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2012-11-06

「タッチ」の呪縛/スマート家電の「コレジャナイ」感の源泉を探る

鳴り物入りで登場したパナソニックのスマート家電の評判は、あまりよろしいものではない。なかでもいちいちタッチが必要であることは、インターネット上で酷評されている。行政の問題があることが「スマホでエアコン操作 パナソニック断念の不可思議 (写真=共同) :日本経済新聞」にて指摘されているが、本記事ではスマートという思想についてフォーカスしたい。

パナソニックのスマート家電シリーズでは、スマートフォン行った設定を家電製品に転送する際、必ず「タッチ」が必要となる。しかしこの「タッチ」なる部分に、我々が家電製品を使う際の、そしてそこから敷衍したところに存在する「開発者側が想定する間違った『便利さ』」が潜んでいるのではないかと思う。

真の「スマート」とは

「スマート家電」等と称した際、その「スマート」という単語はもはやどのような意味を持っているのかよく分からない存在となってしまっている。パナソニックは「スマホと連携するものをスマート家電と呼ぶ」らしいが、スマート家電が既存の家電よりも更に便利な存在を目指しているならば、その「スマート」なる意味は、「我々が行っている判断を機械が代わりに行ってくれる」ことを含まなくてはならない。

数年前、自動計量機能付きの電子レンジが爆発的に流行した。例えば冷凍したご飯を解凍するとき、その量によって解凍時間はまちまちであるため、「まあ1分くらいだろう」「まだまだか、じゃあ30秒追加」等と操作する必要があった。計量機能付き電子レンジは、「ご飯解凍モード」を指定すると、機械が自動的にご飯の量を計測し、最適な解凍時間を自動実行してくれる。これまで我々が行っていた「解凍する時間」を、機械が代替して実行する。こういう「使いやすさ」さこそが、我々が望むスマート化であろう。

あるべき「スマート化」とは、自動化である。パナソニックのスマート家電が、こういった意味でのスマート化を果たしているのなら大歓迎なのだが、どうやらそうではないらしい。そして彼らの「スマートフォンでタッチ」なるセンスを観察するに、なるほど、そこには「タッチ」が持つ呪縛が大きな壁として存在している。

「タッチ」とボタン

ハード的な電源スイッチやソフト上の「次へ」「実行」をはじめとする「ボタン」は、我々にとって非常に身近な存在である。だが身近であるが故に、その問題点は見過ごされやすい。

ボタン操作は非常に直感的だ。例えばTwitterに投稿しようと思ったとき、「送信」というボタンを押せばそれが送信されることは一発で分かる。当然のことながら、書きながら「書くまでもないなあ」と思ったなら「送信」を押さなければいいだけの話だ。あるいは、テレビを見たいときには、「電源」ボタンを押せば良いし、NHKが見たいなら「1」を押せば良い。見たくないなら押さないに決まっている。

……当然のことながら、あらゆるスイッチ・ボタンは我々の意思を反映する。そうしたかったら押し、そうしたくなかったら押さない。そして機械側が我々に求めたい情報の数だけ、ボタンを押す工程は存在する。ソフトウェアインストールするときには「使用承諾」「インストール先」「最終確認」…といくつもの工程があるが、それだけ独立して我々に対し求めたい意思が機械/制作者側に存在することを意味している。

タッチ動作やボタンは、まさに我々の意思を確認するためにある。誰が? 機械、制作者だ。


工程:機械による機械のための欲望の分節

はじめに言ってしまおう。スマート化とは、いかにしてこのボタンの数を減らしていくか、という作業に一致する。より抽象的な言い方をすれば、機械の都合により分節化・工程化されてしまう我々の欲望を、一挙に処理することこそが、スマート化である。

ここで、「Siri」の便利さを例として取り上げたい。目覚ましを午前7時にかけるとき、通常の操作であれば、「時計」を押し、「+」ボタンを押して午前7時のアラームを追加し、保存するといういくつかの工程が必要となる。「アプリを呼び出す」「アラームを追加する」「アラームの設定をする」「保存する」というそれぞれの工程においてそのときに機械側が我々に求めている情報を入力しなくてはならない。しかしSiriを用いれば、「午前7時に起こして」と言うだけで、この工程を全て自動的に行ってくれる。工程が省略され、「意思確認」=「ボタンの押下」がゼロ回となることによって、我々はそれを「便利になった」と感じる。

上記のように、通常機械を操作するときの工程は、機械の都合によって分節されている。「時計アプリを開く」「+ボタンを押す」といった動作は、(当たり前だが)機械が用意している。一連の工程は、制作者が「これが分かりやすいだろう」として設置したものであるが、一番楽なのは一切の分節化を省き、「午前7時に起こして」と言うだけで全てを処理してくれるシステムである。

これまで、工程数を少なくする方法は、UIやハードボタンの構成を弄ったり、「おまかせ」ボタンを導入する等で達成されてきた。しかしそれが限界に近づくと、今度は工程の内容を洗練させる方向へと動いた。さて、「スマート化」の時代においては、我々が行っていた機械の都合によって分節された判断を、機械が自律的に行うことで達成する。先のsiriの例で言えば、それまでは分節をなし「時計アプリで/午前7時の/アラームを/設定したい」と4工程をこなしていたのが、文章として理解させることで1工程に縮減されていた。ここでは、機械の都合のために分節化されていた我々の判断を統合することで「スマート化」が成し遂げられているといえるだろう(我々の判断はもともと「アラームを〜」の一文だが、機械の操作工程上それが分割されていた。それを改めて統合したのである)。

掃除機の例を考えれば、より分かりやすいだろう。「この床を汚いときにきれいに掃除したい」という欲望は、掃除機の用い方に合わせて「汚いかチェック」→「掃除機の準備」→「電源をオン」→「フローリングモードにする」→「掃除機を四方八方に汚いところを中心に動かす」等の工程にわかれ、都度判断を自分で下し実行する必要がある。しかしスマート化の時代においては、その判断全てを機械が自立的にこなす。己の都合で判断を我々に求めるのではなく、機械が行う。

「機械による機械のための欲望の分節」――我々の欲望は、機械によって「それを得るための工程」として区切られる。そして工程一つ一つに対し、我々は必要な判断を与えてきた。しかし、工程を作ることなく、我々の純粋な欲望を機械が包括的に処理するのが理想なのだ。

洗濯機はスマート化されたのか

パナソニックの言う「スマート化」とは、単純に言えば、今まで家電の前で行っていたことをスマホに向かって行い、加えて「スマホを家電にタッチ」という工程が追加されたにすぎない。工程だけを考えれば、これは「タッチ」の分だけ面倒になっている。もちろん「いや、今までは洗剤の裏側に書いてある説明を読まないといけなかったが、これからは洗剤の名前をスマホで探すだけで良いのだ、楽じゃないか」という方もいるだろう。こういう方は、言葉は悪いが人間を馬鹿にしている。「洗剤の裏の説明を読んで投入」と「スマホで洗剤の名前を探してタッチしておく→次回から液晶に量が表示される」では、工程数に差はない。ああそうだ、先ほど書いたとおり、これは「工程を減らす」ではなく、「工程の内容を洗練させる」だけにすぎないのだ。

工程を減らすなら、例えば大量の洗剤を洗濯機の中に保管できるようにしておき、選択するたびに洗濯物の量が自動的に計量されて適切な洗剤量が使われる、そういった「スマート化」が必要であった。しかしパナソニックは、そのような「工程数の縮減」を行うことなく、ただ「難しそうな判断(ここでは、洗剤の裏を見て量を判断すること)がちょっと簡単になる(液晶に洗剤の量が表示される)」だけで、あたかもそれが便利になったかのように振る舞っている。しかし工程数を見れば、それは依然として面倒なのだ。これが「コレジャナイ感」の源泉である。

「タッチ」の呪縛

おそらくここに、「タッチ」の呪縛が隠されている。我々の機械に対する命令は、今までは「機械が必要な情報を人間に投げかける」→「人間が答える」を繰り返すことで行われていた。そしてひとつひとつのプロセスに「判断」が入る。この判断は、専用のボタンを使用したり(ハードボタン:冷蔵庫の「W」「秒」など)、「次へ」を表示させたり(ソフトボタン)することで行われてきた。

ややこしいことに、この動作は単純に「面倒」というわけではない。「判断」が我々に安心感を与えてきた面もある。「ボタンを押す」ということは、まさにその工程における判断を実行したことを象徴する。工程の最後にある「開始」ボタンは、その最たるものである。「開始」ボタンを押すことが、自分のこの作業はとりあえず終わったんだという安心感をもたらすのだ。掃除機の場合、例えば「フローリングモード」スイッチを押すことで、最適なモードに切り替えたことを確認し、安心感を得ていた。

そしてその安心感は、開発側が最も大切にしていたものであったのではないか。「このボタンが判断の証なのだ」というある種のフェイルセーフ的なシステムとして、それぞれのボタンは価値を持っている。ボタンを削ると言うことは、大切な「判断が行われたことを意識してもらう」という作業工程が一つ減るということであり、それだけ設定上のミスを増やす危険性も持っている。

あの忌々しいパナソニックの「タッチ」も、まさにその「判断したことを確認・認識する」ためにある。それも「最終確認」という重大な価値を。スマホはスマホ、家電は家電で独立しており、その橋渡しには「タッチ」が必要となる。どれだけスマホをいじくろうとも、タッチしなければその設定は実際の家電の運転とは無縁である。この「タッチ」を削ることは、重要な「橋渡し」の確認を消すことを意味する。つまり、「はい、今のでスマホと家電が連携しました!」という「安心感」を我々から奪うことになってしまう。

「タッチ」とは、我々の判断の象徴である。我々が判断を行ったということは、「ボタンを押す」という作業において具体化される。だからこそ「ボタンを押す」ことは、「判断を成し遂げた」という安心感を我々にもたらす。しかし先に挙げたとおり、スマート化するのであれば、判断を減らす=タッチ/押下を減らさなくてはならない。

「呪縛」をなくすために

だが、スマート化はこうした呪縛を一つ一つ解消することでしか成し遂げられない。上記で言えば、「橋渡し」の確認など必要なくなるくらいにシームレスな連携が行えるようにならなくてはならない(僕自身はそもそも家電を何でもスマホに結びつけるという方法に懐疑的――というのも、入力デバイスが増えるのは単純に工程を増やし不便なだけだから――なので、具体的な方法は提示しない)。

ハードウェア中心主義に染まっている日本のメーカーの多くがタッチの呪縛にかかっている。上述したとおり、これまでの家電は、機械の都合により作られた区切りについて、ひとつひとつ人間に情報を求めるものであった。しかしこれからは、「機械の都合で判断を輪切りにする」ことそれ自体が否定されなくてはならない。牛乳を温めるとき、機械の都合で「ワット数」と「秒数」を分けて聞いていたのが、“スマート”な電子レンジでは、そんなことを聞かず「牛乳あたため」のボタン一発で自動計量をしてくれる。我々の求めるスマート化とはこれである。工程は最小限で良い。そのためには区切りを限りなくゼロに近づけなくてはならない。我々が洗濯機を操作するときにどのような区切りが「機械によって」作られており、どうすればそれを克服できるのか。その視点がなければ、誰も「スマート家電」なんて使おうとは思わないだろう。


まとめ

「スマート化」においては、人間の判断を機械が代替するされるようになる。既存の家電は、機械の都合により作られた工程毎に人間が情報を与える設計を採用している(そして「便利になる」とは、工程ひとつひとつの中身が分かりやすくなることを指す)。しかし、スマート化時代には工程そのものを縮減しくてはならない。パナソニックはその精神を全く欠いた行動をとり続けており、その点がまさに「コレジャナイ」感を生み出している。

ところで、ボタン動作は判断を象徴し、「判断を行った」という安心感を我々に与えてくれる。しかしスマート化というのであば、人間の判断を機械が代わりに行うのだから、その象徴としての「タッチ」という動作はフェードアウトしなくてはならない。我々の判断=タッチ動作は「我々の欲望を機械が工程に分け、そのそれぞれで行う」ものであったが、今後は工程に分けることなくその判断が実行されなくてはならないだろう。我々の望むスマート化とは、それである。

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