[]resourceの数がデータベースの限界を決める


ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む (ちくま学芸文庫) を読んで、T字形ER手法は 論理哲学論考 (岩波文庫)インスパイヤされて生まれた、ということの意味が分かってきた。

論考が世界を分析する道具立てが、やたらとRDBに似ているのだ。

論考というのは「我々にはいったいどれだけのことが考えられるのか」を明らかにしようとする本。そのために論理空間なる概念を出してくる。

論理空間は我々に理解可能な全ての事態の集合であり、その空間の外にあるものは人間には考えることはできない。だから、論理空間が思考の限界を示す。


論理空間の作り方は以下の通り。

ここから、論理空間の広さは、対象の数で決まってくることが分かる。

これは当たり前の話で、

という程度のこと。


で思ったのが、resouceに別のresourceまたはeventを掛け合わせて新たな対照表を生成する、というT字形ER手法の手続きが、上記の論理空間の構成手順みたいだということ。

論考とT字形の用語には、大体以下の対応があるように見える。

論考T字形
対象resource
事態対照表(event)
論理形式スキーマ

これが合ってたら、対象の数が思考の限界を決めるように、resourceの数がデータベースで表現できることの限界を決めているということになる。

ポイントはデータ項目数が同じでも、とにかくresourceをばらしていけば限界が広がっていくということ。

例えば普通の顧客マスタでは属性として扱われる「苗字」「メールアドレス」といったものをresourceとして分離すると、それらに関するeventを生成する可能性が開ける。まったく具体例が思いつかないけど。


対象はその論理形式によって参加できる事態が限定されている。だからresource同士を総当りで組み合わせてみたところで意味のある事態(event)はなかなか出てこない。

ましてビジネス上の意味のあるeventなんてなかなか発見できるものではない。苗字とメルアドの対照表を作ってみたところで「ドコモユーザには佐藤さんが多い」とか、どうでもいいことしか分からない。

が、データベースの可能性を最大にしておくためには、極力多くのものをresourceとして独立させなくてはならない。

T字形で「eventよりresourceが多いほうがよい」といわれるのはなぜか。みなしentityという「SEによって作図の異なるもの」がなぜ必要なのか。そういうことの理由がこの辺りにありそう。

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