いい加減、インターネットという共同幻想から目を醒ましたらどうですか

未だに、インターネットは現実とは全く違う理念で動き、そして独自の世界を築き上げていると思っている人がいる。そういう人は、例えば「インターネットでは簡単に儲かるらしい」と豪語してしまったり、「インターネットでは全てのものが『無料』であることが理念として存在するから、なんでもタダで入手してOK」とか、「インターネットでは加藤が神扱いされている。気持ち悪い物だ」等と言ってしまったりする。あるいは、最近見られた「ニコ動でアニメの本編が削除されるのはおかしい。だって宣伝効果があるんだもん。インターネットならではのそういう新たな面を認めようよ」なんていうのもそれに含めてしまっていいかもしれない。実際本当にそうであるのかは全く確認されていないのにもかかわらず、「インターネットだから」という理由だけで、現実とは違う<何か>が存在するような錯覚を持ってしまう。
錯覚を錯覚と認めよう。もう、インターネットの独自性なんてものは存在しないのだ。インターネットは現実の空間と複雑に絡み合い、既に一体化している。もう「現実」と「インターネット」の二項対立に意味はない。だいたいあの陳腐化された概念である「ネチケット」だって見てみなさい、あんなのは、普段生活するときに我々が守っているルールを、ただ明文化しただけだ。

だからもう、メディアの人たちも「インターネットでは」と一般化するのはやめなさい。それはインターネット上に存在しているある種のコミュニティをさしているだけであって、それはインターネット以前にも存在していた感情が、我々の目に見える形で顕在化しただけだ。まるでインターネットに特殊性の根幹があるかのような認識論は全く意味がないのだ。もちろんこれはネット利用者にもいえる。「ネットで儲けるな」という主張は無駄だ。「インターネットでは儲けてはいけない」なんていうこともなければ、「インターネットでは簡単に儲けられる」なんてこともない。あるいは「発狂小町の閉鎖はおかしい」なんて言うんじゃない。ネットでも現実社会でも、やっていいことと悪いことの違いなんてそう大差ない。「ネットだから」なんていう論理はもはや通用しない。インターネットっていうのは、君たちが抱いているくらい特殊な存在ではない。「インターネット独自の文化」というのもかなり怪しい。現実から生まれてインターネットに飛び火する文化もあれば、インターネットから生まれて現実に飛び火する文化もある。いってしまえば、もう両者を別種の空間として区別する理由など何処にもないのだ。かつて別種だった両者は、徐々に結びつきを強くし、今ではがっちりと複雑に絡み合っているのだ。

オーケー、わかった。インターネットはただのツールであって、空間としてのインターネットは死んだ。そういうことだ。今も細々と「ネットの独自性」を主張している人間も、やがて自分たちが「ネット」「現実」という枠組みとは全く関係ない、単なる一つのコミュニティでしかないことに気がつく。そうやって「空間としてのインターネット」は全て我々の生きる「今」に還元されていく。

けれどもツールとしての、技術としてのインターネットは生きているのだ。じゃあ我々は、現実と一体化した「空間」において、「ツール」をどう有効活用することが出来るだろうか? 学校裏サイトの問題にせよ嫌儲の問題にせよ、全ての問題はそこから始まるのだ。僕たちはいい加減、「インターネットだから」「現実と違いインターネットでは」というような論調に対し、強い疑いをかけなくてはならない。インターネットと現実を区別しない、インター・インターネット的な視点をもって現実を肯定していくことが、今一番求められていることであると思う(トランス、のほうがいいかも)。