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地下生活者の手遊び このページをアンテナに追加 RSSフィード

2008-11-05 森羅万象に詫びをいれたい

カネ儲けがただの趣味である社会を


天にまします我らの結果平等よ、あるいは地を這うAとB(追記アリ - 地下生活者の手遊びの追記部分に

機会/結果の平等と帰結主義 - モジモジ君のブログ。みたいな。というトラバでの反論をいただきましたにゃ。

簡単に再反論させていただく


>「潜在能力」という焦点変数を定めつつ、その測り方を脱構築する、という議論は可能なんです。

ここは了解ですにゃー。


>「結果の平等」と完全に区別された「機会の平等」論は、脱構築できないものでしかありえず、それは無謬性を主張することと変わりません。

うん。

もちろん、僕の書いた、降りられる機会の平等である「機会の平等A」というのは「結果の平等」と完全に区別されたものではありえにゃーですね。

また、この記述は

「「機会の平等」と完全に区別された「結果の平等」論は、脱構築できないものでしかありえず、それは無謬性を主張することと変わりません。」

と機会と結果をひっくり返しても成りたつよにゃ。


>hokusyuさんが「一意な幸福の基準のもとで平等になるように」なんてことを言っていると断定することはできません。(そして、僕はそんなことを言っていない、と読みます。)

ここが僕の読みとちがうところ。

hokusyuは

「機会平等の正義のもとに、あらゆる結果の不平等、あらゆる格差、あらゆる貧困が正当化されることに他ならないわけです。

でもそれだと機会平等が崩れるからある程度の結果の調整を・・・矛盾ですね。」

http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20081030/p1 コメ欄

と発言していますにゃ。

ベーシックインカムをめぐる議論もそうなんだけど、機会の平等と結果の平等を切断してよいわるいのタグ付けをしてるのはhokusyuでにゃーのか?


僕がいやなのは、例えば「配慮」とか「正義」が、結果の平等に固有のものだとでもいいたげな議論の進め方なんだよ。まるで、結果の平等は脱構築してはならにゃー正義そのもののようですにゃ。

また

機会の平等をDISるのにあたり、能力しかもちださにゃーとか、機会の平等がそのままゲームに参加させるための手段としか見にゃーような、ニンゲンを舐めた見方も気にくわん。


「機会が平等でも結果として収入に100倍くらい差がでるのは全然だめ。」

とhokusyuは言う。

しかしね、何度でも書くけどさ

機会の平等Aにおいては、カネ儲けなんざただの趣味なんだから、収入にどんなに差がついてもかまわにゃーのさ。カネ儲けゲームは確かにオモチロそうではあるし、どんどんやってもらってかまわにゃー。

というか、カネ儲けが単なる趣味にすぎにゃー社会を目指すべき、といってもいいかにゃ。結果平等なんかより僕はこっちのほうがいい。


カネ儲けがただの趣味っていうのはね

「オマエがサッカーがすごく上手いのは不平等だ、ずるい」

「あいつがあんなに絵が上手なのは不平等だ、ずるい」

「あのオタク野郎があんなにゲームが上手いのはずるい」

「あいつがカネ儲けが上手なのはずるい」

同じ地平にある妄言になるっていうことなのだにゃ。


サッカーの技術やデッサンの精度、ゲームのテクに結果平等なんざいらにゃー。才能と努力で好きにやるさ。

経済力もそういうものであれぞかし、ということだにゃ。


カネに目がくらんでいるのはどっちの議論だい?

hokusyuhokusyu 2008/11/06 03:20 「カネ儲けが単なる趣味」になる世界は素晴らしいと思うし、そのためには配慮が必要だということですが。
別にのび太みたいにハナクソダーツだけうまい人でも普通に社会生活を送ることができればお金儲けは単なる趣味です。まあそういう世界で金儲けの意味はどうなっているのかはわからないけど、そんなのはそうなってから考えればいい。
でも、いまここ現実においてはお金が無ければのび太は死ぬわけですから、あなたはぼくじゃなくて働かないと食っちゃいけないと言ってる人々をまず叩くべきだと思います。100倍の収入の差がまずいというのは現実のお金が生活の糧となっている社会においてです。つまり、誰にだってその人の嗜好に従って人生を謳歌する権利があるのだから、「お金儲け」が得意な人だけに「お金」という人生を謳歌するのに有利なモノを与えるのはおかしいというそれだけです。能力はあくまでも「たとえば」であって、誰も嗜好の多様性を否定していません。

いつどこ名無しいつどこ名無し 2008/11/06 05:17 うーむ。ゴチャゴチャと違うことを書こうと思っていたのですが、hokusyu 様のコメントを見て思うところがあったので、よろしければ、ひとつ皆様に質問させてください。

それは「タダ飯喰らい」の是非について、です。

結果平等でも機会平等でも何でもいいんですが、自然の状態では自分自身の食い扶持を十分に稼げないヒトがいる状況で、彼らを社会組織が何らかの形で扶養している場合、結果的に「タダ飯喰らい(フリーライダーと呼んでもいいかもしれません)」と覚しき集団が存在し得ます。そうした人をどう位置付けるのか、です。

「カネがすべてではない」なら、彼らは尊ぶべきなのか。自由人として尊重するのか。自由人たる彼が尊重されるなら、誰が忌むべき生産を行うのか。

「カネがすべて」なら、彼らは蔑むべきなのか。飢えて死ね、というのか。生産性がすべてなのか。無産人を見殺しにすることが生産性を最大化するのか。

あるいはどちらでもなく、せめて自分の食い扶持ぐらいはなんとかしろ、というのか。ならば社会とは、集団とはなんなのか。個人主義や「自己責任」と何が違うのか。

こちらには様々な意見を持つ方がいらっしゃるので、タダ飯喰らい=フリーライダー=無産人(≒のび太)をどのように位置付けるのか、非常に興味があります。

tikani_nemuru_Mtikani_nemuru_M 2008/11/06 11:01 >hokusyu
>あなたはぼくじゃなくて働かないと食っちゃいけないと言ってる人々をまず叩くべきだと思います

機会の平等Aと機会の平等Bは地続きですにゃ。ベーシックインカムもこの地続きのなかにある選択肢だと思う。
で、チミはサヨクを名乗りつつ、機会の平等やベーシックインカムを否定してるよにゃ。

僕としては、「その機会の平等にはのれない」「その結果の平等にはのれない」「そのベーシックインカムにはのれない」はあっても、機会の平等そのものや結果の平等そのものやベーシックインカムそのものを否定するということはしたくにゃーですね。

今回、僕は結果の平等をDISったけど、それはあくまで機会の平等と切断された結果の平等ですにゃ。


>能力はあくまでも「たとえば」であって、誰も嗜好の多様性を否定していません。

確かに否定してにゃーね。しかし、やりとりの経緯から軽視していると判断した。

tikani_nemuru_Mtikani_nemuru_M 2008/11/06 11:05 >いつどこ名無し

自分では食えない者を「自然の鉄則」によって死なせるのは畜生のすることだにゃ。
(動物はけっこう相互扶助をするんだけど、ここではおいとく)
食えないものを見捨てるのは、見捨てられる側だけでなく、見捨てる側の「尊厳」を侮蔑することだにゃ。

あと、「忌むべき生産」は、水準以上の暮らしをしたいヒトが趣味でやればいいと思う。

NANoNANo 2008/11/06 11:36 >いつどこ名無しさん

まず、いま現在の社会状況というものがあって、その中では大半の国民が生活のために労働し、その対価として個々の収入を得ている。だから働かないで国家の扶養によって食えている者がいれば「ただメシ喰らい=フリーライダー」と呼ばれ、負のレッテルを貼られる。でも仮にべ−シックインカムなどの十分な基本収入制度が確立されれば、万人に「働かない自由」が選択肢として与えられるわけで、フリーライダーになりたければ誰でもいつでもなれるのだからなればいいんじゃないか、と思う。

無論、現状はそういう社会ではないのだから、不労所得を持つ者や働かない(カネのために労働しない)ただメシ喰いはあるのだけど、なんらかの制度を利用して国に食わせてもらう生活を維持するのは相当な知恵のいることだ、と私は思う。たかがエアコン買ったくらいで生活保護が止められちゃう現実が有名なのだから。ゆえに、いまの日本でホンモノのただメシ喰らいを実践しているひとがいるのであれば、誰よりも偉いと私は思う。妬んだり批判するくらいならどんどんみんな真似をすればいい。不公平だと思うから批判するのだろうし。同じことを実践して、これは相当きついな、という生活実情を味わえば良い。

NANoNANo 2008/11/06 11:57 あ、ごめん。ちょっと追加というか補足で、いつどこ名無しさんに向けて、以外のことを少し。

自分で「労働の対価としての収入(生活収入)」と書いたけれど、ある一定水準を超えた収入を「労働だけで」得ることはおそらく不可能なんじゃないかな。金額に直すと月収70万円、年収840万円相当を超えるあたりから。まぁそのくらいの収入で十分に生活水準は高いのだけど、たとえば給与収入とそれを見なしても、個人の「両手両脚が届く範囲」で「働く」ことの結果に生まれる利潤なんてものはタカが知れている。そこから先は部下を動かしたり組織を動かしたり商品を開発したりという「利権」や「信用」や「カネそのもの」がカネを生む、という構造になるんだ、と思う。ところが、そうした水準を一度達成してしまうと、今度は利権や信用やカネそのものの「要請」によって、望むと望まざるに関わらず「働かざるを得ない=働かない選択肢の喪失」という状況が生まれてしまい、それが慢性化すると古い形容だけど「エコノミック・アニマル」なんていう侮蔑に通じる状況が発生するのでは?なんて昔考えた。もはや「働きハメ」とか「働きシバリ」に呪縛されて身動きできない=それだけのリスクを抱えている状態が発生するんだよね。

で、そういう生活や価値観を否定して「働かない自由」を志向することのどこが悪いのか、私は皆目見当がつかない。働かないで無収入になって飢え死にするのは自由じゃん。飢え死には困るから、飢え死にしない程度にときどき働くのも自由だし、一定水準以下の収入で満喫できる物質的豊かさなんてものは、やっぱりタカが知れているんだから、これに負のレッテルを貼りたがる層というのは相当な妄想の世界にいるんだろうな、とバカにしておけば良いんじゃないか。それとも仮に「働かないヤツ」が精神的に(自分より)豊かだ、と思って批判するのであれば…どんなモノでもとにかく「羨ましい」と妬む価値観に呪われている、としか云いようがない。

hokusyuhokusyu 2008/11/06 12:47 >tikani_nemuru_M
機会の平等を否定しているわけじゃないです。
ベーシック・インカムも否定していません。
mojimojiさん等の言葉を借りれば、機会の平等=しくみの問題、結果の平等=正義の問題、とぼくが定義したということであって、それを再定義するのはよいと思うんですけど、主張の趣旨まで変更されるのは困ります。たとえばセンを用いるなら、<潜在能力>の発揮への平等という考え方は一般的には、ざっくり言えば「機会」の平等であるといわれていますが、ぼくが引用した障害学の話などとかなり親和性を持っているのではないでしょうか。
あと、ダンコガイBIは否定していますが、たとえば年収30万円くらいのBIならよいんじゃないでしょうか。でも、今ある既存の福祉を充実したほうが現実的だと思うし、そう言っています。わざわざベーシック・インカム言いたがるのは、社会福祉の理念そのものに文句があるんじゃねーの?という、まあ一種のイヤミですね。

tikani_nemuru_Mtikani_nemuru_M 2008/11/06 14:02 >hokusyu

了解しましたにゃ。
ダンコーガイは読む気にならんので読んでにゃーので、hokusyuのダンコーガイ批判には何も言えにゃーしね。
それと、おみゃーさんが肯定するのは年収30万でなく、月収30万のBIだろ?

僕は投票券としての貨幣に対する評価は高いので、既存の社会福祉よりもBIに惹かれるところがある。生活において何を善とするかは各人が決めるべきと考えますにゃ、それが愚行であっても。

hokusyuhokusyu 2008/11/06 14:17 ごめんなさい月収です月収。
小田実が、理想とする自由な社会のモデルとして、たとえばみんなに1000円渡してそれで何をするかは、たとえばカツ丼食うか映画見るか自由だーっみたいな話をしていました。そういう話に近いのかもと思いますが、当面はBIでなくともたとえば最低所得保障みたいな方法もありうると思ってます。

ハクチハクチ 2008/11/10 15:11 >というか、カネ儲けが単なる趣味にすぎにゃー社会を目指すべき、といってもいいかにゃ。結果平等なんかより僕はこっちのほうがいい。

ティミはホームレスの支援団体等に寄付したことあるの?
オレはあるけどな。
ま何れにしても、理想を語るだけならタダで済むから楽だよな。
いくら現実離れた発想であろうと。w

いつどこ名無しいつどこ名無し 2008/11/11 03:05 こちらから質問をしておきながら応答が遅くなって申し訳ありません。

ブログ主様:
> 自分では食えない者を「自然の鉄則」によって死なせるのは畜生のすることだにゃ。
> (動物はけっこう相互扶助をするんだけど、ここではおいとく)
> 食えないものを見捨てるのは、見捨てられる側だけでなく、見捨てる側の「尊厳」を侮> 蔑することだにゃ。

言い方がよろしくなかったのですが、「自己扶養ができない人々のベーシックインカムに相当する生産を、誰がどのように行うか」という意図での問いかけでした。

人間は畜生ではありませんから、自分では食えない者を見捨てる(死なせる)ことは、それは忍びないことです。この点について賛同します。

であれば、人間たちは、自ら糊口をしのげない人々すべてを養うに足りるだけの余剰の生産を強制的に行うべきでしょうか。仮に個々人の幸せが犠牲になるとしても、「人間全体の尊厳」は守られるべきでしょうか。その「尊厳」の負担を人間全体でどのように配分すべきでしょうか。個々人の「趣味」の価値の平準化を標榜しようとしたとき、カネ儲け、あるいは農業生産といった、特定の生産的な趣味に特化した人を狙い打ちにして「人間全体の尊厳」のための負担を強いるべきでしょうか。援助を受ける人や援助を与える人の力になれない人々は、他にどのような負担を負うべきでしょうか。余剰の生産を負担しなくてよい(=フリーライドの)人々がいるとしたら、彼らにはどのような正当性があるでしょうか。

うまくまとめられないのですが、こうしたことを考えると、「カネ儲けがただの趣味である社会」というのは、すべての人が自分自身の食い扶持について十分に責任を持てる場合にのみ、成立する命題であるように思えます。

なぜなら、自分自身では食えない者が存在する人間社会において、「見捨てられる側だけでなく、見捨てる側の『尊厳』を侮蔑しない」ためには、個々人の自由をある程度犠牲にして余剰の生産を確保する必要が生じ、結果として「趣味としてはあり得ない余剰を得るための『仕事』」が発生することになり、個々人の意志(=趣味)だけで行動を選択することができなくなるからです。

「過剰生産をするかどうかも含めてあなたの趣味」なのかもしれませんが、特定の行為を行わないことで社会的な非難を被るなら、それは任意としての趣味ではなくて強制的な義務です。趣味なら選択できても義務は選択できません。それでも「あなたは人間的でない行為を選択できる自由がある」というなら、そもそも、

> 自分では食えない者を「自然の鉄則」によって死なせるのは畜生のすることだにゃ。

という命題が成り立ちません。社会的な制裁をものともせずに畜生かどうかを選択できるならば人でなしでもいい、という人の選択の自由を、どのように制限するのでしょうか。そしてその「自然の鉄則」の結果として食えなくなる人が実在することになりますが、それを誰がどのようにバックアップするのでしょうか。

(もう一点、「『ベーシックインカム』とはどの程度の水準なのか」が大問題ではあります。健常者について言っても、成人するまでの食費だけを提供するのと、併せて義務教育を提供するのと、その他ゆりかごから墓場まで細かく補助を出すのと、加えて生まれてから死ぬまでずっと定額の生活保護を出すのでは、社会としての負担学が随分と違いますから)

いつどこ名無しいつどこ名無し 2008/11/11 04:36 NANo 様:
うまく伝えることができなかったかもしれませんが、「タダ飯喰ってる人々が羨ましい」という論点ではありません。個々人がお金儲けに限らない(「ゼニ稼ぎ」と等価値の)自己実現を図っている世界があるとして、最低限の飯が食えないから自己実現もできない、という人を、人間社会はどのように扱うのですか? 何のペナルティもなく救えるのですか? という問いです。

社会的にタダ飯食わせるべきでない方々が、法の網を潜るような小細工を弄してタダ飯を食っている可能性がある、というのは、現代日本などにおける制度運用上の問題点として精査すべき問題です(何の裏も取っていない単なる噂ですが、中には集団詐欺的な手法を弄して資金集めを図る集団もあると漏れ聞きますし)。

しかし、社会制度が理念通りに運用されていたと仮定しても、何らかの理由で自分自身の食い扶持を稼げない人々というのは存在するし、そうした人々を社会全体としてどう捉えたらよいのだろうか、という点は、検討するべき論点だと考えます。
また、ご指摘頂いたように、質量ともに十分以上の労働力を投入して多量のお金というリターンを得ている労働者が、事業全体の要求からインプットとアウトプット量の調節ができずに「働きハメ」とか「働きシバリ」で悩む、というのも、考慮に値する論点と考えます。

これらは「本人に裁量の自由が無い」という観点では同一問題の両極である可能性がありますが、だからといって足して2で割れば済む話でもない(「働きハメ」の人が完全生活保護の人を養い、2人を平均すれば、時間とお金の収支「だけ」は合いますよね?)でしょうし、別個に考える必要があると思います。


> で、そういう生活や価値観を否定して「働かない自由」を志向することのどこが
> 悪いのか、私は皆目見当がつかない。働かないで無収入になって飢え死にするのは
> 自由じゃん。飢え死には困るから、飢え死にしない程度にときどき働くのも自由だし、
> 一定水準以下の収入で満喫できる物質的豊かさなんてものは、やっぱりタカが知れて
> いるんだから、これに負のレッテルを貼りたがる層というのは相当な妄想の世界に
> いるんだろうな、とバカにしておけば良いんじゃないか。

みんなの「働かない自由」を担保するためには、「誰もが、働きたくないときに働かなくてもいいし、働きたいときに働ける」状況を実現する必要があります。飢え死にする自由と同時に、飢え死にしたくない時にせずにすむ自由もあります。この2つの自由のうち片方しか持っていない人が多いし、一方しか持たない人にもう片方を提供しようとすると、それ以外の人の「選択の自由」を制限することになるんじゃないでしょうか。

誰をバカにするでもなく、両立しようとしたらもう一方が犠牲になりませんか? 特定集団だけではなくて、社会全体としてうまい解決策はあるのでしょうか? という問いですが、妙案はございますでしょうか。

NANoNANo 2008/11/11 15:43 いつどこ名無しさん

観念論や希望論を抜きに、現実を直視するならば自己実現できないひとをなんのペナルティもなしに救える社会は、少なくとも我が国において実現しているとは云えないし、ごく近い将来に状況が改善されるだろうか?と云われても、かなり難しいか別の方向に動くのではないか、としかお答えできません。無論、いつどこ名無しさんも、その状況をどう変えられるだろうか?という問いかけをしているのだ、ということは分かったうえで。

それと現実に即して云うならばもう一点は「カネを稼げない=自己実現できない」という状況は、本当に稼げないのだろうか?ということも考察すべきでしょう。世の中にはまっとうな仕事であっても、特定のサイト(ネットという意味ではなく広義に)にアクセスしないことにはその情報に接することもできず、特定の能力を持ちながらもそれを発揮する機会を得ないひと、という存在も意外に多いのではないだろうか、などとも思うのです。そうした情報に接するためだけであっても、なにがしかの「元手」は必要なわけで、情報インフラの無償提供などができるのであれば、ある程度の救済が可能になるだろうな、と思います。(職安の情報はタダで入手できるけれど、到底足りないだろうということ。職安に出向くことが物理的に不可能なひともいるだろうし)

>足して2で割れば済む話でもない

もちろん、そのとおりです。
両極は似て非なるものですから、対処も違うものになるでしょう。また、夢想的にこれを解決する提案はできても、実現はかなり難しいことでしょう。

>特定集団だけではなくて、社会全体としてうまい解決策はあるのでしょうか? という問いですが、妙案はございますでしょうか。

全部をまとめて救うことは不可能です。
ひとつの問題をつぶし、すると見えてくる別の問題に対処し、の繰り返しでしかないでしょう。ただ思うことは、生まれながらにしてまったく生活不安を感じることなく生活できる境遇もあれば、常に飢餓(食糧という意味だけではなく)状態にある境遇もあるわけで、そこはサヨク的な考えかも知れませんが「再配分」を真剣に考えるべきではないだろうか、と最近思うようになりました。

ハクチハクチ 2008/11/11 18:41 >そこはサヨク的な考えかも知れませんが「再配分」を真剣に考えるべきではないだろうか、と最近思うようになりました。

あくまでも私の直感だけど、おそらくティミは何も解ってない。

可謬主義者の私だから、若し万が一間違ってたらゴメンよ。

NANoNANo 2008/11/12 00:09 >ハクチ氏

気にいらなかったらごめんね。
実際、分かってないから。さっぱり考えがまとまらないです。
でも、誰か分かってるの?

ハクチハクチ 2008/11/13 15:17 >でも、誰か分かってるの?

というかおそらく、あらゆるカテゴリー(あらゆる事情により餓死してもイイと思っている集団、餓死したくないけどするしかないと思っている集団、∞…)の全てを「人間」として一括しようとする発想自体が既にラッセルの悪循環原理的なものに陥っているのだと思います。

したがって原理的には、どこかであるカテゴリーに属する集団を(人知れず)非人間として切り捨てなければ理想理念は保てないと思います。
現実は、それを露骨に公言できないでいるだけでしょう。
理想理念と真っ向から対立してしまうから。

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