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2012-10-24

だから「ネット/現実」の二分法はやめろと……――「ネット中毒」について

ネット依存について思うこと | blog.yuco.netについて。

インターネットが承認欲求を充足させるものであることは前に書いたこともあるが、私はそれ以上に「ネット/現実」という二分法を未だに続けていることを問題としたい。ちなみに、この件についてもかなり昔に書いたことがある

上記記事の問題点:リアルとネットの切断をめぐって

ロハス生活をするのがそんなにエラいのか?ともかく、くだんの記事においては、インターネットを現実から遊離した存在であるという前提が貫かれている。その前提こそが、我々がまさに問題としたいところである。例えばこの記述。

クローズアップ現代で放送された韓国の子供のエピソード(親子関係に問題があり、ネットで親に対する不満を吐き出していた)を見て、やはりリアルに問題があって、逃げ場としてネット依存になるのだなぁと思った。単純にネットをn時間以下にするというより、リアルの問題を解決する必要がある。

「逃げ場としてネット依存になる」。確かにそのように見える。しかしもしインターネットがなければ、その少年*1は、おそらく他のどこかのコミュニティ、例えば「悪だくみ仲間」であるとか「日頃つるむ人間」であるとかに、その吐き出す先を見つけたであろう。しかし、「少年が悪だくみ仲間に親の悪口を言いまくっている」という時、我々はそこで「特定のコミュニティに依存している」などという言い方はしない。また、「その仲間が悪い」という言い方もしない。あくまでも悪いのは現実における家族関係であり、その吐き出し先がどこであるかは問題とならないのである。

――まさにここに、問題の核心がある。我々はインターネットと現実という二分法を好みすぎるあまり、インターネットなる単語が出てきた瞬間にそこに問題を見いだそうとする。そうではない。インターネットとは、我々の前にあるインフラであり、現実世界を拡張する存在でしかない。もっとも、yuco氏はおそらくそのことに気がついているのだろう。「リアルの問題を解決する必要がある。」その通りだ。いや、少し違う。問題はリアルの中にしか存在しない。

ネットで表現するのが楽しいと思った人は、一度は「ネットで自分を表現することで大衆に愛されたい」と思ったことがあるのではないか。実際それに成功しているように見える人もいて、その人の愛されぶりもまたネットで伝わってくる。私も、twitterでたくさんRTやfavされたとき、あるいはブログにはてブが集まったとき、「脳内にドーパミン出てる感」を味わい、ネットから身を離すことが難しくなる。

「ネットで」という枕詞をつけることで、あたかも議論は成立しているかのように見えるが、そうではない。それは、本人の記述にも現れているように思われる。

ネットと不健全な関わりをしないためにはリアルを充実させることが大切、しかし一朝一夕にリア充にはなれない。表現欲もつながり欲なども基本的には悪いことではないし、リアルにつながることもある。「結局バランスが大事」というつまらない結論になってしまう。

「ネットで表現するのが楽しいと思った」ことが講じてインターネット依存症となっているように見える者は、「現実での充足が足りない」という根本的な問題を抱えている。その者の充足がたかだかインターネットごときで得られるのであれば、それは十分に幸せなことではないか。「バランスが大事」なのではない。趣味で自己顕示欲を満たしたいのであれば、生活を切り詰めない限りにおいてそれを実行しなければならないという、ただそれだけのことである。ただそれだけのことが、インターネットなる魔法のワードを持ち出すことによって、あたかも「ネット特有の現象」であるかのように勝手に位置づけられてしまっているのだ。

件の記事の著者は、「ネット―現実」という二分法を用いているのにもかかわらず、そこにはその二分法によって処理できていない問題が多数存在していることを自分から示している。まさに、我々が「ネットの」という言葉に踊らされているに過ぎないのだ。よく記事を見てみてほしい。インターネット常用者には「そして表現にレスポンスがあるのは基本的に喜ばしいことだ――ここで、ループしてしまうのである。」という言葉は鮮烈に思えるかもしれない。しかし何気ない日常会話、飲み会の雑談、そういったものも、「ループ」で終わってしまうのではないだろうか? 記事の著者が言うとおり、我々は「知らない人から愛されたい」のだろうか? 「誰かから愛されたい」のではないだろうか? あとは単純に、その数の問題となる。当然、インターネットのほうが不特定多数に伝聞されやすく、また情報のフィードバック可視化されるため、「知らない人」の数は多くなる。紐解いてみれば、「ネット特有」とは言えなくなってくる。

「ネット―現実」の二分法はいつ見失われたのか

この方がインターネットから離れた後、若者世代とインターネットを取り巻く環境は大きく変わった。それまでは、インターネットの関係というのは、ネットから出発して現実に「オフ会」として回帰する存在であったのかもしれない。しかし若い者の間では、LINEにもfacebookにもmixiにもTwitterにも、「オン」の友人と「オフ」の友人が同居している。ネット上では、顔を合わせたこともないような者の悩み事に付き合うこともあれば、親友の悩み事に付き合わないこともある。つまり、インターネット/現実という二分法は、「インターネットから現実へ」という越境だけではなく、「現実からインターネットへ」という越境をもソーシャルメディアが引き起こすことで、完全に崩壊した。故に、何らかの問題を抱える者の原因がどこへあるかなど分からない。そのものがたまたまインターネットという場所に居場所を見つけただけである。

ソーシャルメディア時代、「ネット-現実」という二分法は完全に崩壊した。それは上述したとおり、インターネットがかつてのように独立な場所でなくなったことが決定打となったのだろう。文化や作法、表現など全てが両者の垣根を越える。インターネットはもはや我々にとって現実の一部を超えた「インフラ」であり、私が最初に「ロハスな生活を」と書いたのもまさにその意味を込めている。

二分法がもたらす問題

生活を崩壊させるのはインターネットではなく崩壊者の意識である。それはインターネットが楽しいからではない。流れ着いた場所がたまたまインターネットであった、ただそれだけのことである。

IT会社を経営する只石さん。去年まで1日100回以上書き込み。いまは、1日の利用時間をタイマーで20分に制限。ネット上のつながりは4000人以上。頻繁に連絡をとるのは100人程度に絞った。

20121022 #NHK クローズアップ現代「“つながり”から抜け出せない〜広がるネットコミュニケーション依存」 - Togetter

この事例もそうだ。この人は、昔ならワーカーホリックとなって家庭を顧みないような方になっていたかもしれない。所詮インターネットとはその程度の存在であり、「インターネットに依存している」という事実があるだけで、問題がゆがめられてしまう。この方が問題としているのは、「ネットに依存すること」ではなく「家庭を顧みないこと」であろう。それがなぜか、問題が前者の方に過度に強調されてしまっているのだ。

まさに、二分法がもたらす問題とは、問題が発生している原因や理由を顧みることなく、現実から見れば異世界のように思えてしまうインターネットが、原因のはけ口として利用されてしまう点である。インターネットはその点において、過小評価をされている面もあれば、過大評価されている面がある。つまり、良い点は過小され、悪い点は過大されている。――そのように、魔物を見つめる目線でインターネットを見つめることこそが、「新しい問題」「新しい病気」を勝手に作り出しているに過ぎないのではないか。

二分法を超えて

「インターネットは制限されなくてはならない」と考えているような老人世代には、インターネットについて語ってほしくない。「インターネットが既にインフラの域にまで達している」ということは、もはやその是非を議論する存在ではなく、既に前提となっているのだ。そして、我々の間には、もはや「現実/ネット」などという区別など存在しない。

その前提を知っていれば、「ネットが出来たからつながりへの依存が発生した」というような論調で文章を書くようなマネはしないだろう。それは、インターネットが文字を媒介とするために、単純に可視化されただけの話である。もしかすると「自分や他人がそのことに気がつきやすくなった」ことが、「中毒」を自称/他称する者を増やしたのかもしれない。

二分法がある限りインターネットは責任を押しつけられ続けるだろう。そして我々は、本当の問題を見失っていく。インターネットが持ち出されるだけで、「学校裏サイト」や「ニコニコ動画で生主の家族が」や「Twitter中毒」といったミクロな現象の背後に壮大な悪の枢軸があるように思えてしまう。しかし問題はより個別であり、より現実的である。インターネット中毒になっているのは、「つながり依存」等の問題を全てインターネットに押しつける、彼らなのである。

*1:私は放送を見ていないので、的外れになっていたら大変申し訳ない

2012-03-02

『絆』再考−−我々はなぜ『絆』という言葉を嫌悪するのか

震災から一年がたとうとしている。その中で印象的であったことは、やはり「絆」という言葉が連呼されたことであった。多くの場合、インターネットコミュニティ上で、この「絆」という単語は反発をもたれていた。Twitterにおいても、「何が絆だ」「これは【ほだし】(束縛)のことだ」等々、反発の声が非常に高かったことを覚えている。

では、なぜインターネット上では、これほどまでに「絆」に対するアレルギーが強かったのか。それは、今まさに記述した文章の中にあるのではないか。そう、「アレルギー」だ。

なお、さしあたり本稿では、「絆」を「(不特定の)人と人とのつながり」であるとしておく。

昔から存在した「ネットの絆」

 そもそもインターネット(不特定多数とのやり取りを行うウェブ上の場所のことを本稿ではこのように記載する)とは、「絆」を描くことに長けたメディアであった*1。偉い人はこれを「互酬性が高い」と表現するらしい。つまりこういうことである。『Yahoo!知恵袋』に大学入試の問題を貼りつけたとする。1万人それを閲覧した中、1人が返信をしたとする。これだけで、貼りつけた者は「よかった、ありがとう」と思う。そして、そのやり取りが情報として残り続ける。あるいは、他の人も同じ事を行い、それも残り続ける。これら全てが連鎖していくことで、「誰かを助けたら、いずれ誰かが自分のことも助けてくれるはずだ」と思う事のできるシステムが完成する。全くの見知らぬ他者ばかりである世界それ自体に対し、「信頼」が生まれるのである。

 これは、よくある「誰かを助けたら、いずれその人から助けてもらえる」という返報性規範とは異なっており、不特定多数への信頼を可能としている。まさに「インターネット」は、ユーザーによって互酬性の高いシステムとして信頼され、あるいはそのような姿を見せてきていたのである。

ソーシャルメディア時代と「境界」の消失

このたぶんどこかで学んだのであろう文体の文章(2008年)では、「インターネットと現実世界には違いはない」ということを記述した。そして2008年以降、この流れはソーシャルメディアとスマートフォンの普及により、あらゆる情報・人・時間へと拡大した。つまり、「いつでも、どこでも、だれとでも、なんでも」コミュニケーションが取れる時代が到来したのである。ここでは、すでに「現実」と「ネット」という壁は完全に取り払われている。もちろん、「facebookは実名、TwitterはHN」という人もいるだろう。しかし、それでもなお壁は取り払われているのだ。そこにある区別は、大学の友人に高校の同期の話をしないようなものである。

 さて、今読むと気持ち悪い文章(2008年)では「インターネット上では『つながりの実感』を作ることが出来る」と書いた。この「つながり」は「システム」が存在してこそ成立し得たものであり、その上に現実の様々なものが乗っかってきたと考えてよいだろう。

「飲みに行きたい」といえば誰かが応答してくれるかもしれないし、応答してくれなくても構わない。システム全体に対する信頼は、入っているコミュニティ・利用しているサービス全体に対するそれであり、「つながっている感覚」の源泉である。そしてこの「つながっている感覚」こそが「絆」ではないか。ネット上に脈々と存在していた小さな「絆」は、「インターネット」を土俵としている限りにおいて全てのものにつながりうるものとなった。いや、全てではない。「ネットとの差別化」「ネットへの対立」を打ち出している既存のメディア全ては外部化された。その結果、それに対して異常な敵対心を抱くものも出てきている。

絆への嫌悪

 では、なぜ我々は「絆」という言葉に対し「アレルギー」を起こすのか。それは、ネット上でのそれが我々にとって最も快適な「絆」のあり方であると気がついてしまったからではないか。そして、同じあり方は、社会という我々が信頼していないシステムの上では再現不可能であることを、皆知っているからではないか。

 ネット上においても、「mixi疲れ」などに現れたとおり、「過剰なつながり」はしばしば我々を疲弊させていた。それが現在になって、我々はようやく「現実とネットのすり合わせ」をマスターし、丁度よい位置に収まったのではないか。そしてそれが現時点で最も快適なあり方であるからこそ、他者からの「絆」の押し付けにアレルギーを起こすのだ。

我々は、これが「インターネット上だからこそ成り立っている」ことに気がついており、同時に「現実では起こりえない」こともわかっている。あるいは、現実にはこれ以上に快適な互酬性のあるシステムなど作れやしないことを知っている(「社会」という現実に存在するシステムに対する信頼は、もはやほとんど存在しないだろう)。だからこそ、「外の世界からの『別のつながりのあり方』の押し付け」に、過剰に反発するのである。

 極めつけなのは、その「外からの世界」が、「メディア」である点である。社会に信頼をよせるものは少ないだろう。しかしメディアが訴えるのは、「社会を信用せよ、さもなくば我々を信用し共にこの社会を変えよう」ということである。「絆」という単語は、それをさらに強調し、挙句の果てに曝け出す。絆とは、もはや何らかの中心的存在によって担保されるものではない。「システム」それ自体が信頼されることによって初めてその上で自然発生的に生まれるものなのだ。特に近年連呼されているのは「不特定多数の絆」であり、社会それ自体への信頼は必須であるといえる。

だから我々は「絆」を嫌悪し、批判してきた。私はそれで問題ないと思う。なぜならば、我々はまだ『情けな人のためならず』が成立する世界を持ち続けているのだ。

*1:ちなみに今調べたところ、『きずなをつなぐメディア—ネット時代の社会関係資本』(NTT出版)という本があるらしい。読んでいないので内容は不明

2011-01-15

Facebookの致命的な弱点は何か?

日本でFacebookの普及を妨げているのは、実名主義ではない、かもしれない - night and sundial diaryを読んだ。本記事では、Facebookmixiのような流行につながらない理由として、匿名主義を排し、「インターフェースが日本人には不向きである」ということを第一に挙げている。

日本でFacebookの普及を妨げる要因があるとすれば、匿名・実名よりもむしろこの点、インターフェイスに対する違和感なのではないだろうか。実は、このあと説明するように、Facebookのインターフェイスは実に良く出来ている。ただ、その方向性が、日本人には向いてないのかもしれない、とおもわないではないのだ。

基本的に、私はこの意見に対し口をはさむ気はない。また、日本人は匿名主義に陥っているためにFacebookのような「実名主義」のサービスには加入したくないのだ、という意見を支持する気もない(そもそも、昔はmixiだって実名登録を推奨していたのだ)。私は二点、決定的にfacebookがmixi、ひいては日本の文化に対し合わない点があると考えている。

ひとつは、どう考えてもローカライズ、日本語対応の面であろう。Facebookでは自らの経歴を記述することが推奨されているが、例えば卒業高校ひとつとっても「東京高校」「東京高等学校」「私立東京高等学校」「Tokyo High School」などの表記が混在しており、我々はその中からどれが主たる表記であるかを瞬時に探すことができない。mixiの場合、コミュニティ検索を利用してメンバー数からおおよそどのコミュニティが主たるそれであるのかを推測することができるが、Facebookの場合、そこにたどり着くためには、入力画面から数ステップ必要となっている。名前の登録に関しても、漢字表記、ヘボン式ローマ字表記、日本式ローマ字表記などが入り混じっており、実名登録を推奨しているわりには記載方法が厳密に定められていないため、友人を見つけだすことが非常に難しい仕様となっている。もちろん、海外では我々が赤外線通信を行うのと同様の感覚で、Facebookの個人アドレスをやり取りするような文化があるのかもしれないが、そのような文化が築かれる前の段階を、日本ではクリアできそうにないのが今のFacebookのローカライズ対応なのである。

もっとも、それ以上に思うことがある。それは、mixiが個人よりもグループに主眼を置いており、個人間のつながりに関しても、グループを介したそれを重視しているのに対し(もっとも、Facebookが広まり始めてからの「改悪」によってそうでもなくなってしまったのだが)、Facebookはむしろ直接的な個人と個人のつながりを重視しているという点である。mixiには、「コミュニティ」機能があり、多くの人物が自らの属性の表明や連絡のために「コミュニティ」機能を利用している。そう、属性の表明のために、一般的には自己紹介欄よりもコミュニティへの参加が選ばれることが多い。また、メンバーをグループ別に分ける機能や、日記などの公開範囲を選ぶような設定も存在しており、我々はそこで「グループの中の一人」ということを意識せずにはいられない。対してFacebookでは、属性はグループにあるのではなくあくまでも個人にあり、共通の属性を持った人間の集まりがグループとして認知されるような構造となっている。事実、彼らの提供するグループ機能はあくまでも「おまけ」的な位置づけに終止しており(知恵袋やOKWaveで検索すると、「Facebookにはmixiのようなグループ機能はないの?」という質問が山ほど出てくる)、mixiのように「コミュニティにも主眼が置かれている」ということはない。いや、探せばそのような機能は実はあるのだが、インターフェースの奥底に意図的に沈まされているのだ。*1

私は、別に「日本人は個人主義的ではない」等と結論付けるつもりはない。あくまでも、両者の思想が違うのだろう。mixiというのは、個人のつながりよりもコミュニティを維持することにも適しているが、Facebookは徹底的に個人のつながりを維持することに適している。それだけのことである。実際には、mixiもFacebookも双方の機能を搭載していることにはしている。しかし、インターフェース上の設計を考察するかぎり、Facebookは明らかに個人に主眼を置いているのに対し、mixiはグループというものを重要視しているように思えるのだ。

これは、mixiはただ単にFacebook的なものが流行しているからと言って、その要素をやみくもに取り入れればいいわけではないことも表している。Facebookに欠けているものとしてのコミュニティ維持機能について、彼らはそれを一つの貴重な財産だと意識したうえで設計を行うべきなのではないか。そう考えると、Facebookが台頭したあとのmixiは、本当に迷走しているとしか言いようがない。トップページ、とくに新着通知部分はかなりfacebookに近づいたところがあるが、mixiがFacebookのものまねをしたところで、Facebookが2バイト文字の不自由さを解消してしまえば、mixiの必要性などどこにもなくなってしまうのだから。

先ほどの記事では、「Facebookでの体験は友だちがすべてなのだ。」という一文で記事が締められていた。私はそこに、次の文を追加したい。そう、「mixiでの体験は、コミュニティがすべてだったのだ。しかし彼らはFacebookという『毒盃』をあおってしまったのだ」と。

*1:なお、もしかしたらこれはFacebookはもともと一つの大学のための専用SNSであったからかもしれない。

2008-06-23

馬鹿なのはゆとり世代じゃなくて

こんなことを言わなくてはならないのは本当にばかげていると思うのだけれど、どうも未だに「ゆとり世代はこれだから」で昭和61年生まれ以降を無批判に叩こうとする人がいるようなので、ここで一度書いておくことにする。

馬鹿な若者というのは、今更ここで言うまでもなくいつの時代にも一定数いたものである。説明書を読もうとしない人間も、不満ばかり垂れ流す人間も、あるいは飲酒喫煙を自慢したり、犯罪自慢をする人間だって、さらには中二病的な諸事象も、別に今の時代になって突然現れたわけじゃあない。昔からそういう人間はいるし、それは人間古来の欲求から来る衝動なのだから、存在しないはずがないのである。

かつて、若者のさしたる行動は、社会から隔絶され閉じられた学生特有のコミュニティ空間のみで共有されるものであり、「学生」間での出来事は大人達の構成する「社会」によって具体的に認知されるものではなかった。学生による行為は、その当事者間と学生コミュニティ内でのみ記憶されるだけで、その情報が「社会」に対し拡散することも共有されることもなかったのである。こんなこと、インターネット以前では新聞の三面記事に載るか載らないかという程度であって、存在していても誰も観測しない情報だった。学生が砂丘に文字を書いてみたり、意味不明な発言をしたりしても、社会の誰もそんなことを観測、しちゃあいなかったのである。

さて、そこでインターネットの登場である。インターネット上では、それまでほとんどの人間が目にすることのなかった三面記事ですら、誰かの手によって掘り出され2ちゃんねる等の掲示板に書かれることで、多数の目に触れることになる。あるいは、mixiウェブ日記の普及によって、それまで当事者以外には誰も知らなかったような情報が、一次的に我々の現前に広がることになったことも大きい。Googleをはじめとする検索技術の発展により、全ての情報はひとつのレイヤー上に配置され、探そうとすれば誰もが同じような情報を探すことが出来るようになったため、「若者の愚行」は次々と掘り出されるに至ったのだ。

そして、それまでならそれまで「ああ、また馬鹿な学生が」で済んだことが「祭り」の作用により影響力を拡大させ……今に至る。

ここで「若者の愚行」が我々の現前に現れる過程を見れば分かるとおり、我々はただ端に、以前から存在していた「若者の愚行」というものを、インターネットの流通力により初めて観測したに過ぎない。そこには観測される以前から「愚行」は存在していたのであり、我々は愚行の初観測を、あたかもそこに存在していなかったかのように錯覚しているだけである。そしてインターネットの持つ凄まじいほどの情報伝達速度、そして同一の話題で日本中の人間が集まるという「集積力」の力を借りて(「祭り」の発生を借りて)情報は瞬く間に多くの人間に共有されることになり、ここで「俺らの世代はこんなんじゃなかった。こいつら馬鹿だ」という心理「ゆとり世代=馬鹿」という認識を生むに至る。インターネットが偶然にこの世代と重なったに過ぎないのに、それが全てであると錯覚する。あるいは、観測していないことは存在していないことと同義であると錯覚する。果たして、馬鹿なのはゆとり世代か、それとも「ゆとり世代」を猛進する個人か。いったい何がゆとり世代と君を分節するというのだ。中にはもちろん「いやあ、僕はネタとして『ゆとり世代』って言葉を使ってるんですよ。何マジになってるんですか」という奴もいるだろうが、ネタとしてでも何でも「ゆとり世代だから」という言説がどれほど愚かなことなのか、少しは考えろ。まあいいや。そうやっていつまでも自分を特別扱いしていればいい。

それにしても、昔は「夏厨」なんていって「その年頃の若い奴は、等しく馬鹿を抱えている」という印象が強かったのに(「中二病」という言葉だって元はそうだろう)、いつ頃から「ゆとり世代」叩きという愚行が始まったのだろうか。その辺はもう少し考えてみる余地がありそう。

2008-06-21

いい加減、インターネットという共同幻想から目を醒ましたらどうですか

未だに、インターネットは現実とは全く違う理念で動き、そして独自の世界を築き上げていると思っている人がいる。そういう人は、例えば「インターネットでは簡単に儲かるらしい」と豪語してしまったり、「インターネットでは全てのものが『無料』であることが理念として存在するから、なんでもタダで入手してOK」とか、「インターネットでは加藤が神扱いされている。気持ち悪い物だ」等と言ってしまったりする。あるいは、最近見られた「ニコ動でアニメの本編が削除されるのはおかしい。だって宣伝効果があるんだもん。インターネットならではのそういう新たな面を認めようよ」なんていうのもそれに含めてしまっていいかもしれない。実際本当にそうであるのかは全く確認されていないのにもかかわらず、「インターネットだから」という理由だけで、現実とは違う<何か>が存在するような錯覚を持ってしまう。

錯覚を錯覚と認めよう。もう、インターネットの独自性なんてものは存在しないのだ。インターネットは現実の空間と複雑に絡み合い、既に一体化している。もう「現実」と「インターネット」の二項対立に意味はない。だいたいあの陳腐化された概念である「ネチケット」だって見てみなさい、あんなのは、普段生活するときに我々が守っているルールを、ただ明文化しただけだ。

だからもう、メディアの人たちも「インターネットでは」と一般化するのはやめなさい。それはインターネット上に存在しているある種のコミュニティをさしているだけであって、それはインターネット以前にも存在していた感情が、我々の目に見える形で顕在化しただけだ。まるでインターネットに特殊性の根幹があるかのような認識論は全く意味がないのだ。もちろんこれはネット利用者にもいえる。「ネットで儲けるな」という主張は無駄だ。「インターネットでは儲けてはいけない」なんていうこともなければ、「インターネットでは簡単に儲けられる」なんてこともない。あるいは「発狂小町の閉鎖はおかしい」なんて言うんじゃない。ネットでも現実社会でも、やっていいことと悪いことの違いなんてそう大差ない。「ネットだから」なんていう論理はもはや通用しない。インターネットっていうのは、君たちが抱いているくらい特殊な存在ではない。「インターネット独自の文化」というのもかなり怪しい。現実から生まれてインターネットに飛び火する文化もあれば、インターネットから生まれて現実に飛び火する文化もある。いってしまえば、もう両者を別種の空間として区別する理由など何処にもないのだ。かつて別種だった両者は、徐々に結びつきを強くし、今ではがっちりと複雑に絡み合っているのだ。

オーケー、わかった。インターネットはただのツールであって、空間としてのインターネットは死んだ。そういうことだ。今も細々と「ネットの独自性」を主張している人間も、やがて自分たちが「ネット」「現実」という枠組みとは全く関係ない、単なる一つのコミュニティでしかないことに気がつく。そうやって「空間としてのインターネット」は全て我々の生きる「今」に還元されていく。

けれどもツールとしての、技術としてのインターネットは生きているのだ。じゃあ我々は、現実と一体化した「空間」において、「ツール」をどう有効活用することが出来るだろうか? 学校裏サイトの問題にせよ嫌儲の問題にせよ、全ての問題はそこから始まるのだ。僕たちはいい加減、「インターネットだから」「現実と違いインターネットでは」というような論調に対し、強い疑いをかけなくてはならない。インターネットと現実を区別しない、インター・インターネット的な視点をもって現実を肯定していくことが、今一番求められていることであると思う(トランス、のほうがいいかも)。