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2012-05-19

「何か義憤に駆られてませんか?」――studygiftについて

Google+フォロワー数が話題となった坂口綾優氏が「studygift」(no title)なるサービスで学費支援を求めていることが話題となっている。このサービスに対する批判というのを一通り見てみると、

  • なんで奨学金を停止になるの?頭悪いの?ちゃんと理由説明しろよ?
  • 目立つ学生しかどうせ金集められないでしょう?
  • 本当に困っている学生に渡したいんだけど?
  • 結局「学費」ってのは隠れ蓑なんでしょ?

が大半を占めている。つまり「学費が欲しい」という『崇高な目的』に対しては、それをネット上で集めるための『正当な理由』が必要となるが、彼女は『正当な理由』を有していないか、あるいは別種の目的を「学費」によって覆い隠している、という批判であろう。

クラウドファンディング - CAMPFIRE(キャンプファイヤー)」などと異なり、本サービスは気に入った相手に「寄付」をするのに近い。その点を軸に、だらだらと批判に対する批判を。

(追記)分かりやすく言えば、「坂口綾優と『studygift』と炎上マーケティング」のような「お金をもらう態度じゃない」「理由がない」等の「JASSO/面接官脳」が、この記事の批判対象です。

1

上記に挙げたいくつかの批判について、僕は全て無視して構わないと思う。なぜなら、既存の奨学金とこの「studygift」が根本的に異なる点というのは、そのコントロール権限の大半が被支援者(つまりこの彼女)にあることであるからだ。つまり既存の奨学金においては、奨学金を出す側の意見や条件が絶対であり、その条件を外れた場合には原則として奨学金を継続して受給することは出来ない。一方で本サービスは、条件を出すのは支援者側ではなく被支援者側にある。つまり「このような条件を拒絶するなら金を払わないで良い」と言い切ることが出来る(もちろんその良い切り方によっては全く支援を得られないような可能性も十分考慮しなくてはならないが)。今回の事例で言えば、彼女を批判している大多数の人間は、既に「金を払わないで良い」と言われている者達であり、それがいくら文句を垂れたところでサービスとしては何の問題もないだろう。

もちろん彼女自身の風評には大いに影響する。ただ、それもインターネット上でこのような行動をする際のひとつのリスクであり、当然認識しておくべきものであるから、私は問題であるとは思わない。第二号第三号が同じ琴を始める際には忠告が必要であろうとは思う。

このような、既存の奨学金と異なる性格を帯びた本サービスでは、例えば「どうして奨学金を停止されたのかちゃんとした理由を説明して欲しい」といった疑問は、即座に却下される。というのも、その情報を公開しない以上、被支援者が支援者に期待していることは「理由を言わなくても支援してくれる人」であるためである。それを「欲張りすぎ」と非難する人もいるだろう。けれども、どうしてそんなに「欲張る」ことが良くないのだろうか。

それに関連して、次のような疑問も残る。赤の他人であり金を払いもしない人間が発する「どうして奨学金を停止されたのか、そんなことを説明しないでどうしてこのような行為を行うのか」という声に、どうして耳を傾けなくてはならないのか。


2

思うに、このようなサービスの敵は、上に記した意識、つまり「ネット上で金銭を募る際にも、社会一般で奨学金を得る際に行わなくてはならない説明事項は行わなくてはならないものなのだ」という意識であろう。「金をもらうときにはそれ相応の説明をしなくてはならない」という社会通念、と言い換えても良いかもしれない。

インターネット上に散見された多くの批判はこの語句に集約することが出来ると思う。だが本サービスが目指しているものは、そういった社会通念とは全く異なる、むしろ「面白いと思った奴にはした金を投げる乞食サービス」の延長だろう。上記のような批判に対しては、既存の奨学金とのベクトルの違いを鮮烈に語ることで対抗して欲しいと思う。

3(おまけ)

PRから投資に結びつける一連の方法について、新卒採用活動との類似を指摘する声がある。しかし就活における「目立つ学生」と、インターネット上で「目立つ」学生とは大きな乖離がある。前者において目立つ学生は、既に雛型が出来ている。世界一周したバックパッカー、運動会で優勝、海外ボランティアフリーペーパーetc。一方でインターネット上で目立つ学生は、このような雛型から外れた人間や新たな雛型を作り出そうとする人間である。バックパッカーやボランティア、フリーペーパーなどをネット上でのアピールポイントにしても、大きな話題にはならないだろう(さらにいえば、むしろこういった行為を典型として忌み嫌う人も多い)。ネット上で好まれるのは、新しいサービスを作ったり、そのサービスの成長に寄与したり、上手く利用した人間である。

彼女の例でいれば、次のように単純化できる。「Google+で(…)フォロワー数が日本一になった」という点がネット上ではアピールポイントとなる。だが、就活ではおそらく「Google+で(…)フォロワー数が日本一になったということが、ネット上で大きく話題になった」という点がちょっとしたアピールポイントとなる(というか正直アピールポイントにならないと思う)。

本サービスが就活モデルに似ているというのは確かにそうだろう。しかしその内部は、就活モデルとは異なっている。それは本サービスが「ネット上で大衆に呼びかける」という点にある。そして皮肉なことに、ネット上で金銭を惜しむことなく出す者は、上記のような典型モデルを忌避する。就職活動の気持ち悪さというのは、「優秀さ」の雛型を忠実にどれほどなぞることが出来るのか、という争いに凝縮されているだろう。だがネット上でのアピールというのはそのような雛型をいかに切り崩すことが出来るかという点に凝縮される。その点で、本サービスに必要となる「PR」と就活における「PR」は異なるものであり、同じ枠組みで語られるべき者ではないと考える。

とはいえ、僕自身がそう考えたところで周りからそう思われてしまっては仕方ないので、サービス側の改善も必要だろう。おそらくサービス側の一番悪い点は、彼女しか被支援者がいないということだろう。そのあたりの人選は難しいと思うが……頑張ってもらいたい。

4

これまでの愚痴では、「『金』に対する崇高な意識」を主に批判してきた。金を渡すときには明確な理由が必要であり、リターンやリスクの説明が必要となる、という点である。そしてそれに「学業」というそれまた崇高な目的が加わると、「学費」という悪魔合体的な単語が立ち上がる。

ただ本サービスが一番妥協してはならない点が、(上記にも記述したとおり)このような意識・文化であろう。だからこそ、「学費」という単語に対する目眩――つまり学費とは『正当に』使われるべきであり、『正当な』理由なくして学費補助を受けることは出来ないという意識――に繋がる。

しかし、どうして説明なしに学費補助を受け取ってはならないのか、どうして学費補助を受けた者は円満に大学を卒業しなくてはならないのか、それを説明するのは難しい。前者はリスクの説明だろうか。後者はリターンの問題か?では、どうしてリスクとリターンの説明を「寄付」において行わなくてはならないのか?本サービスが中途半端にその説明を行おうとしているからだろうか?


4'(0519追加)

本サービス自体が「学費」という単語に依存しているという指摘もある。つまり「学費」は「本当にこれに困っているのなら、少しくらい寄付が集まっても問題無いよなあ」と思ってしまう費用であり、「享楽費が欲しい」と主張するのとは全く異なる。その違いを上手く利用しているのではないか、という指摘である。

そういった指摘があるからこそ、「寄付者に対しては私用目的を開示する」等のシステムを整えたのではないか。もちろんその上で、批判者は次のように言うだろう。「さんざん遊んでおいて今から学費といったところで、昔から勉強していればそんな必要もなかっただろう。実質的に遊んで作ったツケを払って下さいと言っているようなものだ」。

結局のところ、誰もが「学費」の崇高性に縛られているのだ。あるいは、履歴書に傷がないものしか学費を得る権利はないと考えているのだ。心の中の小さなJASSOがそう叫んでいるのである。しかし、前述の通りそのような批判は本サービスには不適切である。納得のいく者だけが支援を行い、それに対してはフィードバックを行う。この一連の流れの中で、批判している者は除外されている。小さなJASSO達の声は、内部までには届かないのである。

何が原因にせよ、「学費が払えなくなったので欲しい、きちんと学費に使ったことは公表する」という目的に対し、JASSO的な判断基準のみを持ち出す必要はない。そして、JASSO的でない評価基準が欲しかったからこそ彼女はこのサービスの広告塔となった。そういうことなのではないか。先ほどとの繰り返しになってしまうけれど。

5

「自分をPRして、それに応えてくれる人間がサポートを行う」というサービスは、インターネット抜きにはなかなか難しい。しかしネット上においても、それが真に実現した姿を見たことはほとんど無い。本サービスが成功する可能性も、現状では(おそらく)限りなく低い。だが、意識的であるかは分からないにせよ「金銭」に対する文化を変容させようとするこのような挑戦を、僕は歓迎したいと思う。

そして最後に。「本当に困っている学生」に対する支援は、このようなサービスではなく公的な仕組みが行うべきであろう。いや、そう言う必要もない。「本当に困っている学生」というのは、果たしてどのような学生なのだろうか。結局のところ万人が納得する「困窮」は存在しない以上(そんなもの生活保護に対する議論を見ていれば丸わかりだろう)、「自分は困っています」と出てきてもらうしか方策はないのではないか。「出てこれない人間に対しては?」――いい加減止めよう。そもそも、困窮とは客観的かつ相対的な概念ではないのだ。

参考記事

I’m looking for a new way to fly...: studygift〜学費支援プラットフォーム〜について。お金は怖いということ。限定的支持・批判・提案

いま話題の「学生支援サービス」は形を変えた「就活」の気持ち悪さ

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2012-04-15

てんかん患者からの免許はく奪はより深い意味を持つ

ちょうど一年前、私はてんかん患者の社会的地位についてなぜ彼はクレーンに乗らなくてはならなかったのか - Thirのノートにて記した。

そして今回の事件においては、てんかん患者への運転免許取得規制が本格的に議論されようとしている。はっきり言って、私はこの規制に断固反対である。それが事件の被害者を侮蔑した行為であるとののしられてもまったく構わない。というのも、免許規制はてんかん患者にとって単なる「運転ができなくなる」以上の意味を持っており、それは彼らの社会的地位をさらに差別晒すものであることは間違いないためである。

なお、てんかんと免許の「安全性」については、先のクレーン事故と織り交ぜて語られているno titleに詳しい。

「クローズ」——仮面をかぶる生き方

てんかんに限らず、慢性精神疾患やエイズなど告知によって差別・偏見を受ける疾患は多数存在する。そういった疾患を持つ者は、多くの場面において自らが病気であることを自分から話さない。それは、就職の際にも同様である。告知せずに就職をし、雇用主からクリティカルな質問を受けない限りは病気を隠し続ける——これが「クローズ」(クローズド)という生き方である。

この「クローズ」なる単語はネットスラングではない。医師やソーシャルワーカーなども使用する単語であり、このような単語が存在している事実が、まさに病が就職において忌避される要因であることを物語っている。キャリアカウンセラーやソーシャルワーカーは、正社員雇用を目指す場合にはクローズにしたほうがよいと現在でも「指導」している。

社会的偏見や差別により、患者は病気の事実を隠して就職することを強要されている。別に、自ら積極的に隠したいわけではない。隠さなくては多くの企業から雇ってもらえないのだ。なお、障害年金や生活保護等の公的支援は使い物にならないことに関しては、前述の記事にて記載している。

「クローズ」という生き方、これはまさに「仮面をかぶって生きる」ということである。そう、「健常者」という「仮面」をかぶらなくては、この社会では生きていくことができないのだ。

運転免許規制が剥がす「仮面」

「クローズ」においては、病気にり患している事実を徹底的に隠し続けなくてはならない。ゆえに、一般的な「健常者」が出来る業務は同様にすべてをこなすことが可能であること、履歴書上健常者となんら変わりないことを表明する必要がある。

しかし、免許が規制されたらどうなるか。当然「運転免許を取得することはできない」ということを雇用主に対して表明しなくてはならない。その表明の際は、おそらく「なぜか」と問われるだろう。この質問に対しては、もはや素直に「てんかんを持っているので…」と回答するしかない。この瞬間に、かぶっていた仮面は剥がされ、崩れ落ちる。

それが入社後であればまだ何とかなるかもしれない(解雇規制が激しいため)。しかし入社前の履歴書や面接の段階で指摘された場合、もはや逃げる道はない。というのも、病気があると判明した段階で採用しない企業は膨大にあり(だからこそ「クローズ」が推奨される)、その段階で入社の道は絶たれてしまうためである。

運転免許証を規制した場合、できなくなることは「運転」だけではない。「クローズ」という生き方そのものが危険にさらされる。当然、「オープンにして生きていけばいいじゃないか」という方はいるだろう。残念ながらこの国におけるてんかん差別はそんな生易しいものではない。何が原因かはわからない。なにはともあれ、国の公的支援は非常に乏しく(医療面においては、公的支援を使用しても月5000円程度の負担がある。性能の良いてんかんの新薬は非常に価格が高くジェネリック医薬品も出ていない。)、公共団体や病院、施設を頼ることもできない。ならば、自らが「クローズ」を選択することで生きるしかない。それが現在のてんかんをとりまく現状であり、ごく軽症であっても、てんかん罹患の事実を決して口外しない者は、決して少なくない。

さて、以上のとおり、てんかん患者から運転免許をはく奪することは、より強く深い意味を持っている。もし規制を行うのであれば、それと同時に上記のような実態を少しでも改善することが必要となるだろう。だが、その道は険しい。てんかんに対する差別・偏見は、我々の認識を超えて社会全体に広く共有されもはや暗黙知となってしまっている。さらに、これは制度的な問題ではないため、「改革」を断行することは極めて難しい。ゆえに、この風土を改善し「てんかんを正しく理解してもらう」ということは、前途多難である(あるいは正しく理解してもらったところで差別や偏見がなくなるわけではないともいえる)。なんということだろう、この国はあの「薬害エイズ」から何も変わっていないのだ。

同様に、「運転免許証」に関する概念を変えることも難しいだろう。今や普通免許は「持っていて当然」の存在である。免許を持っていない人間、あるいはとることの出来ない人間は「欠陥」扱いをされてしまう*1。ただし、上記とは異なり制度に関する変更で良い(ただし老年者の免許取得を見る限り難しいとはいえるが)点において、行いやすくはあるかもしれない。つまり運転免許という制度全体にメスを入れることで、「クローズ」というあり方そのものは温存することができるだろう。

さて、この差別の中で免許をはく奪したら、目に見える事故はなくなるかもしれない。あるいは、「てんかん」を安易に「事故の原因」として納得させるようなことは、なくなっていくだろう。だが、それは今回の事件も相まって「てんかん」という存在をより社会の「タブー」とし、それでいて患者はクローズを行えなくなるという状況を作り出してしまうのではないか。あるいは、何らかの瞬間に飛び出る「てんかん」という単語に対して、異様なまでに反応してしまう社会を作り出しはしないだろうか。

このような理由から、私は全面的な免許規制に賛同することはできない。もし行うのであれば、ハローワークや病院が率先してオープンで就職できる場所を探したり、場合によっては現在以上のインセンティブ供与し、それが困難であるのならばクローズして生きる何らかの「抜け道」を用意するべきである。あるいは先に書いたような「免許を変える」という歩み寄り方も(難しいとはいえ)ありうる。いずれにせよ、「差別は存在している」という現状から出発する場合、「クローズ」という生き方そのものを肯定する必要がある。

こんなことが起きているなんて到底信じられないかもしれない。しかし、それは彼らが「クローズ」であるからだ。患者が見えなくなったのだ。誰が見えなくしたのか?——ほかでもない、我々である。

追記

「クローズを進めるというのは、患者に『お前は隠れて生きろ』といっているもので、これはお前が患者を差別しているんじゃないのか」というコメントがあったが、私が主張したいのはそうではない。

もちろん、差別がなくなることが最も良いことである。それは、てんかんという病それ自体への偏見がなくなり、職場についても運転はさせないとか、そういうものである。ただ、私はこの国でそういう文化が根付くのかと言われたら、根付かいと言わざるを得ないと思う。履歴書に一つでもキズがあると渋るような経営者が大多数を占めているこの国の上位層が、「キズ」のひとつである精神疾患・脳疾患にたいして寛容になることはおそらくありえない。私は社会的な差別は一切なくなるべきだと思う。しかしそれは残念ながら理想論だ。私は理想論を語りたいのではない。理想論はあくまでも理想であり現実で今苦しんでいるものにとっては、それ自体が苦痛でしかない。

それでも!それでもだ、そういった「社会的偏見はなくならない」という状況の下で、クローズという生き方を行えば、普通の暮らしがおくれるのだ……これだけは最低担保しておくべきである、それが私の主張である。

「クローズで生きる?生きさせる?それはおかしいだろ」というのは簡単だ。オープンにすることはいまだ社会的偏見から非常に成功することが難しい。だからクローズがある。クローズをしぶしぶ進めなくてはならない。だがクローズにすれば生きることができる。もしクローズという選択肢が使えなくなってしまったら?問いはそこだ。

しかし「クローズ」には危険性も

……とだらだらと追記を書いたのだが、「クローズを続ける」ということのもつ危険性というのも、一度記述したほうがよいかもしれない。たとえばそれは、今回のようにてんかん患者が何かを起こした時に、本来の原因が何であれとりあえず「てんかん」がやり玉にあがりさらに誹謗を受ける、といったことは十分に考えられる。クローズとして生きた結果何かが発生したときに、てんかんであることが発覚した瞬間に「またあのパターンか」と言われ病気自体が中傷される可能性は十分にある。

つまりだ。「患者がクローズとして生きる利益」と「その際、もし何かあった時に『てんかん』全体が受ける不利益」の双方を考える必要があった(本記事では前者に偏っている)。この二つをどのように両立させようか、あるいはハンマーでぶっ壊すようなことができないか、それが課題となるだろう。

願わくば全員がオープンに出来る社会がほしい。けれどもそれは無理だ。オープンにするメリットのほうが、クローズで生きるメリットを超えなくては、誰もオープンになんてしたがらない。それくらいに差別は進み・固定化している。なら、クローズというあり方を認めつつも徐々にてんかんに対する差別を(何らかの手段で)緩和させ、「実は私…」といえる環境を作ること、この目標に対して具体的にどうのような施策が(運転免許を含めて)必要であるか、そういった議論が要請されてくるだろう。しかしその最終段においては、もちろん「有事の際の議論」も行わなくてはならない。そのすべてを整理することが望まれている。

*1:表現中カギカッコをつけている部分は、当然「欠陥ではないのに、社会人としては不覚とされてしまう」という意図が内包されてるものとお考えください