Hatena::ブログ(Diary)

Thirのノート このページをアンテナに追加 RSSフィード

2008-07-06

あのー、それ、普通にいじめなんですけど

ニコニコ大会議であった例の件について。例の件について存じない方は、とりあえず「2008-07-04 -  SPOTWRITE」を読んでくださいな。

いじめの構造

いじめというのは、ある一人の人物を他の大多数の人間が「見下す」ことで、虐める側の人間が「虐める側」としての共通意識・仲間意識を持つものである。つまり、虐める側は虐められる一人の人間を「外部」として定義することで初めて集団性・内部性を保つことに成功するのである。

ここで出てくるのが、「生け贄にされた一人」の問題である。いじめの構造上、彼は彼が有している感情の如何に問わずその集団の外にはじき出されている。いじめについては他にも様々な問題があるが、ひとまず「集団の内部と外部」という構造が見て取れる点だけを、今回は問題としてみる*1

さて、ここで件のエントリに戻る。

ニコニコ大会議の場合

衝撃を受けた。すごい。すごいことだ。

あまりにも斬新すぎるコミュニケーションの現場だ!!

バカ野郎。

もはや言わなくても分かるとおり、今回のニコニコ大会議における盛り上がりは、いじめと全く同じ構造が引き起こしたものにすぎない。つまり、一人の人間を外部に追いやることで、内部が強いまとまり・コミュニケーション性を有するということが、今回の会議にも見られるのである。

これは「斬新すぎるコミュニケーションの現場」ではない。むしろ「残酷すぎるコミュニケーションの現場」である。会議に参加し、あるいはネット中継を見て、この現場で「笑った」人間は、一人の人間を犠牲にすることで自らの地位を得た。笑った人間は、一人の人間を集団から排除し、そして殺した。

分からないけどきっと、笑われてしまった人達も、よしとしている気がする。

「きっと」か。君はきっと、「集団からはじきだされること」が生み出す疎外感を味わったことがないのだな。「きっと」という言葉で始まる自らの主観の押しつけは、またしてもいじめっ子の論理と変わらぬ構造である。自らに都合がいい形で論理を作り出し、「内部」と「外部」の差をより「明確」に規定していくのである。

たとえば、こういうトークライブの類で、倫理的に危うい話題(いわゆる地雷みたいな)や、おかしな質問者の登場などで、会場に緊張感が走ったり、妙な空気になって居心地が悪くなったりと言うことは、些細な事ならたくさんあるはずだ。だけどそこに、「ニコ動システム」が介在することで、それは全て「晒されてしまう」。

えーっと、ニコニコ動画っていうのは動画の上にコメントがのっているという話で、そのコメントをのっけてるのは他でもない人間ですから、会話の時と同じように、文字を書く際にも「書いていいのか悪いのか」という判断はつくはずなのですけど。というか、つけなきゃいけないんですけど。「一人の人間を排除する」というのは倫理的に問題ありまくりな行為なわけで、倫理的に問題のある行為はたとえそこにどのような論理が存在していたとしてもやってはいけないのではないのですか。

場の空気を読んで、思っているけど黙っておくというのは、相手のためというより、自分がそこで目立つのが恐いという心理の方が強いと思う。

「場の空気を読む」ということが否定的に取られ初めて久しいが、適切な対人コミュニケーションのためには「場の空気を読む」ということは必要不可欠であって、例えばコミュニケーションにおいて相手の人格に付随する「デブ」「ハゲ」「チビ」といった属性を批判することは御法度である。それは対象を傷つけるだけでなく、上記で上げた「いじめの構造」を持つ以上、それをコミュニケーションから「属性をネタにした笑い」に変え、そして最終的に「いじめ」に変えてしまう危険性を持つ。

いじめの論理と「ニコニコ大会議」

集団の中から一人の生け贄を排出することで集団性を確保する行為は、いじめの構造と全く変わらない。だからこそ、何度も繰り返すとおり、これは全く「新しいコミュニケーション」ではない。むしろ技術が創り出した「非対面コミュニケーション」が、古く捨てられるべき価値観を呼び戻してしまったともいえる。現場で味わった人間の裏には、集団から排除された人間がいたことを忘れてはならない。姿の見えない「集団全体」に対し、排除された特定個人は全くの無力だ。見えない集団と見える個人という非対称性が、最悪の場合個人を泣き寝入りさせてしまう。

今回の場合は、時間的に短かったからまだ良かった。時間が長くなると、集団はさらなる集団性を志向し、それが「排除」の性質を一段と強める。集団の中に埋没する人間は動物化し、「排除」というある種の本能的性質に従うがままに暴走する。さて、これがid:magoshinの志向する新たなコミュニケーションの在り方なのだろうか。

また、「文字による『可視されてはならないその場の空気』の可視化」を人間が倫理的に制御することが出来ないことを、本件は浮き彫りにしてしまった。ここに、2005年くらいに問題となった「儀礼的無関心はネットでも通用するのか」という問題が再び現れる。ニコニコ大会議では、生中継側の人間が感情を可視化(文字化)することで現場の空気が確認されてしまったと聞く。即ち外部からの影響により、内部における儀礼的無関心が崩れてしまったのである。倫理的に確認されてはならない「空気」が具体的に確認されてしまうとき、我々はそこに様々な感情を抱く。本件も、おそらく一番最初に「ハゲ」という文字列が流れた際は、現場に居合わせた多くの人間が複雑な心情を抱いただろう。しかしその心情が多くの人間に共有されていることが確認できるとき、それはやがて排除の構造を生み出し、感情は「快感」へと変わる。現実における共通了解が、インターネット上では「非対面」であるために働かないこと、あるいはそれによって共通了解がくずされることが様々な軋轢を生み出し、「排除」をはじめとする多くの前近代的・本能的な問題を引き起こす。こうなるともう、「排除」された人間だけではなく、同調圧力により外に出る力を潰された人間も(別の意味で)被害者となる。ここでもし、この集団の暴力がはじめに排出された個人だけではなく、もっと別の外部に向かったとしたら?

もちろん、上記の構造が存在するだけで「いじめ」と断定するのはいささか早急だとは思う。構造はあくまでも「いじめの共通点」であって、「いじめの原因」でも「いじめの定義」でもない。ただし、上記の構造は「いじめ」に陥る危険性を持っているのは、確かではないだろうか。例えば同じく上記の構造を持つ様々なコミュニケーション行為(それは2ちゃんねるやニコニコ動画にも当てはまるし、最近の罵倒芸にも当てはまる)は、もう一アクション発生すれば等しく「いじめ」に転落する可能性を秘めている。ましてや今回の行為は、彼がその後ニコニコ動画で恒久的に「ハゲのおっさん」として(彼の言説ではなく)身体的特徴を理由に継続的に罵倒の対象となる危険性や、彼の“もがき”全てが声の大きいギャラリーの都合の良いように解釈されてしまう危険性など、「いじめ」へ転落する可能性が数多く見られる。「みんなニコニコ」を謳っていたニコニコ動画が、「いじめの構造」という、いついじめに転落してもおかしくない綱渡りを行うことは、「みんなニコニコ」ではなく「いじめの構造を面白がることが出来る人間だけが残ってニコニコ」に変わる可能性をも示唆している。そんなニコニコ動画を僕は望まない。

以上大雑把に書いてみたが、書き足りないことは山ほどある。インターネットへの態度をめぐる様々な問題が複雑に拮抗する本件については、もう少し考察が必要だ。

関連エントリ(当ブログ内)

(7月9日一部追加)

*1:また、このような「排除」の構造は、動物にも広く一般的に見られるという。ある種この行動は動物一般にとっての本能的な性質なのだ。