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2012-10-24

だから「ネット/現実」の二分法はやめろと……――「ネット中毒」について

ネット依存について思うこと | blog.yuco.netについて。

インターネットが承認欲求を充足させるものであることは前に書いたこともあるが、私はそれ以上に「ネット/現実」という二分法を未だに続けていることを問題としたい。ちなみに、この件についてもかなり昔に書いたことがある

上記記事の問題点:リアルとネットの切断をめぐって

ロハス生活をするのがそんなにエラいのか?ともかく、くだんの記事においては、インターネットを現実から遊離した存在であるという前提が貫かれている。その前提こそが、我々がまさに問題としたいところである。例えばこの記述。

クローズアップ現代で放送された韓国の子供のエピソード(親子関係に問題があり、ネットで親に対する不満を吐き出していた)を見て、やはりリアルに問題があって、逃げ場としてネット依存になるのだなぁと思った。単純にネットをn時間以下にするというより、リアルの問題を解決する必要がある。

「逃げ場としてネット依存になる」。確かにそのように見える。しかしもしインターネットがなければ、その少年*1は、おそらく他のどこかのコミュニティ、例えば「悪だくみ仲間」であるとか「日頃つるむ人間」であるとかに、その吐き出す先を見つけたであろう。しかし、「少年が悪だくみ仲間に親の悪口を言いまくっている」という時、我々はそこで「特定のコミュニティに依存している」などという言い方はしない。また、「その仲間が悪い」という言い方もしない。あくまでも悪いのは現実における家族関係であり、その吐き出し先がどこであるかは問題とならないのである。

――まさにここに、問題の核心がある。我々はインターネットと現実という二分法を好みすぎるあまり、インターネットなる単語が出てきた瞬間にそこに問題を見いだそうとする。そうではない。インターネットとは、我々の前にあるインフラであり、現実世界を拡張する存在でしかない。もっとも、yuco氏はおそらくそのことに気がついているのだろう。「リアルの問題を解決する必要がある。」その通りだ。いや、少し違う。問題はリアルの中にしか存在しない。

ネットで表現するのが楽しいと思った人は、一度は「ネットで自分を表現することで大衆に愛されたい」と思ったことがあるのではないか。実際それに成功しているように見える人もいて、その人の愛されぶりもまたネットで伝わってくる。私も、twitterでたくさんRTやfavされたとき、あるいはブログにはてブが集まったとき、「脳内にドーパミン出てる感」を味わい、ネットから身を離すことが難しくなる。

「ネットで」という枕詞をつけることで、あたかも議論は成立しているかのように見えるが、そうではない。それは、本人の記述にも現れているように思われる。

ネットと不健全な関わりをしないためにはリアルを充実させることが大切、しかし一朝一夕にリア充にはなれない。表現欲もつながり欲なども基本的には悪いことではないし、リアルにつながることもある。「結局バランスが大事」というつまらない結論になってしまう。

「ネットで表現するのが楽しいと思った」ことが講じてインターネット依存症となっているように見える者は、「現実での充足が足りない」という根本的な問題を抱えている。その者の充足がたかだかインターネットごときで得られるのであれば、それは十分に幸せなことではないか。「バランスが大事」なのではない。趣味で自己顕示欲を満たしたいのであれば、生活を切り詰めない限りにおいてそれを実行しなければならないという、ただそれだけのことである。ただそれだけのことが、インターネットなる魔法のワードを持ち出すことによって、あたかも「ネット特有の現象」であるかのように勝手に位置づけられてしまっているのだ。

件の記事の著者は、「ネット―現実」という二分法を用いているのにもかかわらず、そこにはその二分法によって処理できていない問題が多数存在していることを自分から示している。まさに、我々が「ネットの」という言葉に踊らされているに過ぎないのだ。よく記事を見てみてほしい。インターネット常用者には「そして表現にレスポンスがあるのは基本的に喜ばしいことだ――ここで、ループしてしまうのである。」という言葉は鮮烈に思えるかもしれない。しかし何気ない日常会話、飲み会の雑談、そういったものも、「ループ」で終わってしまうのではないだろうか? 記事の著者が言うとおり、我々は「知らない人から愛されたい」のだろうか? 「誰かから愛されたい」のではないだろうか? あとは単純に、その数の問題となる。当然、インターネットのほうが不特定多数に伝聞されやすく、また情報のフィードバック可視化されるため、「知らない人」の数は多くなる。紐解いてみれば、「ネット特有」とは言えなくなってくる。

「ネット―現実」の二分法はいつ見失われたのか

この方がインターネットから離れた後、若者世代とインターネットを取り巻く環境は大きく変わった。それまでは、インターネットの関係というのは、ネットから出発して現実に「オフ会」として回帰する存在であったのかもしれない。しかし若い者の間では、LINEにもfacebookにもmixiにもTwitterにも、「オン」の友人と「オフ」の友人が同居している。ネット上では、顔を合わせたこともないような者の悩み事に付き合うこともあれば、親友の悩み事に付き合わないこともある。つまり、インターネット/現実という二分法は、「インターネットから現実へ」という越境だけではなく、「現実からインターネットへ」という越境をもソーシャルメディアが引き起こすことで、完全に崩壊した。故に、何らかの問題を抱える者の原因がどこへあるかなど分からない。そのものがたまたまインターネットという場所に居場所を見つけただけである。

ソーシャルメディア時代、「ネット-現実」という二分法は完全に崩壊した。それは上述したとおり、インターネットがかつてのように独立な場所でなくなったことが決定打となったのだろう。文化や作法、表現など全てが両者の垣根を越える。インターネットはもはや我々にとって現実の一部を超えた「インフラ」であり、私が最初に「ロハスな生活を」と書いたのもまさにその意味を込めている。

二分法がもたらす問題

生活を崩壊させるのはインターネットではなく崩壊者の意識である。それはインターネットが楽しいからではない。流れ着いた場所がたまたまインターネットであった、ただそれだけのことである。

IT会社を経営する只石さん。去年まで1日100回以上書き込み。いまは、1日の利用時間をタイマーで20分に制限。ネット上のつながりは4000人以上。頻繁に連絡をとるのは100人程度に絞った。

20121022 #NHK クローズアップ現代「“つながり”から抜け出せない〜広がるネットコミュニケーション依存」 - Togetter

この事例もそうだ。この人は、昔ならワーカーホリックとなって家庭を顧みないような方になっていたかもしれない。所詮インターネットとはその程度の存在であり、「インターネットに依存している」という事実があるだけで、問題がゆがめられてしまう。この方が問題としているのは、「ネットに依存すること」ではなく「家庭を顧みないこと」であろう。それがなぜか、問題が前者の方に過度に強調されてしまっているのだ。

まさに、二分法がもたらす問題とは、問題が発生している原因や理由を顧みることなく、現実から見れば異世界のように思えてしまうインターネットが、原因のはけ口として利用されてしまう点である。インターネットはその点において、過小評価をされている面もあれば、過大評価されている面がある。つまり、良い点は過小され、悪い点は過大されている。――そのように、魔物を見つめる目線でインターネットを見つめることこそが、「新しい問題」「新しい病気」を勝手に作り出しているに過ぎないのではないか。

二分法を超えて

「インターネットは制限されなくてはならない」と考えているような老人世代には、インターネットについて語ってほしくない。「インターネットが既にインフラの域にまで達している」ということは、もはやその是非を議論する存在ではなく、既に前提となっているのだ。そして、我々の間には、もはや「現実/ネット」などという区別など存在しない。

その前提を知っていれば、「ネットが出来たからつながりへの依存が発生した」というような論調で文章を書くようなマネはしないだろう。それは、インターネットが文字を媒介とするために、単純に可視化されただけの話である。もしかすると「自分や他人がそのことに気がつきやすくなった」ことが、「中毒」を自称/他称する者を増やしたのかもしれない。

二分法がある限りインターネットは責任を押しつけられ続けるだろう。そして我々は、本当の問題を見失っていく。インターネットが持ち出されるだけで、「学校裏サイト」や「ニコニコ動画で生主の家族が」や「Twitter中毒」といったミクロな現象の背後に壮大な悪の枢軸があるように思えてしまう。しかし問題はより個別であり、より現実的である。インターネット中毒になっているのは、「つながり依存」等の問題を全てインターネットに押しつける、彼らなのである。

*1:私は放送を見ていないので、的外れになっていたら大変申し訳ない

2012-03-02

『絆』再考−−我々はなぜ『絆』という言葉を嫌悪するのか

震災から一年がたとうとしている。その中で印象的であったことは、やはり「絆」という言葉が連呼されたことであった。多くの場合、インターネットコミュニティ上で、この「絆」という単語は反発をもたれていた。Twitterにおいても、「何が絆だ」「これは【ほだし】(束縛)のことだ」等々、反発の声が非常に高かったことを覚えている。

では、なぜインターネット上では、これほどまでに「絆」に対するアレルギーが強かったのか。それは、今まさに記述した文章の中にあるのではないか。そう、「アレルギー」だ。

なお、さしあたり本稿では、「絆」を「(不特定の)人と人とのつながり」であるとしておく。

昔から存在した「ネットの絆」

 そもそもインターネット(不特定多数とのやり取りを行うウェブ上の場所のことを本稿ではこのように記載する)とは、「絆」を描くことに長けたメディアであった*1。偉い人はこれを「互酬性が高い」と表現するらしい。つまりこういうことである。『Yahoo!知恵袋』に大学入試の問題を貼りつけたとする。1万人それを閲覧した中、1人が返信をしたとする。これだけで、貼りつけた者は「よかった、ありがとう」と思う。そして、そのやり取りが情報として残り続ける。あるいは、他の人も同じ事を行い、それも残り続ける。これら全てが連鎖していくことで、「誰かを助けたら、いずれ誰かが自分のことも助けてくれるはずだ」と思う事のできるシステムが完成する。全くの見知らぬ他者ばかりである世界それ自体に対し、「信頼」が生まれるのである。

 これは、よくある「誰かを助けたら、いずれその人から助けてもらえる」という返報性規範とは異なっており、不特定多数への信頼を可能としている。まさに「インターネット」は、ユーザーによって互酬性の高いシステムとして信頼され、あるいはそのような姿を見せてきていたのである。

ソーシャルメディア時代と「境界」の消失

このたぶんどこかで学んだのであろう文体の文章(2008年)では、「インターネットと現実世界には違いはない」ということを記述した。そして2008年以降、この流れはソーシャルメディアとスマートフォンの普及により、あらゆる情報・人・時間へと拡大した。つまり、「いつでも、どこでも、だれとでも、なんでも」コミュニケーションが取れる時代が到来したのである。ここでは、すでに「現実」と「ネット」という壁は完全に取り払われている。もちろん、「facebookは実名、TwitterはHN」という人もいるだろう。しかし、それでもなお壁は取り払われているのだ。そこにある区別は、大学の友人に高校の同期の話をしないようなものである。

 さて、今読むと気持ち悪い文章(2008年)では「インターネット上では『つながりの実感』を作ることが出来る」と書いた。この「つながり」は「システム」が存在してこそ成立し得たものであり、その上に現実の様々なものが乗っかってきたと考えてよいだろう。

「飲みに行きたい」といえば誰かが応答してくれるかもしれないし、応答してくれなくても構わない。システム全体に対する信頼は、入っているコミュニティ・利用しているサービス全体に対するそれであり、「つながっている感覚」の源泉である。そしてこの「つながっている感覚」こそが「絆」ではないか。ネット上に脈々と存在していた小さな「絆」は、「インターネット」を土俵としている限りにおいて全てのものにつながりうるものとなった。いや、全てではない。「ネットとの差別化」「ネットへの対立」を打ち出している既存のメディア全ては外部化された。その結果、それに対して異常な敵対心を抱くものも出てきている。

絆への嫌悪

 では、なぜ我々は「絆」という言葉に対し「アレルギー」を起こすのか。それは、ネット上でのそれが我々にとって最も快適な「絆」のあり方であると気がついてしまったからではないか。そして、同じあり方は、社会という我々が信頼していないシステムの上では再現不可能であることを、皆知っているからではないか。

 ネット上においても、「mixi疲れ」などに現れたとおり、「過剰なつながり」はしばしば我々を疲弊させていた。それが現在になって、我々はようやく「現実とネットのすり合わせ」をマスターし、丁度よい位置に収まったのではないか。そしてそれが現時点で最も快適なあり方であるからこそ、他者からの「絆」の押し付けにアレルギーを起こすのだ。

我々は、これが「インターネット上だからこそ成り立っている」ことに気がついており、同時に「現実では起こりえない」こともわかっている。あるいは、現実にはこれ以上に快適な互酬性のあるシステムなど作れやしないことを知っている(「社会」という現実に存在するシステムに対する信頼は、もはやほとんど存在しないだろう)。だからこそ、「外の世界からの『別のつながりのあり方』の押し付け」に、過剰に反発するのである。

 極めつけなのは、その「外からの世界」が、「メディア」である点である。社会に信頼をよせるものは少ないだろう。しかしメディアが訴えるのは、「社会を信用せよ、さもなくば我々を信用し共にこの社会を変えよう」ということである。「絆」という単語は、それをさらに強調し、挙句の果てに曝け出す。絆とは、もはや何らかの中心的存在によって担保されるものではない。「システム」それ自体が信頼されることによって初めてその上で自然発生的に生まれるものなのだ。特に近年連呼されているのは「不特定多数の絆」であり、社会それ自体への信頼は必須であるといえる。

だから我々は「絆」を嫌悪し、批判してきた。私はそれで問題ないと思う。なぜならば、我々はまだ『情けな人のためならず』が成立する世界を持ち続けているのだ。

*1:ちなみに今調べたところ、『きずなをつなぐメディア—ネット時代の社会関係資本』(NTT出版)という本があるらしい。読んでいないので内容は不明

2011-03-10

「意識の高い学生」とは何か、その意義と批判 #maspla

※エントリを二つ書きましたが、ここに統合し以前のものは削除いたしました。

3月6日日曜日に、新宿ロフトプラスワンと高田馬場10°Cafeにおいて、「マスタープラン」と題された学生の学生による「朝まで生テレビ」が行われた。第一部は友人の家でぼーっと眺めていたのだが、第二部については面白そうなので高田馬場まで出向いて、そのまま「第三部」、すなわち単なる飲み会にまで参加して帰って行った。おそらく、「マスタープラン」という存在に対して否定的な価値観を持ってその場に臨み、かつある程度ほかの参加者とも会話を交わした人間は僕一人だけだったのではないかと思う。中には僕の存在に気分を害したパネリストもいただろう。

本原稿においては、主に「マスタープラン」という催しにかこつけて僕の「意識の高い学生」論を披露することになる。よって、「マスタープラン」の出来不出来に関する議論を求めている方にとっては、少々味気ないかもしれない。補足しておけば、「マスタープラン」は第二部において放送場所と中継場所が分かれていたこと、本当に頭の悪い人間(私は容赦なく言わせていただきます)が一部おり、彼らがパネリストの容姿など本編とは全く関係ないことに盛り上がっていたこと以外に特に不満点はない。「もう少し時間が短いほうがよかった」という方もいるだろうが、無限に時間を使える学生だからこそ、たっぷりの時間をこしらえて行えることというものがある。もちろん、今回の場合「時間的にグダグダになる」というリスクはあったのだが、二部前半を除き司会者である斉藤氏の卓越した働きによりそれは阻止されていた。一つ言ってしまえば、私は「学生による社会運動は可能か」という問題について学生であるという点を最大限に生かした議論が行われてもよかったのではないかと思うが……。すなわち、それは単純に「朝まで生テレビ」の学生版になるべきではなかった。――という話は、Twitter上の#masplaにおいてほかの人たちが議論しているし、ここでするとこの分量があまりにも多くなってしまうので、この辺で打ち切らせていただく。

意識の高い学生とは何か

もし世の中において学生を「意識の高い学生」と「それ以外」に分けるような分別方法があるとするならば、それが主になっている以上、そこには「意識の高い学生」を統括する何らかのモデルがあるといってよい。そして、そのモデルの「理念」を実行するのではなく、単純に敷かれたレールの上を歩くことだけを目的としている、寄生虫のような「意識の高い学生(笑)」が存在する――という具体例を、「「dig-na」の『失敗』から学ぶべきこと、教えるべきこと - Thirのノート」にて示した。

「意識の低い学生」という分類は、基本的に「高い学生」が意図的に想像した概念であり、我々はそれを素直に受け入れるべきではない。もちろん、「リア充」という存在が、我々が心の中にある嫉妬心を他者と共有するために生み出した「架空の存在」であるのと同じように、「意識の高い学生」という概念こそが意図的に想像された概念であるという人もいるだろう。もちろんそういう面もあるだろう。しかし「リア充」と呼ばれる人間の大多数は、PC文化の蔓延る我々のよく知るインターネットの世界には降りてきていない。「意識の高い学生」と「リア充」が明確に違う点は、id:mizchi氏が「 僕は、「意識が高い学生」にNOと言う。或いは「若者」の時代の閉塞感について #maspla - mizchi log」で指摘したように、そこにある種の「情報強者」的な視点があることだろう。彼らはTwitterやmixiFacebookを操る。しかし我々は、まさにそのような部分に、具体的にはTwitterのbio欄から溢れ出る「万能感」「選民意識」に、「意識の高さ」を嗅ぎ取る。それは単なる羨望や嫉妬ではなく、すでに存在するロールモデルをなぞっているに過ぎない彼らに対する失笑が含まれている(そこでは、目的が何であるか、すなわち(笑)が付くかどうかは問題ではない。なぜなら、彼らが実際にどうなのかは、ウェブ上の情報からは全く想定が付かないのであるから)。

「意識が低い」という誤謬

したがって、彼らの言う「意識の低い学生」には、次のような意味が込められている――「(自分たちが理解できる範囲で)」と言う。第一部において、早稲田大学の「笑い飯」というサークルのメンバーの発言は、あまりの「意識の高さ」に、多くの人が度肝を抜かれたのではないか。また、YMT56のメンバーの、「徹底的に自分の立場を固持する」という姿勢もまた、その場の理念や「空気」を十分に察していないとできない芸当である。一般的に、「意識の高い学生」と呼ばれる人間は、そのような「大学生らしい頭の悪さ、バカっぽさを存分に引き出しているが、その方向においてはかなりの努力を行い、もしくはクオリティを維持しているもの」に対する理解を実は持っているものである。なぜなら、自分たちも「バカ」になるときは徹底的に「バカ」になるものだから。彼らの言う「意識の低い学生」は、「意識の高い学生」に対し、「お前らのやることなんか、いくらでも変な方向に模倣できるんだぜ」というステレオタイプを提供し、「高い学生」を笑いながら楽しみ、新たなネタを提供する。このように、彼らは実は共存関係にあり、むしろその「輪」の中から零れ落ちる大多数の人間こそが、「意識の高さ」を屈折した形で批判するのである。

なお、id:mizchi氏は「 僕は、「意識が高い学生」にNOと言う。或いは「若者」の時代の閉塞感について #maspla - mizchi log」において、自らが「意識の高い学生」に対し「No」を突きつける理由について、このように記している。

表舞台に立つ人間が偉いのではない。壇上の人間は選ばれた人間ではない。

彼らはアジテーターとしていくらか優れた人間かもしれない。だがその無配慮な選民意識は、凡百な僕らを逆撫でする。恐らく僕らが、意図的に見落とされているものだとわかるから。

彼は、本質的に「意識の高い学生」と「意識の高い学生を模倣している人間」を区別していない。それは、我々の側から彼らを区別することができないこと以外に、彼らもまた共依存の関係にあることからきていると私は推測する。すなわち、前者は、あるロールモデルを作る。そして、そのロールモデルを後者が称賛し、コピーや真似を繰り広げる。それを見た人間は、また……という、再生産の仕組みがここには生きているのである。もちろん、前回の記事に書いた通り、この再生産には部分的に「バカなことをやっている学生」も関与している。これらはすべて一体となって共依存関係を有しており、その意味で、「マスタープラン」というイベント自体が、再生産モデルに乗った強者達がそれぞれのポジショニングを再確認し、更なる再生産へ向けて生産関係を加速させるための、ある種の「自己神話」ないし「偽史」を製作するためのひとつのイベントとなってしまっているのである。

おそらく「マスタープラン」全体が批判されるとき、そこにはこのような認識が存在している。そして人々が「最近の学生」というとき、そこにあるのは決まってこの再生産モデルである。だが大多数の人間はこのモデルへの参入を果たしていない。とはいえ、「マスタープラン」は、まさにこのような批判を許容する点に、批判と一体型となって称賛されるべき構造がここにはある。すなわち、我々は「マスタープラン」の持つ参入モデルを批判することで、彼らの「モデル」に対し、一つの立場を誇示したまま我々もまた参入することができるのである。おそらく、「マスタープラン」というイベントが可視化したものは、大多数のそのような存在の中で、彼らを外側から見つめる存在である。このようにしてモデルは拡大されていく。いつしか、その勢力はひとつの「代表」となり、「学生を代表する」という視点から見た場合、「マスタープラン」全体を批判する立場として「マスタープラン」に取り込まれた、そのようないびつな存在として、何かを表象する存在となる。目的なき学生団体の設立はこの構造に参入するために行われているが、予備校のごとく別のルートを提示することで、あるいは予測もしなかった拡張をモデルに対して行うことで、そのような団体の乱立を防ぐことはできるだろう。まさに学生維新と呼ばれる存在は、このモデルに対する正当な予備校的存在であったが、そうではないルートを、我々は彼らの批判者となることで、得ることが出来る。

もちろん、これは「声なき人間もまた声を上げることでその輪に取り込まれる」ということを示しているにすぎず、取り込まることが彼らの「懸念」をすべて解消するわけではない。示した通り、あくまでもこれは強者の理論であり、声なき人間には関係ないことだと思われるかもしれない。しかし、ウェブを味方につけることで、我々は声なき人間の声を登録し、あるいは我々の存在自体を見せつけることもできる。Twitterにおける書き込み、ソーシャルブックマークにおける登録、それらが一つのモデルに対する参入を形作る。

最終的にモデルに取り込まれてしまうなら、参入する必要なない――そう思うのは当然だ。しかし、モデルは常に変質する。圧倒的大多数ではない「意識の高い学生」が、あたかも学生の総意であるかのような働きをしていたように、新しいモデルを作るより、既存のモデルに入り込んでそれを徐々に侵食し、そこに存在する「総意」とみなされるものを変革したとき、それがあなたの勝利であり、我々の勝利である。そして、そのように、モデルに変革が起こることを証明して見せたとき、人々は真に「学生の総意など存在していない」という、重大な事実にようやくたどり着けるのである。

2011-01-15

Facebookの致命的な弱点は何か?

日本でFacebookの普及を妨げているのは、実名主義ではない、かもしれない - night and sundial diaryを読んだ。本記事では、Facebookmixiのような流行につながらない理由として、匿名主義を排し、「インターフェースが日本人には不向きである」ということを第一に挙げている。

日本でFacebookの普及を妨げる要因があるとすれば、匿名・実名よりもむしろこの点、インターフェイスに対する違和感なのではないだろうか。実は、このあと説明するように、Facebookのインターフェイスは実に良く出来ている。ただ、その方向性が、日本人には向いてないのかもしれない、とおもわないではないのだ。

基本的に、私はこの意見に対し口をはさむ気はない。また、日本人は匿名主義に陥っているためにFacebookのような「実名主義」のサービスには加入したくないのだ、という意見を支持する気もない(そもそも、昔はmixiだって実名登録を推奨していたのだ)。私は二点、決定的にfacebookがmixi、ひいては日本の文化に対し合わない点があると考えている。

ひとつは、どう考えてもローカライズ、日本語対応の面であろう。Facebookでは自らの経歴を記述することが推奨されているが、例えば卒業高校ひとつとっても「東京高校」「東京高等学校」「私立東京高等学校」「Tokyo High School」などの表記が混在しており、我々はその中からどれが主たる表記であるかを瞬時に探すことができない。mixiの場合、コミュニティ検索を利用してメンバー数からおおよそどのコミュニティが主たるそれであるのかを推測することができるが、Facebookの場合、そこにたどり着くためには、入力画面から数ステップ必要となっている。名前の登録に関しても、漢字表記、ヘボン式ローマ字表記、日本式ローマ字表記などが入り混じっており、実名登録を推奨しているわりには記載方法が厳密に定められていないため、友人を見つけだすことが非常に難しい仕様となっている。もちろん、海外では我々が赤外線通信を行うのと同様の感覚で、Facebookの個人アドレスをやり取りするような文化があるのかもしれないが、そのような文化が築かれる前の段階を、日本ではクリアできそうにないのが今のFacebookのローカライズ対応なのである。

もっとも、それ以上に思うことがある。それは、mixiが個人よりもグループに主眼を置いており、個人間のつながりに関しても、グループを介したそれを重視しているのに対し(もっとも、Facebookが広まり始めてからの「改悪」によってそうでもなくなってしまったのだが)、Facebookはむしろ直接的な個人と個人のつながりを重視しているという点である。mixiには、「コミュニティ」機能があり、多くの人物が自らの属性の表明や連絡のために「コミュニティ」機能を利用している。そう、属性の表明のために、一般的には自己紹介欄よりもコミュニティへの参加が選ばれることが多い。また、メンバーをグループ別に分ける機能や、日記などの公開範囲を選ぶような設定も存在しており、我々はそこで「グループの中の一人」ということを意識せずにはいられない。対してFacebookでは、属性はグループにあるのではなくあくまでも個人にあり、共通の属性を持った人間の集まりがグループとして認知されるような構造となっている。事実、彼らの提供するグループ機能はあくまでも「おまけ」的な位置づけに終止しており(知恵袋やOKWaveで検索すると、「Facebookにはmixiのようなグループ機能はないの?」という質問が山ほど出てくる)、mixiのように「コミュニティにも主眼が置かれている」ということはない。いや、探せばそのような機能は実はあるのだが、インターフェースの奥底に意図的に沈まされているのだ。*1

私は、別に「日本人は個人主義的ではない」等と結論付けるつもりはない。あくまでも、両者の思想が違うのだろう。mixiというのは、個人のつながりよりもコミュニティを維持することにも適しているが、Facebookは徹底的に個人のつながりを維持することに適している。それだけのことである。実際には、mixiもFacebookも双方の機能を搭載していることにはしている。しかし、インターフェース上の設計を考察するかぎり、Facebookは明らかに個人に主眼を置いているのに対し、mixiはグループというものを重要視しているように思えるのだ。

これは、mixiはただ単にFacebook的なものが流行しているからと言って、その要素をやみくもに取り入れればいいわけではないことも表している。Facebookに欠けているものとしてのコミュニティ維持機能について、彼らはそれを一つの貴重な財産だと意識したうえで設計を行うべきなのではないか。そう考えると、Facebookが台頭したあとのmixiは、本当に迷走しているとしか言いようがない。トップページ、とくに新着通知部分はかなりfacebookに近づいたところがあるが、mixiがFacebookのものまねをしたところで、Facebookが2バイト文字の不自由さを解消してしまえば、mixiの必要性などどこにもなくなってしまうのだから。

先ほどの記事では、「Facebookでの体験は友だちがすべてなのだ。」という一文で記事が締められていた。私はそこに、次の文を追加したい。そう、「mixiでの体験は、コミュニティがすべてだったのだ。しかし彼らはFacebookという『毒盃』をあおってしまったのだ」と。

*1:なお、もしかしたらこれはFacebookはもともと一つの大学のための専用SNSであったからかもしれない。

2010-11-11

デジタルネイティブという「誤解」

デジタルネイティブという言葉が生まれて何年が経っただろうか。最近、様々な事柄が「デジタルネイティブ」(本記事では、とくに「ネオ・デジタルネイティブ」と呼ばれる階層に焦点を当てている)の一言によって美化されてしまっているのではないか、と感じることがある。直近で言えば、「no title」という記事に代表されるように……。

正直この手の言葉の意味遷移、つまり「デジタルネイティブという言葉は昔はこういう風に使われていたのに…」ということを述べても意味がない。それは、これらの言葉は意味が同定されないことに意味があること、逆にそのことが「デジタルネイティブ」という言葉によって美化されている出来事を、よりその方向に加速させてしまいかねないためである。また、この記事では根本的な「デジタルネイティブ」批判をすることはないし、私は「デジタルネイティブ」という現象自体を批判する気はない。若者をとりまく環境はその人物の年代によって大きく変わってくるのは当然であり、その環境要因によって世代の性質が変化するのも当然であるからだ。私が強く心配するのは、「デジタルネイティブ」という言葉があまりにも好意的な意味を持ちすぎていること、それもほかのすべての弱点を帳消しするマジックワードのごとく使用されている点である。とはいえ、例えば「iPadで勉強するのはゲーム的でナンセンスだ」等というつもりはまったくない。デジタル化、デジタルネイティブは時代の課題でも流行でもなく方向である。私が批判したいのは、彼らの中で「あたりまえ」であることを「すごい!」といってもてはやす、その周りの人間たちの心性である。

簡潔にいおう。我々は、iPodやiPhone、Twittermixiなどを活用している人物をそのまま「デジタルネイティブ」と名付けもてはやしていいのだろうか。確かにその中で、時代の先を行くような発想をする人物は出てくるだろうし、そのような人物こそ賞賛されるべきなのは間違いない。しかし、だ。「デジタルネイティブ」世代のほとんどは受動的に環境を享受しているだけであって、そのような人物は本当に少数である。このことは、いつの時代にも変わらぬ原則である。たしかに、デジタルネイティブ世代が成長するに従って育った別の環境要因(例えば起業が社会的な価値を持って認められるようになったなど)が作用したために、若干の変化はあったかもしれないが、あったといっても誤差程度ではないか。我々は、彼らの環境が我々のそれとあまりにも違いすぎているがために、単に違う環境を背負っているというその一点において、彼らを賞賛(もちろん否定も)してしまってはいないか。

環境を最大限生かして生きることは長所でもあるが、環境が目紛しく変わる現代においては大きな弱点にもなりうる。大多数の彼らのように、今いる環境を享受することに終止するようでは、その未来も果てがあるのではないか。私はそう思う。