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2008-07-09

「いじめ」と「いじり」の違いは何か

「いじめ」っつーか「いじり」だろ - ニート☆ポップ教NEO」を発端に、「ニコニコ大会議」で起こった事は「いじめ」なのか「いじり」なのか、という事が、問題からスピンアウトして一つの論争となっている。実際問題客観的に見て「いじり」と「いじめ」は区別がつかないことが多く、またいじめの当事者達が彼らの行動を自己弁護するために「今のはいじりだった」と言うことは非常に良くあることであるし、その逆ももちろんある。

「当事者が了解していたら、それはいじりだ」という言い方も出来るが、id:hokusyu氏が「いじめ/ファシズム/引きつった笑い - 過ぎ去ろうとしない過去」で述べているとおり、当事者(つまり「いじられ」「いじめられ」側)の意見が場の雰囲気によって歪曲されている場合も多く、その判定は難しいのが実情である。

なのでここでひとつ、僕が大いに同意する「いじり」と「いじめ」の決定的な違いについて、声を大にしていってしまいたい(もちろん異論は認めるし、俺定義なのでむしろ歓迎する。)。それは、

コミュニケーションの失敗をいじ(め)る側に置くのが「いじり」、いじ(め)られた側に置くのが「いじめ」

ということである。即ち、「いじり」とは、いじられる人間が外部化*1(いじる側とは違うポジションにいる、といった方がいいかも)されるかされないか、というギリギリのラインにあるが、それが「いじめ」ではなく「いじり」である時は、コミュニケーションの不全の責任は、すべて「いじり」側が持つべき、とされるのではないか。

もし、いじ(め)られる側がいじられて激怒した、あるいは「もうやめてくれ」と不快感を表明したとしよう。そのとき、「俺がやりすぎた」として、その責任をいじ(め)る側がとるのが「いじり」である。対して、その責任を放棄し、「お前何ムキになってるの?空気読めよ」と、周りの人間(集団)のために人間性の放棄を対象に求めること、これが「いじめ」である。いじめ(め)られる側は、あくまでも尊重されなくてはならない*2

これは、いじ(め)られる対象が集団に対する影響力を認められているか否か、という話と同じである。つまり、いじ(め)られる側の言説がいじめる側の言説と対等な、あるいは上位の意見として「俺が嫌なんだからもうやめろ」という感じに尊重されればそれは「いじり」であるし、行為をひとつのコミュニケーションとして両者が認識している証左であるととれる。一方、いじ(め)られる側の言説が全く無視され、全てがいじ(め)る側の論理に回収されてしまうこと、これが「いじめ」である。前者では一つのコミュニケーションが成立しているが、後者ではコミュニケーションのダシになっており、同一クラスタ上に彼は存在しない。その意味で後者は残虐性が伴うが、前者には残虐性は存在しない。*3 つまり、

いじ(め)られる側に反論の余地や主体性があり、かついじ(め)る側がそれを尊重するならば、そこにいじめはない(それはいじりである)*4もっとも、この微妙な主体性の扱いがあるからこそ、いじめといじりの境界というのは明確に設定できないし、どちらから見ても否定されてしまう現場というのが、確かに存在してしまう。

ということである。なお、この要件で「いじめ」が認定されるとき、つまり構造に加えて「主体性・尊敬の欠如」が存在するとされるとき、構造は完全に固定化されており、いじめの要件とされる「階層の固定化」と行為の継続にも合致する(というのも、いじり→いじめは存在してもいじめ→いじりは存在しない等、構造は不可逆的である)。

となると、「主体性や影響力・尊厳の欠如」の問題、つまり「彼に反論の余地や影響力・主体性、及びそれに対する尊厳が残されているのか」という問題が、構造の下部に存在することが分かる。まさしく、これが構造を完全化・固定化し、いじめの継続をもたらす第二のいじめの要件となっているのである。以下、ニコニコ大会議の現場においては「影響力の欠如」が発生しかかっており、逆に「はてなブックマーク」は同様の構造は持ちつつも「欠如」は発生していないことを示す。

(ただし、「主体性や影響力を残していても、あまりに酷かったらやっぱりいじめだよ」という意見はあると思う。その辺はやっぱりグレーゾーンになってしまうかな。完全なる二分法は不可能。)

大会議で、増田氏に「反論の余地や主体性、尊敬の念」はあったのか

はてブで件の例が批判されていたことについて、「セカンドいじめだ」という意見が散見出来たが、そこには確かに構造が存在しているものの、「多数に対して言論をもって反論する余地が残されている」という点(これはかなり大きい)や、「人格ではなく言説が理論的根拠から批判されている」という点、IDによって人格が特定できる点において、「欠如」が発生しているとは言い難く、真に「いじめ化」する危険性は僅少であるといえる。一方でニコニコ大会議の場合、既に指摘されているとおり、それが身体的特徴に端を発するものであったこと、運営側が「状態の継続」を狙うようなワーキングをしたということなど、「欠如」の要因が数多く存在しており、彼は大多数に抗う力を持っているとは言い難い。「いじめ化」する確率は、「セカンドいじめ」の言説に比べはるかに多い。

確かに、構造があるといって「いじめだ」と言い切るのは、些か早計であった。「いじり」をはじめとする、構造を逆に利用する形で成立するコミュニケーションの存在は認めなくてはならない。しかしそこに構造がある以上、それらが危険な行為であることには変わりない。「いじ(め)られる側が尊重されている」という状況がなくなれば、状況はいつでもいじめに転落し、言説を奪われた以上状況は半永久的に持続してしまう。そして、「大会議」の状況は、まさしくそのような状態にある。例えば彼はあの場所で反論できたのか。反論したところで火に油を注ぐ結果となるだけではなかったのか。ニコニコ動画で彼のMADが作られ、永久に「いじられる」可能性はなかったのか。彼はその時点で、自らのキャラクター化に対し抗う力を認められていたのだろうか。はてなにおける彼は、影響力や主体性を持っていた。しかし大会議における彼は、まさしくそれを有していない。ここにおいて、かの件は「いじめに転落する可能性を大いに有していた」ということができる。もはや「いじり」ではない。構造がいじめに転落しようとしているまさにその時、その場が区切られることによって彼は一時的に救われ、その一時性が今も続いているのである。あの場を舞台とした動画がニコニコ動画上にもっと広く出回っていたらと思うと、恐ろしくて仕方がない。

重要なのはこれから

だが、今考えるべき事は、このような危険性を秘めた「ニコニコ動画」というシステムや利用者はどうなるべきか、あるいは「ニコニコ生放送」というシステムが今後活用されるに当たり何に注意しなくてはならないのか、といった、「先」の問題である。「増田氏は耐えた。だからお前も」「これからもああいう路線で」というのは、さすがにマズい。また、ニコニコ動画利用者の一部が普段からかのような対応を目立って行っている(対象は動画の中の人間だが)ことは紛れもない事実であり、この「動画の中の人間」に向けられた視線が外部へと向くことは容易に想定でき、それは誠に危険なことである。ニコニコ動画はどうあるべきなのか。「ユーザーと共につくるニコニコ動画」と運営側が言っている以上、この件に関しては、利用者も共に考える必要があると思う。

番外:人間はキャラクター化の現場に耐えられるのか?

アニメの中の登場人物や有名人に加え、一般人が次々とキャラクター化して消費されていくのがニコニコ動画であることは、上記より垣間見えたことである。また、一度キャラクター化すると二度と「人間」に戻ることはなく、半永久的に弄ばれ続ける可能性もある。その状況をおもしろがれる人はいるだろうが、しかし一方でそれを嫌がる人もいる。このとき、後者は自主的にニコニコ動画から消え去る、という形で、最終的に「人間をキャラクタ化して遊べる人達」が集う場所として、ニコニコ動画が固定化しやしないだろうか。ニコニコ動画はこのままいくと自主的にそのような「文化」を身につけざるを得ないのである。そのようなニコニコ動画の存在自体を、インターネット全体が許すとは思えない。このままいくと、ニコニコ動画はいずれ淘汰されるべき存在に変質してしまうように思える。

なお、過去のエントリを含め、「いじめ」についていわゆる「集団いじめ」を想定した。また、()を多用したため見にくくなってしまったのは大変申し訳ない。

(7月10日注釈追加)

*1:「過度に内部化ではないか」と指摘されたが、そういう言い方も出来ると思う。よってたつポジションの違いかな、と思ったので、今回のエントリでは混乱を避けるためにこのような書き方をする。だが、あまりこういう言い方はしない方がいいな。

*2:もちろん、ギリギリのラインにある「いじり」という行為を認めるか否か、という根源的な話は別にある

*3:さらに言ってしまうと、いじめの現場においては、「いじ(め)られる側ではない側」、いわゆる「いじめを傍観している人間」も、自ら言説するという人間性・主体性を奪われてしまった存在である。但し、いじ(め)られる側に主体性が残っていれば打破出来る状態であるから、その消失を境に「いじり」と「いじめ」を区別して良いと思う。

*4:もちろんこれは、いじ(め)られ側が「いじめだ」と感じれば、そこに「いじめ」がある、という言説をも内包する。それは「いじめだからやめろ!」という「いじ(め)られ側」の「主張」が尊重されていないことと同義だからである。そもそも、感覚的にいじめを感じるのは上のようなことが起こっている時だ。

2008-03-12

学校裏サイト問題の本質は「いじめ」問題であることを、ほとんどの人が認識していない

どうも最近「学校裏サイト」の話題が白熱しているが、多くの人は「学校裏サイト」なるものが「パケット定額」等におされて突然現れてきた物だと勘違いしている。そんな馬鹿な。*1

学校裏サイトは突然出てきた訳ではない。まず最初に起こったのは、インターネット上に生徒のコミュニティが出来てきたこと、だ。つまり現実世界における生徒達のコミュニティが、携帯電話の普及やら何やらでインターネット上にも延長するようになったのである。つまり彼らは「仲良しグループ」をそのまま移植させた形のウェブサイトを作り、そこにある掲示板で、学校で行われている日常会話を自宅でも楽しんだのである。

いじめというのは突発的に起こる。なぜだか分からないけど起こる。だからいじめ問題というのは解決が難しいし、長い間社会問題になっている。現実社会におけるコミュニティがインターネット上に延長されるようになったということは、現実で起きたいじめはネット上のそれにも飛び火する。こうして、現実でのいじめに呼応する形で、健全なインターネット上のコミュニティサイトが裏サイト化するのである。学校裏サイトというのは突然ひょいと現れるのではなく、普通の掲示板なり共同日記なりが現実のいじめに呼応する形で徐々に裏化していくのである。

また、現実のコミュニティがインターネット上に延長している、つまり彼らにとってのインターネットは現実の延長線上として機能している以上、インターネットからいじめが発生するということも十分に考えられる。特にインターネット上でのコミュニケーションというのはそこに書かれた文字しか情報がなく、そのためしばしば暴力性を伴ってしまうため、それが些細なけんかに繋がりやすい。些細なけんかというのはちょっとしたことですぐいじめに繋がってしまうので、そうやって「インターネット上の暴力性を伴った文字情報がいじめを引き起こす」といったことは十分に考えられる。つまり、「インターネット発のいじめ」がたけのこのように出てくるわけである。

しかし、いずれにせよ大切なことは、学校裏サイトの問題というのはそれ単独で論じるべき問題ではなく、常に現実のいじめ問題とセットになっていることである。インターネット発にせよ現実発にせよ、いじめがインターネットだけで行われるということはまずなくて、ほとんどの場合は現実でもいじめが起こっている。「インターネット上でのみいじめられている」なんていうことが起こっているような錯覚を覚えてしまうのは、ネット上におけるいじめはいじめの内容が文字情報としてそこに記録されているからだ。現実のいじめというのは非常に陰湿になっていて、誰がどこでいじめをしているのか、全く分からない場合も多くて、「これ、本当にいじめ?」というケースが多いのだけれど、ネットの場合「とりあえずいじめられているらしい」ということはすぐに分かる。この点が、「学校裏サイト問題はいじめ問題とはまた別」という認識を呼んでいるのだろう。

だからこそ、「学校裏サイトは見つけたら閉鎖に追い込むのが一番いい」などと間抜けなことを抜かしている学校教師・自称専門家は今すぐ反省するべきだ。背後にはいじめ問題があり、そのいじめ問題を根絶しなくては「学校裏サイト」問題はなくならない。逆に背後にあるいじめ問題を見つけられないままサイトを閉鎖に追い込むことは、現実におけるいじめを発見する絶好のチャンスを逃すことにつながるばかりか、サイトのさらなる「裏化」を招くだけだ。また子供から携帯を奪うことに関しても、彼をそのコミュニティから孤立させてしまう可能性があるので、考えものである。必要なのは「コミュニティサイトが裏化したら、速やかに現実において火種を見つける」ということであって、インターネット上だけで対処しようとするのは完全に間違っている。

この問題はどうも従来のいじめ問題と別個のものだととらえられがちだけれど、そんなことはない。生徒にとって、携帯の中に広がるインターネットというのは、まさに学校の延長線上であって、学校裏サイトの問題は必ず現実のいじめ問題とリンクしているのである*2。この問題を論じている技術者・専門家は直ちにそのことを頭に入れるべきであり、ここに技術的・人文的視点を統一した総合的視点が要請されている。もちろん、はてなを普段から見ているような人間はこんなこともとから分かっているとは思うが、専門家を称する文系学者の中には「ネットで起こっていることは技術屋の範疇であり、自分たちの庭とは何ら関係ない」と思っている人間がいて、そういった趣旨で書かれた記事(URLは挙げないが、「裏サイトは見つけたらつぶす」「裏サイトにはアクセスできないようにする」等の解決法を挙げた記事)は非常に多いのが現実だ。

なお、わいせつ画像が云々とか、そういうのだって元々は生徒達同士が仲間うちでエロ本を交換していたみたいなのがデジタル化されただけ。「女の子が裸をアップ」とかは、「学校裏サイト」で行われていることではなくて、「ガキが集まるサイト」で行われていること。「学校裏サイト」の定義自体があやふやになっていることにも注意をしたい。ここでは「同じ学校に所属している生徒達が集まって特定の生徒をいじめているサイト」とした。でないと学校裏サイトじゃないでしょ。

*1:追記:昼間のワイドショーなどで、子供達に及ぶ危険と称してこういった問題がよく扱われている。一度ニートになって見るべし。

*2:もちろんインターネット上にのみある独自のコミュニティもある。でもそこから酷いいじめが始まるということはない。なにせコミュニティへの出入りが頻繁にあるので、いじめなんてしている余裕はないし、いじめの対象はさっとそのコミュニティから退ける。現実ではそうはいかない。

2008-03-09

何がサービスを閉鎖的にするのか

はてなは閉鎖的だといわれる。同様にmixi2ちゃんねるニコニコ動画も閉鎖的だといわれる。では閉鎖的に見える原因はどこにあるのだろうか?

...簡単な話である。そこにコミュニティ的な要素が存在する限り、外部から見たそれは閉鎖的なものに映る。別に真にコミュニティが存在する必要はない。つまり内部の人が「俺、このコミュニティに属しているから」と自覚している必要はない。外部からみてそこにコミュニティがあるように見えれば、直ちにそれは閉鎖的であると判断される。

もちろん、コミュニティの形成要因はサービスによって様々である。代表的な事例は「会員登録制度によるコミュニティ化」と「共通の話題に伴うコミュニティ化」だろう。個人的には前者を「上からの閉鎖性」、後者を「下からの閉鎖性」と呼んで、同じ閉鎖性でも性質が全く異なることを常に意識するようにしている。*1もちろん、はてなや2ちゃんねる等の事例もあるので、この二つのみが原因であるということは全くなく、実際は多くの要因が複雑に絡み合ってコミュニティ化を引き起こしていると言える。ただし、基本的にこれから述べる閉鎖性が生まれるのは圧倒的に「下からの閉鎖性」であって、「上からの閉鎖性」は形式的な閉鎖性を作るにすぎない。

コミュニティが起こるところには、閉鎖性がみられる*2。それはコミュニティ外部から見た場合、コミュニティ内部は彼らがそれを自覚しているか否かに関わらず常に「なれ合い」的な要素が含まれているものであり、また外部にいる人間はコミュニティの外部にいることを自覚した時点である種の疎外感を持たざるを得ないからだ。またコミュニティの内部には必ずといっていいほど独自の文化が形成され、その文化なり空気なりを全く見たことがない人間がそこにとけ込もうとすると、彼は「自分はここにいてはならないのだろうか」という強烈な違和感と異質感を感じるものである。だからこそ、コミュニティ的要素を伴う全てのウェブサービスはある種の閉鎖性を必ず有しているということが出来る。つまり、コミュニティが生成されることと、閉鎖性が生まれることは切っても切り離せない関係にあるのだ。内部の人間がどう思っているかに関係なく、外部の人間が「あそこには人のクネクネがある」と感じた時点で、それは閉鎖的であると判断される。

そして閉鎖性がコミュニティを完全に支配し、人の出入りが途絶えたとき、そのコミュニティは終わりの始まりを迎えることになる。「はてな」が死なないためには、この終わりの始まりを迎えないよう、人間の流動性が確保されていなくてはならない。コミュニティから生まれた閉鎖性に逆に支配されないようにしないと、コミュニティベースなサービスは死ぬ*3

コミュニティが閉鎖性に支配されるときというのは、たいていそこに帰属意識が生まれたときだ。*4つまり、「外から見た場合の閉鎖性」だけではなく、「内部の人間が自覚する閉鎖性」をもそのコミュニティが有している状態となったときである。このとき、内部の人間は新参を拒絶する心理的傾向が生まれるから、そうなるともうそのコミュニティは終わりだ。コミュニティのアイデンティティはそこにあった独自の文化から「特定の人がいること」に移行してしまう。インターネットの世界でも、これからそういうことが起こってくるかもしれない。

その意味で、mixiは「上からの閉鎖性」はあるが「下からの閉鎖性」は全く存在していない*5ため、「独自の文化が生まれる」という面白さもない代わりに、帰属意識の発生もなく、だから衰退することもない*6。mixiが閉じて見えるのは、それはmixiが「現実の延長線上」として機能しているからであり、インターネット独特の要素(不特定多数云々)がかけているからだ。ただ単に、インターネットの特徴である「無限の広がり」が存在しないから、現実の関係がそのままネットに持ち込まれているから、そこに僕たちは「ネットなんだからもっと広がりがあってもいいはずなのになんで」と違和感を抱き、あるいは日常ではセグメント化されている関係性が「実社会」の名の下にフラット化されることで、別種の閉鎖性を認識するのである。

コミュニティを基盤としたサービスは必ず閉鎖的になる。ここにおいて我々はインターネット上でもある種の「コミュ力」をつけなくてはいけないし、「おれコミュ力ないしw」等といっている人間も、彼がTwitterやはてな村に入り浸っているならば、一定以上のコミュ力は潜在的に持っていると考えられる。現実世界において彼ないし彼女が社会にとけ込むために必要なのは、相手の顔が直接見えることへの承認と慣れであり、その場の空気にとけ込む勇気であり、そして他人に話しかける勇気である。「コミュ力がなくて...」といっている人は、そもそもこういった「コミュ力の土台となる部分」への慣れが欠けているのではないだろうか。中高一貫校を卒業した自分もこういった部分がかなり欠けていて、初対面の方に会うとおどおどしてしまうことが多い。なんとかしなくては。

*1:mixiは登録がそもそも制限されているから、これは運営側から押し付けられた閉鎖性である。ニコニコ動画はワンステップの登録さえすれば中を見ることが出来るが、内部では共通の話題をベースとしたある種の閉鎖性が存在する。これはユーザーサイドから生まれた閉鎖性であるので、「下からの閉鎖性」と呼べる。

*2:外部から見たら閉鎖的に見えるということ。

*3:まあ、はてなはコミュニケーションを意図したサービスではないけど

*4:正確にいえば「コミュニティの内部で文化が発生し、そこに親しんでいた時点で無意識的には有していた帰属意識が、意識化されたとき」という感じだろうか。

*5:現実におけるコミュニティ集団がそのままインターネット上に移植されたにすぎず、mixiは単なる「現実の延長線上」でしかない。つまり、全く新しいコミュニケーション空間ではない。

*6:飽きられるってことは十分に考えられるけど、コミュニティの寿命云々の話は適用されない