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2012-10-28

Re:「ネット依存」(お詫びといいわけ)

気がつくのが遅れたため時機を逸してしまったのではあるが、「ネット依存・続き | blog.yuco.net」にて返信していただいたので、思うところを書いておきたいと思う。この文はいつもに加えて日記的にだらだらと書き続けていくので、かなり読みにくいとは思うがお許しを。

まず最初に、記事をよく読みもせず「ネット依存の人間は直ちにそれを治さなくてはならないのだ(なぜならばネットはあまり良くないものであるから)」といった論調の記事であると勝手に解釈してしまった点についてはお詫びしておきたい(同時に、非常に口汚い点についても)。この記事に対する返信はほどほどにしておいて、 僕自身が思っていたことを少しだけ記述しておきたい。以下、氏の記事とは関係なく、「ネット依存症」という言い方に対する違和感として読んでいただければ幸いである。

もともとは、「それまでは病気とはされなかったものを、病気認定して治療すべき存在とする」風潮に対する違和感が根底にあった。

例えば肥満や喫煙はもはや病気の原因であるだけでなく、それ自体が病気であるかのような報道・宣伝が行われている(「メタボ」「健康保険で禁煙しよう」)。インターネット中毒についても、「ドーパミンが大量に放出される」という特に物珍しくもない理由だけで「病気である」と認定され、「治療しなくてはならない」存在だと放送されたのだろう、そして氏はそれに賛同しているのだろう、と勝手に想定していた。

「自分で治したいと思っている」なら良い。だが「治療しなくてはならない」という社会的な要請が高まれば、それは我々の自由をただただ束縛するだけである(なお、いわゆる「他者危害の原則」の是非については割愛する)。そのようにしてインターネットの利用を制限した方が良いと主張する者がいるのであれば、いっそのことインターネット自体には非はないのだとする主張を行ってしまおう、と考え当該の記事を書いた。

「ワーカーホリック」なる例を持ち出したのはそのためである(もっとも、「ホリック」ではあるから、例として適切さを欠いていることは否定できない。クラブ狂い・熱狂的ファン、等……ドーパミンが大量に放出し、それがクセとなっているように思われる存在は多々ある)。インターネットによってドーパミンが大量に放出されるのと、仕事で認められる快感を重ねることによるそれに何か違いがあるのか。何をもって「病気」であるとか「治療の対象」であるとかを決めるのか、我々が新たな病を創造しているだけではないのか。そしてそれは、我々の自由な選択を殺していくのではないか、と。

という決めつけの上重ねにより、結果的に氏の記事を誤読し、語気の強い文章を剥けてしまった点は素直に反省している。ただし、インターネット「依存症」とはいったい何なのか、それに対して我々はどう接するべきなのか、その中で、実際にインターネットは我々に対しどのような影響を与え、我々はその影響をどう処理するのが良いのか、さらに論点こそ変わるものの、テレビ・ゲーム・インターネットといった新しい商品・文化価値に対し「新しい社会問題」の原因を押しつけるような風潮はいかがなものか、こういった意識を今も持ち続けていることは記載しておきたい。

最後に一点だけ。

自分のアイデンティティを託したネットが攻撃されている! という被害妄想が見える。

この点については同意することが出来ない。もっとも、「僕個人の(無)意識」の探り合い、なんて誰も望んでいないだろうから、「そんなことは全くない」ということだけ書いて、この文章の締めとする。また、以前からインターネット上の文章をサッと乱読し恣意的に解釈する(とくに時機を逃さず早く書き上げようと思っているときに出る)癖は重々認識しているため、今後とも気をつけていきたい。

2012-10-24

だから「ネット/現実」の二分法はやめろと……――「ネット中毒」について

ネット依存について思うこと | blog.yuco.netについて。

インターネットが承認欲求を充足させるものであることは前に書いたこともあるが、私はそれ以上に「ネット/現実」という二分法を未だに続けていることを問題としたい。ちなみに、この件についてもかなり昔に書いたことがある

上記記事の問題点:リアルとネットの切断をめぐって

ロハス生活をするのがそんなにエラいのか?ともかく、くだんの記事においては、インターネットを現実から遊離した存在であるという前提が貫かれている。その前提こそが、我々がまさに問題としたいところである。例えばこの記述。

クローズアップ現代で放送された韓国の子供のエピソード(親子関係に問題があり、ネットで親に対する不満を吐き出していた)を見て、やはりリアルに問題があって、逃げ場としてネット依存になるのだなぁと思った。単純にネットをn時間以下にするというより、リアルの問題を解決する必要がある。

「逃げ場としてネット依存になる」。確かにそのように見える。しかしもしインターネットがなければ、その少年*1は、おそらく他のどこかのコミュニティ、例えば「悪だくみ仲間」であるとか「日頃つるむ人間」であるとかに、その吐き出す先を見つけたであろう。しかし、「少年が悪だくみ仲間に親の悪口を言いまくっている」という時、我々はそこで「特定のコミュニティに依存している」などという言い方はしない。また、「その仲間が悪い」という言い方もしない。あくまでも悪いのは現実における家族関係であり、その吐き出し先がどこであるかは問題とならないのである。

――まさにここに、問題の核心がある。我々はインターネットと現実という二分法を好みすぎるあまり、インターネットなる単語が出てきた瞬間にそこに問題を見いだそうとする。そうではない。インターネットとは、我々の前にあるインフラであり、現実世界を拡張する存在でしかない。もっとも、yuco氏はおそらくそのことに気がついているのだろう。「リアルの問題を解決する必要がある。」その通りだ。いや、少し違う。問題はリアルの中にしか存在しない。

ネットで表現するのが楽しいと思った人は、一度は「ネットで自分を表現することで大衆に愛されたい」と思ったことがあるのではないか。実際それに成功しているように見える人もいて、その人の愛されぶりもまたネットで伝わってくる。私も、twitterでたくさんRTやfavされたとき、あるいはブログにはてブが集まったとき、「脳内にドーパミン出てる感」を味わい、ネットから身を離すことが難しくなる。

「ネットで」という枕詞をつけることで、あたかも議論は成立しているかのように見えるが、そうではない。それは、本人の記述にも現れているように思われる。

ネットと不健全な関わりをしないためにはリアルを充実させることが大切、しかし一朝一夕にリア充にはなれない。表現欲もつながり欲なども基本的には悪いことではないし、リアルにつながることもある。「結局バランスが大事」というつまらない結論になってしまう。

「ネットで表現するのが楽しいと思った」ことが講じてインターネット依存症となっているように見える者は、「現実での充足が足りない」という根本的な問題を抱えている。その者の充足がたかだかインターネットごときで得られるのであれば、それは十分に幸せなことではないか。「バランスが大事」なのではない。趣味で自己顕示欲を満たしたいのであれば、生活を切り詰めない限りにおいてそれを実行しなければならないという、ただそれだけのことである。ただそれだけのことが、インターネットなる魔法のワードを持ち出すことによって、あたかも「ネット特有の現象」であるかのように勝手に位置づけられてしまっているのだ。

件の記事の著者は、「ネット―現実」という二分法を用いているのにもかかわらず、そこにはその二分法によって処理できていない問題が多数存在していることを自分から示している。まさに、我々が「ネットの」という言葉に踊らされているに過ぎないのだ。よく記事を見てみてほしい。インターネット常用者には「そして表現にレスポンスがあるのは基本的に喜ばしいことだ――ここで、ループしてしまうのである。」という言葉は鮮烈に思えるかもしれない。しかし何気ない日常会話、飲み会の雑談、そういったものも、「ループ」で終わってしまうのではないだろうか? 記事の著者が言うとおり、我々は「知らない人から愛されたい」のだろうか? 「誰かから愛されたい」のではないだろうか? あとは単純に、その数の問題となる。当然、インターネットのほうが不特定多数に伝聞されやすく、また情報のフィードバック可視化されるため、「知らない人」の数は多くなる。紐解いてみれば、「ネット特有」とは言えなくなってくる。

「ネット―現実」の二分法はいつ見失われたのか

この方がインターネットから離れた後、若者世代とインターネットを取り巻く環境は大きく変わった。それまでは、インターネットの関係というのは、ネットから出発して現実に「オフ会」として回帰する存在であったのかもしれない。しかし若い者の間では、LINEにもfacebookにもmixiにもTwitterにも、「オン」の友人と「オフ」の友人が同居している。ネット上では、顔を合わせたこともないような者の悩み事に付き合うこともあれば、親友の悩み事に付き合わないこともある。つまり、インターネット/現実という二分法は、「インターネットから現実へ」という越境だけではなく、「現実からインターネットへ」という越境をもソーシャルメディアが引き起こすことで、完全に崩壊した。故に、何らかの問題を抱える者の原因がどこへあるかなど分からない。そのものがたまたまインターネットという場所に居場所を見つけただけである。

ソーシャルメディア時代、「ネット-現実」という二分法は完全に崩壊した。それは上述したとおり、インターネットがかつてのように独立な場所でなくなったことが決定打となったのだろう。文化や作法、表現など全てが両者の垣根を越える。インターネットはもはや我々にとって現実の一部を超えた「インフラ」であり、私が最初に「ロハスな生活を」と書いたのもまさにその意味を込めている。

二分法がもたらす問題

生活を崩壊させるのはインターネットではなく崩壊者の意識である。それはインターネットが楽しいからではない。流れ着いた場所がたまたまインターネットであった、ただそれだけのことである。

IT会社を経営する只石さん。去年まで1日100回以上書き込み。いまは、1日の利用時間をタイマーで20分に制限。ネット上のつながりは4000人以上。頻繁に連絡をとるのは100人程度に絞った。

20121022 #NHK クローズアップ現代「“つながり”から抜け出せない〜広がるネットコミュニケーション依存」 - Togetter

この事例もそうだ。この人は、昔ならワーカーホリックとなって家庭を顧みないような方になっていたかもしれない。所詮インターネットとはその程度の存在であり、「インターネットに依存している」という事実があるだけで、問題がゆがめられてしまう。この方が問題としているのは、「ネットに依存すること」ではなく「家庭を顧みないこと」であろう。それがなぜか、問題が前者の方に過度に強調されてしまっているのだ。

まさに、二分法がもたらす問題とは、問題が発生している原因や理由を顧みることなく、現実から見れば異世界のように思えてしまうインターネットが、原因のはけ口として利用されてしまう点である。インターネットはその点において、過小評価をされている面もあれば、過大評価されている面がある。つまり、良い点は過小され、悪い点は過大されている。――そのように、魔物を見つめる目線でインターネットを見つめることこそが、「新しい問題」「新しい病気」を勝手に作り出しているに過ぎないのではないか。

二分法を超えて

「インターネットは制限されなくてはならない」と考えているような老人世代には、インターネットについて語ってほしくない。「インターネットが既にインフラの域にまで達している」ということは、もはやその是非を議論する存在ではなく、既に前提となっているのだ。そして、我々の間には、もはや「現実/ネット」などという区別など存在しない。

その前提を知っていれば、「ネットが出来たからつながりへの依存が発生した」というような論調で文章を書くようなマネはしないだろう。それは、インターネットが文字を媒介とするために、単純に可視化されただけの話である。もしかすると「自分や他人がそのことに気がつきやすくなった」ことが、「中毒」を自称/他称する者を増やしたのかもしれない。

二分法がある限りインターネットは責任を押しつけられ続けるだろう。そして我々は、本当の問題を見失っていく。インターネットが持ち出されるだけで、「学校裏サイト」や「ニコニコ動画で生主の家族が」や「Twitter中毒」といったミクロな現象の背後に壮大な悪の枢軸があるように思えてしまう。しかし問題はより個別であり、より現実的である。インターネット中毒になっているのは、「つながり依存」等の問題を全てインターネットに押しつける、彼らなのである。

*1:私は放送を見ていないので、的外れになっていたら大変申し訳ない