科学と呪術:「啓蒙の弁証法」より

3月31日のエントリの続き。
なんでスピリチュアルが流行るのかというお話の続きですにゃ。
レヴィ=ストロースは呪術的思考について、ニンゲンの「知覚および想像力のレベルにねらいをつけ」たものだと言っているのは前回のエントリの通りですにゃ。ニンゲンの知覚や想像力に親和性の高い発想って、呪術的なことがおおいわけにゃんね。
考えてみれば、相対論間違っている系(=相ま系)のお歴々とか、進化論間違っている系(=進ま系)のお歴々とかって、自分たちの知覚や想像力にあわないって文句をいっていることがほとんどですよにゃ。相対論の場合は光の速度、進化論の場合は馬鹿長いタイムスパンという、日常経験の外側に、つまり ニンゲンの知覚や想像力の外側にあるものがわからにゃーわけだ。相ま系や進ま系のお歴々にとっては、相対論や進化論って出来のワリイ呪術に見えているのではにゃーだろうか。
逆にいうと
「知覚および想像力のレベルをはずした」科学の議論を理解するほうがアクロバットなのかもしれにゃー。
相対論とか進化論とかいった日常経験から外れたシロモノをなんで支持できるのかというと、これはまず科学技術の圧倒的な成功というものがあると思われますにゃ。自然科学がもし正しくにゃーのなら、科学技術の成功が奇跡に等しいという考え方、哲学者パトナムのいう「奇跡論法」というやつにゃんね。理屈はともかく、正しさを実感しちゃっていて(それは社会的に構築されていて)、そこから出発することができるにゃんね。もうひとつの理由として、数学という人工的な記述言語で記述されているというところもあるのだと思われますにゃ。相対論にしろ進化論にしろ、そのロジックを追える整合的な仮説なんだよにゃ。


ところで、いかに懐疑論だの唯物論だのを自称していようと、あるいは科学の記述言語としての数学に通じていようと、どうしようもなく日常経験からも知覚や想像力からも外れたコトってのがあるにゃ。


それをいわく「死」という。


ちゅうわけで、アドルノ&ホルクハイマー「啓蒙の弁証法岩波文庫版から引用してみましょうにゃ。


死を絶対的な無と考えることは意識になじまない。絶対的な無などは考えられない。
中略
身内の死後に遺族たちが、彼らの生をあらためて組み直すやり方、つまり熱心に葬儀を営んだり、あるいは逆に調子よく合理化して忘れようとするのは、昇華されることなく心霊術という形で広く蔓延している亡霊信仰の、現代的対応形態にほかならない。
P446

ニンゲンの知覚や想像力を前提とすれば、絶対的な無をリアルにイメージすることはほとんど不可能だと僕も思う。できると思うのは、こういうことを考えたことのにゃーヒトではにゃーだろうか。また、数学を使って知的に理解できるものでもにゃーだろうし(現代の数学とか理論物理学がどういうところにまで達しているのかは正直わかんにゃーです)。*1

また、引用にある「身内の死後に遺族たちが、彼らの生をあらためて組み直すやり方、つまり熱心に葬儀を営んだり、あるいは逆に調子よく合理化して忘れようとする」という記述は、いわゆる「喪の仕事」とか「悲嘆の仕事(grief work)」とかいわれるものですにゃ。葬儀などの儀式は、遺された者の心のケアのために行われるという一面は確かにあるわけにゃんね。詳しくはhttp://www.hospice.jp/related_group/griefcare.htmlをご参照のほどを。

つまり、僕たちは死というものを「意識になじまない」方法でとらえる有効な方法論を持ったことがなく、ゆえに呪術的に死を認識する以外ににゃー。喪の仕事とか悲嘆の仕事といわれるものは、基本的に呪術なんだよにゃ。
伝統的なやり方で葬儀をすることも、死者を忘れようとすることも、あるいは急逝した子供の部屋を両親が生前の通りに保管することも、遺品を肌身離さず大切にすることも、遺志をついて何らかの社会運動に身を投じることも、死者とのかかわりにおいて生者がなすことは全て呪術なのだと僕は思う。*2
呪術そのものは否定されるべきものでも、否定できるものでもにゃーのだ。
そして、
口ではいくら懐疑主義だの唯物論だのといっても、こうした呪術的思考から完全に逃れえるニンゲンもまたいにゃーだろう。


31日のエントリで引用したオッカム氏の文には「オカルト的なものは科学的思考能力の欠如によって発生するとは、歴史的には言えない。どちらもエスタブリッシュな宗教が欠如しているときに、同時に発生する」とありましたにゃ。宗教というものが、生者と死者との関係性を定めるものであるとするならば、宗教が元気なときには確かに呪術的なスピリチュアリズムがはびこることはにゃーということになりますにゃ。


TVではスピリチュアリズムがさすがに下火に向かっているそうな。僕は見てにゃーのでわかんにゃーのだが、話を聞くだに不快な番組であることはわかりますにゃ。とはいえ、スピリチュアリズムの根は深い。そうとうに深いのだと僕には思われますにゃ。僕たちが死者との関係性を設定することができにゃー限り、それはいくらでもでてくるのでしょうにゃ。
さきほどの引用個所の直後に、啓蒙の弁証法は以下のように続くのですにゃ。


絶滅を目の前にしての完全に意識化された恐怖だけが、死者への正しい関係を設定する。そこでは死者と生者は一つになる。なぜならそこではわれわれもまた死者たちと同じ情勢の犠牲者であり、同じ挫折した希望の犠牲者だからである。

*1:絶対的な無を直接に知覚しようとするのが神秘主義の有力な一つの流れ。スーフィーとか禅とか

*2:もちろん政治は呪術において成り立つところが大。政治という呪術と生者と死者の関係性という呪術が交錯した靖国という呪術は本当に厄介ですにゃ