「レコーディングの方法や、プレス、宣伝、流通に至るまで、ゼロから学んでいったんだ」(山口洋)

1989年、福岡・都久志会館での上京前、最後のコンサート

―――渡辺圭一さんがベースとして加入して、その頃から山口さんがヴォーカルもとるようになったんですか?
山口洋 圭一がベースを弾くようになって、ある日、ヴォーカルがライヴの前の日に辞めたんだ。それでオレが歌うようになった。好むと好まざるとに関わらず。
まさか、自分が歌うことになるなんてまったく考えてもみなかったよ。自発的、あるいは能動的なシンガーではない訳だから、苦労したねぇ。
―――1985年に初の録音作品としてアナログLP「36°5」、87年に「MY LIFE」をリリースしていますが、この時期はまだ福岡ですよね? 現在はレコーディングの方法や、CD−Rという記録媒体、インターネットなどによって、作品を発表するというハードルもそんなに高くはなくなったと思うのですが、当時、福岡でアナログレコードを出すということは、レコーディングや流通など、困難ではなかったんですか?
山口洋 最初のアナログLPは本当の自主制作。みんなで金を出し合って作った。プレスされて、初めて自分たちの音がプレイヤーから再生された時の感動は忘れないよ。
「My life」は地元のレコード店が費用を全部出してくれた。 今では考えられない話だよね。でも、そんな人たちがあの街には居たんだよ。レコーディングの方法や、プレス、宣伝、流通に至るまで、ゼロから学んでいったんだ。その頃は既にレコード会社からたくさんの話があったんだけど、どうにも業界臭くてね、好きになれなかった。できるだけ独立した形で、 活動しようと思ってた。自分たちで作った事務所(のようなもの) には好きで集まってくるスタッフがたくさん居てね。オレはそこでみんなのために毎晩食事を作ってた。イギリスのインディーレーベルからいい音楽がたくさん出てきてね。そこからアルバムをリリースして、逆輸入しようと企んでた。
―――福岡以外の九州他県にもツアーに出ていたんですか? 当時のバンド状況を教えてください。
山口洋 86年くらいには日本中ツアーをしてたと思う。まぁ、信じられないくらい、貧乏だったけどね。でも福岡でどんなに人気があったとしても、東京に移住しない限りは、各地で名を上げる必要があった。 面倒だったけど、結果的にそれが俺たちを鍛えたんだと思うよ。
―――89年に「歳月の記録」をリリース。これは最初からCDで発売ですよね? この年10月の福岡・都久志会館でのライヴを最後に上京したそうですが、当時の心境を教えてください。
山口洋 結局、力尽きたんだよ。音楽業界に抗うことに。オレは25歳になっていて、慢性の栄養失調だった。体重は49キロしかなかった。身の危険を感じてた。で、寄らば大樹の影って訳さ。いくつかのレコード会社に絞り込んで、中でもソニーは丸山さんって人が社長でね。素晴らしかったんだ、彼は。「お前らは5年間好きにしていい」ってさ。だから、彼の目と言葉を信じて契約した。
「歳月の記録」は実はソニーが金を出してるんだけど、そのとき俺たちはレコーディングで初めて「飯」を喰った。忘れもしない「カツ丼」だったな。美味かったよ。それまではレコーディング中に飯を喰うなんて、あり得なかったんだ。不眠不休だよ。そして、福岡で最後のコンサートをやって、トラックに乗って上京した。 「あぁ、野麦峠」みたいな光景だったな。今考えると、そのコンサートにはたくさんのファンが来てくれたよ。NHKのドキュメントになり、FMは特番を組んでくれた。終わったら、札束が積み上がってるのを初めて観た。殆ど1000円札だったけど。 それで、お世話になってたスタジオの借金を全部返して、スタッフ50人を連れて、3日間飲み続けた。すっきり金はすべて使い果たして、上京したんだ。
(※続きます)