まっとうなニセ科学批判・批判とは何か


ニセ科学でヒトは死ぬ - 地下生活者の手遊びへの反応がいくつかありましたにゃ。
このエントリは、
circledの日記
http://d.hatena.ne.jp/kuro05/20090219/1235006672
2009-02-18
などに典型的に見られる
疑似科学批判って、有効なの? ニセ科学批判者は行動がアホだし、自己満足で無駄なんじゃね」
というリアクションに対する反論でしたにゃ。


ところが、「ニセ科学でヒトは死ぬ」の内容が、「ニセ科学批判は役に立たない自己満足だ論」の反論になっているということを理解できない(理解したくない)という向きがあるようにゃんな。
効果があろうがなかろうが批判されるべきものは批判される - [es]
「仲間うちに甘い」ことを実証する困った人たち(2/24 23時頃 追記あり) - blupyの日記
のコメント欄でそのあたりの話が続けられていますにゃ*1


ニセ科学でヒトは死ぬ」もわかりやすく書いたはずにゃんが、ここではさらに親切にかつ簡潔に、「ニセ科学批判は役に立たない自己満足だ論」がいかにダメダメなのかを説明することにしますにゃ。『駄目なニセ科学批判批判』に対するコミットが有する意味 - A_lie_sunの日記の発言に即していえば、「例示した3件のエントリの具体的な内容が駄目である事を論じる」ことを目的としたものですにゃ。ただし、3件まとめてなので引用はナシ。
さらに、望ましいニセ科学批判・批判というものもちょっと考えてみますにゃー。


批判する際に求められるもの

一般的にいって、他者を批判する際、おさえておかなければならにゃー点がありますにゃ。

  • 1)批判対象を具体的に示し*2、批判する根拠を具体的に示すこと
  • 2)その根拠についての論証責任は批判者側にあること


ニセ科学批判者は、だいたいこの2点については押さえてあるというのが僕の観測範囲内での感想にゃんね。もちろん、ダメな例もあるだろうけど、ブログやサイトという拠点をもってニセ科学批判を行っているヒトは、ほぼこの点は押さえてあるのではにゃーかな。
罵倒だの上から目線だのは、僕はぜんぜん気にならにゃーんでね。馬鹿なことを言ったら馬鹿にされるのは当然だし、モノを知っているヒトが上から目線で話すのも問題にゃーだろう。馬鹿にされたくなければ、人前で馬鹿なことを言わなければいいだけのことですにゃ。

正しいニセ科学批判・批判とは何か

ニセ科学批判・批判においても、このあたりの原則が求められることになるでしょうにゃ。そういう視点で「ニセ科学批判は役に立たない自己満足だ論」の典型として引用した3つのエントリを見てみると、雁首そろえてまるでダメだということが明らかですにゃ。
まず、自分が批判したいニセ科学批判の具体例がにゃーわけだ。ここがいわゆる「藁人形叩き」に直結しますにゃー。
次に、「ニセ科学批判が有効ではない」ということの根拠がまるで述べられてにゃーよね。私的な感想以上のものではにゃー。
ニセ科学批判者を批判したいのであれば、ニセ科学批判・批判の側が「ニセ科学批判が有効ではない」ということを何らかの形で示すことが必須のはずだにゃ。ニセ科学批判の側が「ニセ科学批判は有効です」と論証する必要なんてにゃーのだよ。
ニセ科学批判の動機は多様だし、そもそも動機を開示する必要があるわけでもにゃーしな。ある種の言論に「害がある」「無駄」と批判するのなら、批判する側にその「害がある」「無駄」ということを示す責任があるというアタリマエのお話だにゃ。


つまり、リンクした3つのエントリに見られる典型的な「ニセ科学批判は役に立たない自己満足だ論」というのは、具体的な対象を指定することなく藁人形を相手にして、しかも自分の感想だけをもとに他者をDISるというハズカチイ代物なわけ。何度でも言うけどこんなのは虫の鳴き声レベルだにゃ。


逆にいえば、
具体的なニセ科学批判の例を持ち出し、きちんとした根拠を自ら示して行うのであれば、ニセ科学批判・批判であってもそれは実にまっとうな批判であり、どしどしやっていただきたい。それによって、ニセ科学批判も鍛えられ、適切に淘汰されるでしょうにゃ。

実際には、まっとうなニセ科学批判・批判というのは僕もあまり目にしたことはにゃーのだが、だからといって「ありえない」ものだと考えてしまってはいけにゃーよね。

エサというレトリックについて

リンクしたエントリのコメント欄での議論で、「ダメなニセ科学批判・批判者は、ウソツキや人殺しのエサにすぎない」という僕の言明を問題視する意見が見受けられますにゃ。
言論においては「敵の敵は味方」という話が必ずしも成りたつわけではにゃー。言論というのは最終的には1人が1つの立場を持つものにゃんからね。
ところが
カネ儲けとか権力の話においては、「敵の敵は味方」という構図が成りたつことのほうが多いんだにゃ。


ニセ科学でヒトは死ぬ」において、ニセ科学が権力(とカネ儲け)を目指す運動だと述べましたにゃ。ニセ科学が権力とカネ儲けを目的とするものである以上、「敵の敵は味方」が成り立ち、つまりはニセ科学批判・批判者はウソツキや人殺し(=ニセ科学推進者)の味方になっちゃうのよ。
実際に、ニセ科学批判に対する根拠のにゃーレッテル貼りをしているわけで、これを鵜呑みにする・鵜呑みにしたいヒトタチにとって、ニセ科学批判の言説に聞く耳をもたにゃーように促す効果はあるだろね。


ニセ科学の犠牲者といえるのは、実際にはガキ・治療困難な病気にかかったヒトなどの弱者だにゃ。その意味では、ニセ科学ってのは権力の問題なんだにゃ。
統制的秩序とか、自分が正しいヅラしたものを嫌う、という心性は僕もよーくわかるつもりなんだけど、秩序や「正しさ」というものが弱者を守るという側面を忘れてはならにゃーのだよ。ムラカミハルキのメタファーを使って言えば、「壁が卵を護る」こともあるわけだにゃ。
もちろん、秩序や「正しさ」がヒトを殺すことも往々にしてあることは確かであって、秩序や「正しさ」も盲信しろと言うつもりもまったくにゃー。
しかし少なくとも人前で発言するのであれば、個別にひとつひとつ自分で検討しなければならにゃーということですにゃ。何のために読み書きを習うのかってこと。

おわりに

このあいだ、カール・ポランニー「経済の文明史」を読んでいて、感銘したセリフがあったので紹介したいですにゃー。ポランニーはヒュームを参照しつつ

  • 権力の究極の源泉は意見である

と述べていますにゃ*3


現代社会において自然科学が一種の正統なる権力として機能しているということ、ニセ科学はそうした正統性を擬装して、不当な権力を目的とした運動であることを考慮すると、個別のニセ科学を具体的に論拠を示して叩いていく、飽かずに声をあげつづけることこそが、基本にして結論、アルファにしてオメガなのではにゃーのだろうか?


だからこそ、「まっとうな」ニセ科学批判・批判というものにも期待したいところにゃんがね。適正なニセ科学批判・批判は、ニセ科学批判にとっても資するところがあるでしょうからにゃ。とにかく、他者を批判する際の基本を踏まえてほしいものですにゃ。
ニセ科学批判の連中気持ちワリイ」という感覚がまるでわからにゃーってことは僕もにゃーんだ。変なのも確かにいるしにゃ。でも、虫の鳴き声レベルのことを言って自分が恥をさらしていてもしかたにゃーだろ?
おかしなニセ科学批判を見たら僕も叩くつもり。がんばろーね。

*1:僕の発言を丁寧に読んでくれ、解説の労をとってくれてアリガトウ>id:A_lie_sun , id:genb , id:totsuan , id:YAOsan

*2:「批判対象を具体的に示し」の部分は7:25ごろ追記

*3:ポランニーについては余裕があったらエントリでとりあげます