Hatena::ブログ(Diary)

Thirのノート このページをアンテナに追加 RSSフィード

2012-10-24

だから「ネット/現実」の二分法はやめろと……――「ネット中毒」について

ネット依存について思うこと | blog.yuco.netについて。

インターネットが承認欲求を充足させるものであることは前に書いたこともあるが、私はそれ以上に「ネット/現実」という二分法を未だに続けていることを問題としたい。ちなみに、この件についてもかなり昔に書いたことがある

上記記事の問題点:リアルとネットの切断をめぐって

ロハス生活をするのがそんなにエラいのか?ともかく、くだんの記事においては、インターネットを現実から遊離した存在であるという前提が貫かれている。その前提こそが、我々がまさに問題としたいところである。例えばこの記述。

クローズアップ現代で放送された韓国の子供のエピソード(親子関係に問題があり、ネットで親に対する不満を吐き出していた)を見て、やはりリアルに問題があって、逃げ場としてネット依存になるのだなぁと思った。単純にネットをn時間以下にするというより、リアルの問題を解決する必要がある。

「逃げ場としてネット依存になる」。確かにそのように見える。しかしもしインターネットがなければ、その少年*1は、おそらく他のどこかのコミュニティ、例えば「悪だくみ仲間」であるとか「日頃つるむ人間」であるとかに、その吐き出す先を見つけたであろう。しかし、「少年が悪だくみ仲間に親の悪口を言いまくっている」という時、我々はそこで「特定のコミュニティに依存している」などという言い方はしない。また、「その仲間が悪い」という言い方もしない。あくまでも悪いのは現実における家族関係であり、その吐き出し先がどこであるかは問題とならないのである。

――まさにここに、問題の核心がある。我々はインターネットと現実という二分法を好みすぎるあまり、インターネットなる単語が出てきた瞬間にそこに問題を見いだそうとする。そうではない。インターネットとは、我々の前にあるインフラであり、現実世界を拡張する存在でしかない。もっとも、yuco氏はおそらくそのことに気がついているのだろう。「リアルの問題を解決する必要がある。」その通りだ。いや、少し違う。問題はリアルの中にしか存在しない。

ネットで表現するのが楽しいと思った人は、一度は「ネットで自分を表現することで大衆に愛されたい」と思ったことがあるのではないか。実際それに成功しているように見える人もいて、その人の愛されぶりもまたネットで伝わってくる。私も、twitterでたくさんRTやfavされたとき、あるいはブログにはてブが集まったとき、「脳内にドーパミン出てる感」を味わい、ネットから身を離すことが難しくなる。

「ネットで」という枕詞をつけることで、あたかも議論は成立しているかのように見えるが、そうではない。それは、本人の記述にも現れているように思われる。

ネットと不健全な関わりをしないためにはリアルを充実させることが大切、しかし一朝一夕にリア充にはなれない。表現欲もつながり欲なども基本的には悪いことではないし、リアルにつながることもある。「結局バランスが大事」というつまらない結論になってしまう。

「ネットで表現するのが楽しいと思った」ことが講じてインターネット依存症となっているように見える者は、「現実での充足が足りない」という根本的な問題を抱えている。その者の充足がたかだかインターネットごときで得られるのであれば、それは十分に幸せなことではないか。「バランスが大事」なのではない。趣味で自己顕示欲を満たしたいのであれば、生活を切り詰めない限りにおいてそれを実行しなければならないという、ただそれだけのことである。ただそれだけのことが、インターネットなる魔法のワードを持ち出すことによって、あたかも「ネット特有の現象」であるかのように勝手に位置づけられてしまっているのだ。

件の記事の著者は、「ネット―現実」という二分法を用いているのにもかかわらず、そこにはその二分法によって処理できていない問題が多数存在していることを自分から示している。まさに、我々が「ネットの」という言葉に踊らされているに過ぎないのだ。よく記事を見てみてほしい。インターネット常用者には「そして表現にレスポンスがあるのは基本的に喜ばしいことだ――ここで、ループしてしまうのである。」という言葉は鮮烈に思えるかもしれない。しかし何気ない日常会話、飲み会の雑談、そういったものも、「ループ」で終わってしまうのではないだろうか? 記事の著者が言うとおり、我々は「知らない人から愛されたい」のだろうか? 「誰かから愛されたい」のではないだろうか? あとは単純に、その数の問題となる。当然、インターネットのほうが不特定多数に伝聞されやすく、また情報のフィードバック可視化されるため、「知らない人」の数は多くなる。紐解いてみれば、「ネット特有」とは言えなくなってくる。

「ネット―現実」の二分法はいつ見失われたのか

この方がインターネットから離れた後、若者世代とインターネットを取り巻く環境は大きく変わった。それまでは、インターネットの関係というのは、ネットから出発して現実に「オフ会」として回帰する存在であったのかもしれない。しかし若い者の間では、LINEにもfacebookにもmixiにもTwitterにも、「オン」の友人と「オフ」の友人が同居している。ネット上では、顔を合わせたこともないような者の悩み事に付き合うこともあれば、親友の悩み事に付き合わないこともある。つまり、インターネット/現実という二分法は、「インターネットから現実へ」という越境だけではなく、「現実からインターネットへ」という越境をもソーシャルメディアが引き起こすことで、完全に崩壊した。故に、何らかの問題を抱える者の原因がどこへあるかなど分からない。そのものがたまたまインターネットという場所に居場所を見つけただけである。

ソーシャルメディア時代、「ネット-現実」という二分法は完全に崩壊した。それは上述したとおり、インターネットがかつてのように独立な場所でなくなったことが決定打となったのだろう。文化や作法、表現など全てが両者の垣根を越える。インターネットはもはや我々にとって現実の一部を超えた「インフラ」であり、私が最初に「ロハスな生活を」と書いたのもまさにその意味を込めている。

二分法がもたらす問題

生活を崩壊させるのはインターネットではなく崩壊者の意識である。それはインターネットが楽しいからではない。流れ着いた場所がたまたまインターネットであった、ただそれだけのことである。

IT会社を経営する只石さん。去年まで1日100回以上書き込み。いまは、1日の利用時間をタイマーで20分に制限。ネット上のつながりは4000人以上。頻繁に連絡をとるのは100人程度に絞った。

20121022 #NHK クローズアップ現代「“つながり”から抜け出せない〜広がるネットコミュニケーション依存」 - Togetter

この事例もそうだ。この人は、昔ならワーカーホリックとなって家庭を顧みないような方になっていたかもしれない。所詮インターネットとはその程度の存在であり、「インターネットに依存している」という事実があるだけで、問題がゆがめられてしまう。この方が問題としているのは、「ネットに依存すること」ではなく「家庭を顧みないこと」であろう。それがなぜか、問題が前者の方に過度に強調されてしまっているのだ。

まさに、二分法がもたらす問題とは、問題が発生している原因や理由を顧みることなく、現実から見れば異世界のように思えてしまうインターネットが、原因のはけ口として利用されてしまう点である。インターネットはその点において、過小評価をされている面もあれば、過大評価されている面がある。つまり、良い点は過小され、悪い点は過大されている。――そのように、魔物を見つめる目線でインターネットを見つめることこそが、「新しい問題」「新しい病気」を勝手に作り出しているに過ぎないのではないか。

二分法を超えて

「インターネットは制限されなくてはならない」と考えているような老人世代には、インターネットについて語ってほしくない。「インターネットが既にインフラの域にまで達している」ということは、もはやその是非を議論する存在ではなく、既に前提となっているのだ。そして、我々の間には、もはや「現実/ネット」などという区別など存在しない。

その前提を知っていれば、「ネットが出来たからつながりへの依存が発生した」というような論調で文章を書くようなマネはしないだろう。それは、インターネットが文字を媒介とするために、単純に可視化されただけの話である。もしかすると「自分や他人がそのことに気がつきやすくなった」ことが、「中毒」を自称/他称する者を増やしたのかもしれない。

二分法がある限りインターネットは責任を押しつけられ続けるだろう。そして我々は、本当の問題を見失っていく。インターネットが持ち出されるだけで、「学校裏サイト」や「ニコニコ動画で生主の家族が」や「Twitter中毒」といったミクロな現象の背後に壮大な悪の枢軸があるように思えてしまう。しかし問題はより個別であり、より現実的である。インターネット中毒になっているのは、「つながり依存」等の問題を全てインターネットに押しつける、彼らなのである。

*1:私は放送を見ていないので、的外れになっていたら大変申し訳ない

2012-03-02

『絆』再考−−我々はなぜ『絆』という言葉を嫌悪するのか

震災から一年がたとうとしている。その中で印象的であったことは、やはり「絆」という言葉が連呼されたことであった。多くの場合、インターネットコミュニティ上で、この「絆」という単語は反発をもたれていた。Twitterにおいても、「何が絆だ」「これは【ほだし】(束縛)のことだ」等々、反発の声が非常に高かったことを覚えている。

では、なぜインターネット上では、これほどまでに「絆」に対するアレルギーが強かったのか。それは、今まさに記述した文章の中にあるのではないか。そう、「アレルギー」だ。

なお、さしあたり本稿では、「絆」を「(不特定の)人と人とのつながり」であるとしておく。

昔から存在した「ネットの絆」

 そもそもインターネット(不特定多数とのやり取りを行うウェブ上の場所のことを本稿ではこのように記載する)とは、「絆」を描くことに長けたメディアであった*1。偉い人はこれを「互酬性が高い」と表現するらしい。つまりこういうことである。『Yahoo!知恵袋』に大学入試の問題を貼りつけたとする。1万人それを閲覧した中、1人が返信をしたとする。これだけで、貼りつけた者は「よかった、ありがとう」と思う。そして、そのやり取りが情報として残り続ける。あるいは、他の人も同じ事を行い、それも残り続ける。これら全てが連鎖していくことで、「誰かを助けたら、いずれ誰かが自分のことも助けてくれるはずだ」と思う事のできるシステムが完成する。全くの見知らぬ他者ばかりである世界それ自体に対し、「信頼」が生まれるのである。

 これは、よくある「誰かを助けたら、いずれその人から助けてもらえる」という返報性規範とは異なっており、不特定多数への信頼を可能としている。まさに「インターネット」は、ユーザーによって互酬性の高いシステムとして信頼され、あるいはそのような姿を見せてきていたのである。

ソーシャルメディア時代と「境界」の消失

このたぶんどこかで学んだのであろう文体の文章(2008年)では、「インターネットと現実世界には違いはない」ということを記述した。そして2008年以降、この流れはソーシャルメディアスマートフォンの普及により、あらゆる情報・人・時間へと拡大した。つまり、「いつでも、どこでも、だれとでも、なんでも」コミュニケーションが取れる時代が到来したのである。ここでは、すでに「現実」と「ネット」という壁は完全に取り払われている。もちろん、「facebookは実名、TwitterはHN」という人もいるだろう。しかし、それでもなお壁は取り払われているのだ。そこにある区別は、大学の友人に高校の同期の話をしないようなものである。

 さて、今読むと気持ち悪い文章(2008年)では「インターネット上では『つながりの実感』を作ることが出来る」と書いた。この「つながり」は「システム」が存在してこそ成立し得たものであり、その上に現実の様々なものが乗っかってきたと考えてよいだろう。

「飲みに行きたい」といえば誰かが応答してくれるかもしれないし、応答してくれなくても構わない。システム全体に対する信頼は、入っているコミュニティ・利用しているサービス全体に対するそれであり、「つながっている感覚」の源泉である。そしてこの「つながっている感覚」こそが「絆」ではないか。ネット上に脈々と存在していた小さな「絆」は、「インターネット」を土俵としている限りにおいて全てのものにつながりうるものとなった。いや、全てではない。「ネットとの差別化」「ネットへの対立」を打ち出している既存のメディア全ては外部化された。その結果、それに対して異常な敵対心を抱くものも出てきている。

絆への嫌悪

 では、なぜ我々は「絆」という言葉に対し「アレルギー」を起こすのか。それは、ネット上でのそれが我々にとって最も快適な「絆」のあり方であると気がついてしまったからではないか。そして、同じあり方は、社会という我々が信頼していないシステムの上では再現不可能であることを、皆知っているからではないか。

 ネット上においても、「mixi疲れ」などに現れたとおり、「過剰なつながり」はしばしば我々を疲弊させていた。それが現在になって、我々はようやく「現実とネットのすり合わせ」をマスターし、丁度よい位置に収まったのではないか。そしてそれが現時点で最も快適なあり方であるからこそ、他者からの「絆」の押し付けにアレルギーを起こすのだ。

我々は、これが「インターネット上だからこそ成り立っている」ことに気がついており、同時に「現実では起こりえない」こともわかっている。あるいは、現実にはこれ以上に快適な互酬性のあるシステムなど作れやしないことを知っている(「社会」という現実に存在するシステムに対する信頼は、もはやほとんど存在しないだろう)。だからこそ、「外の世界からの『別のつながりのあり方』の押し付け」に、過剰に反発するのである。

 極めつけなのは、その「外からの世界」が、「メディア」である点である。社会に信頼をよせるものは少ないだろう。しかしメディアが訴えるのは、「社会を信用せよ、さもなくば我々を信用し共にこの社会を変えよう」ということである。「絆」という単語は、それをさらに強調し、挙句の果てに曝け出す。絆とは、もはや何らかの中心的存在によって担保されるものではない。「システム」それ自体が信頼されることによって初めてその上で自然発生的に生まれるものなのだ。特に近年連呼されているのは「不特定多数の絆」であり、社会それ自体への信頼は必須であるといえる。

だから我々は「絆」を嫌悪し、批判してきた。私はそれで問題ないと思う。なぜならば、我々はまだ『情けな人のためならず』が成立する世界を持ち続けているのだ。

*1:ちなみに今調べたところ、『きずなをつなぐメディア—ネット時代の社会関係資本』(NTT出版)という本があるらしい。読んでいないので内容は不明

2011-08-25

日本のスタートアップ環境は「特殊」か?

最近の起業家は気持ち悪い、そしてそもそも起業家ではない。」を読んで。

大学入学以来、僕は意外と多くの「学生起業家」と呼ばれる部類の人間と会ってきた。そして、実際のところ米国における現状がいかなるものであるかはほとんど知らないのだが、国内の状況についてはある程度経験的に答えを導き出せると考えている。

日本のスタートアップ環境は、企業の評価を人物のみで行う。その人が有名であるか否かでだ。

一言で言ってしまえば「認知バイアスのせい」なのだが、もうすこしきちんと説明してみよう。はっきり言ってしまえば、こんなのはインターネット上でしか起業家を見たことがないからこそ言うことの出来る戯言である。おそらくこの記事では「スタートアップ環境」というものが具体的に明示している対象が「ソーシャル・メディアにおいてどの程度の速度で(あるいは範囲に)新規プロダクトのリリースが知れ渡るか」ということのみであり、一般的にスタートアップにおいて必要とされる「人材」と「資金」についてはほとんど明示されていない。もしかしたら、氏はこの世の中に「面白いウェブサービスを個人で作れば、有名人がやってきてサクサクと資金や人材の面でサポートをしてくれる」という淡い幻想を抱いているのかもしれないが、残念ながら日本にはそのような仕組みはほとんどないといって良い。本当に起業し事業を大きくしていこうと思えば、初期投資用の資金や人材を入れることは不可欠であり、必然的に「声の大きい」(「”この人はすごそうだし、何かやるぞ”と思わせる人」)人間が成功に近づくことになる。

例えば、資金をベンチャー・キャピタルに借りに行くとしよう。何人かのプロに自分の計画を見てもらうことになるが、そのときにはアイデアの素晴らしさと同時に計画立案の能力やスピーチ能力が多分に図られることとなる。もちろん、アイデアの素晴らしさだけを起業家に要請し、それが素晴らしければ計画立案やプレゼン・スピーチについてはVC側で人材を提供するというのが望ましい状態ではあるが、残念ながらこの国ではそのような支援の仕組みはほとんど存在せず、基本的にその人物個人に求めることとなる。悪く言ってしまえば、口が達者な人間でなければ、そもそも「事業を興す」ということは難しいのだ。

氏は

日本のスタートアップ環境は、薄暗い部屋でコードを書き続け、未来を作っている薄汚いギークよりも、

世間の空気に媚びへつらい、自分を偽装するのがうまいタレントを欲している。

と言っている。ではその想定されている「薄汚い部屋でコードを書き続けるギーク」というのは、はたして米国においては多数派を占める存在であっただろうか。例えば氏が挙げているザッカーバーグは、映画の中では一貫してそのような人物として描かれていただろうか。実際のところ、彼もまた、ショーン・パーカーに「自分を偽装」していたのではないか。あるいは、たとえそうではないとしても、明らかに「自分を偽装」していた存在であるショーン・パーカーなしに、事業の拡大は円滑に行われていただろうか。私はそうは思わない。

インターネットの世界は日進月歩であり、今日サービスをリリースしなければ明日別の人間が同じサービスをリリースしてしまう可能性を秘めている。だからこそプログラミング・資金調達・人材調達の全ての面において「スピード」が一貫して求められており、無名の一人がそれを行うためには、自分を偽装してよく見せるしかないのだ。そしてそれは、成功すれば「偽装ではなかった」と言われ、失敗すれば「偽装であった」と呼ばれる。ただそれだけのことである。

最近の学生起業家が気持ち悪いというのはまさに同意である。しかしそれは、気持ち悪いという心証を作り出す様々な属性がなければ必要な資材を手に入れることが出来ないという状況から来ているものであり、そもそも彼が述べるような「真摯で真面目な起業家」というのは、構造からして起業することも出来なければバックアップをする価値すらないのだ。誰が学生起業家をバックアップするのか。ベンチャー・キャピタルやインキュベータがほとんど存在しない日本においては、必然的に「まず目立つ」ことが重要となる。インターネット上でのみ「声の大きい」人間も、確かにいるだろう。しかし、インターネットですら声が大きくないような現状では、人々には見向きもされないのだ。インターネット上で有名になると言うことがある種の登竜門となっており、それを「クリア」出来ない人間が素晴らしいプロダクトを作れるなんて、実際に学生起業家達を相手にするような層の人間は、到底思っていないのである。それが拡大再生産されているのが、現在の姿であると言うことが出来るだろう。


日本における「学生起業」のほとんどは受注や委託、下請けである。学生が起業することによって、かつて大企業で新卒一年目の社員がやっていたようなことが、より低価格に外部へアウトソーシングされるだけであり、基本的な人材のピラミッド構造においてはほとんど変化はない。しかし彼らも、受注案件に好きで甘んじているわけではない。何がモチベーションとなるかと言えば、それは経営トップの「カリスマ」であり、計画であり、未来への欲望である。「世界を変える」と言った方が能力や意欲に溢れた人間が集まるのであれば、そんな気持ちがなくとも「世界を変える」という。そして氏のいうスティーブ・ジョブズ率いるアップルも、あの有名な「Think Different」キャンペーンで言っているではないか。「彼らはクレイジーと言われるが、私たちは天才だと思う。自分が世界を変えられると本気で信じる人たちこそが、本当に世界を変えているのだから」と。自分が世界を変えられると信じることの出来ない者に、優秀な人材は集まらない。

おそらく日本において「起業家」を気持ち悪く無くさせる方法というのは、秀逸なアイデアを持っているものの起業に結びついていない者、例えば計画立案能力や資金調達能力を持たない者や、そもそも意欲のない者をどのようにバックアップしていくか、という点にある。例えばアイデアのみを一定額で買い取るようなモデルや、VCが企画や調達について全面的に協力することによって、そういったことは可能となるだろう。しかし、そのような状況を作るには、起業において辛酸をなめたものの最終的に成功した人間の強力が不可欠である。だが、スピードが求められるインターネットビジネスにおいて、強烈なカリスマ的魅力を持った人物がいなければ、いったいどのようにして会社が運営されていくというのだろう? ある意味、氏のような幻想を打ち砕く最も簡単な方法は、成功した外資系ベンチャーでも未だにある面では「タレント」を起用しているという事実――Googleは未だに「Google」ブランドに縋り、マイクロソフトは「Windows」というブランドネームに対し「世界的な事業戦略においてまでも」未だに依存しているという端的な事実――を突きつけるだけで良いのかもしれない。

※今回は大変にポジティブな書き方をしましたが、これまでに「理念なき」起業を何度か批判しており、現在においても理念をソーシャルメディアにおける意識高揚において代替するあり方については疑問を感じています。以下の記事をお読み下さい。