さんだーさんだ!(ブログ版)

2015年度より中高英語教員になりました。2020年度開校の幼小中混在校で働いています。

2013年度夏学期「ことばの教育と授業」期末レポート

最近ブログ書けてなかったので、苦し紛れ。

 江戸時代の寺子屋から始まる日本人の学校体験は、生活に密着したもの(数千種類もの「往来もの」)から離れ、様々に振れつつも徐々に抽象的な「学力」を養成する場となり、同時に学力による選抜が行われる中で、本来は目的であったはずの「学力」が、高い地位を得るための手段として利用されている点に難しさがある。

 自分は一番最初の授業において、学力を「子どもの知識・技能のうち、テスト等により評価可能になったもの」と定義した。しかしこの定義は、学力の「評価に使用される」という形式的な一側面にのみ着目したものである上、現在の評価の4観点の一部にしか触れていない短絡的なものであった。

 アウトプットに重点を置くため、「思考・判断」に「表現」が付け加えられたというのは非常に興味深かった。というのも、自分が専門としている英語教育においても、いわゆる文法訳読式の教育が批判され、コミュニケーション活動を増やすなど、「表現」に重点を置くよう指導がなされており、それが決して英語科単体における話ではないと分かったからだ。英語教育学者の中にはこの流れを批判する者もいるが、この流れは英語科のみから来ているものではないということを理解した上での発言が必要だろう。

 現場の先生の中には、上から押し付けられる政策は受け流しつつ自身の教育信念に則って実践を行う人も多いように思えるし、正しく政策立案者の意図が伝わっていない場合もある。そうした「現場と政策立案のズレ」をどう埋めていくのかは今後の課題だろう。例えば国語科教育の現場においては、近年「言語活動の充実」を受けて、連続型・非連続型テキストなどの概念が導入され、どこまでを国語科が担うべきなのかの分担がはっきりしておらず混乱しているところもあるという。とするとこの問題は、他教科間連携をどう進めるかといった、学校経営的な側面も含んでいると言えるため、さらに解決は困難に思える。

 海外との比較の視点からは、PISAなど、国際的に共通のテストが用いられることで、学力の平準化が進んでいるように思う。そうした教育分野での「グローバル化」に対しては賛否あるようだが、どちらにせよそれが進んでいくのは間違いないように思われる。一現場の教員として、目の前の生徒を相手にしながらも、他教科や他国、さらには他の時代といった、「大きな話」をどこまで考えられるかも、個人的な課題として考えていくこととする。


1,000字以内という逆にムチャぶりな感じで、単なる感想文にしかなりませんでした。笑