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2008-08-27

本当に「ゆとり教育に伴う思考力の低下」が原因なのだろうか?

 工業化学科の1学年は235人。従来、私の授業では1割程度が単位を落としていました。ところが、現在の3年生から急に4割ほどの学生が単位を落とすようになりました。

no title

さて、引用元ではこれが「ゆとり教育思考力が低下したのせい」だと言う話になっているのですが、では、実際に「ゆとり教育」という姿勢それ自体が間違っていると結論づけるのは、些か早計すぎる気がします。まさかこれだけの懸念している教授が初歩的な部分で誤認をするとは思えないため、以下のことが実際に当たっているかは全く分からないのですが(それこそ京都大学に在学しており、なおかつゆとり教育とそれ以前の端境期を生きているid:iammg氏に検証していただきたいのですが)、実際に私の身に起こった事実も思い出しながら、少し書いてみます。

「ゆとり教育」は、そもそも授業内容の刷新であった

「ゆとり教育」とそれ以前では、小中高大で扱うべきとされる内容が大幅に変化しております。いわゆる「先送り」と呼ばれるのがこれです。とくに物理学や数学、化学といった理科系の学問では、これが顕著に表れています。

例えば数学では、従来高校課程で扱うこととされていた数列の一部や複素数平面、平面幾何、微積分が削除あるいは大幅に簡略化されています。また、物理や化学に関しては、中学課程から高校課程への先送りがあまりに多く、高校課程で行うべき内容があまりに過密化した結果、多くの分野で全般的に内容が大学へ先送りされています。学習指導要領の具体的な変化に関しては、「no title」をご覧下さい。

要約してしまえば、ゆとり教育以前と以後では、高校教育の内容にかなりの差異があり、また大学側もそれに呼応する形で「高校から先送りされたために、新たに大学で教えなくてはならなくなった内容」というものを数多く有している、ということです。

大学側は、「新たに教えるべき内容」に関して無頓着であった

一方、大学側には、高校から先送りされる形で大学で教えなくてはならなくなった分野について、かなり無頓着です。彼らはこの問題を「2006年問題」と呼び、緊急課題として取り組んでおりましたが、末端の教授達は「新た何々を教えなくてはならないのか」「それまでの学生とどの程度の知識差があるのか」ということについて、無知であるか、あるいは無関心である場合が非常に多い。例えば私の場合、私は「ゆとり世代が始まって2年目」に属する者ですが、やはり教授の中には「先送りされた内容」を前提として授業を進めてしまう方や、あるいはその部分を簡単なプリントを配布するだけで終えてしまう方が多く、かつて高校で教えていた程度に濃密な教育というのは、ほとんどされていなかったように記憶しております。

(補)京都大学工学部の偏差値はもちろんのこと、合格者最低点も過去十年間ほとんど推移していない

京都大学工学部の偏差値は、ここ10年間ほぼ同値を保っておりますので、「同じ学年の中での京大工学部入学者の位置」が変わっているとは思えません。また、ここで京都大学工学部の合格者最低点は、「京都大学合格最低点一覧(工学部前期)」で閲覧することが出来ますが、ゆとり教育以後劇的に下がった、ということはなく、むしろそれ以前のほうが酷い有様ですし、そもそもこのようなデータは年数が浅すぎてまだ考えられない、というのが正確でしょう(ちなみに、2007年は大幅に下がっていますが、これは2006年、学習指導要領の改正一年目の試験は簡単せざるを得ないため、その反動で翌年は問題が難化するという、学習指導要領の変化が引き起こす「受験界の常識」であり、ゆとり教育が原因であるとは考えられません)。大学側の課す水準が学習指導要領の範囲内で変化していないとすれば、入ってくる学生の質がゆとり教育以後劇的に変わった、ということは、ここでもすぐに結論づけることのできるものではありません。さて、ここで考えるべきなのは「学年単位での思考力の推移」ですが、前述の通り、「ゆとり以前」と「ゆとり以後」では、そもそも知識量に差がありますので、差を考えることは非常に難しいことです。同じテストを実施したところで、問題の中で「ゆとり教育以前」の知識を前提としているものがあれば、そこで圧倒的な差がついてしまいます。ということで、ここでも「ゆとり教育以後で学力が劇的に低下している」ということは言い切れません(とはいえ、言い切れていないだけではあるのですが)。

本当に「考える力」が無くなったのか

先に挙げた記事では、

 学生の課題に対する応用がほとんど利かなくなっているのです。考える能力が落ちていることを懸念します。それが、今では、学校の先生が手取り足取り教える。例題をいっぱいこなして、暗記していく。自分なりの勉強の仕方が確立できない。

と、ゆとり教育によって「考える能力が落ちている」ことが、学生が「バカになった」ことの原因であるかのように語られています。しかし、私はむしろ、大学側が「教える内容」の変化に対応し切れていないことが原因なのではないか、と強く思わざるを得ないのです。

高校と大学の旧教養部(京都大学でいえば、総合人間学部が旧教養部と同じ役割を担っていると聞いております)の連携、そして旧教養部と専門課程の連携がうまく行われていないというのは、もはや常識です。しかしそれでも、これまでの学習指導要領の変化では、学習内容にここまで大きな変化が起こることはなかったため、感覚的に各部は「自分たちが何処まで行えばいいのか」ということを認識しておりました。しかし、ゆとり教育以後は、各部が教えるべき知識が大幅に変化いたしました。本来ならば、旧教養部、大学専門部は連携して高校から先送りされた問題を何処で取り扱うのか明確にしなくてはなりません。けれども、教養部解体後の一連の「行き違い」や、また変化が細部にわたっているため末端の人間が「何を教えればいいのか」わからないこと、さらに、末端の教授には新たに教えるべき内容を教えることについてのノウハウが全く存在していないことが重なり、対策がほとんど取れていない、ということは十分に考えられるのです。

京都大学工学部は、高校から先送りされた内容を既習事項として扱ってしまったのではないか、と私は思います。むろん、これは「思考力の低下」を招きます。が、それは本質的な思考力の低下ではなく、「前提知識が不足するために思考できない」という、「考える」以前の思考材料の問題なのです。「ゆとり教育」が招いた悲劇ではなく、大学側が「ゆとり教育」に併せて自らを変革すべき位置に置けなかったことが招いた悲劇です。端的に言えば、大学が教えるべきことが制度的に変わっているのに、末端の教授は何もかわっていないのです。彼らの状態が変われば、「ゆとり教育」であったとしても、大学の努力により十分以前の状態を取り戻せるはずです。思考のための材料を十分に与えていない状態で、「さあ!料理してみなさい!」といっても、出来ないのは当然です。「ゆとり教育で思考力が低下したのか」という問題を考える以前の問題です。

「受験戦争の激化に伴い、上位層の学力レベルはむしろ変化していないどころか(受験という箱庭の中で物事を処理する能力については)むしろ上がっている」という意見も数多く聞かれる中、このような結論を出すのは些か早計過ぎると思うのですが、どうでしょうか。もっとも、工学部長ともあろう方が、このような根本的な問題について理解していないとは私も思わないのですが、はてなブックマークではそのような意見がほとんど存在していなかったので、末端にいる学生から一言、ということで、このエントリを。

(注)ただしこれはあくまでも母数を京大生という「学年の中でも成績優秀な集団」に限った場合であって、母数を学年全体に広げた場合どうなっているのかは全く想定しておりません。

追記

2008年08月27日 digdigdig 大学生の学力低下がゆとり教育によるものかはわからないが、大学に来てまで自ら探究する気がなく手取り足取りを要求するようなスタンスはゆとりだと思う。知識は自ら求めるもの、与えられるべきはガイドトーンのみ。

大学に対する姿勢としては同意です。ただ、今回の場合のように工学に必要な知識が講義で用意されていないというのが望ましい状況であるとは、私は思いません。というのも、必要に応じて自学する場合について必要となる書籍について、現在は「先送りされた分野」をも扱っているものは、既に入手困難となっている旧課程用の高校学参しかなかったりしますので。「知の空洞化」と形容できるかもしれません。もっとも、ゆとり教育な大学生が生まれて3年目ですから、まだまだ混乱しているだけなような気がしますけれども。いずれ書籍が出てきて、「やる人はやる、やらない奴はやらない」という、今まで通りに戻る気がします。「大学で扱う内容が増えすぎ」という、また別の話は(そして結果的に同じ結論を導く話は)出てくると思いますが……。

2008-07-31 足のツメの中が猛烈に痒いんですけどこれって水虫ですかもしかして

「女。京大生。」騒動について一言。

  1. 女。MGの日記。
  2. 女。京大生からはそうみえているのか - 雑種路線でいこう
  3. 404 Blog Not Found:学校ってバカを治療してくれんのか*1
  4. 女。MGの日記。
  5. はてなブックマーク - 没落エリートの出現―ビジネス社会から疎外される高学歴就職難民たちー - 女。京大生の日記。
  6. はてなブックマーク - 女。京大生からはそうみえているのか - 雑種路線でいこう
  7. はてなブックマーク - 404 Blog Not Found:学校ってバカを治療してくれんのか
  8. はてなブックマーク - 弾氏への応答 - 女。京大生の日記。

1のエントリ内容については、個人的に疑問に思ってしまう部分が数多く存在しますが、経験が多数例なのか少数例なのか、レギュラー・ケース化しつつある問題なのかイレギュラーなケースで社会的な対処ではなく個別的対処で済む問題なのか、そのあたりをほとんど精査することなく、述べられている「問題」を直接「社会全体の問題」と断言してしまった点が一番の問題でしょう。まず結論ありきで述べられており、それに半ば「予想外の事象を自分に納得させるために」書かれたような文章となってしまっていることは、その印象をますます強くしてしまっています。あくまでも問題を社会科学的な観点から論じている以上、「高学歴就職難民」が現代の産物であることを何らかの形で説明すべきでした。でないと、愚痴をはやりの言説に照らし合わせることで、想定外の事象を自らに納得させたかった……と捉えられても、何ら文句を言うことは出来ません。

ところで、私は、人生において最も必要なのは、現状を分析する能力とその分析結果に対し適切な論理的応答を行う能力(現状分析能力と論理的思考能力)であると考えております。現在の学校教育は体系的にこの両者を養うために存在しており、その内容の如何を問いません。例えば、古文や英語は、語学学習としての側面を持ちながら、実質的には論理学的な側面をも有しているように、小中高で行われている教育はほとんどがこの2つの能力に繋がっております。

たとえ学校のレールを降りてしまった人間でも、この両者が存在していれば何ら問題はありません。逆に、学校制度に適合していた人間でも、この二者を全く有していないならば、それは問題です。また、社会的な問題であることは、これらの思考能力の有無を学校歴の有無に背負わせる形で判断している現状*2であり、フォーディズム・ポストフォーディズムの問題とは無関係であると私は思います。

但しこの二者が有ればそのまま生きていける、というわけでは有りません。社会では学校と異なり他にも様々な能力が要請されています。

その中で、個人や社会が担うべき行為までもを教育に求めることは、はっきり言って愚問です。教育はあくまでも「現状分析能力」と「論理的考察能力」の二者の育成と基礎知識の植え付けを図るものであって、他の何物でもありません。ほかのもの、例えばコミュニケーション能力や集団性などが学校を通じて身についていたとしても、それは学校を通じて身についただけのことであって(つまり学校というのが結果的にそういうものを身につける場所としても機能し、その延長としてそれも学校の一つの機能であるかのようにされたのであって)、学校本来の役割から生まれたものでは有りません。いうならば、学校というのが「小さな社会」としての性格を有しており、それがふたつの能力以外にも多くを伝達する装置となっていたがために、本来の役割を超えて重んじられてしまい、最終的にそれも学校の役割のひとつであるかのようにされてしまっただけで、学校の持つべき本質的な役割について考えると、記事1は「巨大化した『学校』の偽りの姿を本来の姿として捉えてしまうこと自体が可笑しい」ということになります。特に大学はまだまだ「本来の学校」の姿に近いものですから、それに対して「小中高のように様々な役割を背負い巨大化せよ」ということは、一見して理にかなっておりますが、実は「小中高こそが巨大化しすぎてしまった」が正しいのです*3

さて、小飼氏はここで「バカ」という概念を持ちだしていますが、私はそれを、「(京都大学に行っているくせに)分析能力・論理的思考能力がないとは何事か」というメッセージだと受け取りました。しかし実際のところ、小飼氏も記事1(元記事)と同じ論理飛躍(あるいは結果先行)や「押しつけ」を行っており、ここに「論理的思考が行われていない」と言うほか有りません。よって、私は、記事3が記事1を「バカだ」といって断罪する事は出来ないと考えます。また、記事2と記事4についても、言及元のメッセージを的確に読み取っているとは思えない部分が散見出来ます。この点で、少々手荒ではありますが、2と4の記事も「分析能力がない」と言わざるを得ません。結局、誰も彼女を非難することなど出来ないのではないか、と思ってしまいます。彼女が内包している問題は、誰もが同じく内包している問題であり、それこそが教育の解決すべき根本的な問題なのです。

教育はどうあるべきか?

教育は変わるべきなのか。私は内容について変えるべきだとは思いませんが、その本来の役割を果たせていないことは明確であると思います。ただし、それは教育が本来の役割ではなく別の方向を向いている事にあって、今一度「分析能力」と「論理的思考能力」という二軸を知識の授与という側面の中でどのように最大限の育成すべきか吟味すること、それが教育に本来求められている議論であると思わずにはいられません。

他にも色々と書こうと思いましたが、詰め込みすぎはかえって良くないのでこの辺で。ただ最後に言いたいのは、小飼氏による「社会全体も俺のようにマッチョであるべきだ」というマッチョイズムの押しつけに対し抗うid:iammg氏の姿勢は見習うべき点も多い、ということです。「ようは勇気がないんでしょ?」の壁を、彼女は易々と越えてしまったわけで。あと、教育は教育であり、ビジネスの子供ではありません!教育を変えろというのが「ビジネスに最適化された教育を行え」ということなら、僕はそれを支持することは全く出来ません!(これが一番言いたいことです)それは上に書いた通り、教育というのは根本的な能力を育成すべき存在であるからです。

それでは、この辺で。

*1:余談ではあるが、このエントリは全てCV:茅原実里で読むと南千秋が朗読しているように感じられる

*2:昔のことは知りませんが、今の知識偏重型の入試制度で、学校本来の目的である「現状分析能力」と「論理的思考能力」が正しく身についているのかを判断することは、ほとんど出来ないと思います。にもかかわらず、知識偏重型入試制度の結果がさもふたつの能力の証明書のように機能しているのです。

*3:私は、集団性やコミュニケーション能力の育成は、結果的に地域社会から学校に移管されましたが、今、学校はそれを行う能力を失い、本来の姿に回帰しようとしていると考えています。新たな移管場所を教育に求める事は同じ過ちを繰り返すことになりますから、それこそ学校と地域社会が「どちら」の論理ではなく、「学校が産み、社会が育てる」という形で、「どちらとも」の論理で養うか、家庭や学童保育のような機関で養っていくべきものであるとは思います

2008-06-23

馬鹿なのはゆとり世代じゃなくて

こんなことを言わなくてはならないのは本当にばかげていると思うのだけれど、どうも未だに「ゆとり世代はこれだから」で昭和61年生まれ以降を無批判に叩こうとする人がいるようなので、ここで一度書いておくことにする。

馬鹿な若者というのは、今更ここで言うまでもなくいつの時代にも一定数いたものである。説明書を読もうとしない人間も、不満ばかり垂れ流す人間も、あるいは飲酒喫煙を自慢したり、犯罪自慢をする人間だって、さらには中二病的な諸事象も、別に今の時代になって突然現れたわけじゃあない。昔からそういう人間はいるし、それは人間古来の欲求から来る衝動なのだから、存在しないはずがないのである。

かつて、若者のさしたる行動は、社会から隔絶され閉じられた学生特有のコミュニティ空間のみで共有されるものであり、「学生」間での出来事は大人達の構成する「社会」によって具体的に認知されるものではなかった。学生による行為は、その当事者間と学生コミュニティ内でのみ記憶されるだけで、その情報が「社会」に対し拡散することも共有されることもなかったのである。こんなこと、インターネット以前では新聞の三面記事に載るか載らないかという程度であって、存在していても誰も観測しない情報だった。学生が砂丘に文字を書いてみたり、意味不明な発言をしたりしても、社会の誰もそんなことを観測、しちゃあいなかったのである。

さて、そこでインターネットの登場である。インターネット上では、それまでほとんどの人間が目にすることのなかった三面記事ですら、誰かの手によって掘り出され2ちゃんねる等の掲示板に書かれることで、多数の目に触れることになる。あるいは、mixiやウェブ日記の普及によって、それまで当事者以外には誰も知らなかったような情報が、一次的に我々の現前に広がることになったことも大きい。Googleをはじめとする検索技術の発展により、全ての情報はひとつのレイヤー上に配置され、探そうとすれば誰もが同じような情報を探すことが出来るようになったため、「若者の愚行」は次々と掘り出されるに至ったのだ。

そして、それまでならそれまで「ああ、また馬鹿な学生が」で済んだことが「祭り」の作用により影響力を拡大させ……今に至る。

ここで「若者の愚行」が我々の現前に現れる過程を見れば分かるとおり、我々はただ端に、以前から存在していた「若者の愚行」というものを、インターネットの流通力により初めて観測したに過ぎない。そこには観測される以前から「愚行」は存在していたのであり、我々は愚行の初観測を、あたかもそこに存在していなかったかのように錯覚しているだけである。そしてインターネットの持つ凄まじいほどの情報伝達速度、そして同一の話題で日本中の人間が集まるという「集積力」の力を借りて(「祭り」の発生を借りて)情報は瞬く間に多くの人間に共有されることになり、ここで「俺らの世代はこんなんじゃなかった。こいつら馬鹿だ」という心理「ゆとり世代=馬鹿」という認識を生むに至る。インターネットが偶然にこの世代と重なったに過ぎないのに、それが全てであると錯覚する。あるいは、観測していないことは存在していないことと同義であると錯覚する。果たして、馬鹿なのはゆとり世代か、それとも「ゆとり世代」を猛進する個人か。いったい何がゆとり世代と君を分節するというのだ。中にはもちろん「いやあ、僕はネタとして『ゆとり世代』って言葉を使ってるんですよ。何マジになってるんですか」という奴もいるだろうが、ネタとしてでも何でも「ゆとり世代だから」という言説がどれほど愚かなことなのか、少しは考えろ。まあいいや。そうやっていつまでも自分を特別扱いしていればいい。

それにしても、昔は「夏厨」なんていって「その年頃の若い奴は、等しく馬鹿を抱えている」という印象が強かったのに(「中二病」という言葉だって元はそうだろう)、いつ頃から「ゆとり世代」叩きという愚行が始まったのだろうか。その辺はもう少し考えてみる余地がありそう。