数学の定期試験で別解がバツにされるようになった理由

昨日のエントリを別の角度から

飲み仲間のひとりに、数学の個人塾をやっている高校の先輩がいますにゃ。この間、ひさしぶりにこの先輩と飲んだおりに、ちょっとびっくりする話を聞きましたにゃ。
「高校の数学の試験で、授業で教えていない解答をすると×にするようになった」
「はあ!? 別解はご法度ということですかにゃ?」
「そうだ。中学ではあったんだけど、高校でもそうなった」
「高校って、もしかしてA高(僕らの母校で、いわゆる進学校)でそうなんですかにゃ!!??」
「そうなんだよ。まあ受験生になれば何でもアリになるようだが、1〜2年の定期テストでは別解が認められなくなった」
「工工工工工工工工工エエエエエエエエェェェェェェェェェェェェェ(゚Д゚;│」
「俺だって信じられねえよ」
「数学って自由なものではなかったのですかにゃ?」
「俺だってそう思いてえよ」
「別解って誉められるものではなかったのですかにゃ?」
「俺は誉めてるよ」
「・・・・チェバの定理やメネラウスの定理(を使ってベクトルの問題を解くの:追記)は?」
「もちろんダメ」
「円の軌跡を一次変換を使って解くとか」
「ダメ」
「数1の関数を微分をつかって解くとか」
「ダーメ」
「そんな、何でもダメだと面白くにゃーですよ」
「俺だってぜんぜん面白くねえんだよ」
「・・・・・微分のことは微分でしろ、は?」*1
「もう通じねえな」


なんでも、数学の別解を認めにゃーという恐るべきファシズムの根は、中学の馬鹿親にあるようなのですにゃ。
「別解を認めると、塾にいっている子が有利だから認めるな」
こんなカスのような言い分が、今の疲弊しきった教育現場で通っちゃったらしい。
で、さらにそれが高校にまで伝播(電波?)してるんですって、奥様。
「にゃんじゃそりゃああああああああ!」と松田優作風に叫びたい気分にゃんな。

なんでこんなことになってんのか?

つまりこれって、「格差」の問題が授業に影響を及ぼしているってことなのではにゃーかと。以下に理由を述べますにゃ。


地方というのは、まだまだ公立の教育機関以外の選択肢はあまりにゃー。
公立高校が地元で一番の進学校であることが多く、そういう高校には出身階層に関係なく単純に勉強のできる生徒が来ますにゃ。公立高校にブランドがあるから、公立中学もそこそこ信頼されている。年寄りなんかは、私立は馬鹿がいくところだと思っている向きすらありますにゃ。
つまり、地方ってのは教育における機会均等がそれなりに実現されていたわけですにゃ。少なくとも高校進学までは、本人の能力と努力だけでいわゆる「トップ校」に進学できるわけで、平等性への信頼も厚かったといえるかもしれにゃー。


こういう状況というのは、都会とか名門私立高校のある地方以外ではある程度はあてはまる話ではにゃーかと考えていますにゃ。傍証として、wikipedia:高等学校必履修科目未履修問題をあげますにゃ。ウィキから引用すると


大学受験の科目選択
大学受験においては、限られた科目で試験が課される。そのため受験生たちは、自分の受験科目のみを勉強したいという場合が多い。そのため、今回の問題は生徒側の要望に学校が応えた結果ともいえる。これは学校が受験目的の存在と化しつつある点にも問題があり、引いては学校自体の存在意義にも関わる。


経済状況にあまり関係なく、公立高校からそれなりの大学に進学できるというのは、地方の高校生と保護者、特に経済的にキツイ層にとってはとてもありがたいことですにゃ。そして、そのことを地元のニンゲンも教師も概ね肯定的に捉えている。だからこそ、高校が予備校化していくのですにゃ。受験勉強のための主なリソースが公立高校にあり、そして公立高校がリソースとなるべきだと考えられているのだから、予備校化は当然のことではにゃーだろうか。
このことに問題がにゃーとは言わにゃーが、高校側が責めたてられるべきことだとも思えにゃー。さらにウィキより


都市部と地方の学力格差
都市部では難関有名私立、大手予備校本校舎といった、公立高校以上の学習の出来る施設が充実しているが、地方にはそのような施設が少ない。そのため、全国規模で争われる大学受験において都市部の生徒に太刀打ちするため、学校が受験に必要のない科目を削減していた。実際、東北6県や長野県・静岡県などの多くの高校で発覚し、県を代表する進学校で顕著であった。


うむ、僕の生息地は静岡。東日本の地方の進学校でこの問題が多発しているわけですにゃ(西日本はどうなってんだろ?)
必修科目の未履修は不平等だって? うん、確かに形式的にはそうかもしれにゃー。
しかし、形式的な平等が達成されたら、それは都市部の富裕層の子弟が一方的に進学に有利になるだけなのではにゃーの?


つまり、経済格差ならびに都市と地方の格差を埋めるべく公立高校の現場において努力がなされており、必修科目未履修問題はそのひとつのあらわれであったと僕は考えているわけですにゃ。少なくとも、静岡、長野、東北ではあてはまると考えますにゃ。


さて、現場での格差解消努力があってもなお、格差が拡大し続けたらどうなってしまうのか? 拡大する一方の格差に絶望的な気分になってしまったらどうなるのか? それでもなお、平等であるべきだと考えるのであればどうなるのか?
役人の給与を下げるとかいう橋下に喝采をおくるお方がいくらでもいるように、相対的に「上」にあるものを自分のところまで引き下げようとするのではにゃーだろうか。
こんなメカニズムで
「別解を認めると、塾にいっている子が有利だから認めるな」
などという話がでてきたのではにゃーかと愚考しておりますにゃ。

結論

  • 地方においては、公教育の機会均等がある程度保障されていた
  • この機会均等を、住民は当然とみなしていた
  • 日本は格差拡大時代に突入したが、現場の努力である程度まで解消されていた
  • 現場の努力では格差の解消がしきれなくなり、公教育の現場に格差が持ち込まれた
  • その結果、「下方」への引き下げ圧力が生じた

こんな感じで、教育現場においては、格差の顕在化と、格差を否定したい同調圧力というか変な平等志向*2の相克が軋轢を生んでいるのではにゃーだろうか。それで、「数学で別解を認めない」などという気の狂ったお話が一部ででもまかり通ったりしているように思えますにゃ。


そのうえ、美辞麗句としての「個性尊重」が唱えられているわけですにゃ。

  • 現実としての格差拡大
  • 格差を否定したい同調圧力
  • 個性尊重という美辞麗句

この、お互いに矛盾する三種の神器三すくみで、教育現場もガキもぐだぐだになっているのではにゃーかと。結果的に「個性」に追い込まれていくガキ(や親)がでてきてもおかしくにゃーよね。
怪物親がでてくる背景のひとつでもあるかもにゃ。

*1:ある微分の難問を、微分を使わない別解で解いてみせた後に、「「微分のことは微分でしろ」といいますからお勧めできない。」という駄洒落をいうのがなぜか母校の数学の授業の伝統になっていた

*2:先日のエントリコメント欄でたぬき本舗の指摘した「鋳型にはめる」感じ