「タッチ」の呪縛/スマート家電の「コレジャナイ」感の源泉を探る

鳴り物入りで登場したパナソニックのスマート家電の評判は、あまりよろしいものではない。なかでもいちいちタッチが必要であることは、インターネット上で酷評されている。行政の問題があることが「スマホでエアコン操作 パナソニック断念の不可思議 (写真=共同) :日本経済新聞」にて指摘されているが、本記事ではスマートという思想についてフォーカスしたい。

パナソニックのスマート家電シリーズでは、スマートフォン行った設定を家電製品に転送する際、必ず「タッチ」が必要となる。しかしこの「タッチ」なる部分に、我々が家電製品を使う際の、そしてそこから敷衍したところに存在する「開発者側が想定する間違った『便利さ』」が潜んでいるのではないかと思う。

真の「スマート」とは

「スマート家電」等と称した際、その「スマート」という単語はもはやどのような意味を持っているのかよく分からない存在となってしまっている。パナソニックは「スマホと連携するものをスマート家電と呼ぶ」らしいが、スマート家電が既存の家電よりも更に便利な存在を目指しているならば、その「スマート」なる意味は、「我々が行っている判断を機械が代わりに行ってくれる」ことを含まなくてはならない。

数年前、自動計量機能付きの電子レンジが爆発的に流行した。例えば冷凍したご飯を解凍するとき、その量によって解凍時間はまちまちであるため、「まあ1分くらいだろう」「まだまだか、じゃあ30秒追加」等と操作する必要があった。計量機能付き電子レンジは、「ご飯解凍モード」を指定すると、機械が自動的にご飯の量を計測し、最適な解凍時間を自動実行してくれる。これまで我々が行っていた「解凍する時間」を、機械が代替して実行する。こういう「使いやすさ」さこそが、我々が望むスマート化であろう。

あるべき「スマート化」とは、自動化である。パナソニックのスマート家電が、こういった意味でのスマート化を果たしているのなら大歓迎なのだが、どうやらそうではないらしい。そして彼らの「スマートフォンでタッチ」なるセンスを観察するに、なるほど、そこには「タッチ」が持つ呪縛が大きな壁として存在している。

「タッチ」とボタン

ハード的な電源スイッチやソフト上の「次へ」「実行」をはじめとする「ボタン」は、我々にとって非常に身近な存在である。だが身近であるが故に、その問題点は見過ごされやすい。

ボタン操作は非常に直感的だ。例えばTwitterに投稿しようと思ったとき、「送信」というボタンを押せばそれが送信されることは一発で分かる。当然のことながら、書きながら「書くまでもないなあ」と思ったなら「送信」を押さなければいいだけの話だ。あるいは、テレビを見たいときには、「電源」ボタンを押せば良いし、NHKが見たいなら「1」を押せば良い。見たくないなら押さないに決まっている。

……当然のことながら、あらゆるスイッチ・ボタンは我々の意思を反映する。そうしたかったら押し、そうしたくなかったら押さない。そして機械側が我々に求めたい情報の数だけ、ボタンを押す工程は存在する。ソフトウェアをインストールするときには「使用承諾」「インストール先」「最終確認」…といくつもの工程があるが、それだけ独立して我々に対し求めたい意思が機械/制作者側に存在することを意味している。

タッチ動作やボタンは、まさに我々の意思を確認するためにある。誰が? 機械、制作者だ。

工程:機械による機械のための欲望の分節

はじめに言ってしまおう。スマート化とは、いかにしてこのボタンの数を減らしていくか、という作業に一致する。より抽象的な言い方をすれば、機械の都合により分節化・工程化されてしまう我々の欲望を、一挙に処理することこそが、スマート化である。

ここで、「Siri」の便利さを例として取り上げたい。目覚ましを午前7時にかけるとき、通常の操作であれば、「時計」を押し、「+」ボタンを押して午前7時のアラームを追加し、保存するといういくつかの工程が必要となる。「アプリを呼び出す」「アラームを追加する」「アラームの設定をする」「保存する」というそれぞれの工程においてそのときに機械側が我々に求めている情報を入力しなくてはならない。しかしSiriを用いれば、「午前7時に起こして」と言うだけで、この工程を全て自動的に行ってくれる。工程が省略され、「意思確認」=「ボタンの押下」がゼロ回となることによって、我々はそれを「便利になった」と感じる。

上記のように、通常機械を操作するときの工程は、機械の都合によって分節されている。「時計アプリを開く」「+ボタンを押す」といった動作は、(当たり前だが)機械が用意している。一連の工程は、制作者が「これが分かりやすいだろう」として設置したものであるが、一番楽なのは一切の分節化を省き、「午前7時に起こして」と言うだけで全てを処理してくれるシステムである。

これまで、工程数を少なくする方法は、UIやハードボタンの構成を弄ったり、「おまかせ」ボタンを導入する等で達成されてきた。しかしそれが限界に近づくと、今度は工程の内容を洗練させる方向へと動いた。さて、「スマート化」の時代においては、我々が行っていた機械の都合によって分節された判断を、機械が自律的に行うことで達成する。先のsiriの例で言えば、それまでは分節をなし「時計アプリで/午前7時の/アラームを/設定したい」と4工程をこなしていたのが、文章として理解させることで1工程に縮減されていた。ここでは、機械の都合のために分節化されていた我々の判断を統合することで「スマート化」が成し遂げられているといえるだろう(我々の判断はもともと「アラームを〜」の一文だが、機械の操作工程上それが分割されていた。それを改めて統合したのである)。

掃除機の例を考えれば、より分かりやすいだろう。「この床を汚いときにきれいに掃除したい」という欲望は、掃除機の用い方に合わせて「汚いかチェック」→「掃除機の準備」→「電源をオン」→「フローリングモードにする」→「掃除機を四方八方に汚いところを中心に動かす」等の工程にわかれ、都度判断を自分で下し実行する必要がある。しかしスマート化の時代においては、その判断全てを機械が自立的にこなす。己の都合で判断を我々に求めるのではなく、機械が行う。

「機械による機械のための欲望の分節」――我々の欲望は、機械によって「それを得るための工程」として区切られる。そして工程一つ一つに対し、我々は必要な判断を与えてきた。しかし、工程を作ることなく、我々の純粋な欲望を機械が包括的に処理するのが理想なのだ。

洗濯機はスマート化されたのか

パナソニックの言う「スマート化」とは、単純に言えば、今まで家電の前で行っていたことをスマホに向かって行い、加えて「スマホを家電にタッチ」という工程が追加されたにすぎない。工程だけを考えれば、これは「タッチ」の分だけ面倒になっている。もちろん「いや、今までは洗剤の裏側に書いてある説明を読まないといけなかったが、これからは洗剤の名前をスマホで探すだけで良いのだ、楽じゃないか」という方もいるだろう。こういう方は、言葉は悪いが人間を馬鹿にしている。「洗剤の裏の説明を読んで投入」と「スマホで洗剤の名前を探してタッチしておく→次回から液晶に量が表示される」では、工程数に差はない。ああそうだ、先ほど書いたとおり、これは「工程を減らす」ではなく、「工程の内容を洗練させる」だけにすぎないのだ。

工程を減らすなら、例えば大量の洗剤を洗濯機の中に保管できるようにしておき、選択するたびに洗濯物の量が自動的に計量されて適切な洗剤量が使われる、そういった「スマート化」が必要であった。しかしパナソニックは、そのような「工程数の縮減」を行うことなく、ただ「難しそうな判断(ここでは、洗剤の裏を見て量を判断すること)がちょっと簡単になる(液晶に洗剤の量が表示される)」だけで、あたかもそれが便利になったかのように振る舞っている。しかし工程数を見れば、それは依然として面倒なのだ。これが「コレジャナイ感」の源泉である。

「タッチ」の呪縛

おそらくここに、「タッチ」の呪縛が隠されている。我々の機械に対する命令は、今までは「機械が必要な情報を人間に投げかける」→「人間が答える」を繰り返すことで行われていた。そしてひとつひとつのプロセスに「判断」が入る。この判断は、専用のボタンを使用したり(ハードボタン:冷蔵庫の「W」「秒」など)、「次へ」を表示させたり(ソフトボタン)することで行われてきた。

ややこしいことに、この動作は単純に「面倒」というわけではない。「判断」が我々に安心感を与えてきた面もある。「ボタンを押す」ということは、まさにその工程における判断を実行したことを象徴する。工程の最後にある「開始」ボタンは、その最たるものである。「開始」ボタンを押すことが、自分のこの作業はとりあえず終わったんだという安心感をもたらすのだ。掃除機の場合、例えば「フローリングモード」スイッチを押すことで、最適なモードに切り替えたことを確認し、安心感を得ていた。

そしてその安心感は、開発側が最も大切にしていたものであったのではないか。「このボタンが判断の証なのだ」というある種のフェイルセーフ的なシステムとして、それぞれのボタンは価値を持っている。ボタンを削ると言うことは、大切な「判断が行われたことを意識してもらう」という作業工程が一つ減るということであり、それだけ設定上のミスを増やす危険性も持っている。

あの忌々しいパナソニックの「タッチ」も、まさにその「判断したことを確認・認識する」ためにある。それも「最終確認」という重大な価値を。スマホスマホ、家電は家電で独立しており、その橋渡しには「タッチ」が必要となる。どれだけスマホをいじくろうとも、タッチしなければその設定は実際の家電の運転とは無縁である。この「タッチ」を削ることは、重要な「橋渡し」の確認を消すことを意味する。つまり、「はい、今のでスマホと家電が連携しました!」という「安心感」を我々から奪うことになってしまう。

「タッチ」とは、我々の判断の象徴である。我々が判断を行ったということは、「ボタンを押す」という作業において具体化される。だからこそ「ボタンを押す」ことは、「判断を成し遂げた」という安心感を我々にもたらす。しかし先に挙げたとおり、スマート化するのであれば、判断を減らす=タッチ/押下を減らさなくてはならない。

「呪縛」をなくすために

だが、スマート化はこうした呪縛を一つ一つ解消することでしか成し遂げられない。上記で言えば、「橋渡し」の確認など必要なくなるくらいにシームレスな連携が行えるようにならなくてはならない(僕自身はそもそも家電を何でもスマホに結びつけるという方法に懐疑的――というのも、入力デバイスが増えるのは単純に工程を増やし不便なだけだから――なので、具体的な方法は提示しない)。

ハードウェア中心主義に染まっている日本のメーカーの多くがタッチの呪縛にかかっている。上述したとおり、これまでの家電は、機械の都合により作られた区切りについて、ひとつひとつ人間に情報を求めるものであった。しかしこれからは、「機械の都合で判断を輪切りにする」ことそれ自体が否定されなくてはならない。牛乳を温めるとき、機械の都合で「ワット数」と「秒数」を分けて聞いていたのが、“スマート”な電子レンジでは、そんなことを聞かず「牛乳あたため」のボタン一発で自動計量をしてくれる。我々の求めるスマート化とはこれである。工程は最小限で良い。そのためには区切りを限りなくゼロに近づけなくてはならない。我々が洗濯機を操作するときにどのような区切りが「機械によって」作られており、どうすればそれを克服できるのか。その視点がなければ、誰も「スマート家電」なんて使おうとは思わないだろう。

まとめ

「スマート化」においては、人間の判断を機械が代替するされるようになる。既存の家電は、機械の都合により作られた工程毎に人間が情報を与える設計を採用している(そして「便利になる」とは、工程ひとつひとつの中身が分かりやすくなることを指す)。しかし、スマート化時代には工程そのものを縮減しくてはならない。パナソニックはその精神を全く欠いた行動をとり続けており、その点がまさに「コレジャナイ」感を生み出している。
ところで、ボタン動作は判断を象徴し、「判断を行った」という安心感を我々に与えてくれる。しかしスマート化というのであば、人間の判断を機械が代わりに行うのだから、その象徴としての「タッチ」という動作はフェードアウトしなくてはならない。我々の判断=タッチ動作は「我々の欲望を機械が工程に分け、そのそれぞれで行う」ものであったが、今後は工程に分けることなくその判断が実行されなくてはならないだろう。我々の望むスマート化とは、それである。

Re:「ネット依存」(お詫びといいわけ)

気がつくのが遅れたため時機を逸してしまったのではあるが、「ネット依存・続き | blog.yuco.net」にて返信していただいたので、思うところを書いておきたいと思う。この文はいつもに加えて日記的にだらだらと書き続けていくので、かなり読みにくいとは思うがお許しを。

まず最初に、記事をよく読みもせず「ネット依存の人間は直ちにそれを治さなくてはならないのだ(なぜならばネットはあまり良くないものであるから)」といった論調の記事であると勝手に解釈してしまった点についてはお詫びしておきたい(同時に、非常に口汚い点についても)。この記事に対する返信はほどほどにしておいて、 僕自身が思っていたことを少しだけ記述しておきたい。以下、氏の記事とは関係なく、「ネット依存症」という言い方に対する違和感として読んでいただければ幸いである。

もともとは、「それまでは病気とはされなかったものを、病気認定して治療すべき存在とする」風潮に対する違和感が根底にあった。
例えば肥満や喫煙はもはや病気の原因であるだけでなく、それ自体が病気であるかのような報道・宣伝が行われている(「メタボ」「健康保険で禁煙しよう」)。インターネット中毒についても、「ドーパミンが大量に放出される」という特に物珍しくもない理由だけで「病気である」と認定され、「治療しなくてはならない」存在だと放送されたのだろう、そして氏はそれに賛同しているのだろう、と勝手に想定していた。

「自分で治したいと思っている」なら良い。だが「治療しなくてはならない」という社会的な要請が高まれば、それは我々の自由をただただ束縛するだけである(なお、いわゆる「他者危害の原則」の是非については割愛する)。そのようにしてインターネットの利用を制限した方が良いと主張する者がいるのであれば、いっそのことインターネット自体には非はないのだとする主張を行ってしまおう、と考え当該の記事を書いた。

「ワーカーホリック」なる例を持ち出したのはそのためである(もっとも、「ホリック」ではあるから、例として適切さを欠いていることは否定できない。クラブ狂い・熱狂的ファン、等……ドーパミンが大量に放出し、それがクセとなっているように思われる存在は多々ある)。インターネットによってドーパミンが大量に放出されるのと、仕事で認められる快感を重ねることによるそれに何か違いがあるのか。何をもって「病気」であるとか「治療の対象」であるとかを決めるのか、我々が新たな病を創造しているだけではないのか。そしてそれは、我々の自由な選択を殺していくのではないか、と。

という決めつけの上重ねにより、結果的に氏の記事を誤読し、語気の強い文章を剥けてしまった点は素直に反省している。ただし、インターネット「依存症」とはいったい何なのか、それに対して我々はどう接するべきなのか、その中で、実際にインターネットは我々に対しどのような影響を与え、我々はその影響をどう処理するのが良いのか、さらに論点こそ変わるものの、テレビ・ゲーム・インターネットといった新しい商品・文化価値に対し「新しい社会問題」の原因を押しつけるような風潮はいかがなものか、こういった意識を今も持ち続けていることは記載しておきたい。

最後に一点だけ。

自分のアイデンティティを託したネットが攻撃されている! という被害妄想が見える。

この点については同意することが出来ない。もっとも、「僕個人の(無)意識」の探り合い、なんて誰も望んでいないだろうから、「そんなことは全くない」ということだけ書いて、この文章の締めとする。また、以前からインターネット上の文章をサッと乱読し恣意的に解釈する(とくに時機を逃さず早く書き上げようと思っているときに出る)癖は重々認識しているため、今後とも気をつけていきたい。

だから「ネット/現実」の二分法はやめろと……――「ネット中毒」について

ネット依存について思うこと | blog.yuco.netについて。

インターネットが承認欲求を充足させるものであることは前に書いたこともあるが、私はそれ以上に「ネット/現実」という二分法を未だに続けていることを問題としたい。ちなみに、この件についてもかなり昔に書いたことがある

上記記事の問題点:リアルとネットの切断をめぐって

ロハスな生活をするのがそんなにエラいのか?ともかく、くだんの記事においては、インターネットを現実から遊離した存在であるという前提が貫かれている。その前提こそが、我々がまさに問題としたいところである。例えばこの記述。

クローズアップ現代で放送された韓国の子供のエピソード(親子関係に問題があり、ネットで親に対する不満を吐き出していた)を見て、やはりリアルに問題があって、逃げ場としてネット依存になるのだなぁと思った。単純にネットをn時間以下にするというより、リアルの問題を解決する必要がある。

「逃げ場としてネット依存になる」。確かにそのように見える。しかしもしインターネットがなければ、その少年*1は、おそらく他のどこかのコミュニティ、例えば「悪だくみ仲間」であるとか「日頃つるむ人間」であるとかに、その吐き出す先を見つけたであろう。しかし、「少年が悪だくみ仲間に親の悪口を言いまくっている」という時、我々はそこで「特定のコミュニティに依存している」などという言い方はしない。また、「その仲間が悪い」という言い方もしない。あくまでも悪いのは現実における家族関係であり、その吐き出し先がどこであるかは問題とならないのである。
――まさにここに、問題の核心がある。我々はインターネットと現実という二分法を好みすぎるあまり、インターネットなる単語が出てきた瞬間にそこに問題を見いだそうとする。そうではない。インターネットとは、我々の前にあるインフラであり、現実世界を拡張する存在でしかない。もっとも、yuco氏はおそらくそのことに気がついているのだろう。「リアルの問題を解決する必要がある。」その通りだ。いや、少し違う。問題はリアルの中にしか存在しない。

ネットで表現するのが楽しいと思った人は、一度は「ネットで自分を表現することで大衆に愛されたい」と思ったことがあるのではないか。実際それに成功しているように見える人もいて、その人の愛されぶりもまたネットで伝わってくる。私も、twitterでたくさんRTやfavされたとき、あるいはブログにはてブが集まったとき、「脳内にドーパミン出てる感」を味わい、ネットから身を離すことが難しくなる。

「ネットで」という枕詞をつけることで、あたかも議論は成立しているかのように見えるが、そうではない。それは、本人の記述にも現れているように思われる。

ネットと不健全な関わりをしないためにはリアルを充実させることが大切、しかし一朝一夕にリア充にはなれない。表現欲もつながり欲なども基本的には悪いことではないし、リアルにつながることもある。「結局バランスが大事」というつまらない結論になってしまう。

「ネットで表現するのが楽しいと思った」ことが講じてインターネット依存症となっているように見える者は、「現実での充足が足りない」という根本的な問題を抱えている。その者の充足がたかだかインターネットごときで得られるのであれば、それは十分に幸せなことではないか。「バランスが大事」なのではない。趣味で自己顕示欲を満たしたいのであれば、生活を切り詰めない限りにおいてそれを実行しなければならないという、ただそれだけのことである。ただそれだけのことが、インターネットなる魔法のワードを持ち出すことによって、あたかも「ネット特有の現象」であるかのように勝手に位置づけられてしまっているのだ。

件の記事の著者は、「ネット―現実」という二分法を用いているのにもかかわらず、そこにはその二分法によって処理できていない問題が多数存在していることを自分から示している。まさに、我々が「ネットの」という言葉に踊らされているに過ぎないのだ。よく記事を見てみてほしい。インターネット常用者には「そして表現にレスポンスがあるのは基本的に喜ばしいことだ――ここで、ループしてしまうのである。」という言葉は鮮烈に思えるかもしれない。しかし何気ない日常会話、飲み会の雑談、そういったものも、「ループ」で終わってしまうのではないだろうか? 記事の著者が言うとおり、我々は「知らない人から愛されたい」のだろうか? 「誰かから愛されたい」のではないだろうか? あとは単純に、その数の問題となる。当然、インターネットのほうが不特定多数に伝聞されやすく、また情報のフィードバックも可視化されるため、「知らない人」の数は多くなる。紐解いてみれば、「ネット特有」とは言えなくなってくる。

「ネット―現実」の二分法はいつ見失われたのか

この方がインターネットから離れた後、若者世代とインターネットを取り巻く環境は大きく変わった。それまでは、インターネットの関係というのは、ネットから出発して現実に「オフ会」として回帰する存在であったのかもしれない。しかし若い者の間では、LINEにもfacebookにもmixiにもTwitterにも、「オン」の友人と「オフ」の友人が同居している。ネット上では、顔を合わせたこともないような者の悩み事に付き合うこともあれば、親友の悩み事に付き合わないこともある。つまり、インターネット/現実という二分法は、「インターネットから現実へ」という越境だけではなく、「現実からインターネットへ」という越境をもソーシャルメディアが引き起こすことで、完全に崩壊した。故に、何らかの問題を抱える者の原因がどこへあるかなど分からない。そのものがたまたまインターネットという場所に居場所を見つけただけである。
ソーシャルメディア時代、「ネット-現実」という二分法は完全に崩壊した。それは上述したとおり、インターネットがかつてのように独立な場所でなくなったことが決定打となったのだろう。文化や作法、表現など全てが両者の垣根を越える。インターネットはもはや我々にとって現実の一部を超えた「インフラ」であり、私が最初に「ロハスな生活を」と書いたのもまさにその意味を込めている。

二分法がもたらす問題

生活を崩壊させるのはインターネットではなく崩壊者の意識である。それはインターネットが楽しいからではない。流れ着いた場所がたまたまインターネットであった、ただそれだけのことである。

IT会社を経営する只石さん。去年まで1日100回以上書き込み。いまは、1日の利用時間をタイマーで20分に制限。ネット上のつながりは4000人以上。頻繁に連絡をとるのは100人程度に絞った。

20121022 #NHK クローズアップ現代「“つながり”から抜け出せない〜広がるネットコミュニケーション依存」 - Togetter

この事例もそうだ。この人は、昔ならワーカーホリックとなって家庭を顧みないような方になっていたかもしれない。所詮インターネットとはその程度の存在であり、「インターネットに依存している」という事実があるだけで、問題がゆがめられてしまう。この方が問題としているのは、「ネットに依存すること」ではなく「家庭を顧みないこと」であろう。それがなぜか、問題が前者の方に過度に強調されてしまっているのだ。

まさに、二分法がもたらす問題とは、問題が発生している原因や理由を顧みることなく、現実から見れば異世界のように思えてしまうインターネットが、原因のはけ口として利用されてしまう点である。インターネットはその点において、過小評価をされている面もあれば、過大評価されている面がある。つまり、良い点は過小され、悪い点は過大されている。――そのように、魔物を見つめる目線でインターネットを見つめることこそが、「新しい問題」「新しい病気」を勝手に作り出しているに過ぎないのではないか。

二分法を超えて

「インターネットは制限されなくてはならない」と考えているような老人世代には、インターネットについて語ってほしくない。「インターネットが既にインフラの域にまで達している」ということは、もはやその是非を議論する存在ではなく、既に前提となっているのだ。そして、我々の間には、もはや「現実/ネット」などという区別など存在しない。
その前提を知っていれば、「ネットが出来たからつながりへの依存が発生した」というような論調で文章を書くようなマネはしないだろう。それは、インターネットが文字を媒介とするために、単純に可視化されただけの話である。もしかすると「自分や他人がそのことに気がつきやすくなった」ことが、「中毒」を自称/他称する者を増やしたのかもしれない。

二分法がある限りインターネットは責任を押しつけられ続けるだろう。そして我々は、本当の問題を見失っていく。インターネットが持ち出されるだけで、「学校裏サイト」や「ニコニコ動画で生主の家族が」や「Twitter中毒」といったミクロな現象の背後に壮大な悪の枢軸があるように思えてしまう。しかし問題はより個別であり、より現実的である。インターネット中毒になっているのは、「つながり依存」等の問題を全てインターネットに押しつける、彼らなのである。

*1:私は放送を見ていないので、的外れになっていたら大変申し訳ない

表現規制の問題ではなく、「宣伝手法」の妥当性が問われている−−『まどか☆マギカ』劇場版について

http://togetter.com/li/386912を見て。

根底としてのコミュニケーション不全

劇場版『魔法少女まどか☆マギカ』において、「子供が見て悲しい思いをした」という件、そこからつながる表現規制問題がTwitterを賑わせている。ただ、Twitterでは、「残虐な描写があるから見せるべきではない/分かるようにすべき」という議論が非常に多い。あるいはそれを超えて、「世の中とは理不尽なものであるから、理不尽な映画/理不尽な映画を見てしまうというシチュエーションも経験すべき」というような精神論まで飛び出す始末である。最初に言っておく。これは表現規制の問題ではない。

「残虐な描写があるから見せるべきではない」という態度は、あくまでも「大人一般が子供一般に対してどのような態度をとるか」という話であろう。そしてこの話は、「この程度では残虐ではない」「少しばかり残虐でも良い」という具体的な表現規制論に進んでいく。……はっきり言って全く無意味である。これらの意見はあくまでも「大人の子供に対する欲望」を基準としたものであって、子供を独立した欲望を持つ鑑賞者として一切想定していないためだ。

あるいは、そこにある大人の欲望は、「まどか☆マギカのような話が見たいという子供」という前提を含んでいる。「あのような話だと知っていたら、見なかったのに」という思考は一切考慮されていない。子供を一人の人格者として扱うならば、ここで生じているより重要な問題は、「残虐な話・絶望的に悲劇的な話だと知っていたら見ることはなかった」という層に対し、鑑賞を予め挫けさせるような宣伝を取ることは出来なかったのか、という問題であろう。この問題においては、子供が「見たくない」という自らの欲望を充足させることが出来なかったことが問題とされており、ゾーニングのような「大人の欲望」は介在しない。

上述した問題は、制作者と視聴者のコミュニケーション不全によって生じている。つまりここでは、視聴者が意図していた話と、制作者の作った話が違っていたという「裏切り」がベースとなっている。ここでレーティングの話をしておこう。レーティングというのは、(広義の)制作側からの、「この映画には『不適切な』シーンがある」という視聴者側へのメッセージの一種として解釈することが出来る。ただ、あくまでもこれは「メッセージの一種」である。視聴者へ、映画の内容を伝達する方法、つまり宣伝技法は、レーティングという直接的な手法を使用しなくとも、いくらでも存在する。ゆえに、本作で発生しているコミュニケーション不全に対する処方箋は、レーティングありきというわけではない。レーティングはあくまでも「コミュニケーション手法」の一種にすぎず、宣伝技法の中で解消できるのであれば、使用する必要などどこにもない。

ところで、映画は裏切りが大好きだ。僕も「どんでん返し」が大好きで、最近は「最後にどんでん返しがあるよ!」というのを一番の宣伝文句とする映画も増えている。では本作は、そういった「裏切り」と違いがあるのだろうか。

誠実な裏切りと不誠実な裏切り

映画における「裏切り」には、誠実なものとそうでないものが存在する。そして本作品は、明らかに後者に属する。誠実さと不誠実さを峻別するのは、やはり「コミュニケーション」である。

「誠実な裏切り」を持つ映画において、制作者は視聴者へのコミュニケーションの一環として、そこに「裏切り」が仕組まれていることをほのめかす。例えば、『ユージュアル・サスペクツ』の劇場公開版ポスターには、大きく「?」の文字が書かれてたり、『シックス・センス』では「ラストに近づくほど怖くなる」ことをCM*1や劇場のモニターで強調している。近年は『SAW』のように「謎を解け」という点を最も押し出していることが多い。もっとも、裏切りを持つ作品はほとんどがミステリーやサスペンスだ。こういうジャンルの作品は、そもそも「裏切り」の構造が前提されていると言って良い。つまり「裏切り」の存在は視聴者・制作者の前提であり、「そのジャンルを見る」という行為自体が裏切りを期待するものと同義であり、制作者はそれに答えるという「コミュニケーション」を持つ。

本作の持つ「裏切り」の要素は、「『典型的な魔法少女作品』を装いつつ、その中に隠れていそうな底抜けに救いようのない悲劇を物語る」という点に凝縮されている。そしてTV放映版でも、「典型的な魔法少女作品」であるかのような宣伝が行われたのは記憶に新しい。映画においても、そのような宣伝が繰り返されている*2
典型的な魔法少女作品を装うのだから、そういう作品を求める層が映画館に来る可能性があることは容易に予想がつく。彼ら(彼女ら)は、別に「どんでん返し」を求めてやってきたわけではない。そういう層に対して「救われない悲劇的な結末」を見せることこそが、「不誠実な裏切り」である。「宣伝どおりの物語が続くことを期待してやってきたのに、それを根本から否定する内容であった」というのは、「おもしろい/おもしろくない」という価値判断以前に、「客を騙している」としか言いようがない。ただし、このような「非誠実な裏切り」にこそ映画の価値があるのだとする方もいるだろう。そのような「鑑賞態度」は、映画のハイカルチャー化を押しとどめるポジティブな意味があったりもするのだろう。だが、はたしてそれを「子供向け作品を装う」という本作の態度に敷衍することは許容されるだろうか。

つまり、「誠実な裏切り」においては、裏切りを求める視聴者に対し何らかのギミックを提供する一連の流れに「コミュニケーション」が存在しているのである。それは、例えば宣伝において「そこに裏切りがある」ことをほのめかしたり、「史上最大のミステリー」「誰もが驚くサスペンス」といった言い方で直接的にアピールする。だが、「不誠実な裏切り」においては、そもそも視聴者は「裏切り」を求めていない。宣伝通りの物語がそのまま平凡に過ぎていくことを望んでいる。「最初からこんな話だと知っていたら見なかったのに」という声が一切想定されていないのである。「有料アダルトサイトを見ようと思って課金したらグロ画像へのリンクであった」なんてことがあったら誰だって怒る。それと同じようなことが映画館で起こった、その程度といえばその程度の問題である。

宣伝におけるコミュニケーション

「非誠実な裏切り」が非誠実である理由は、そこにコミュニケーションが欠けているためである。欠けているなら付け足してやれば良い。適切な情報を与えていないがために「本来想定していない層」が映画に足を運んでしまうことが問題とされているのであれば、適切な情報を開示するという誠実さを持つだけで問題はおおかた解決するのではないか。

その付け足す方法のひとつが「レーティング」であるが、それは所詮ひとつの選択肢にすぎないし、監督が主体的に使えるわけでもない*3。宣伝のうちに誠実なコミュニケーションを行いさえすればそれで良い。つまり、「この物語には<裏切り>が含まれている」ということを暗に象徴するような宣伝技法を構築しさえすればそれで良い。本作は「一般的な魔法少女もの」と偽装して宣伝を行っているが、TV放映時には、実のところ「深夜帯である」「虚淵玄」という情報もまた流通しており、それが「タダの魔法少女モノではないだろう」という「裏切り」を示唆する仕組みとなっていた。しかし映画版ともなれば、そのような情報を事前情報として解さない者も多いだろう。ゆえに、同じような「示唆」を、別の要素をもって行う必要が生じる。本作は「裏切り」を隠しつつも遂行するところに一番の面白さがある。だからこそ裏切りの内容を明かすことは出来ないが、しかしそこに底抜けに絶望的で悲劇的な裏切りがあることをほのめかすことはポスター一枚で十分に行える(あるいは表現者としてその程度は行えなくてはならない)。そういった「ほのめかし」をいれることだけで、コミュニケーション不全は解消することが出来る。なお、ここで「ほのめかし」とかいてあるのは、むろん直接的な表現は映画を見る楽しみそれ自体を奪うためである……このあたりの「バランス」や「程度」−−「もちろんそこには「非誠実な裏切り」自体に映画の可能性を見いだす態度も含む−−こそが、議論すべきポイントであろう。

(補)「見たい人に見せる」

「見たい人をたくさん作る」「見たい人に見せる」と同時に、「見たくない人には見せない」こともまた宣伝の一つの重要な使命である。正直、本作は公開上映館の少なさから言ってアニメファン以外の層を想定していないであろうし、インターネット上の前評判に触れてから見ることが「当たり前」と見なされている(つまり、劇場であのポスターを見て、「ふふふ、ここからこうなっちゃんだよな」とニヤニヤして楽しむことが当然だと思われている)のではないかと思う。だが映画となれば新規客が流れてくる可能性を否定することは出来ない。ギミックを隠しつつも全体像を象徴するような宣伝を行うことで、その条件を最も簡単にクリアすることができる。

テレビ版においては、放映に関するメタ情報が「全体像の象徴」に一役買っていた。映画においてはテレビ版の情報が「全体像の象徴に」……のはずが、確かに全く知識がないまま映画館でこの映画を見ようと思ったら、上述のような誤解が生まれても仕方ない面はある。そういった誤解を「ごく少数」として無視するか、誤解を解くコミュニケーションを施すかは制作者次第だろう。

途方もなくつまらないものばかり乱造されている深夜アニメ発の映画は、基本的に「深夜アニメでターゲットであった層から集客する」ことをメインとしている(と思われる)。そこから一歩抜けていくためには映画技法をより習知する必要があると以前から感じているが、「宣伝」についても同じ事が言えるかもしれない。

追記(10/10)

「裏切り」という単語を、字面だけ見て判断し拒絶反応を起こされても困ります。本文中での使用は「どんでん返し」とほぼ同義であって、「期待外れ」といった意味ではありません。

*1:CMについては問題にしたくない。というのも、実際に劇場に足を運んでいる者が、CMや番宣・朝のニュースなどで情報を仕入れたかどうか怪しいためである。つまり、ここでは①宣伝の内容 と②宣伝の浸透率 の二種を問題としなくてはならないが、CMや番宣については、①を問題とする以前に②の点で今回想定しているような「劇場でふらっと選択した」層にリーチしているか分からない。ゆえに、今回の記事ではあくまでも劇場での宣伝--つまり劇場のポスターやモニター映像--を問題としたい。

*2:ちなみにネットに転がっている番宣CMと称しているものの多くはMAD作品なので、探す際はご注意を

*3:一応言っておくと、私はレーティングには反対の立場であるし、さらに言えば、レーティングは「表現の放棄」であると考えている。つまり、「私は『予想外の裏切り』を宣伝の中に凝縮して表現することが出来ない無能です」と言っているようなものだ。また、この作品をレーティングしてしまえば、多くのアニメ映画もまた規制の対象に入ることとなり、「一般向け」表現の幅はかなり萎縮してしまうだろう

「何か義憤に駆られてませんか?」――studygiftについて

Google+のフォロワー数が話題となった坂口綾優氏が「studygift」(http://studygift.net/home.php)なるサービスで学費支援を求めていることが話題となっている。このサービスに対する批判というのを一通り見てみると、

  • なんで奨学金を停止になるの?頭悪いの?ちゃんと理由説明しろよ?
  • 目立つ学生しかどうせ金集められないでしょう?
  • 本当に困っている学生に渡したいんだけど?
  • 結局「学費」ってのは隠れ蓑なんでしょ?

が大半を占めている。つまり「学費が欲しい」という『崇高な目的』に対しては、それをネット上で集めるための『正当な理由』が必要となるが、彼女は『正当な理由』を有していないか、あるいは別種の目的を「学費」によって覆い隠している、という批判であろう。
クラウドファンディング - CAMPFIRE (キャンプファイヤー)」などと異なり、本サービスは気に入った相手に「寄付」をするのに近い。その点を軸に、だらだらと批判に対する批判を。
(追記)分かりやすく言えば、「http://digimaga.net/2012/05/studygift-sakaguchi-aya-marketing」のような「お金をもらう態度じゃない」「理由がない」等の「JASSO/面接官脳」が、この記事の批判対象です。

1

上記に挙げたいくつかの批判について、僕は全て無視して構わないと思う。なぜなら、既存の奨学金とこの「studygift」が根本的に異なる点というのは、そのコントロール権限の大半が被支援者(つまりこの彼女)にあることであるからだ。つまり既存の奨学金においては、奨学金を出す側の意見や条件が絶対であり、その条件を外れた場合には原則として奨学金を継続して受給することは出来ない。一方で本サービスは、条件を出すのは支援者側ではなく被支援者側にある。つまり「このような条件を拒絶するなら金を払わないで良い」と言い切ることが出来る(もちろんその良い切り方によっては全く支援を得られないような可能性も十分考慮しなくてはならないが)。今回の事例で言えば、彼女を批判している大多数の人間は、既に「金を払わないで良い」と言われている者達であり、それがいくら文句を垂れたところでサービスとしては何の問題もないだろう。

もちろん彼女自身の風評には大いに影響する。ただ、それもインターネット上でこのような行動をする際のひとつのリスクであり、当然認識しておくべきものであるから、私は問題であるとは思わない。第二号第三号が同じ琴を始める際には忠告が必要であろうとは思う。

このような、既存の奨学金と異なる性格を帯びた本サービスでは、例えば「どうして奨学金を停止されたのかちゃんとした理由を説明して欲しい」といった疑問は、即座に却下される。というのも、その情報を公開しない以上、被支援者が支援者に期待していることは「理由を言わなくても支援してくれる人」であるためである。それを「欲張りすぎ」と非難する人もいるだろう。けれども、どうしてそんなに「欲張る」ことが良くないのだろうか。
それに関連して、次のような疑問も残る。赤の他人であり金を払いもしない人間が発する「どうして奨学金を停止されたのか、そんなことを説明しないでどうしてこのような行為を行うのか」という声に、どうして耳を傾けなくてはならないのか。

2

思うに、このようなサービスの敵は、上に記した意識、つまり「ネット上で金銭を募る際にも、社会一般で奨学金を得る際に行わなくてはならない説明事項は行わなくてはならないものなのだ」という意識であろう。「金をもらうときにはそれ相応の説明をしなくてはならない」という社会通念、と言い換えても良いかもしれない。
インターネット上に散見された多くの批判はこの語句に集約することが出来ると思う。だが本サービスが目指しているものは、そういった社会通念とは全く異なる、むしろ「面白いと思った奴にはした金を投げる乞食サービス」の延長だろう。上記のような批判に対しては、既存の奨学金とのベクトルの違いを鮮烈に語ることで対抗して欲しいと思う。

3(おまけ)

PRから投資に結びつける一連の方法について、新卒採用活動との類似を指摘する声がある。しかし就活における「目立つ学生」と、インターネット上で「目立つ」学生とは大きな乖離がある。前者において目立つ学生は、既に雛型が出来ている。世界一周したバックパッカー、運動会で優勝、海外ボランティア、フリーペーパーetc。一方でインターネット上で目立つ学生は、このような雛型から外れた人間や新たな雛型を作り出そうとする人間である。バックパッカーやボランティア、フリーペーパーなどをネット上でのアピールポイントにしても、大きな話題にはならないだろう(さらにいえば、むしろこういった行為を典型として忌み嫌う人も多い)。ネット上で好まれるのは、新しいサービスを作ったり、そのサービスの成長に寄与したり、上手く利用した人間である。
彼女の例でいれば、次のように単純化できる。「Google+で(…)フォロワー数が日本一になった」という点がネット上ではアピールポイントとなる。だが、就活ではおそらく「Google+で(…)フォロワー数が日本一になったということが、ネット上で大きく話題になった」という点がちょっとしたアピールポイントとなる(というか正直アピールポイントにならないと思う)。

本サービスが就活モデルに似ているというのは確かにそうだろう。しかしその内部は、就活モデルとは異なっている。それは本サービスが「ネット上で大衆に呼びかける」という点にある。そして皮肉なことに、ネット上で金銭を惜しむことなく出す者は、上記のような典型モデルを忌避する。就職活動の気持ち悪さというのは、「優秀さ」の雛型を忠実にどれほどなぞることが出来るのか、という争いに凝縮されているだろう。だがネット上でのアピールというのはそのような雛型をいかに切り崩すことが出来るかという点に凝縮される。その点で、本サービスに必要となる「PR」と就活における「PR」は異なるものであり、同じ枠組みで語られるべき者ではないと考える。

とはいえ、僕自身がそう考えたところで周りからそう思われてしまっては仕方ないので、サービス側の改善も必要だろう。おそらくサービス側の一番悪い点は、彼女しか被支援者がいないということだろう。そのあたりの人選は難しいと思うが……頑張ってもらいたい。

4

これまでの愚痴では、「『金』に対する崇高な意識」を主に批判してきた。金を渡すときには明確な理由が必要であり、リターンやリスクの説明が必要となる、という点である。そしてそれに「学業」というそれまた崇高な目的が加わると、「学費」という悪魔合体的な単語が立ち上がる。
ただ本サービスが一番妥協してはならない点が、(上記にも記述したとおり)このような意識・文化であろう。だからこそ、「学費」という単語に対する目眩――つまり学費とは『正当に』使われるべきであり、『正当な』理由なくして学費補助を受けることは出来ないという意識――に繋がる。
しかし、どうして説明なしに学費補助を受け取ってはならないのか、どうして学費補助を受けた者は円満に大学を卒業しなくてはならないのか、それを説明するのは難しい。前者はリスクの説明だろうか。後者はリターンの問題か?では、どうしてリスクとリターンの説明を「寄付」において行わなくてはならないのか?本サービスが中途半端にその説明を行おうとしているからだろうか?

4'(0519追加)

本サービス自体が「学費」という単語に依存しているという指摘もある。つまり「学費」は「本当にこれに困っているのなら、少しくらい寄付が集まっても問題無いよなあ」と思ってしまう費用であり、「享楽費が欲しい」と主張するのとは全く異なる。その違いを上手く利用しているのではないか、という指摘である。
そういった指摘があるからこそ、「寄付者に対しては私用目的を開示する」等のシステムを整えたのではないか。もちろんその上で、批判者は次のように言うだろう。「さんざん遊んでおいて今から学費といったところで、昔から勉強していればそんな必要もなかっただろう。実質的に遊んで作ったツケを払って下さいと言っているようなものだ」。

結局のところ、誰もが「学費」の崇高性に縛られているのだ。あるいは、履歴書に傷がないものしか学費を得る権利はないと考えているのだ。心の中の小さなJASSOがそう叫んでいるのである。しかし、前述の通りそのような批判は本サービスには不適切である。納得のいく者だけが支援を行い、それに対してはフィードバックを行う。この一連の流れの中で、批判している者は除外されている。小さなJASSO達の声は、内部までには届かないのである。
何が原因にせよ、「学費が払えなくなったので欲しい、きちんと学費に使ったことは公表する」という目的に対し、JASSO的な判断基準のみを持ち出す必要はない。そして、JASSO的でない評価基準が欲しかったからこそ彼女はこのサービスの広告塔となった。そういうことなのではないか。先ほどとの繰り返しになってしまうけれど。

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「自分をPRして、それに応えてくれる人間がサポートを行う」というサービスは、インターネット抜きにはなかなか難しい。しかしネット上においても、それが真に実現した姿を見たことはほとんど無い。本サービスが成功する可能性も、現状では(おそらく)限りなく低い。だが、意識的であるかは分からないにせよ「金銭」に対する文化を変容させようとするこのような挑戦を、僕は歓迎したいと思う。

そして最後に。「本当に困っている学生」に対する支援は、このようなサービスではなく公的な仕組みが行うべきであろう。いや、そう言う必要もない。「本当に困っている学生」というのは、果たしてどのような学生なのだろうか。結局のところ万人が納得する「困窮」は存在しない以上(そんなもの生活保護に対する議論を見ていれば丸わかりだろう)、「自分は困っています」と出てきてもらうしか方策はないのではないか。「出てこれない人間に対しては?」――いい加減止めよう。そもそも、困窮とは客観的かつ相対的な概念ではないのだ。

てんかん患者からの免許はく奪はより深い意味を持つ

ちょうど一年前、私はてんかん患者の社会的地位についてなぜ彼はクレーンに乗らなくてはならなかったのか - Thirのノートにて記した。
そして今回の事件においては、てんかん患者への運転免許取得規制が本格的に議論されようとしている。はっきり言って、私はこの規制に断固反対である。それが事件の被害者を侮蔑した行為であるとののしられてもまったく構わない。というのも、免許規制はてんかん患者にとって単なる「運転ができなくなる」以上の意味を持っており、それは彼らの社会的地位をさらに差別に晒すものであることは間違いないためである。
なお、てんかんと免許の「安全性」については、先のクレーン事故と織り交ぜて語られているhttp://ameblo.jp/moonsun3/entry-11220131531.htmlに詳しい。

「クローズ」——仮面をかぶる生き方

てんかんに限らず、慢性精神疾患エイズなど告知によって差別・偏見を受ける疾患は多数存在する。そういった疾患を持つ者は、多くの場面において自らが病気であることを自分から話さない。それは、就職の際にも同様である。告知せずに就職をし、雇用主からクリティカルな質問を受けない限りは病気を隠し続ける——これが「クローズ」(クローズド)という生き方である。
この「クローズ」なる単語はネットスラングではない。医師やソーシャルワーカーなども使用する単語であり、このような単語が存在している事実が、まさに病が就職において忌避される要因であることを物語っている。キャリアカウンセラーやソーシャルワーカーは、正社員雇用を目指す場合にはクローズにしたほうがよいと現在でも「指導」している。
社会的偏見や差別により、患者は病気の事実を隠して就職することを強要されている。別に、自ら積極的に隠したいわけではない。隠さなくては多くの企業から雇ってもらえないのだ。なお、障害年金生活保護等の公的支援は使い物にならないことに関しては、前述の記事にて記載している。

「クローズ」という生き方、これはまさに「仮面をかぶって生きる」ということである。そう、「健常者」という「仮面」をかぶらなくては、この社会では生きていくことができないのだ。

運転免許規制が剥がす「仮面」

「クローズ」においては、病気にり患している事実を徹底的に隠し続けなくてはならない。ゆえに、一般的な「健常者」が出来る業務は同様にすべてをこなすことが可能であること、履歴書上健常者となんら変わりないことを表明する必要がある。
しかし、免許が規制されたらどうなるか。当然「運転免許を取得することはできない」ということを雇用主に対して表明しなくてはならない。その表明の際は、おそらく「なぜか」と問われるだろう。この質問に対しては、もはや素直に「てんかんを持っているので…」と回答するしかない。この瞬間に、かぶっていた仮面は剥がされ、崩れ落ちる。
それが入社後であればまだ何とかなるかもしれない(解雇規制が激しいため)。しかし入社前の履歴書や面接の段階で指摘された場合、もはや逃げる道はない。というのも、病気があると判明した段階で採用しない企業は膨大にあり(だからこそ「クローズ」が推奨される)、その段階で入社の道は絶たれてしまうためである。

運転免許証を規制した場合、できなくなることは「運転」だけではない。「クローズ」という生き方そのものが危険にさらされる。当然、「オープンにして生きていけばいいじゃないか」という方はいるだろう。残念ながらこの国におけるてんかん差別はそんな生易しいものではない。何が原因かはわからない。なにはともあれ、国の公的支援は非常に乏しく(医療面においては、公的支援を使用しても月5000円程度の負担がある。性能の良いてんかんの新薬は非常に価格が高くジェネリック医薬品も出ていない。)、公共団体や病院、施設を頼ることもできない。ならば、自らが「クローズ」を選択することで生きるしかない。それが現在のてんかんをとりまく現状であり、ごく軽症であっても、てんかん罹患の事実を決して口外しない者は、決して少なくない。

さて、以上のとおり、てんかん患者から運転免許をはく奪することは、より強く深い意味を持っている。もし規制を行うのであれば、それと同時に上記のような実態を少しでも改善することが必要となるだろう。だが、その道は険しい。てんかんに対する差別・偏見は、我々の認識を超えて社会全体に広く共有されもはや暗黙知となってしまっている。さらに、これは制度的な問題ではないため、「改革」を断行することは極めて難しい。ゆえに、この風土を改善し「てんかんを正しく理解してもらう」ということは、前途多難である(あるいは正しく理解してもらったところで差別や偏見がなくなるわけではないともいえる)。なんということだろう、この国はあの「薬害エイズ」から何も変わっていないのだ。
同様に、「運転免許証」に関する概念を変えることも難しいだろう。今や普通免許は「持っていて当然」の存在である。免許を持っていない人間、あるいはとることの出来ない人間は「欠陥」扱いをされてしまう*1。ただし、上記とは異なり制度に関する変更で良い(ただし老年者の免許取得を見る限り難しいとはいえるが)点において、行いやすくはあるかもしれない。つまり運転免許という制度全体にメスを入れることで、「クローズ」というあり方そのものは温存することができるだろう。
さて、この差別の中で免許をはく奪したら、目に見える事故はなくなるかもしれない。あるいは、「てんかん」を安易に「事故の原因」として納得させるようなことは、なくなっていくだろう。だが、それは今回の事件も相まって「てんかん」という存在をより社会の「タブー」とし、それでいて患者はクローズを行えなくなるという状況を作り出してしまうのではないか。あるいは、何らかの瞬間に飛び出る「てんかん」という単語に対して、異様なまでに反応してしまう社会を作り出しはしないだろうか。
このような理由から、私は全面的な免許規制に賛同することはできない。もし行うのであれば、ハローワークや病院が率先してオープンで就職できる場所を探したり、場合によっては現在以上のインセンティブを供与し、それが困難であるのならばクローズして生きる何らかの「抜け道」を用意するべきである。あるいは先に書いたような「免許を変える」という歩み寄り方も(難しいとはいえ)ありうる。いずれにせよ、「差別は存在している」という現状から出発する場合、「クローズ」という生き方そのものを肯定する必要がある。
こんなことが起きているなんて到底信じられないかもしれない。しかし、それは彼らが「クローズ」であるからだ。患者が見えなくなったのだ。誰が見えなくしたのか?——ほかでもない、我々である。

追記

「クローズを進めるというのは、患者に『お前は隠れて生きろ』といっているもので、これはお前が患者を差別しているんじゃないのか」というコメントがあったが、私が主張したいのはそうではない。

もちろん、差別がなくなることが最も良いことである。それは、てんかんという病それ自体への偏見がなくなり、職場についても運転はさせないとか、そういうものである。ただ、私はこの国でそういう文化が根付くのかと言われたら、根付かいと言わざるを得ないと思う。履歴書に一つでもキズがあると渋るような経営者が大多数を占めているこの国の上位層が、「キズ」のひとつである精神疾患・脳疾患にたいして寛容になることはおそらくありえない。私は社会的な差別は一切なくなるべきだと思う。しかしそれは残念ながら理想論だ。私は理想論を語りたいのではない。理想論はあくまでも理想であり現実で今苦しんでいるものにとっては、それ自体が苦痛でしかない。
それでも!それでもだ、そういった「社会的偏見はなくならない」という状況の下で、クローズという生き方を行えば、普通の暮らしがおくれるのだ……これだけは最低担保しておくべきである、それが私の主張である。

「クローズで生きる?生きさせる?それはおかしいだろ」というのは簡単だ。オープンにすることはいまだ社会的偏見から非常に成功することが難しい。だからクローズがある。クローズをしぶしぶ進めなくてはならない。だがクローズにすれば生きることができる。もしクローズという選択肢が使えなくなってしまったら?問いはそこだ。

しかし「クローズ」には危険性も

……とだらだらと追記を書いたのだが、「クローズを続ける」ということのもつ危険性というのも、一度記述したほうがよいかもしれない。たとえばそれは、今回のようにてんかん患者が何かを起こした時に、本来の原因が何であれとりあえず「てんかん」がやり玉にあがりさらに誹謗を受ける、といったことは十分に考えられる。クローズとして生きた結果何かが発生したときに、てんかんであることが発覚した瞬間に「またあのパターンか」と言われ病気自体が中傷される可能性は十分にある。
つまりだ。「患者がクローズとして生きる利益」と「その際、もし何かあった時に『てんかん』全体が受ける不利益」の双方を考える必要があった(本記事では前者に偏っている)。この二つをどのように両立させようか、あるいはハンマーでぶっ壊すようなことができないか、それが課題となるだろう。

願わくば全員がオープンに出来る社会がほしい。けれどもそれは無理だ。オープンにするメリットのほうが、クローズで生きるメリットを超えなくては、誰もオープンになんてしたがらない。それくらいに差別は進み・固定化している。なら、クローズというあり方を認めつつも徐々にてんかんに対する差別を(何らかの手段で)緩和させ、「実は私…」といえる環境を作ること、この目標に対して具体的にどうのような施策が(運転免許を含めて)必要であるか、そういった議論が要請されてくるだろう。しかしその最終段においては、もちろん「有事の際の議論」も行わなくてはならない。そのすべてを整理することが望まれている。

*1:表現中カギカッコをつけている部分は、当然「欠陥ではないのに、社会人としては不覚とされてしまう」という意図が内包されてるものとお考えください

『絆』再考−−我々はなぜ『絆』という言葉を嫌悪するのか

震災から一年がたとうとしている。その中で印象的であったことは、やはり「絆」という言葉が連呼されたことであった。多くの場合、インターネットコミュニティ上で、この「絆」という単語は反発をもたれていた。Twitterにおいても、「何が絆だ」「これは【ほだし】(束縛)のことだ」等々、反発の声が非常に高かったことを覚えている。
では、なぜインターネット上では、これほどまでに「絆」に対するアレルギーが強かったのか。それは、今まさに記述した文章の中にあるのではないか。そう、「アレルギー」だ。
なお、さしあたり本稿では、「絆」を「(不特定の)人と人とのつながり」であるとしておく。

昔から存在した「ネットの絆」

 そもそもインターネット(不特定多数とのやり取りを行うウェブ上の場所のことを本稿ではこのように記載する)とは、「絆」を描くことに長けたメディアであった*1。偉い人はこれを「互酬性が高い」と表現するらしい。つまりこういうことである。『Yahoo!知恵袋』に大学入試の問題を貼りつけたとする。1万人それを閲覧した中、1人が返信をしたとする。これだけで、貼りつけた者は「よかった、ありがとう」と思う。そして、そのやり取りが情報として残り続ける。あるいは、他の人も同じ事を行い、それも残り続ける。これら全てが連鎖していくことで、「誰かを助けたら、いずれ誰かが自分のことも助けてくれるはずだ」と思う事のできるシステムが完成する。全くの見知らぬ他者ばかりである世界それ自体に対し、「信頼」が生まれるのである。
 これは、よくある「誰かを助けたら、いずれその人から助けてもらえる」という返報性規範とは異なっており、不特定多数への信頼を可能としている。まさに「インターネット」は、ユーザーによって互酬性の高いシステムとして信頼され、あるいはそのような姿を見せてきていたのである。

ソーシャルメディア時代と「境界」の消失

このたぶんどこかで学んだのであろう文体の文章(2008年)では、「インターネットと現実世界には違いはない」ということを記述した。そして2008年以降、この流れはソーシャルメディアスマートフォンの普及により、あらゆる情報・人・時間へと拡大した。つまり、「いつでも、どこでも、だれとでも、なんでも」コミュニケーションが取れる時代が到来したのである。ここでは、すでに「現実」と「ネット」という壁は完全に取り払われている。もちろん、「facebookは実名、TwitterはHN」という人もいるだろう。しかし、それでもなお壁は取り払われているのだ。そこにある区別は、大学の友人に高校の同期の話をしないようなものである。
 さて、今読むと気持ち悪い文章(2008年)では「インターネット上では『つながりの実感』を作ることが出来る」と書いた。この「つながり」は「システム」が存在してこそ成立し得たものであり、その上に現実の様々なものが乗っかってきたと考えてよいだろう。
「飲みに行きたい」といえば誰かが応答してくれるかもしれないし、応答してくれなくても構わない。システム全体に対する信頼は、入っているコミュニティ・利用しているサービス全体に対するそれであり、「つながっている感覚」の源泉である。そしてこの「つながっている感覚」こそが「絆」ではないか。ネット上に脈々と存在していた小さな「絆」は、「インターネット」を土俵としている限りにおいて全てのものにつながりうるものとなった。いや、全てではない。「ネットとの差別化」「ネットへの対立」を打ち出している既存のメディア全ては外部化された。その結果、それに対して異常な敵対心を抱くものも出てきている。

絆への嫌悪

 では、なぜ我々は「絆」という言葉に対し「アレルギー」を起こすのか。それは、ネット上でのそれが我々にとって最も快適な「絆」のあり方であると気がついてしまったからではないか。そして、同じあり方は、社会という我々が信頼していないシステムの上では再現不可能であることを、皆知っているからではないか。
 ネット上においても、「mixi疲れ」などに現れたとおり、「過剰なつながり」はしばしば我々を疲弊させていた。それが現在になって、我々はようやく「現実とネットのすり合わせ」をマスターし、丁度よい位置に収まったのではないか。そしてそれが現時点で最も快適なあり方であるからこそ、他者からの「絆」の押し付けにアレルギーを起こすのだ。
我々は、これが「インターネット上だからこそ成り立っている」ことに気がついており、同時に「現実では起こりえない」こともわかっている。あるいは、現実にはこれ以上に快適な互酬性のあるシステムなど作れやしないことを知っている(「社会」という現実に存在するシステムに対する信頼は、もはやほとんど存在しないだろう)。だからこそ、「外の世界からの『別のつながりのあり方』の押し付け」に、過剰に反発するのである。
 極めつけなのは、その「外からの世界」が、「メディア」である点である。社会に信頼をよせるものは少ないだろう。しかしメディアが訴えるのは、「社会を信用せよ、さもなくば我々を信用し共にこの社会を変えよう」ということである。「絆」という単語は、それをさらに強調し、挙句の果てに曝け出す。絆とは、もはや何らかの中心的存在によって担保されるものではない。「システム」それ自体が信頼されることによって初めてその上で自然発生的に生まれるものなのだ。特に近年連呼されているのは「不特定多数の絆」であり、社会それ自体への信頼は必須であるといえる。

だから我々は「絆」を嫌悪し、批判してきた。私はそれで問題ないと思う。なぜならば、我々はまだ『情けな人のためならず』が成立する世界を持ち続けているのだ。

*1:ちなみに今調べたところ、『きずなをつなぐメディア—ネット時代の社会関係資本』(NTT出版)という本があるらしい。読んでいないので内容は不明