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2012-11-06

「タッチ」の呪縛/スマート家電の「コレジャナイ」感の源泉を探る

鳴り物入りで登場したパナソニックスマート家電の評判は、あまりよろしいものではない。なかでもいちいちタッチが必要であることは、インターネット上で酷評されている。行政の問題があることが「スマホでエアコン操作 パナソニック断念の不可思議 (写真=共同) :日本経済新聞」にて指摘されているが、本記事ではスマートという思想についてフォーカスしたい。

パナソニックのスマート家電シリーズでは、スマートフォン行った設定を家電製品に転送する際、必ず「タッチ」が必要となる。しかしこの「タッチ」なる部分に、我々が家電製品を使う際の、そしてそこから敷衍したところに存在する「開発者側が想定する間違った『便利さ』」が潜んでいるのではないかと思う。

真の「スマート」とは

「スマート家電」等と称した際、その「スマート」という単語はもはやどのような意味を持っているのかよく分からない存在となってしまっている。パナソニックは「スマホと連携するものをスマート家電と呼ぶ」らしいが、スマート家電が既存の家電よりも更に便利な存在を目指しているならば、その「スマート」なる意味は、「我々が行っている判断を機械が代わりに行ってくれる」ことを含まなくてはならない。

数年前、自動計量機能付きの電子レンジが爆発的に流行した。例えば冷凍したご飯を解凍するとき、その量によって解凍時間はまちまちであるため、「まあ1分くらいだろう」「まだまだか、じゃあ30秒追加」等と操作する必要があった。計量機能付き電子レンジは、「ご飯解凍モード」を指定すると、機械が自動的にご飯の量を計測し、最適な解凍時間を自動実行してくれる。これまで我々が行っていた「解凍する時間」を、機械が代替して実行する。こういう「使いやすさ」さこそが、我々が望むスマート化であろう。

あるべき「スマート化」とは、自動化である。パナソニックのスマート家電が、こういった意味でのスマート化を果たしているのなら大歓迎なのだが、どうやらそうではないらしい。そして彼らの「スマートフォンでタッチ」なるセンスを観察するに、なるほど、そこには「タッチ」が持つ呪縛が大きな壁として存在している。

「タッチ」とボタン

ハード的な電源スイッチやソフト上の「次へ」「実行」をはじめとする「ボタン」は、我々にとって非常に身近な存在である。だが身近であるが故に、その問題点は見過ごされやすい。

ボタン操作は非常に直感的だ。例えばTwitterに投稿しようと思ったとき、「送信」というボタンを押せばそれが送信されることは一発で分かる。当然のことながら、書きながら「書くまでもないなあ」と思ったなら「送信」を押さなければいいだけの話だ。あるいは、テレビを見たいときには、「電源」ボタンを押せば良いし、NHKが見たいなら「1」を押せば良い。見たくないなら押さないに決まっている。

……当然のことながら、あらゆるスイッチ・ボタンは我々の意思を反映する。そうしたかったら押し、そうしたくなかったら押さない。そして機械側が我々に求めたい情報の数だけ、ボタンを押す工程は存在する。ソフトウェアインストールするときには「使用承諾」「インストール先」「最終確認」…といくつもの工程があるが、それだけ独立して我々に対し求めたい意思が機械/制作者側に存在することを意味している。

タッチ動作やボタンは、まさに我々の意思を確認するためにある。誰が? 機械、制作者だ。


工程:機械による機械のための欲望の分節

はじめに言ってしまおう。スマート化とは、いかにしてこのボタンの数を減らしていくか、という作業に一致する。より抽象的な言い方をすれば、機械の都合により分節化・工程化されてしまう我々の欲望を、一挙に処理することこそが、スマート化である。

ここで、「Siri」の便利さを例として取り上げたい。目覚ましを午前7時にかけるとき、通常の操作であれば、「時計」を押し、「+」ボタンを押して午前7時のアラームを追加し、保存するといういくつかの工程が必要となる。「アプリを呼び出す」「アラームを追加する」「アラームの設定をする」「保存する」というそれぞれの工程においてそのときに機械側が我々に求めている情報を入力しなくてはならない。しかしSiriを用いれば、「午前7時に起こして」と言うだけで、この工程を全て自動的に行ってくれる。工程が省略され、「意思確認」=「ボタンの押下」がゼロ回となることによって、我々はそれを「便利になった」と感じる。

上記のように、通常機械を操作するときの工程は、機械の都合によって分節されている。「時計アプリを開く」「+ボタンを押す」といった動作は、(当たり前だが)機械が用意している。一連の工程は、制作者が「これが分かりやすいだろう」として設置したものであるが、一番楽なのは一切の分節化を省き、「午前7時に起こして」と言うだけで全てを処理してくれるシステムである。

これまで、工程数を少なくする方法は、UIやハードボタンの構成を弄ったり、「おまかせ」ボタンを導入する等で達成されてきた。しかしそれが限界に近づくと、今度は工程の内容を洗練させる方向へと動いた。さて、「スマート化」の時代においては、我々が行っていた機械の都合によって分節された判断を、機械が自律的に行うことで達成する。先のsiriの例で言えば、それまでは分節をなし「時計アプリで/午前7時の/アラームを/設定したい」と4工程をこなしていたのが、文章として理解させることで1工程に縮減されていた。ここでは、機械の都合のために分節化されていた我々の判断を統合することで「スマート化」が成し遂げられているといえるだろう(我々の判断はもともと「アラームを〜」の一文だが、機械の操作工程上それが分割されていた。それを改めて統合したのである)。

掃除機の例を考えれば、より分かりやすいだろう。「この床を汚いときにきれいに掃除したい」という欲望は、掃除機の用い方に合わせて「汚いかチェック」→「掃除機の準備」→「電源をオン」→「フローリングモードにする」→「掃除機を四方八方に汚いところを中心に動かす」等の工程にわかれ、都度判断を自分で下し実行する必要がある。しかしスマート化の時代においては、その判断全てを機械が自立的にこなす。己の都合で判断を我々に求めるのではなく、機械が行う。

「機械による機械のための欲望の分節」――我々の欲望は、機械によって「それを得るための工程」として区切られる。そして工程一つ一つに対し、我々は必要な判断を与えてきた。しかし、工程を作ることなく、我々の純粋な欲望を機械が包括的に処理するのが理想なのだ。

洗濯機はスマート化されたのか

パナソニックの言う「スマート化」とは、単純に言えば、今まで家電の前で行っていたことをスマホに向かって行い、加えて「スマホを家電にタッチ」という工程が追加されたにすぎない。工程だけを考えれば、これは「タッチ」の分だけ面倒になっている。もちろん「いや、今までは洗剤の裏側に書いてある説明を読まないといけなかったが、これからは洗剤の名前をスマホで探すだけで良いのだ、楽じゃないか」という方もいるだろう。こういう方は、言葉は悪いが人間を馬鹿にしている。「洗剤の裏の説明を読んで投入」と「スマホで洗剤の名前を探してタッチしておく→次回から液晶に量が表示される」では、工程数に差はない。ああそうだ、先ほど書いたとおり、これは「工程を減らす」ではなく、「工程の内容を洗練させる」だけにすぎないのだ。

工程を減らすなら、例えば大量の洗剤を洗濯機の中に保管できるようにしておき、選択するたびに洗濯物の量が自動的に計量されて適切な洗剤量が使われる、そういった「スマート化」が必要であった。しかしパナソニックは、そのような「工程数の縮減」を行うことなく、ただ「難しそうな判断(ここでは、洗剤の裏を見て量を判断すること)がちょっと簡単になる(液晶に洗剤の量が表示される)」だけで、あたかもそれが便利になったかのように振る舞っている。しかし工程数を見れば、それは依然として面倒なのだ。これが「コレジャナイ感」の源泉である。

「タッチ」の呪縛

おそらくここに、「タッチ」の呪縛が隠されている。我々の機械に対する命令は、今までは「機械が必要な情報を人間に投げかける」→「人間が答える」を繰り返すことで行われていた。そしてひとつひとつのプロセスに「判断」が入る。この判断は、専用のボタンを使用したり(ハードボタン:冷蔵庫の「W」「秒」など)、「次へ」を表示させたり(ソフトボタン)することで行われてきた。

ややこしいことに、この動作は単純に「面倒」というわけではない。「判断」が我々に安心感を与えてきた面もある。「ボタンを押す」ということは、まさにその工程における判断を実行したことを象徴する。工程の最後にある「開始」ボタンは、その最たるものである。「開始」ボタンを押すことが、自分のこの作業はとりあえず終わったんだという安心感をもたらすのだ。掃除機の場合、例えば「フローリングモード」スイッチを押すことで、最適なモードに切り替えたことを確認し、安心感を得ていた。

そしてその安心感は、開発側が最も大切にしていたものであったのではないか。「このボタンが判断の証なのだ」というある種のフェイルセーフ的なシステムとして、それぞれのボタンは価値を持っている。ボタンを削ると言うことは、大切な「判断が行われたことを意識してもらう」という作業工程が一つ減るということであり、それだけ設定上のミスを増やす危険性も持っている。

あの忌々しいパナソニックの「タッチ」も、まさにその「判断したことを確認・認識する」ためにある。それも「最終確認」という重大な価値を。スマホはスマホ、家電は家電で独立しており、その橋渡しには「タッチ」が必要となる。どれだけスマホをいじくろうとも、タッチしなければその設定は実際の家電の運転とは無縁である。この「タッチ」を削ることは、重要な「橋渡し」の確認を消すことを意味する。つまり、「はい、今のでスマホと家電が連携しました!」という「安心感」を我々から奪うことになってしまう。

「タッチ」とは、我々の判断の象徴である。我々が判断を行ったということは、「ボタンを押す」という作業において具体化される。だからこそ「ボタンを押す」ことは、「判断を成し遂げた」という安心感を我々にもたらす。しかし先に挙げたとおり、スマート化するのであれば、判断を減らす=タッチ/押下を減らさなくてはならない。

「呪縛」をなくすために

だが、スマート化はこうした呪縛を一つ一つ解消することでしか成し遂げられない。上記で言えば、「橋渡し」の確認など必要なくなるくらいにシームレスな連携が行えるようにならなくてはならない(僕自身はそもそも家電を何でもスマホに結びつけるという方法に懐疑的――というのも、入力デバイスが増えるのは単純に工程を増やし不便なだけだから――なので、具体的な方法は提示しない)。

ハードウェア中心主義に染まっている日本のメーカーの多くがタッチの呪縛にかかっている。上述したとおり、これまでの家電は、機械の都合により作られた区切りについて、ひとつひとつ人間に情報を求めるものであった。しかしこれからは、「機械の都合で判断を輪切りにする」ことそれ自体が否定されなくてはならない。牛乳を温めるとき、機械の都合で「ワット数」と「秒数」を分けて聞いていたのが、“スマート”な電子レンジでは、そんなことを聞かず「牛乳あたため」のボタン一発で自動計量をしてくれる。我々の求めるスマート化とはこれである。工程は最小限で良い。そのためには区切りを限りなくゼロに近づけなくてはならない。我々が洗濯機を操作するときにどのような区切りが「機械によって」作られており、どうすればそれを克服できるのか。その視点がなければ、誰も「スマート家電」なんて使おうとは思わないだろう。


まとめ

「スマート化」においては、人間の判断を機械が代替するされるようになる。既存の家電は、機械の都合により作られた工程毎に人間が情報を与える設計を採用している(そして「便利になる」とは、工程ひとつひとつの中身が分かりやすくなることを指す)。しかし、スマート化時代には工程そのものを縮減しくてはならない。パナソニックはその精神を全く欠いた行動をとり続けており、その点がまさに「コレジャナイ」感を生み出している。

ところで、ボタン動作は判断を象徴し、「判断を行った」という安心感を我々に与えてくれる。しかしスマート化というのであば、人間の判断を機械が代わりに行うのだから、その象徴としての「タッチ」という動作はフェードアウトしなくてはならない。我々の判断=タッチ動作は「我々の欲望を機械が工程に分け、そのそれぞれで行う」ものであったが、今後は工程に分けることなくその判断が実行されなくてはならないだろう。我々の望むスマート化とは、それである。

2012-03-02

『絆』再考−−我々はなぜ『絆』という言葉を嫌悪するのか

震災から一年がたとうとしている。その中で印象的であったことは、やはり「絆」という言葉が連呼されたことであった。多くの場合、インターネットコミュニティ上で、この「絆」という単語は反発をもたれていた。Twitterにおいても、「何が絆だ」「これは【ほだし】(束縛)のことだ」等々、反発の声が非常に高かったことを覚えている。

では、なぜインターネット上では、これほどまでに「絆」に対するアレルギーが強かったのか。それは、今まさに記述した文章の中にあるのではないか。そう、「アレルギー」だ。

なお、さしあたり本稿では、「絆」を「(不特定の)人と人とのつながり」であるとしておく。

昔から存在した「ネットの絆」

 そもそもインターネット(不特定多数とのやり取りを行うウェブ上の場所のことを本稿ではこのように記載する)とは、「絆」を描くことに長けたメディアであった*1。偉い人はこれを「互酬性が高い」と表現するらしい。つまりこういうことである。『Yahoo!知恵袋』に大学入試の問題を貼りつけたとする。1万人それを閲覧した中、1人が返信をしたとする。これだけで、貼りつけた者は「よかった、ありがとう」と思う。そして、そのやり取りが情報として残り続ける。あるいは、他の人も同じ事を行い、それも残り続ける。これら全てが連鎖していくことで、「誰かを助けたら、いずれ誰かが自分のことも助けてくれるはずだ」と思う事のできるシステムが完成する。全くの見知らぬ他者ばかりである世界それ自体に対し、「信頼」が生まれるのである。

 これは、よくある「誰かを助けたら、いずれその人から助けてもらえる」という返報性規範とは異なっており、不特定多数への信頼を可能としている。まさに「インターネット」は、ユーザーによって互酬性の高いシステムとして信頼され、あるいはそのような姿を見せてきていたのである。

ソーシャルメディア時代と「境界」の消失

このたぶんどこかで学んだのであろう文体の文章(2008年)では、「インターネットと現実世界には違いはない」ということを記述した。そして2008年以降、この流れはソーシャルメディアとスマートフォンの普及により、あらゆる情報・人・時間へと拡大した。つまり、「いつでも、どこでも、だれとでも、なんでも」コミュニケーションが取れる時代が到来したのである。ここでは、すでに「現実」と「ネット」という壁は完全に取り払われている。もちろん、「facebookは実名、TwitterはHN」という人もいるだろう。しかし、それでもなお壁は取り払われているのだ。そこにある区別は、大学の友人に高校の同期の話をしないようなものである。

 さて、今読むと気持ち悪い文章(2008年)では「インターネット上では『つながりの実感』を作ることが出来る」と書いた。この「つながり」は「システム」が存在してこそ成立し得たものであり、その上に現実の様々なものが乗っかってきたと考えてよいだろう。

「飲みに行きたい」といえば誰かが応答してくれるかもしれないし、応答してくれなくても構わない。システム全体に対する信頼は、入っているコミュニティ・利用しているサービス全体に対するそれであり、「つながっている感覚」の源泉である。そしてこの「つながっている感覚」こそが「絆」ではないか。ネット上に脈々と存在していた小さな「絆」は、「インターネット」を土俵としている限りにおいて全てのものにつながりうるものとなった。いや、全てではない。「ネットとの差別化」「ネットへの対立」を打ち出している既存のメディア全ては外部化された。その結果、それに対して異常な敵対心を抱くものも出てきている。

絆への嫌悪

 では、なぜ我々は「絆」という言葉に対し「アレルギー」を起こすのか。それは、ネット上でのそれが我々にとって最も快適な「絆」のあり方であると気がついてしまったからではないか。そして、同じあり方は、社会という我々が信頼していないシステムの上では再現不可能であることを、皆知っているからではないか。

 ネット上においても、「mixi疲れ」などに現れたとおり、「過剰なつながり」はしばしば我々を疲弊させていた。それが現在になって、我々はようやく「現実とネットのすり合わせ」をマスターし、丁度よい位置に収まったのではないか。そしてそれが現時点で最も快適なあり方であるからこそ、他者からの「絆」の押し付けにアレルギーを起こすのだ。

我々は、これが「インターネット上だからこそ成り立っている」ことに気がついており、同時に「現実では起こりえない」こともわかっている。あるいは、現実にはこれ以上に快適な互酬性のあるシステムなど作れやしないことを知っている(「社会」という現実に存在するシステムに対する信頼は、もはやほとんど存在しないだろう)。だからこそ、「外の世界からの『別のつながりのあり方』の押し付け」に、過剰に反発するのである。

 極めつけなのは、その「外からの世界」が、「メディア」である点である。社会に信頼をよせるものは少ないだろう。しかしメディアが訴えるのは、「社会を信用せよ、さもなくば我々を信用し共にこの社会を変えよう」ということである。「絆」という単語は、それをさらに強調し、挙句の果てに曝け出す。絆とは、もはや何らかの中心的存在によって担保されるものではない。「システム」それ自体が信頼されることによって初めてその上で自然発生的に生まれるものなのだ。特に近年連呼されているのは「不特定多数の絆」であり、社会それ自体への信頼は必須であるといえる。

だから我々は「絆」を嫌悪し、批判してきた。私はそれで問題ないと思う。なぜならば、我々はまだ『情けな人のためならず』が成立する世界を持ち続けているのだ。

*1:ちなみに今調べたところ、『きずなをつなぐメディア—ネット時代の社会関係資本』(NTT出版)という本があるらしい。読んでいないので内容は不明

2011-06-19

我々はもう少しドコモに期待しても良いのではないか

本記事は「もとまか日記」に対するリプライである。但し、かなり雑多な内容をひとまとめにして記述するため、少々わかりにくいかもしれない。だが、たぐいまれなるiPhone/Apple厨である私も、そこから逆算するとどう考えてもドコモの次なる一手に期待するしかないこの現状を示すほうが先だと考え、アップロードすることにする。

そもそも「ガラパゴス」は蔑称ではない

近年、キャリア主導の垂直統合に代表される日本の携帯電話市場は「ガラパゴス」と揶揄されている。ワンセグやおサイフケータイ、iモード等の機能を搭載するフィーチャーフォンは「ガラケー」と呼ばれ、この用語がつかわれ始めた当初は「日本の市場はガラパゴス諸島における生態系のように他国とは異なった進化を遂げている」というその事実だけを示す用語であったのに、いつのまにか「国際的に取り残された日本市場」のような意味が大きく取り上げられるにいたった。実際国際的に取り残されているのはその通りである。日本メーカーのフィーチャーフォンは他国ではほとんど売れず、海外市場ではサムスンやノキアの一人勝ちが続いていた。そして先にあげた記事に書かれている通り、ドコモはこれらのソフトウェア資産をそのままスマートフォンに移植し、最終的にはガラケー上でできたことがすべてスマートフォン上で同様に動作することを目指している。

しかし我々は、この「ガラパゴス」性が、どのように他国で採用されるに至ったのかを、今になって説明することができる。まさに我々は、「iモード海外展開の失敗」と「iPhoneの成功」を、今真剣に見つめるべきではないのか。そして、私が思うに、先にあげた記事はその部分について多くのことを見落としているのである。

iモードの失敗

多くの方が知っている通り、iモードは海外展開に失敗している。失敗の原因については、wikipediaに書かれているようなことが一般的には使われる。

まず失敗の原因は日本国内とそれ以外の諸国でのケータイの取り扱いが主な理由である。日本では万能ケータイがもてはやされ、お財布ケータイなどの多機能化が進んだが、諸外国においてはケータイはあくまで「通話するためのもの・SMSを送受信するためのもの」であり、ケータイに対する使い方そのものが異なっていた。例えば日本国内では2011年現在においても自分のPCは持っておらずにケータイでメールからネットブラウズまで全て行う者が多数いるが、それ以外の国々ではメールやネットはPCで行うのが一般的であり、携帯でメールを使用するのはBlack&Berryなどを使用する一部のビジネスマンのみとなっていた。一般のユーザーが携帯でメールやネットブラウズを行うようになるのはiPhoneが登場してからである。しかしiPhoneはフルブラウズを可能としていること、各個人がもっているメールアドレスをそのまま使えること、といった「それまでの自宅で使用していたPC環境をそのまま表に持ち出して使用できる」を売り物にしたために大ヒットした。対してi-modeはあくまで「密閉された空間での簡略型HTML」という状況であり、ケータイでネットをする必要のない日本国外では全く受け入れられることはなかった。またバケットに対する拒否感も日本国外でi-modeが発展しなかった理由である。日本のようなパケホーダイのような仕組みがなかったため、「一体この通信で幾ら取られるのかわからない」という拒否感も発展を妨げた原因となった。

http://ja.wikipedia.org/wiki/imode

しかし、iPhoneをはじめとするスマートフォンが爆発的に普及した現在、「他国では携帯電話に対するイメージそのものが違っていた」という説明で終わらせてしまうのは、何か不自然な気がする。たとえば、2000年代前半にはTreoやBlackberryが既に海外でも話題となっており、W-ZERO3が国内で投入される以前は「なぜ日本にはPDAはあってもスマートフォンはないのか」ということが盛んに愚痴られていたことを覚えている。つまり海外に高機能端末の需要がなかったというのは言いすぎなのだ。しかしこれらのスマートフォンはメモリの管理が必要で、パソコンを必要とし、何よりも揮発性メモリを採用していた(そして、wikipediaには「PC環境を持ち出せる点が好評だった」と書いてあるが、これらの理由により、それまで存在していたスマートフォンも、そもそも構造の制約上パソコンとの連携を前提としなくては使えなかったのである)。その点、日本のガラケーはそのすべての難点を克服していた。にもかかわらず、海外市場ではiモードはこれっぽっちも、TreoやBlackberryに食い込むことなど一つもできやしなかった。それはなぜか。

理由は簡単である。キャリアを中心とした垂直統合のシステムが存在していなかったためだ。すなわち、キャリアがすべてをコントロールすることで、高機能な端末、すなわち売れるかどうかわからないメーカーにとって多大なリスクを持つ端末の開発が推奨され、消費者には補助金が出ることで端末料金を極力安くし、コンテンツもキャリアがサポートすることで誰にとっても安心の出来るものが揃えられ、さらにキャリアが主導してマネー・コントロールが行われることで、3Gネットワークに対する投資も適切に行われる――このようなシステムがなかったのだ。iモードは、iモードに対応したコンテンツがあって初めて機能する。しかし海外で展開するとなると、これらのコンテンツを最初から集めることは非常に難しく、一度普及しなくては各社は参入しない。コンテンツを参入させるためにはユーザー数が必要であるが、販売奨励金システムが使えないためにユーザー数をあらかじめ伸ばしておくこともできない。TreoやBlackberryはリソースをコンピュータに依存するから良いものの、iモードはそれ自体で完結することを目指すため、そのようなことはできない。iPhoneやAndroidが徐々に「PC離れ」しているのとは正反対だ。もっとも、これらは日本では「NTTドコモ」という巨大な信用があったから出来たのだということも忘れてはならないだろう。

iPhoneの成功

しかし、アップルの携帯電話事業参入により、このシステムが世界中で通用することは証明されてしまう。アップル社は端末とソフトウェア(もちろん、ここには当時のiTunes Music Storeによる課金システムを含む)を自分でコントロールし、AT&Tを丸め込むことで販売奨励金を手に入れ、また「iPod+iTunes」で培った莫大な信用力を担保として垂直統合システムを一気に作り上げた。初期のiPhoneには勝手アプリのシステムは存在しなかった(HTML+AJAXで作れ、というのが彼らの考えであった)が、のちにそれは撤回される。こうして、根本をなすプラットフォームはアップルがすべてを牛耳ることとなった。まさにここでは、NTTドコモが10年前に成し遂げたことを再現していることを再現しているといっても過言ではない。

課題から学ぶ

では、NTTドコモが2000年代に味わった辛酸といえばなんだろう。それは、垂直統合システムを解放せよという様々な圧力である。彼らは最終的に販売奨励金システムを変更し、MNPを承諾し、GoogleやYahooなど、勝手サイトを網羅する検索エンジンを受け入れた。「囲い込み」は依然と比べて弱体化した。同じことは、アップルやグーグルにも言えるかもしれない(もちろん、AndroidがiOSに比べ自由度が高いというのは認めざるを得ないが)。その時に彼らが参考にするのはどこになるだろう。それは、まぎれもなく「今後数年間のドコモ」なのではないか。

では、ドコモはどのような手を打つだろう。私にそれを予測することはできないし、彼らが今何を考えているのかもわからない。しかし、執拗に「iPhoneはまだなのか」と問われ、「ガラケー機能はいらないわ」と言われ、「で、垂直統合システムを手放したあとどんな気持ち?ねえねえ(ry」と言われ続けている彼らが、まさかここ3年にわたって何も考えていないとは思わない。

先の記事において、ドコモに望むことは「iPhoneに負けない、日の丸スマートフォンを作って欲しい」だと書かれていた。しかしそれでは遅い。そしてそもそも、彼らは機種で儲けるのではなく、システムとして莫大な利益を得ていたのだ。iPhoneを獲得して、少しばかり契約者数が伸びたところで意味がないのである。

今、彼らが見つけたシステムは世界中を圧巻している。ドコモが次に放つシステムはどのようなものになるのだろうか。図らずも、我々は今LTEを目前に控えている。そして、LTEへの投資という側面を考慮すると、キャリアの取るべき戦略システムは「メーカーを主導とした垂直統合方式」とは異なる方向であるという事実に直面せざるを得ない(実際、AT&Tは2010年にパケット定額システムを廃止している)。

iPhoneを獲得すると、ドコモはシステムとして死んでしまう。そして、スマートフォン時代において、キャリアはどのように自らのシステムを維持していくべきなのか。これまでの文化をキャリアが生んできたという自負が彼らに残っているならば、そう簡単に「通信網のみ」の商売に切り替えはしないだろう。そして何よりも、日本にはキャリア以上に垂直統合に関するノウハウのある企業は存在しないのだ。後ろにはビューンやS-1を持つソフトバンクが迫っている。この状況下で、ドコモが「大企業病に陥り油断している」とは思いたくない。「世界」を受容しつつも「ガラパゴス」は「ガラパゴス」として発展させる、それが「ガラパゴス諸島」から学ぶべき知恵である。しかし、ガラパゴス性を保護することはできないことが、諸島とは大きく異なっている。

我々は「ガラケー」を再評価しなくてはならない。もちろん、彼らは同じ過ちを繰り返そうとしているようにも見える。たとえば、ハードを重視するあまりソフトウェアの完成度を軽視するという風潮は、ガラケーからガラスマへの流れの中でも一貫してみることができ、アップル社が「使い古されたハードと、最適化されたソフトウェア」で勝負しているのとは大違いだ。だが、2000年代に全盛期を迎えた「ガラケー」という文化は、決して「過ち」ではなかった。むしろそこには、時代を先取りしていたともいえる進化の種が隠されていたのだ。個人的な希望を言ってしまえば、ソフトバンクという「国際化」キャリアがいるのであれば(彼らは自分たちでの統合をするのではなく、海外の既存のプラットフォームや統合を認めたうえで、それを導入し、同時にさらに上のレイヤーでも勝負しようとする稀有なキャリアである)、それに対抗する形で徹底的なガラパゴス路線を追求してもよいのではないか。

来るLTE時代では、ほとんどすべてのキャリアで通信方式が統一される。おそらく、低価格化競争だけでは生き残ることはできないだろう。そして、たとえばソフトバンク等は、Androidで展開しているビューンなどのサービスを他社でも提供し始めるかもしれない。その時、ほかのキャリアが「インフラただ乗り」を唱えたところで、利便性を追求する消費者の目には「驕れるものは久しからず」にしか映らない。では、ドコモはどのように生き残るべきか?――答えは一つだろう。端末としての魅力ではなく、ドコモの提供するパッケージとして魅せるのだ。ドコモの「反撃」は、まさにそこから始まると、私は信じている。

2011-01-08

iPhone vs Androidを総括してみて、そして僕はなぜWindowsPhoneに期待するのか

2010年はまさにスマートフォンの年だったといってよいと思う。Xperia*1に始まり、iPhone4で加速し、「未来に行くなら、アンドロイドを持て。」を標語にau軍が攻勢をかけた。各社は「スマートフォン時代」に本腰を入れ始め、ついに我々の待ち望んだ未来がやってきたのだ。

……という具合だったが、個人的には面白くも何ともない一年だった。面白くないのはAndroidの態度である。

あらかじめ言っておくが、私は別にここの機能を取り上げて「ここはiPhoneに軍配が上がるがここではAndroidの勝利だ」などと続けていくつもりはない。ミクロな話ではなく、もっとマクロな話である。そう、設計理念の話だ。これからのスマホOSの理念の話をしようじゃないか。

iPhoneは、僕たちに何を教えたのか。あるいは、僕たちに何を「教え込んだ」のか。それは、「デファクトスタンダードの偉大さ」という一行にすべてを込めることができるのではないか。そして、スマートフォンのデファクトスタンダードである「iOS+iPhone/iPad」の設計思想から少しでも外れた商品は、それだけで「使いづらい」製品に見えてしまうということではないか。

そしてなによりもAndroidにとって不幸だったのは、デファクトスタンダードとしてのiPhoneの完成度、満足度が高すぎたことである。この二つの要因によって、Androidは「とりあえずiPhoneを目指す」ということを目標としてしまったのではないか。しかし、「とりあえずiPhoneを目指す」と「iPhoneをまねる」は訳が違うのである。Androidには、iPhoneをモチーフに搭載されたにもかかわらず、iPhoneよりも使い勝手の悪い機能が多数存在する。

象徴的なのはハードボタンの配置である。iPhoneには、電源ボタンとホームボタンの二つしかボタンが存在しないのに対し、Android端末には多くのハードボタン、もしくは機能の固定されたソフトボタンが存在している。iPhoneは、「ハードボタンとマルチタッチパネルは相容れないものである」ということをはじめから意識し(あるいは意図的に相容れないようなデザインをとり)、「戻る」機能以外をハードボタンから排除した。その結果、我々は迷うことなく「ハードボタンを使うときと、タッチパネルを使うとき」を簡単に意識できるようになったのである。一方、Androidには多くのハードボタンがあり(しかも機種によって個数が違う!)、我々はこれらを使用するときに戸惑いを覚えずにはいられない。なにせ、ひとつひとつのボタンは「ハードボタン」、まさに機能を固定されたボタンにもかかわらず、使用しているソフトウェアによって別々の働きをすることがあり、それが我々に「基本機能」すら誤解させる仕組みになっているのである。ここにはハードボタンとタッチパネルの「区別」も明確には存在していない。もちろん、これはアップルが全面的に正しかったことを支持するものではない。アップルは巧みな開発とプレゼンによって我々に「そうすることが正しかったのだ」と刷り込んだにすぎない。しかし、iPhoneがデファクトスタンダードとなってしまった以上、Androidは「完全にまねることもできないが、しかし…」という微妙な立ち居値をとらなくてはならなくなってしまった。「直感的」を突き進むアップルに対しては、その直感の角度を変えたモデルを投入するのではなく、別の「直感」を作り出すような働きをすべきではなかったのか。Androidに求められているのは、PSP・PS3的な進化ではなく、Wii・DSのようなそれなのである。我々は、何か正統な進化というものが見え隠れしていて、なおかつそこにある種の閉塞感がある時、カウンターパンチのように繰り出される「古くて新しいもの」にめっぽう弱い生き物なのであるから。

Androidのこうした姿勢は、結局のところデファクトスタンダードなインターフェースを強化するだけなのである。おそらく、Androidは今後UMPCにおけるWindowsやLinuxの立場を奪っていくことを想定しているであろうが、そのときインターフェースを変えようとしても、自分たちが強化してしまった「iPhoneモデル」がそこに立ちはだかってしまうのではないか、と私は危惧するのである。「良いところも悪いところも、とりあえずiPhoneを模倣してみて、まずはそこから考えよう」的なスタンスでは、シェアはとれるかもしれないが、使いやすさを得られるわけではない。PCの世界でいえば、WindowsというOSのもつ利点と、MacOSというOSのもつ利点の両者を併せ持った存在こそ、(かなり欲張りな要望ではあるが)スマートフォンという、肌身離さず使うものには必要とされている。

話を一つ前に戻そう。そこで出てくるのが「第三の選択」としてのWindowsPhone7である。WindowsPhone7は「タイル上のホーム画面」を用意し、iPhoneモデルとは違った「直感」を我々に提案しようとしているようにみえる。もちろん、WindowsPhone7は海外の販売で爆死してしまったという事実があるのだが、彼らががんばらない限り、スマートフォン業界にはもう「新しい風」は吹かないだろう。同様に、BlackBerryの新しい挑戦にも、我々は好意的にならなくてはならない。

「総括」と書いたものの、全く総括にならなくなってしまった。それに、かなり「iPhone信者」的なバイアスがかかってしまったようにも思える。ただ、私がいいたいのは「実際どちらが使いやすいか」という話ではなく、「iPhoneがこれだけ世界を圧巻してしまったがためにiPhoneをモデルとして作られたスマホOSが多くなり、その結果、iPhoneは全く『直感的』ではなく作られた『直感』を我々に提示しているだけにもかかわらず、あたかもそれが『本当の直感』のように受け止められている現状よくないよね、Androidはもうその罠にはまってるからWP7とBlackberryに期待だね」ということだと理解していただければ幸いである。

えーっと、この先はアップル信者の妄言。AndroidがiPhoneのシェアを超える可能性はもちろんある。ただし、そこにあるのは、「シェアだけのWindows」と同じく、「シェアだけのAndroid」という点ではないかと思ってしまう。みんな個々に、しかし共通の不満を抱きながらAndroidを使い、隣のiPhone信者を「ぷぷぷー、昔はシェアトップだったのに転落してマイナーOSになって、今どんなキモチ?ねえねえどんなキモチ?」と、「シェア」を武器に語るしかない未来が、それが「未来に行くなら、アンドロイドを持て。」の真実なのか。

*1:HT-03Aのことはみんな忘れたよね...