『はつゆきさくら』1stインプレッション

以下の文章は『はつゆきさくら』及び『キサラギGOLD☆STAR』及び『ナツユメナギサ』のネタバレに満ちあふれています。気になる方はコンプリートされてからお読みいただくことを推奨します(ただし、ナツユメのネタバレはほんの少しだけです)。


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現在私が最も注目しているSAGA PLANETS及び新島夕の最新作を購入後即クリアということで、論考というには極めて生煮えですが、感想という形でここに公開したいと思います。もう少し煮詰まったら、論のような形で頒布したいかも……5月文学フリマあたりで……などと考えていたりもします。

(以下、感想本編)

従来よりSAGA PLANETS作品に注目してきた方からすると、作品形式や最後に主人公とメインヒロインの分かたれ方などから『ナツユメナギサ』を想起する方は多いと思います。前作の『キサラギGOLD☆STAR』は、円満な長屋の仲間うちの話で、殺伐とした復讐の想いを胸に秘め続ける今作とは、トーンの違いを感じ、そこに断絶を感じた方が多いのではないでしょうか。
しかし、私見では、むしろ『キサラギGOLD☆STAR』からの連続性を主人公のキャラクタ造形から感じ取ることができます。まずは、ここから語りを始めたいと思います。

『恋愛ゲーム総合論集2』(theoria編 2011/12/31発行)における拙稿「他律性・理不尽・孤独――新田二見の人物像から見る『キサラギGOLD☆STAR』の核心」において、二見は父が叶えられなかった夢を叶える代弁者として、役割を引き受ける存在と位置づけています。二見自身の根源的な想いが表出される面もあるものの、基本的には父の夢を引き継いでいます。

同様に、『はつゆきさくら』における初雪の復讐への意思は、真に自身の根源的欲望であるかどうかという点についての描写は曖昧であり、背後にある亡者たちからの要請という、他者の抱いた無念を引き受ける形になっているといます。それを最も強烈に植え付け、最後まで初雪の内心を縛り付けていたのは、こちらも父の存在であったわけです。

このように考えれば、『キサラギGOLD☆STAR』における二見の父の夢であった宇宙飛行士というポジティブな夢であろうと、『はつゆきさくら』における初雪の復讐への想念を支えていた父の存在であろうと、いずれも、叶えられなかった肉親(父)の想いの代弁者であるというところが出発点にあります。

このため、いずれの主人公も、空白に役割を代入され、その役割を全うすることをある意味理不尽に強制される存在、という位置づけになっています。ここで、『キサラギGOLD☆STAR』においては、その夢を一度自らの願いで忘れさせるようヒロインの一人である遠藤沙弥に依頼し、幼時の夢を封印しています。背景として、沙弥自身が月からやってきた歌姫であり、古からの言い伝えで地上の男が月に辿り着く事を目的として行っている団体もあり、二見に月への道筋を示す方向性をもち、周囲の支援があります。
(二見は各ヒロインルートで長屋の仲間の夢の実現を支援しており、各ルートでの支援の実績を承けて、グランドエンドの二見ルートでは、二見の夢の実現にヒロイン達も含めた支援がある、という情けは人のためならず的展開)

対して、『はつゆきさくら』では、身の回りの世話をしてくれたランは復讐とは相反する位置づけにある「卒業」を求め、身中に引き受けた父を含めたその他のゴースト達は師の無念を晴らすべく「復讐」を要求します。卒業と復讐は絶対に同時に達成することができない事象として位置づけられており、初雪はいずれか一方を選択することを常に求められます。このとき、既にudkさん始め多くのかたが注目され引用されていると思われる宮棟の台詞があります。

【宮棟】「自らのうちにある、無念を、義理を、けじめを。いくつもの、心を殺しながら……何食わぬ笑顔を浮かべて、生きなければならないときがある。」
【宮棟】「それが大人というものです。社会に生きるということです。」

ここで「心を殺し」という表現は、『キサラギGOLD☆STAR』において、二見が沙弥に頼んだ「夢を忘れさせてほしい」ということと同義です。

両作品に共通する作家性を見出し、そこに「新島夕」という冠を被せるのならば、このような「心を殺す」「夢を捨てる」といったことに関するネガティブさとポジティブさの共存の姿勢にあると考えられます。
キサラギ』においては、大人の要請も含め、少なくとも「夢」を叶えることに対する支援がありました。「夢」は二見だけのものではなく、多くの者から期待され、達成することに1000年のバックボーンがありました。
これに対して、『はつゆき』では、「復讐」を成し遂げることに対し肯定してくれる者は既に肉を失ったゴーストだけであり、自らは常に生死の境界にあり、どちらへ転げ落ちるかわからないというまさに「分水嶺」の位置にあるのが初雪の立ち位置。支援者は基本的にはいないわけです。

ここで、一つ捻れた姿として現れてくるのが肉を持つ人間として、捻れた亡者の想念に共感する素地のある小坂井綾です。彼女自身はれっきとした人間ですが、死んだ弟アキラの妄念を身に纏って騒ぎを起こした事が過去にあることから、初雪と同様の位置づけに共感的な側面を持っています。小坂井綾ルートが過去の話として位置づけられ、初雪がリセットしてゲーム開始時の現在に至る、という形で一度話が収められていますが、Graduationルートにおいて、綾は初雪が人としての道を踏み外す方向に進む際、そちらの道をともに選択し、滅びの運命をともにしてしまいます。

綾の存在は、宮棟が言う「心を殺し」てきたことを、自らの意思により選択的に選び取ったというよりも、初雪によって、心の一部を切り取られ空白にされた、という点が影響しているのかもしれません。心の核となるべき場所にあったはずの想いは自らの意思とは関係なく空白となっている。その空虚感は、身近にいる初雪に関わるものらしい。この空虚感を埋めるため、初雪のことを求めてしまうと。

このようなことから、悲しいながらも、綾の行動にも理解できる点はあると思います。

自らを捨ててあったはずの想いに奉仕してしまうこと、これが綾の行動原理になってしまった面が、Graduationのサブルートと言えるでしょう。

初雪も同様に、本当はどうでも良かったはずなのに「全ての、懐かしい人に報いるため」という他律的な行動原理により復讐に向かって行ってしまいます。

初雪と綾は、両者とも同じような立ち位置にあり、この二人が宮棟の言うような想いを分かち合ってしまうと、逆に破滅の道を真っ逆さまに転げ落ちて行ってしまう、という危うい側面を見せます。宮棟の「痛みを、誰かに受け止めてもらわなければなりません」という言葉も、相手によっては、邪念を増幅することもある、ということで、この言葉も、単に受け止めてもらえれば解決、とは言えないことがわかります。

綾が通常の人間にあらざるという表現は喫茶店カンテラ」にて綾が水を持ってきたときに、

【桜】「ドキドキ。私が気配に気づかなかった……?」

というシーンにあるように、ゴーストプリンセスである桜が、背後をとられて気づかないほど気を消すことができるという点にも考えるべきところがあると思います。ここに挙げられるような存在感のなさ(≒空虚感、自我の希薄性)というものがあると考えることができるのではないかと思います。


次に、桜との関係を考えます。
過去の許嫁の式典的なことにより、幼時の二人は一瞬の幸福を得ましたが、それは爆発により一瞬にして崩壊します。この幸福から不幸への急旋回ベクトルはVAの某シナリオライタ的と言えましょう。

そして、桜は多くの霊を鎮めることを目的として自縛的な重石という感じで街に位置づけられ、初雪を長年見守る存在となっていたわけですが、直接の邂逅が不可能な中で「見続ける」ことにより彼の存在が自分の中でどんどん大きくなっているという点は、「見ることしかできなかった」ことにより、感情移入の増幅がなされているということで、この世界に顕現した桜が、「河野くん河野くん」とやたらに関係を持ちたがり、袖をつかみ、手を繋ぎ、というところは、「触れ合える喜び」を素直に表現したものと思います。

ただし、初雪がこのような身体的接触を求める桜を「無視」という形で拒絶し、ネガティブな想いを桜に与え続け、初雪が誰かを愛するという形で想いを分かち合うことがなければ、桜の純粋な想いもまた、その純粋さ故に「永遠の冬」として世界を壊すことになります。「永遠の冬」においては、幼時の姿をした桜と初雪が永遠に授業を受け続けるという、桜にとっては叶えられなかった想いを実現し続けるという永久ループと言える世界を作り出します。これは長年「見ていることしかできなかった」桜のそれまでの立ち位置を踏まえ、寒々しい冬に閉じ込めることになっても初雪と「ずっと一緒に居続ける」ことを選択した彼女の結果といえます。

このような形をどこかで見たことはないでしょうか。そう、これは『ONE〜輝く季節へ〜』における所謂「永遠の世界」そのものです(「永遠の冬」で一緒に過ごす存在は、シルエットで表現された立ち絵を見る限り、幼時の姿の桜と、現在の姿の初雪です。この年齢差も、浩平とみずかというイメージになりますね……)。このような仄暗い想念を桜もまた有していたということから、その永遠性を打破するきっかけとして、ほんの短い期間でありながらも濃密に初雪と触れ合い、じゃれ合い、愛し合う同棲生活というものがあったのだと思います。桜にとっては、幸福な同棲生活は短い時間と分かっていながらの「限りある永遠」(「魂のルフラン」歌詞)だったのではないでしょうか。このことを最もよくあらわしているのが、皆さんよくご記憶と思いますが、以下の桜の言葉ですね。

【声】「それでは!」
【声】「婚約の儀を執り行いましょう」
【声】「河野初雪」
【声】「玉樹桜」
【声】「永遠の愛を誓いますか?」
【桜】「……」
【桜】「いいえ」
【桜】「永遠には誓えません」
【桜】「季節は巡り変わっていきます。同じ場所にいられない以上、永遠に覚えていてくださいとは言いません」
【初雪】「桜……」
【桜】「だけど」
【桜】「君が大人になるまで」
【桜】「いつかこの場所を卒業するまで」
【桜】「それまで、愛し守り、分かち合うことを誓います」
【桜】「そうして誓いは、今、終わります」
【桜】「だから……今こそ言うよ」
【桜】「バイバイ」

更に『ONE』との相似を感じさせる場面としては、手を繋いだときの手の感触に桜がこだわっているところも上げることができるかもしれません。初雪が繋いだ手をふりほどく鬼畜仕様なのも、近似しているかもしれません(かなり我田引水……)。

……とりとめがつかないところですが、この辺りで一度切っておきます。
また妄想がダダ漏れたら、続きを書くかもしれません。


(3/10)感想の続きを書きました。
3月10日の日記をご覧ください。