あなたが人間であるなら、私は人間ではない


「同じ人間だろ」は断固否定しなくてはならない。同じ人間ではない、という基本的な態度をとるべきなのである。


http://d.hatena.ne.jp/kmiura/20081027#p1


この1節を読んで石原吉郎を思い出しましたにゃ*1
正確にはソ連ラーゲリ強制収容所)における石原の友人、鹿野武一という人物の言動を思い出したのですにゃ。


もしあなたが人間であるなら、私は人間ではない。もし私が人間であるなら、あなたは人間ではない。


鹿野はラーゲリの取調室で相対した保安中尉にむかってこういったそうだにゃ。そして、ラーゲリにおいてハンストをする。ラーゲリにおけるハンストなど、抗議どころかほぼ自殺を意味するというのに。
ラーゲリの10年弱を生き抜いた鹿野は、日本に帰り、1958年に自死しますにゃ。石原は1977年に死去。風呂につかったまま亡くなったそうで、半ばは自死のようなものであったとのことですにゃ。「じゃがたら」の江戸アケミと重なるんですよにゃー。石原吉郎にも江戸アケミにも、「現実」というものが何のリアリティも持たないものだったのかもしれにゃー。


石原はいう。「なまはんかなペシミズムは人間を崩壊させるだけである」
その日その日、その場その場のオプティミズムによってのみしか生き残ることができにゃーのがラーゲリというところなんだろ。それは動物として生きることを意味するわけですにゃ。だからラーゲリでは「もっとも良き者から死んでいった」。

  • <人間>はつねに加害者のなかから生まれる。被害者のなかからは生まれない。人間が自己を最終的に加害者として承認する場所は、人間が自己を人間として、ひとつの危機として認識しはじめる場所である。」
  • 集団にはつねに告発があるが、単独な人間には告発はありえないと私は考えます。
  • 私は告発しない。ただ自分の<位置>に立つ。
  • 私たちは一度は(そして、いつでも!)自分自身に対して抱いている自信を放棄し、自分自身に絶望する勇気をもたなければならないと思います。それがとりも直さず自分自身にたいする誠実であり、またすべてのひとびとにたいする誠実であると考えます。
  • 日常のただなかでみずからの位置を確かめつづけることが、いわば生きることへの証である……
  • それは闘争というような救いのある過程ではない。自分自身の腐蝕と溶解の過程を、どれだけ先へ引きのばせるかという、さいごにひとつだけのこされた努力なのである。
  • いまにして思えば、戦争は私に、日常をのがれることの不可能を教えた唯一の場であった。いかに遠くへへだたろうと、どのような極限へ追い込まれようと、そこで待ちうけているものはかならず日常である。なぜか。私たち自身が、すでに日常そのものだからである。


http://blogs.yahoo.co.jp/solitude7solitude/17250491.html


告発をせずにみずからの位置を確かめ続けよと石原は言いますにゃ。そして「それは闘争というような救いのある過程ではない」と*2
冒頭において引用した記事のタイトルは「僕たちの闘争」でしたにゃ。この記事はこのように結論づけられていますにゃ。


だから最初に戻る。「同じ人間だろ」といわれたら断固否定せよ。「わかるだろ」としなだれかかられたら拒否せよ。あるいは「ボクらはみんな闘っている」といわれたら却下せよ。ただ、わたしは違う、と。


石原吉郎の「位置」を引用


  位置


   しずかな肩には
   声だけがならぶのでない
   声よりも近く
   敵がならぶのだ
   勇敢な男たちが目指す位置は
   その右でも おそらく
   そのひだりでもない
   無防備の空がついに撓み
   正午の弓となる位置で
   君は呼吸し
   かつ挨拶せよ
   君の位置からの それが
   最もすぐれた姿勢である

補足と蛇足

石原吉郎の代表作「葬式列車」が掲載されているURLへのリンクを張りますにゃ


私は通勤時の山手線にビルケナウ行きの無蓋貨車を重ね見てしまう人間です


電車にビルケナウを重ねることが、そうしないことよりも有効だと判断してるから投げてるのです
「文字通りにであって隠喩ではなく、工場は監獄であり、学校も監獄なのだ。隠喩なしに学校が監獄で、団地が売春施設で、銀行が殺し屋で、写真家が詐欺師なのか示さねばならない」


http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20081022/1224686752#c1224931971


石原吉郎は山手線に「葬式列車」を確かに隠喩なしで重ねていたのかもしれにゃーとは思う>id:Midas
しかし、方法としても感覚としても、山手線にビルケナウ行きの無蓋貨車も葬式列車も重ねてしまうことは僕にはできにゃー。僕は葬式列車に乗り込んだことがなく、石原のいうように


死者がもし、あの世から告発すべきものがあるとすれば、それは私たちが、いまも生きているという事実である。死者の無念は、その一事をおいてない。死者と生者を和解させるものはなにひとつないという事実を、ことさら私たちは忘れ去っているのではないか。

*1:うわ、追記でおもいっきり石原に触れているではにゃーか。/手もとに石原の著作がにゃー。人にあげてしまったようですにゃ。いいかげんな記憶とネット頼りの記事であることを断っておきますにゃー/このエントリはハシモトに直接には関係にゃーです。

*2:こうした石原の「位置」と「姿勢」に対してもちろん批判もありえよう