なぜ彼はクレーンに乗らなくてはならなかったのか

先日、栃木県にて、クレーン車が暴走し通学途中の小学生をはね死亡させてしまった事故があった。もちろん加害者を擁護することは出来ない。彼はてんかんを持っていた。そして以前にも「未遂」を起こし、かつ薬の服用を怠ったがためにこの事件は起きてしまった。報道の通り薬を飲み忘れたがゆえにこのような事故が起こってしまったのであれば、これは完全に彼の責任であると私は思う。しかし、多くの人がそれでも思うことは、「では、何故彼はクレーンに乗ることを選択したのか?」ということであろう。この事故に関連し、id:goldhead氏は、俺はたまたま子供を6人轢き殺していないだけ - 関内関外日記(跡地)において、SASを患っているという観点から記事を書いていえる。その中で、次のような文章が目にとまった。

だから俺は、クレーン車で6人の子供を死なせてしまったやつのことを考えずにはいられない。彼が症状をおさえる薬を飲んでいなかった理由も、あるいは過去に事故を起こしていたり、その病気を隠してまたその職についた理由もわからない。わからないが、想像せずにはおれない。他人事ではないのだ。果たして俺がたまたま運転する仕事に就いていて、睡眠時無呼吸症候群に気づいたらどうしただろう。その持病があることを明かせば、仕事を失うかもしれないとき、どうするだろう。あるいは、新しい仕事に就けないのかもしれないということを。俺がそこで正しい選択をするかもしれないし、誤るかもしれない。正しい選択をした結果、ひどい不利益に陥ることもあるかもしれないし、誤った選択をしながら大きな失敗をしないですむかもしれない。それはわからない。

誰かが語らなくてはならないと思った。彼がクレーンに乗るという選択を、一度未遂を起こしながらも選ばなくてはならなかった理由について。これからここに書くことはあくまでも推測と私の経験や伝聞によるものである。しかし、「こういう事情もあるのだ」ということを、頭の片隅に入れておいていただきたいと思ったからこそ、この文章を書くことにする。

てんかんという病気は、一般的に精神障害に分類され、精神障害者保健福祉手帳の対象疾患でもある(註:てんかんは脳疾患であり、精神疾患には含まないとする意見も存在し、それは決して少数派ではない。しかし制度上は「精神障害」に分類されるため、このように記載する)。精神疾患には、てんかんの他に鬱病・双極性障害・統合失調症などが存在するが、てんかんや双極性障害、統合失調症は薬の服用を持続することによって「寛解」させることは出来るものの完全に治癒することは出来ない。だから、基本的に(医療技術の発達がない限り)これらの病気を患った場合、生涯にわたって薬を飲み続けなくてはならない。また、寛解と言われる状態は、医師や病気によって異なるものの、多くの人は健常者と同じく生活が出来、普通に働いたり、休暇を楽しんだり、子供をもうけたりすることが出来る。

しかし世間はそう思わない。一般的に、これらの病気があるという事実を明らかにして採用に望んだ場合、かなりの高確率で落とされる。精神疾患というのは未だに根強い偏見や差別が残っており(まさにテレビにおいて「てんかん」という言葉がほとんど使用されないことが、それを端的に示している)、病気を明らかにして就職することはほとんど不可能なのである。

じゃあ「障害者枠」を利用すればいいじゃないか、と思うかもしれない。しかし一般的に存在する障害者枠というのは、ほとんどの場合身体障害者用であって、精神障害者の受け入れを表明している企業は非常に少ない。世の中にはいくつか「障害者用求人サイト」というのが存在するが、求人票をめくるとその多くは「身体」のみであり、「精神」にまで広げられている場合は少ない。これには明確な理由が存在し、身体障害というのは多くの場合彼が死ぬまで永遠に「傷害」がまとわりつくのに対し、精神障害者の場合はそうではないことがあるのだ。いや、そういうと語弊がある。正確に言えば、身体障害者手帳には更新の義務が存在しないが、精神障害者手帳は更新義務があり、さらに「就労している場合は障害認定のハードルが上がる(所見において「日常的に生活が出来る」というのは、障害認定に値しない)」という事実が存在するがために、精神障害者を雇うメリットというのは企業にとってほぼ皆無に等しく、受け入れをする理由が存在しないのである。よって、障害者雇用は精神障害者とは無縁の存在である。

では、「療養所」のようなものはどうか。やはりこれもノーだ。療養所というのは、治療の難しい精神障害者や知的障害者しか受け入れないところが大半であり、間違っても「薬を飲んでいる限り健常者と同じ日常を送ることが出来る」レベルの人間がそのようなところでの就労を認められるケースというのは、残念ながらほとんど無い(ただ、これについては少しはあるらしい)。

それなら最後の砦、「障害年金」や「生活保護」を取得すればいい、となるが、障害年金の受給額は年間100万円程度であり、この程度では生活なんてとてもできやしない。生活保護に関しては、やはり「薬を〜」という事実がある以上、ケースワーカーから就労を促されることになってしまう。様々な制度が存在しているのだが、「薬を〜」レベルの人間というのは、全てにおいてつまはじきにされているのだ。だから、結局のところ、彼らは病気を持っている事実を隠して就労するしかないのである。

そしてそのような人間は、多くの場合「精神障害者手帳」の認定基準を満たしていたとしても、社会生活において不利益になる事があるため、手帳の取得を行わないことが多い。最近では、自立支援医療の適用も断る場合があるという(保険の書類を会社に見られたとき、これらの制度を利用していると一発で「アヤシイ病気を持っている」とバレてしまうため)。まさに、自分の中に存在している爆弾がいつ炸裂するか、あるいはその存在がばれてしまうのか、そういうことにビクビクしながら日常を送っていくしかないのである。社会によって、彼らは「普通に」生活することを潜在的に強要されている。そうでなければ、明日の食事にも困るような生活が待っているのだ。それなら、そうなってしまうならクレーンに乗り続ける。たとえ僕が加害者と同じ境遇にいたとしても、やはりクレーンに乗ることを選択しただろう。「明かして事務作業やらしてもらえればいいのに」というのは簡単だ。だが、事情は違う。明かしてしまったら、そもそも雇ってもらえないのだ。

だからこそ、私は彼に対して迂闊に何かを言うことは出来ない。単純に何かを言うことは、構造上不可能なのだ。もちろん、事故について責任を負うべきなのは彼である。しかし全てを自己責任に回収しても良いのか、という疑問は残る。彼のような存在を作り出してしまったのは、まさに我々の生活している、この社会構造それ自体のだから。

彼はそのことを忘れたかったのかもしれない。だがこれだけは言える。誰もが簡単だと思っている「薬を飲む」ということ、それはまさしくそのような「現実」を強く認識する瞬間を自分から作り出すことであり、生きるために苦痛の上に苦痛を塗り重ねる、その作業を「自発的に」行わなくてはならない苦しみを伴っているのであるから*1

そしてまた、病気なのだから夢をあきらめろというのは(クレーン乗車は彼の夢だった)、まさしく我々は、片方で「普通」の生活を強要しながら、もう片方では「お前は普通ではない」と言っていることを示している。どこまでを「能力的な問題」とし、どこまでを「病気の問題」とするのか。あるいは、我々は、意図的にこの両者を混同することで、彼を「社会」の内部に規定しているように見せかけながらも、それでいてそこから実質的に排除しているような、空白の場所を作り出してはいなかっただろうか。このような実情を、彼はどう心の内に処理すれば良かったのか。私には分からない。

お詫び

タイトルと内容がずれているのは全くその通りです。内容を正確に現すならば、「クレーンに乗らなくてはならなかったのか」ではなく、「病気の事実を隠して仕事をしなくてはならなかったのか」です。ただ、彼の意志をどこまで尊重すべきなのか、そして病気によってそれはどこまで制限されて良いのか、というのは、私に判断できる問題ではないと言うことも明記しておきます。

*1:前文と矛盾しておりますが、飲まなくてはいけない事実は強く認識していながらも「薬を飲むことをいやがる」人間というのは多く、そのためにこのような記述をしております。あくまでも「そういう人もいる」という話であり、本人がどうであったかは分かりません

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