ニンゲンは賭けをする。そのとき科学は宗教になる。(追記アリ

とりあえずは荒っぽくメモがわり。

知と信

目の前にコップがひとつあるとしますにゃ。ここで、僕たちは目の前にコップがあることを【知って】いるわけですにゃ。このとき、目の前にコップがあることを【信じて】いるとは言いませんよにゃ。
つまり

  • 知っていることを信じることはできない


信仰というものは、知ることの不可能な対象を信じることだと考えますにゃ。
一方、科学による知の対象というのは、知ることができるものに限られるわけですよにゃー。
というわけで、この基準を持ち出すと、宗教と科学はきれいにわかれてしまうことになりますにゃ。
もちろん、話はそんなに単純ではにゃー。


では

  • 目の前にある部屋に、致死性の病気をもたらす病原菌がうじゃうじゃいる

という命題を考えてみますにゃ。
これは基本的には自然科学の命題、すなわち【知る】ことのできる対象ですにゃ。
しかし、病原菌を直接的に知覚することはできにゃーので、生物学的に確立された方法を用いてその命題の真偽を確認する必要があるわけですにゃ。
これは専門家であればたやすく調べることができるでしょうにゃ。しかし、器具や方法論をもたにゃーシロウトには調べようがにゃーわけだ。
ここから

  • 自然科学は【知る】ことのできるものを扱うので、基本的には知覚の延長である

かつ

  • 知覚の延長であるにもかかわらず、その知覚は専門家に独占されている


つまり、シロウトとしては専門家を【信じる】かどうかということになるんですにゃ。
で、ここに陰謀論が入り込む余地があるわけにゃんね。

自然科学は信頼できるのか

僕の見解としては、専門家集団を信頼するのは合理的だと考えますにゃ。
理由は、科学の議論は相互検証を前提としており、互いに激しい競争を繰り広げているという事実があるから、ですにゃ。
つまり、この信頼の仕方は、市場を通してよりよいサービスや商品が効率的に分配されるであろう、という信頼の仕方と原則的には同じであるといえますにゃ。各々は利己的にふるまい、その結果総体的な利益になるというモデルですからにゃ。
だから、この仕組みをゆがめる要因があったときには、科学者集団は信頼に値しなくなるといえますにゃ。このあたりも市場と同じことにゃんね。
その意味では、陰謀論に原理的な意味で根拠がにゃーってこともにゃーのよ。


つまり

  • 自然科学の内的な論理に従えば、科学は【知】の体系であり、陰謀論の入る余地はない

しかし

  • 自然科学を受容するシロウトの側からすると、それは【信】の対象であり、陰謀論も合理的なもの

となりますにゃ。
自然科学というのは、内的な論理では(あるいは専門家・エリートの間では)【知の体系・事実の体系】であるけれど、受容する側(シロウト・大衆)からすると【信の体系】となってしまうわけですにゃ。わからんけど従うのが合理的だという意味では【権力】ですらあるわけにゃんな。


また、先ほどの「致死性の病原菌がうようよいる部屋」という例においては、何かの事情があってその部屋に入らなければならにゃーという状況になった場合、専門家を【信じるか否か】という問題が先鋭化するわけですにゃ。

科学は宗教の機能的等価物?

さて、話をちょっと変えると、例えば、宗教と科学と疑似科学とニセ科学について - よそ行きの妄想http://d.hatena.ne.jp/magician-of-posthuman/20081116/1226794244にある、

  • 科学は宗教の機能的等価物だ

という言明は、疑似科学批判者にとっては「はあ? あんたナニいってんの?」という反応を引き起こすことになりますにゃ。というのも、自然科学の内的論理としては、すべての科学理論は結局のところ仮説であるというのが前提だからですにゃ。もちろん、進化論や地動説のように非常に確からしい仮説から、海のものとも山のものともつかにゃー仮説までいろいろとあるわけにゃんが。

  • 実験や観察は知覚(感覚与件)の延長であり、科学理論は仮説である

というのに、なんでそれが宗教なのよ? 信じろなんて誰もいってないじゃん。となるのはアタリマエといえばアタリマエ。
ミソは、【機能的】等価物というところでしてにゃ。社会的・心理的には科学は宗教の等価物になりえるというのは妥当性のある言明だと僕は考えるし、そもそも自然科学の社会的・心理的機能については自然科学者はシロウトといっていいんだよにゃ。

行き違いの中身

つまり、ここで起こっている行き違いというのは

のに対し

  • 疑似科学批判・批判者は、自然科学の社会的・心理的機能の視点から批判している

ということになるのではにゃーかと。
だから、お互いに言葉が通じにゃーのではにゃーかと。


引用したchnpkのエントリは、科学の社会的機能という視点から見ると悪くにゃーと思うし、これも引用した「ぽま」の「終わりなき脱魔術化」も興味深い視点だと思うんだけど、疑似科学批判者にとってはそのあたりは少なくとも二の次だと思うんだよにゃ*1
互いに興味の焦点が異なっているわけですにゃ。

賭博者としてのニンゲン

じゃあ、お互いに自分のフィールドにこもっているかというと、そんなこともにゃーからヤヤコシイ。


先ほどの「致死性の病原菌がうようよいる部屋」という例をもう一度考えてみますにゃ。もしその部屋の中に、自分にとって必要なものがあり、どうしても今すぐにとってこなくてはならにゃー事態が生じたとしますにゃ。それがなければ重大な損失を被るけれど、もちろん、その損害は命ほど大事ではにゃーとする。
ここで、専門家の意見を聞きつつ、病原菌がいる可能性、いたとしたらどれくらいいるのか、罹患する確率はどれくらいか、罹患したとして生存率はどうか、などを勘案して、【賭け】をしなければならにゃー。専門家を信じようと信じまいと、ここで何らかの【賭け】をするのですにゃ。


にゃるほど、自然科学は【事実についての知】の体系ですにゃ。それ自体は信じるものではにゃーだろう。
ところが、その【事実についての知】に基づいて何らかの行動をおこすとき、僕たちは何らかのリスクをおって必ず【賭け】をすることになりますにゃ。これは確かに宗教・呪術の領域にあることなんだよにゃー。パスカルの賭けって、ロジックとしてはカンペキだしにゃー。
進化心理学的にいっても、僕たちは目の前の事象について、ひとつひとつ【賭け】をしながら生きていくことに適応しているということのようですにゃ。


もちろん、科学的に確立された理論に基づく賭けは、割のよい賭けであることは間違いにゃーだろう。というか、疫学なんてものは【割のよさ・わるさ】の体系といってもいいくらいですよにゃ。科学に基づいた行動、というのは投機対象として割がよいことは証明されているといっていいだろにゃ。
だから、疑似科学はその【割のよさ】を擬装して、投機を誘おうとするわけですにゃ。chnpkにもわかりやすいように説明すると、疑似科学は偽ブランド品というよりも、リスクなどの説明を誤魔化した債券や証券といったほうがいいのではにゃーかと思う。あるいは偽札かにゃ。
したがって、疑似科学を縮減するように社会的に取り組む必要はあるのですにゃ。


一方、科学も実践段階においては、【賭け】の条件であり、その意味では確かに信仰の対象という側面があることも、疑似科学批判者は肝に銘じる必要があると思いますにゃ。まあ、まともな疑似科学批判者はそうしているけどね。


科学の社会的・心理的機能に注目する者にとっては、賭けの【割のよさ】を無視できにゃーので、科学の内的論理をシカトできにゃー。一方、科学の内的論理を重視する者は実践段階における【賭け】を認めざるをえにゃーので、そのとき宗教や呪術と地続きのところに科学が放り出されていることを考慮しなければならにゃー。

うpしてすぐに思いついた追記 12:00ごろ

1)特に害がないと思われている疑似科学についても、その知見に従って割のよい【賭け】と思って行動してしまうことがあるのは問題。そのあたりは包括的に論じたつもりですにゃ。愚行権を支えるのは情報開示だと考えますにゃ。


2)科学的知見に基づいた実践は、割がよいにしても結局は賭けであることをいちばん良くわかっているのは医療従事者ではにゃーかと思う。医療事故を刑事事件にすることには、この観点からも反対。

白旗追記 19日早朝

知と信についての記述にいくつか疑義がでていますにゃ。
実は帰宅したら、同居人にもここの記述は粗すぎると言われ、悔しくて議論したんだけどどうも旗色がよくにゃー。よって導入部の理屈はとりあえず取り下げますにゃ。

で、導入部以降については、知と信はレトリックとして捉えていただくことは可能な文構成と結論になっていますので、読みぐるしいかもしれませんけれどよろしゅう。一応、いったんあげたものは大幅な改定はしにゃー主義なので。馬鹿を書いたら晒しておくべきだよね。

例えば、事実と価値、といった流通している言葉遣いにすればよかったのかにゃー、とも思うんだけど、これはこれでツッコむことはいくらでもできるんだよにゃ。

*1:だからこの批判では疑似科学批判者は黙ろうとしない