「実はデビュー当時のひっどいPV、あるんだけど。それだけは流さないでくれって懇願したよ。だって、演技は出来ない、歌ってるフリもできない。音楽をやるしか能がない。そんなバンドだったからね」(山口洋)

1990年、デビュー時のアーティスト写真

―――ここでちょっとヒートウェイヴ30周年史からずれてしまうんですが、「歳月の記録」(89年)は廃盤になっていたのが、2004年に細海魚さんによるリマスタリングで再リリースされました(→)。80年代のCDはいまそのまま聴くと音が小さく感じますよね。
山口洋 CDに収録することができる容量ってのは有限で、マスタリングって作業はそれを流れの中でどう使うかってことなんだけど。最近の音楽は音を詰め込みすぎなのね。ユーザーもそれに慣れすぎてて、例えばipodに古いCDを入れたりすると、レベルや音圧が低く感じたりする。個人的にはオレも細海魚もそんなパツンパツンの音が好きではないので、ジレンマを感じながら、作業してるんだけどね。
本当の事を云えば、弁当箱にご飯粒がスシ詰めになってるような音よりも、昔のジャズのレコードのように、ダイナミックスのある優しい音にしたいと思う。たとえ、ラジオで流れたときに、他の音楽との比較の中で、インパクトが減ったとしても。
最初の曲をユーザーが聞いたときに、小さいと感じたら、そこでヴォリュームを上げてくれれば、それでいいんだ、本当は。って、難しいかな、この話は。何にせよ、エンジニアって人たちは素晴らしい技術を持っている。専門職としてね。
でも、俺たちは自分たちの音楽に関して、ヴィジョンがある。魚とオレの耳は技術じゃないところで、素晴らしい耳だと思う。だから、出来る限り自分たちでやるのさ。
―――ヒートウェイヴが上京した89年というのはバンドブーム最盛期ですよね。当時の東京の音楽シーンの印象、そして「上京」とは言っても東京ではなく最初に住んだ場所が千葉だったことの理由を教えてください。
山口洋 うん。ヒドかったよ。青田刈りだよ。金のために。ロクに演奏もできないようなバンドがウジャウジャ居たよ。そのうち、それらが淘汰されて、「バンドブーム」が「バンド焼け野原」のようになったとき、いくつかの本気で音楽に向かい合ってるバンドが生き残ってた。そういう連中からは刺激を受けたし、未だにフェスで久しぶりに会ったりすると、嬉しいものだよ。元気かって、それ以上口には出さないけどね。
千葉に住んだのはね、東京は無理だと思ったから。人が多すぎて。でも、正直、千葉は遠くて、辛かった(ごめん、千葉の人たち)。
―――メジャーでの最初のアルバム『柱』(90年)、セルフライナーノートを見ると、東京ではなくてあえて故郷の福岡でレコーディングしてるんですよね。いまとかわらないといえばそうなんですが、当時からすでに東京のレコーディングスタジオを使うことに興味がなかったんですか? レコード会社や契約した事務所も理解があったということですか?
山口洋 そうねぇ。デビュー前にいくつかの高級なスタジオでレコーディングしたんだ。確かに素晴らしい機材があった。でも、その音は全然好きじゃなかった。これじゃ、みんな同じ音じゃん、ってがっかりしたよ。だいいち、ロビーに居る芸能人たちと一緒じゃ、クリエイティヴな気持ちにはなれなかった。
だから、福岡の友達のところで録音したのさ。『柱』の音は今でも好きだよ。スタジオの持ち主も含めて、オレ達には機材をカバーするだけの情熱があった。デッドな音にするためにはメンバーの実家から大量に布団を運んだりね。
結局、それが音に現れるんだと、今でも思ってる。まぁ、レコード会社にも事務所にも反対されたけどね。でも、嫌だったんだ。本能的に。
―――縦書きの歌詞、ゆえにアルバムジャケットは右開きで、ジャケットの封入の仕方もレコード会社的には異例ですよね。先行シングルの発売、取材、全国ツアーなど、ファーストアルバムに関するあらゆることがそれまでとは違ったと思いますが、『柱』に関することでいまも印象に残ってることを教えてください。
山口洋 うん。本当に好きなことをやらせてくれた。それには感謝してる。
ただ一点。レコード会社の要求はジャケットに「顔」を出してくれ。PVを作ってくれ。これは嫌だったね。最後までゴネたけど、この要求は飲んだ。だって、誰が演奏してんのか、新人なんだから、分からないもんね。実はデビュー当時のひっどいPV、あるんだけど。それだけは流さないでくれって懇願したよ。だって、演技は出来ない、歌ってるフリもできない。音楽をやるしか能がない。そんなバンドだったからね。スタッフは苦労したと思うよ。
(※続きます)