Hatena::ブログ(Diary)

地下生活者の手遊び このページをアンテナに追加 RSSフィード

2008-03-11 粗雑な相対主義批判

粗雑な相対主義批判

ニセ科学批判・疑似科学批判は実に結構なことだと思いますにゃ。ガンガンやっていただきたい。

ただし

いわゆるニセ科学批判のお歴々による粗雑な物言いがだいぶ気になりますにゃ。

Science and ”Fake Science” Hal Tasaki

ニセ科学批判を積極的におこなっている田崎晴明氏の手になる文章にゃんな。

この文章の「極端な相対主義の弊害」にある

>科学も、神話も、「ニセ科学」も、それぞれが適切な文化的・社会的背景のもとでは「真実」であると主張するのは、行きすぎた相対主義であり、明らかな誤りである。

これってずいぶんと粗雑な認識にゃんなあ・・・・・

何よ、この「真実」の使い方。

「科学も、神話も、「ニセ科学」も、それぞれが適切な文化的・社会的背景のもとでは「自然現象の記述において同等に客観的」であると主張するのは、行きすぎた相対主義であり、明らかな誤りである。」

というのならよくわかりますにゃ。

自然現象の記述と技術的応用において、現代の自然科学が人類史的にみて特殊な地位を獲得したものであると僕は考えていますにゃ。ま、要するに僕は自然科学をリスペクトしているわけにゃんね。

しかし

僕は神話もリスペクトしているんだにゃ。

「適切な文化的・社会的背景のもとでは」神話は真実に決まってるではにゃーか。ニンゲンには心理的現実という者があるのだにゃ。というか、民族に共有された心的現実を比喩・象徴を用いた「野生の思考」による論理で記述したのが民族神話であって、そこに「真実」が含まれているというのは神話読解の上での前提だにゃ。

そもそも「真実」というのは心理的な意味合いを濃くもつ言葉なんだにゃ。

以下は日本大百科「真実らしさ」の項より一部引用


真実らしさは、適合(ラテン語ではdecorum、フランス語ではbiensance)とあわせて、古典主義理論の中核を担ったが、それ自体で十分な有効性をもつ原理とはいえない。なぜなら、それは信憑性の薄い物語を排除する役にはたっても、真実らしいというだけで作品が感銘を与えうるとは限らないからである。そこで、18世紀末になると、ゲーテにおいて、ふたたび真実が、ただし今度は単なる事実よりは深められた意味で、真実らしさに対置され、より重視されるようになる。そして理論の重点は、19世紀ドイツ美学において、真実らしさから美的真理へと移されていった。


科学は事実を解明するものだ、という言明はわかりますにゃ。しかし、真実という言葉には心理的・文学的な匂いがするんだよにゃ。例えば「文学は人間存在の○○を明らかにする」という文の○○の部分に「事実・真理・真実」などを代入すると、僕の語感では「文学は人間存在の真実を明らかにする」がいちばんすっきりときますにゃ。

もちろん、「真実」には「事実」とか「真理」とかいう意味合いもありますよにゃ。

自然科学は事実を取り扱うものであり、事実そのものではにゃーよね。では真理という意味ではどうだろう?

僕の理解では、自然科学のあらゆる理論は、それが広く認められた定説であってもすべからく近似であり、将来に代替理論がでてくる可能性のある仮説であり、真理そのものではありえにゃーもののはずですにゃ。だから、科学こそが「真実」ではありえにゃーように思えますにゃ。

つまり

  • 神話は真実だが、自然科学は真実ではない

ただし、フロイトが喝破したようにニンゲンちゅうのは多かれ少なかれみんなヘンタイなので、何に心理的満足を感じてもまあそれはそれですにゃ。相対主義的な人間観を適用するのが寛大な態度というものですからにゃ。だから、自然科学に深い心理的満足を感じるヘンタイも当然ながらアリ。こういう心性においては、自然科学は確かに「真実」になるのでしょうにゃ。

よって

  • 神話は真実であり、相対主義的にみれば自然科学も真実である

自然科学を真実と認めてくれる「相対主義」様に対して、ずいぶんと失礼なことをいう科学大好きくんが目につきますにゃ。

aa 2008/03/12 13:55 http://www.eonet.ne.jp/~pepepepepeffy/

protein_crystal_boyprotein_crystal_boy 2008/03/13 19:41 この話しさぁ「真実」を実在論とかに掛けて展開できないかなぁ?
ちょっと仕事や何やでドタバタしていて、イストランさん宛の返事が書けてないんだけどね。
神話それ自体は本質的に相対化を拒否しているから形而上学的実在論なわけで
(超経験的直観(クリスチャンの聖霊による霊感等)によって真の実在に到達可能)
たとえ科学を可謬主義的に捉えたとしても
科学者も人間の心から独立な実在を考えている以上は、
やっぱり「形而上学的」なんだよね。
それに対して相対主義でも内的実在論でも
それぞれの体系の合理性基準において「真」もしくは「真に近い」、
ていうのを考えているんだけど
それでも大抵のニセ科学は体系内の「合理性基準」を示せないんだから
相対主義でニセ科学を擁護しようなんてのが筋違いなんだけどね。
社会構築主義者の不用意な発言が批判されているみたいなんだけど
彼らだって自然(に関する社会的構成)が
必ずしも人間が欲望し夢見る通りできないことは重々承知なんだけどね。

津村さん津村さん 2008/03/13 22:53 ニセ科学批判とは何か?あるいは、何であるべきか?
http://slashdot.jp/science/comments.pl?sid=393093&cid=1312684

tikani_nemuru_Mtikani_nemuru_M 2008/03/14 03:13 >くりぼう
最近、実在という言葉が脳内でスコラ哲学にリンクされつつパトナムにもつながるという統合失調状態ですにゃ。
>それぞれの体系の合理性基準において「真」もしくは「真に近い」
中村雄二郎の孫引きなんだけど
「真なるものはつくられたものであり、つくられたものは真なるものである」とヴィーコがいっているようですにゃ。
「自然学者は、事物を真なるものによって定義すること、つまり事物にそれぞれ固有の本性を与えることもできない(‥‥)だから、彼は名辞そのものを定義する。そして神に倣い、なんらの基体もないところから、あたかも無から創造するようにして、点・線・面といった事物をつくりだす」(問題群P85)
ヴィーコの立場では自然そのものはカントの物自体のように知りえにゃーのだろうけど、機械についてはニンゲンが作ったものであるがゆえに真偽判定が可能ちゅうことになる。するとこれはシミュレーションによって真に近づきえるということになるんではにゃーのかと思ったり。体系内部の合理性を保持しながら、演算で力づくで外部の「真」に近づくとか。
連想と思いつきですまにゃーです。

tikani_nemuru_Mtikani_nemuru_M 2008/03/14 03:14 >津村さん
よくわかんにゃーです

室井健亮室井健亮 2008/03/14 12:00 当たり前のことですが、どのような研究を価値のあるものと見なして、研究を推進するかという選択が重大事である以上
科学研究は価値判断からは逃れられない。

tikani_nemuru_Mtikani_nemuru_M 2008/03/15 04:05 >室井健亮
さきほどあげた「科学への相対主義の適用のしかた」という3/14付けのエントリをもってレスとさせていただきますにゃ

8. 津田大輔 — 8. 津田大輔 — 2008/04/04 00:15 8. 津田大輔 — April 3, 2008 @12:51:04

江原氏を擁護するつもりは毛頭ありませんが、とうとう落ちるとこまで落ちましたね。

> フジテレビ自身がはじめから「非科学性」を強く反省すればよかった
posted by きくち at 08:51 am

http://s01.megalodon.jp/2008-0403-1258-05/www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1207180281

比ヤング比ヤング 2008/04/13 02:17 菊池誠先生が何のネタだか良く分かんない妙な買いかぶりを…
てか、こんなんで詳しいことになる訳?そりゃ、ニセ科学にも騙されますわな

きくち April 12, 2008 @20:08:06
>AGLA氏は物理に詳しいし、少なくとも物理科学については僕よりよくわかっていそうなのですが、残念ながらマルチハンドルだしコメントの手口がふま君と同じなので、このブログでは議論の相手にできません。
http://s04.megalodon.jp/2008-0412-2059-01/www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1207487014

スパム対策のためのダミーです。もし見えても何も入力しないでください
ゲスト


画像認証

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20080311/1205250337