多謝。


自分はおバカなこともしょーもないことも大好物であんまりストイックなのは向いていないので、2012年は相変わらずゆるゆるとやっていきたいと思いますのでどうぞまたご贔屓に…
早速の地震で幕を開けた2012年ですが、今年こそは/今年もどうぞ皆様に両手に余る幸せが訪れますように。なむなむ。


最後に、震災から半年くらいのタイミングでpostしようと思っていて、まだ出せていなかった震災回顧エントリがありますのでそれもついでに載せておきます。長いので一応畳んでおきますが…。



震災回顧

元食品系分析技術職の現バックオフィス勤務、マッチョでもモヒカンでもない人間の記録

発災当日

地震が来たとき、別の部署の人と立ち話をしていました。
ぐらっときて、とりあえず天井を確認して蛍光灯のないところにそっと移動していたら大きな揺れになり、「あちょっとまずい」と思って今度は柱の近くかつ梁の下は避けたとこに動いて、と揺れに耐えて。
今まで人生に二度(阪神大震災@中1、福岡西方沖@社会人1年目)震度5程度の大きな地震に遭ったけど、どちらも寝てる時に起きたもので起立状態の大きな揺れ経験というのは科学館の地震体験くらいしかなかったのだけど、思ったより冷静な感じでした。

揺れが落ち着いてから職場のテレビをつけて。揺れが長かったし、数日前にも大きな地震があったこともありたぶん東北だろうとは思ってた。東北にある支店にも部長から連絡取ってもらったりしながら、テレビを見ながら余震に怯えていたところ、徐々に津波の映像がテレビから流れはじめました。食品系の仕事をしているので、よく知った顧客企業のタンクが流されていくのを無言で、悲痛な面持ちで見るしかなくて。一緒にいた役員なんかも東北勤務が長い人が多く、皆一様に絶句してテレビを見るだけの時間。
採用関連の業務もしているので、4月から採用になる内定者の学生さん(一人仙台近辺に住む東北大の学生さんがいてものすごく心配した)に祈るような気持ちでメールを送ったりしながら。

その後も強めの余震があったりしたため、もう業務どころじゃないので泊まりこむか歩いて帰るかということになりました。
自分は休みの日に何度か自宅から職場近くまで2-3時間歩いたりしていたので(もともとカメラとiPodがあればかなり歩ける自信がある)当然徒歩帰宅しようといそいそと帰り支度をしながらtwitterで生存宣言とかして。
携帯とiPhoneを充電しつつ、かばんの中身は極力減らして(何のためかはわからないけどいつも入れてるラテックス手袋一双と人工呼吸用フェイスマスク+バルブはいれたままにして)、本とか全部置いて、上履きにしている鳶職シューズ(「親方寅さん」的なホームセンターで1000円くらいで売っているやつ。技術職時代の時から履きつぶしては買い換えてしている)をかばんに入れて、革靴の靴紐をきゅっと締めていざ帰宅。

外に出ると大通りの歩道はすごい人でした。関西人なので巡航速度は7kmくらいだからペースが合わず、閑散としている裏通りメインで歩きました。ところどころガラスが降った跡、外壁が剥がれた跡にびびりながら、極力道路の真ん中を歩きながら。途中大通りの交差点ですれ違う人を観察していると、しっかりヘルメットをかぶってる人、ヘルメットを邪魔くさそうに持っている人(福岡ビルガラス窓落下映像を繰り返し見せられた人としては余震が来てガラス降ってきた時にメット被るのは「かぶって叩いてじゃんけんぽん」の世界チャンピオンでも難しいと思うんだけど)、寡黙に歩く人、同僚と楽しそうに喋ったり笑ったりしながら歩く人(体力消耗するぜ)、様々でした。
新橋銀座日本橋東日本橋と抜けて。途中「錦糸町はどちらの方でしょうか」というおじさんにざっくり説明をしたりしながら。

裏通りを快調なペースで歩いていったものの、隅田川を渡るところはさすがにどうしても大きな通りに出ざるをえなく、両国橋に向かうとすごい人。フラストレーションを溜めながら遅々とした流れに身をまかせて隅田川を渡りながら川面を見たら、普段は水のない川岸の遊歩道の上まで水面があり、普段の流れより速い勢いで水が…逆流していました。東北の人とは比べ物にならないのだけど、あれが初めて見る津波でした。津波の怖さというのはそれこそ「地震のひみつ」やなんかでそれなりに知っていたのですが、実際に見ると本当に身の毛がよだつような気分でした。何人かカメラを構えて水面を撮っている人がいた以外は特に誰も見ていない川面でしたが、あの真っ暗な流れはちょっと忘れられそうにないです。

両国橋を渡りきり、すぐに大通りから裏通りに入り、またひとりで黙々と歩いて。途中緊急地震速報が入ったので、ちょうどあった横網公園の中に入ってやりすごしたりしながら。スカイツリー*1フライバイするようなルートで歩いて。地震産業活動が殆ど止まったせいか、すごく澄んだ空で、月とスカイツリーがとても綺麗だったことを覚えています。というか見惚れて歩いていたら違うとこ歩いていてだいぶ遠回りしてしまってました。

上がりっぱなしの遮断機を越え、さすがに徒歩の人は減り、かわりに渋滞している橋を渡り、緊急車両しか走っていない首都高の高架をくぐりして、ようやく帰宅。途中twitterで連絡とっていた妻もやっぱり安心した様子で。

適当にお風呂に浸かり、ご飯を食べたりしていたら、妻が「友達が◯◯駅から動けないってmixiボイスに書いてる…」と言うので、そこだったらまあそんな遠くないしうち来てもらうか、ということになり、メールしながら回収準備をして、ランデブーポイントの連絡をして拾いにでかけました。さすがにチャリんこで。お互いに携帯の電池がきわどいながら、無事に合流してそのままてくてくとうちに向かって三人で歩く。途中のセブンイレブンに寄ったら食事系のものはおにぎり・パンに至るまで見事になにもなかった。
うちに着いたら、冷凍ほうとうがあったのでとりあえずそれをこれでもかとあっつあつにして食わせて、お風呂に入ってもらい。その後はみんな寝付けずだらだらと3人で4時過ぎまでテレビをぼんやり眺めていました。漆黒の闇の中、広範囲にわたって燃える気仙沼や、時折流れる、どこか行ったことのない地区の「孤立」「生存絶望」「壊滅」というテロップの文字に、息を殺して見入りながら。

発災翌日以降

土曜になり、早くに動き出した電車に乗って妻の友達は帰っていき、それからはでもやっぱり何をするでもなくテレビをぼんやり眺めて過ごし。歩いて帰った割に筋肉痛も別に出なかった。昼過ぎ福島第一原発の建屋が吹き飛ぶ映像も、なんだかよくわからないぼんやりした目で見つめて。
妻と二人で子どもはいないのもあってか、何かを買いだめするとかは全く思い浮かばなかった。ただ、風呂の水だけは貯めておくかという感じ。
日曜は、週明けが大変そうだと思ったのでちょっと職場に出て東北の職員リストを作ったりしました。


翌月曜。いつもより早い時間に駅に向かったら、すごい人。電車のダイヤは乱れまくりで、「なんでみんなそこまでして会社行くかなー」とか思ったり。当然自分のことは棚にあげてですけどね。とりあえず遅刻してもいいやーと待って、来た電車に乗ってたら、ひと駅ごとの停車時間が長いこと長いこと。で、途中にある乗り入れの駅で長いこと止まっているうちに放送で「当駅で折り返しになります」。まじでか!

なんかもういいやーと思って、職場に電話してそのまま一旦帰宅して服を着替え自転車で出勤することに。一応この状況で事故ったら通勤災害かどうか微妙だと管理部門スタッフらしい判断をし、まずは近所にある大きめな自転車屋でヘルメットを購入。会計する横で「自転車をお買い求めの方はこちらにお並びください!整備後のお渡しになりますので1時間以上かかります!!」と叫ぶ自転車屋のお兄さん。
で、改めて国道をまじめに自転車を漕ぐ。これがまた、人ごみで身動きとれない電車に乗った直後だから爽快なこと。ああ、人はこうやって自転車通勤にハマるんや…と思いました。(結局それ以後一度も自転車通勤してないけど(笑))
タイヤの空気圧があまり高くなかったので後半バテたので、日本橋の小さな自転車屋さんで携帯型のエアポンプを購入。そのときも「自転車の在庫ありますかー?」とサラリーマン氏が来ていた。「うちは即納品ないよ」とあっけなく断られていましたが…

寄り道込みで1時間半ほどで職場に到着。意外にも半分くらいの人が来ていて「この社畜どもめ…」と思わないでもない。
仕事自体は東北の対応と、金曜を泊まった人たちの苦労話を聞く係で、東北対応も支社のインフラがダウンしているためできることは限られていました。幸いにして社内の人的被害は無かったので安堵の溜息ひとつしてから人は無事でしたのニュースリリースを作文して。
また、嬉しいことに東北内定者さんから皆無事の連絡が入っていて、メールの返事を見た後しばらく机に頭を乗せて「はあああ、良かった…」とぶつぶつ呟いたりして怪しかったけどみんなおかしくなってたのであんまり気にもされなかった。

その日は「日が暮れるまでに帰ります帰らせて下さい!」と高らかに宣言して5時前にとっとこ帰る準備をして、タイヤに空気を入れて帰りました。荒川河川敷をメインで走って帰ったら爽快だった。

それから2週間ほど、電車のダイヤは乱れるし激混みだしでほとほとイヤになりながら通勤をしながら日々を過ごしました。内定者さんの中には家財の搬出が間に合わないという連絡も受けて色々相談したり手配を掛けたりしていましたが、それはやりがいのある仕事の部類で。

4月以降

4月になり、新人さんたちが入社式にやってきて。バックオフィス勤務になって4度目の入社式だけど一番感慨深かったな。その宮城に住んでいた子と懇親会で話してたら「うちの家族はみんな無事だったけど親戚で見つかってない人もいるんですよね」「家族が公務員ばっかりなので配給の時に並べるのは自分しかいなかったんです」「採用辞退しようか本当に悩みましたけどあの時◯さん(僕のこと)に色々相談のってもらって、ああ4月からここで仕事をしようって思いました」とか色々言われてこっちも本気で泣きかけた件。言葉ってこわいけどすごい。

「不安と向きあう」

5月には川端裕人さんのtweetで「見えないモノへの不安と向き合う」セミナーに参加したり(すごく勉強になりました。感謝!)、2月くらいに妻(医療職)の本選びについて行って気になっていた

っていう本を国会図書館に閲覧しに行ったりしました。自分自身は一応理系大学に通いアイソトープ論も習ってきましたし、食品リスクはだいぶ勉強していたので不安はなかったのだけど、「世の中の不安」を自分なりに飲み込むにはどうしたらいいのかな、と思っていました。
もちろんその本は放射能汚染に直接関係ないテーマですし、そもそも先天異常放射線被曝はイコールで繋がるものではないですが、それでも「何らかのリスク(ないし不安)をはからずも受け入れざるを得ない状況に陥った場合」というのは通じるのかな、と思って。あるいは、空間線量やホールボディカウンタと出生前診断の相似性とか。

「病気の赤ちゃんが生まれる」のではなく「生まれてくる大事な赤ちゃんに病気がある」という視点でかかわれたら、何かが少し変わるかもしれないという気がしています。

はじめに、でこんな文章が入っている本です。現場の空気が(たぶん)詰まった良い本です。

 胎児異常を告知された母親に対して、私たち看護者にできる支援は何だろうか。かつては不安の軽減と赤ちゃんの受容を促すことが主だった。不安を取り除くことは容易ではないが、母親や家族が赤ちゃんの疾患を理解したり、思いを表出できる場をもつことで、多少の軽減につながるであろう。しかし、母親に赤ちゃんの受容を促すことを看護目標とするのが、適切な支援なのであろうか。おそらくいちばん赤ちゃんを受け入れたいと苦しんでいるのは母親なのではないか。疾患によって赤ちゃんが感じる苦痛やこの先続く治療、そして赤ちゃんの将来を案じ、赤ちゃんに与えてしまう苦しみを申し訳なく感じているのかもしれない。また、今まで営んできた生活環境が、疾患を有する家族を迎え入れることで180度変わってしまうかもしれないと危機感をもっているのかもしれない。そして何より疾患を含めた”わが子”のすべてを手放しで喜べない自分に、”母親失格”という烙印を自ら押してしまうのではないだろうか。そんな母親の思いに、私たちはどこまで寄り添えているのだろうか。
 苦しみのなかにいる母親に対して私たち看護者ができることは、おそらく自分たちが望むほど多くはないだろう。不安や苦しみのなか、小さな命を育むつらさは私たちの想像を超えるものであろう。苦しむ母親にそっと伝えたい。今あなたが感じる苦しみは、まぎれもなく大切なわが子を愛しむ”母性”からきているものだということを。大丈夫、あなたは立派な母親であり、私たちは母親であるあなたを信じていることを。いつも母親に寄り添い、その思いを静かに受けとめ、かけがえのない母性を支えていくことが、私たち母子看護に携わる者の大切な役割だと信じたい。


先天異常を指摘された両親にとって、疾患の重症度とその不安は比例しない。どんな疾患であろうと、赤ちゃんに何かが起こっているという事実は存在する。

なぜこの程度の疾患なのにそんなに不安に思うのか。そう思うのは私たち医療者の疾患に関する勝手な思い込みである。私たちのそんな態度が、不安を増強させたり、不信感につながることもあるだろう。赤ちゃんの疾患を告知された家族は、悲しみ、悩み、そして”覚悟”する。疾患にかかわらず、そのようなプロセスを家族がたどることを知ることは、母親や家族に寄り添う重要なポイントとなるだろう。どんな軽症であろうと、”その程度の疾患”とはとらえず、母親の不安に耳を傾けていくことが必要となる。


先天異常を告知された両親がもっとも心配することは、赤ちゃんの将来なのではないかと考える。逆に疾患を有していても”普通に”生きられる、生活できると言われれば、その不安も多少軽減されるのではないかと感じる。両親が心配する”普通”とは、普通に幼稚園や学校に行けて、普通に結婚し、そして(女児であれば)妊娠・分娩ができることである。そんな当たり前のことができるのか、できないのか、このことをとても大きな問題として両親はとらえているだろう。それは赤ちゃんを一人の人間と考える、両親の自然な心配なのではないだろうか。赤ちゃんが成長し、自分たち両親は老いていく。自分たちがいなくなっても、一人で生きていく力があるのかどうか、親として当然の心配であろう。そのような両親の言葉を聞くと、疾患だけを先行させ強調して考えているのは、私たち医療者ではないのかと気づく。
 両親の、当たり前でいて、もっとも赤ちゃんのことを考えている質問に対して、置き去りにせず寄り添うことはとても大切であろう。どんな場面においても、両親を十分安心させられるような説明は難しい。しかし、両親の思いをくんだ医療者の態度は大切である。私たちは、両親が赤ちゃんの疾患だけでなく、一人の人間としての成長についても深い思いを寄せていることを十分意識しかかわっていかなくてはならない。
 赤ちゃんを一人の人間として尊重する医療者の言葉や態度は、両親にとって心の支えになるであろう。繰り返すが、病気の赤ちゃんではなく、”大切な赤ちゃん”に病気が見つかったのである。私たち看護者は、医師と両親の間に立ち、両親が赤ちゃんの情報を正しく理解できたか、偏った認識をもつような用語や説明はなかったか、そして赤ちゃんへの思いを医療者に伝えられているかを注意深く観察し、支援していく重要な役割を担うことになるだろう。


すべての情報を中途半端な状態であからさまに伝えるという思慮に欠ける姿勢は、すべての情報を伝えないという思慮に欠ける姿勢と同様に有害と考えられる。したがって「悪い知らせ」を伝えるためには、だれが、どのタイミングで、どのように説明するかを十分に検討するべきであろう。


強い罪悪感や不安のもとでは、疾患に対する正しい理解や情報を利用して自立的に行動を決定することなど不可能であろう。


先天的な異常で発生の因果関係が明らかなものは多くないはずだが、生命を育んだ母は自分を責め、また、日々の生活での緊張は養育の中心である母を追い詰め、虐待発生のリスクを高める。先天異常をもつ子どもはすべて虐待リスクを有していることを、私たちは自覚し、継続的で徹底的に親を支援する姿勢を貫くことが重要と考える。
児童虐待をする親たちは、みんながみんな特殊な生活をしてきた無責任な人たちではなく、子どもを愛そうとするあまり、子育ては「…ねばならない」「こうあるべき」との考えに縛られて自ら孤立感を抱え込む人たちも少なくない。


MacBookAirを持ち込んで色々メモしました。
大学の時からの友人は福島に住んでいますがバリバリの地学屋さんなので(笑)直接誰かの不安に語りかける機会はないんですが、それでもなお「科学を学んだ人間が何を語り得るのか」という点で何か思っていたところがちょっとずつ可視化されていくような気がしました。


そして

そして地震からだいぶ経ちました。日常生活としては電気をちょっと節約するくらいですが、原発事故を考えてみるとまだまだ「始まったばかり」なのでしょう。震災を超えて、私たちは何を自覚して何に無自覚で、何に寄り添って生きていき、何に腹を立て、何に共感し、何に涙を流すのか。あるいは地震以外に何を見て何を感じ取るのか。そういうことを否応なしに意識しなくてはいけない状況に立たされている感じがあります。おそらくエネルギーをかなり使うことでしょう。せめて、うまく折り合いをつけて生きてく術を身につけたいと思います。

*1:下から見上げながら大丈夫かなと思ってましたが、その後NHKでドキュメンタリやっているのをみたらすごい揺れていて現場の人たちほんとすごいと思った

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