世間様から公共圏へ

世間と個人の尊厳


「「わたしたち」ひとりひとりが、みな互いに代替のきかにゃー存在である社会」「このような社会では「私はあなたに要求する」がでかい意味を持つといえますにゃ」それをムラ社会と言うんです。そのようなムラ社会が都市社会に取って代わられたのはこの国にあっても100年前のことです。


中略


現代日本の「世間様」とは、現実のムラ社会とグローバル・ヴィレッジが結び付いた、そのことを自覚さえしない日本語文化圏のことです。


ちがいますにゃー。
確かに各人が緊密に結びつけられて相互に影響がでかいところが「世間」の特徴のひとつにゃんが、それだけで「世間」となるわけではにゃー。

  • 「世間」というのは、「個人の尊厳」がないところ

これは基本にして必須の論点のはずだにゃ。阿部謹也も「世間とは何か」で言っていたぞ。


やふ掲示板以来のネット知己に、ypcpn8というメリケン在住の聖書律法主義者がいますにゃ。以前、彼がいっていたことなんだけれど、彼の属する教会のコミュニティにおいては、当然のように障害者に対するケアがコミュニティの成員によって行われているそうですにゃ。障害児の親は、そのコミュニティが存続する限りにおいて、障害児たる自分の子供の将来に何の心配もいらにゃーのだそうだ。
宗教ってものにはこういう一面があり、メリケンにおけるキリスト教の影響力をただの愚昧とみなすことは何重にも間違った認識だということにゃんね。


まあ、それはそれとして、この教会コミュニティは「「わたしたち」ひとりひとりが、みな互いに代替のきかにゃー存在である社会」の典型のひとつですよにゃ。そもそも教会とは個々の代替のきかなさを説き、前のエントリで触れた「死んだ子供」を扱う共同体ですにゃ。


個人の代替不能が個別利害の問題としてのみあるのがムラ社会の論理です。


そう、この箇所はソノトオリと僕も思うにゃ。「個人の代替不能が個別利害の問題としてのみある」のは確かにムラ社会であり世間様だにゃ。
しかし、
なぜ個人の代替不能を「個別利害の問題としてのみ」見るんだ?
「個人の尊厳」から導かれる代替不能とそのためのコミュニティという側面がありえにゃーとでも?


無論、教会コミュニティが理想的で抑圧ナシってことは多分にゃーだろ。ニンゲンとニンゲンが緊密に結びつけられたところには「うざさ」もついて回るだろうにゃ。
だけどさ
個人の尊厳を運営原則としたコミュニティは、ムラ社会とか世間様とはやはり違うものなのでにゃーのか? それは世間様と地続きであるかもしれにゃーが、同じものではにゃーだろ。


公共圏論とは、ムラ社会の論理に対してダメ出すもののはずです。当然、ローチもダメ出しています。人間的本質がその現実性において社会的諸関係の総体であることと、個人の実存や傷つく心や「退っ引きならぬもの」「肝に銘じて知るもの」が公共性に横車を押すことは、全然違います。表現者に自重を求めることとも、違います。「表現者は社会的諸関係に対する意識を要請される」というのは当たり前の話であって確立された「知識」です。誰しも認識している。


公共圏論とは、「個人の代替不能が個別利害の問題としてのみあるムラ社会の論理」にダメ出しするものであるのは確かだにゃ。ただし、「「わたしたち」ひとりひとりが、みな互いに代替のきかにゃー存在である社会」に対してダメ出しするものではにゃーぞ。個人の尊厳とは、ひとりひとりが代替のきかにゃー存在、かけがえのにゃー存在であるということだろ、少なくともタテマエ上は。
そして
「個人の実存や傷つく心」や「退っ引きならぬもの」「肝に銘じて知るもの」が公共性に横車を押すこと」を許容すべきでにゃーからこその公共圏だにゃ。

「死んだ子供」の復讐


死んだ子の歳を数えることは結構です。そもそもそれは、いかなる人類社会にも付いて回る「迷信」でしょう。ただし、「自由な社会」のオプションにそれを追加しないでいただきたい。そのオプションは「自由な社会」それ自体の価値を毀損する。それこそが「表現の自由を脅すもの」だからです。光市母子殺害事件差戻審の際の顛末に、私は辟易しています。価値の毀損は、個人における当為とコミットの喚起を、脱臼させます。


光市母子殺害事件差戻審の際の顛末には僕もまったくもって辟易三昧ですにゃ。まさに「個人の実存や傷つく心」や「退っ引きならぬもの」「肝に銘じて知るもの」が公共性に横車を押」しまくり。
いったいなんでこんなことになるのか?


「死んだ子供」という迷信が、いかなる人類社会にもついて回るものなのに、それを僕たちの「自由な社会」の前提であること、条件であることを認めにゃーからだ。
だのに
「「自由な社会」のオプションにそれを追加しないでいただきたい。そのオプションは「自由な社会」それ自体の価値を毀損する。それこそが「表現の自由を脅すもの」だからです。」
だってえ? それはオプションなどではにゃー。「死んだ子供」とはマージナライズされたものにとっては生きるうえでの前提ではにゃーのか?


約めれば、私たちの社会がムラ社会であることを免れないことと私たちがムラ社会を真っ平御免と考えることは両立しうるということです。レヴィ=ストロースが提出した人類学的知見において、そしておおよそ現在確立された「知識」において、いかなる社会もムラ社会であることは免れない。だからこそ、私たちはムラ社会を真っ平御免と考えるのだ、という話。そしてそれは、個人において当為を導き出す概念です。人が、立場と個別利害を超えて、何かにコミットする契機です。「価値」の問題とはそのことです。


はいはい、「私たちの社会がムラ社会であることを免れないことと私たちがムラ社会を真っ平御免と考えることは両立しうる」でしょうにゃ、確かにね。導き出された当為にコミットしてくれ。多いに結構。
でも、
僕たちがニンゲンという生き物である限り必然的について回る「死んだ子供」を実際にどうする? 
殺す? どうやって殺す? そもそも殺せる? これは神殺しにゃんぜ。だから殺しても生き返るだろ。まあ供養次第かもしれにゃーが。
それとも飼いならす? 飼いならすなら放し飼い? それとも檻にいれる? エサは? 人身御供でもするかい?
確かにヤスクニって厄介だよにゃ。


sk-44はさ、「真っ平御免」としか言ってにゃーよね。括弧にいれてるだけ。見たくにゃーだけ。「知識」をシカトして「価値」を言祝いでいるだけ。
それじゃ祟られるぜ。
光市事件の顛末ってのは、「死んだ子供」を見ないようにしてきたことの祟りだろ。
「死んだ子供」ってのは祟るぜー。道真や崇徳天皇どころじゃにゃーぞ*1


ローチは正しいんだにゃ、ただし大文字のシステムとして。
だから、レヴィ=ストロースを引っぱってこなければならなかったの。
自由科学にコミットするのなら、いっぽうで怨霊を何とかしなきゃならにゃーんだ、この国では。

価値が埋め込まれているから


都市のグローバルな流動性と東京地元民との間に生じる軋轢を深刻なトラブルへと発展しないよう捌いている立場の者として、また東京の公団核家族育ちとして申し上げるなら、「それでええんだろか?」それでいいどころか「私の存在はあなたにとって何の意味もありません。あなたの存在も私にとって何の意味もありません」が都市のルールであり都市のモラルであり、都市生活の素晴らしさであり、都市社会の価値です。100年は前からの世界的状況です。「路地」とその消失といった問題意識は私は大好きだし身近でもありますが文学のそれです。それが近代文学の意味です。近代文学の問題意識もグローバル化再帰性の波に晒されて溶解している、という話もお馴染みです。


レヴィ=ストロースが行っていた学問とはなんだったのか?
諸学には実のところその生まれたときに特定の価値を埋め込まれていることが往々にしてあるものですにゃ。近代に生まれた自然科学諸学には、西欧近代の価値が埋め込まれているという認識はおかしなものではにゃー。では民族学にはどのような価値が埋め込まれていたのか?
詩人オクタビオ・パスレヴィ=ストロースについて書いた批評から拾ってみますにゃ。


内省はキリスト教が考えだしたものだが、他者ではなく自分自身の道徳的審判に行きつくのが普通である。自省というのは、他人の立場に身を置き、辱められるか虐げられるかした人間の身になって考えることだ。それは《他者》のうちに自分自身を見、そうすることで自分を回復しようとする試みにほかならない。キリスト教は他者を発見しただけでなく、わたしという存在はあなたという存在があってはじめて生きるのだということも発見した。この、内省というキリスト教弁証法を、個人のレヴェルでなく社会的なレヴェルで反復したものが、民族学である。すなわち、他者のうちに人間的存在を見出し、相似ではなく相違のなかで自分自身を認識しようとするのだ。


「クロード・レヴィ・ストロース―あるいはアイソーポスの新たな饗宴」オクタビオ・パス P102


これは、パスが勝手に言っていることではにゃーんだな。「民族学は西欧の《悔恨》から生まれている」とレヴィ=ストロースも「悲しき熱帯」で言っていますにゃ。
価値が最初から埋め込まれているからこそ、価値を括弧に入れることができたのですにゃ。そして埋め込まれているその価値は「わたしという存在はあなたという存在があってはじめて生きるのだという」「内省」という価値だとパスは言いますにゃ。


しかし「私の存在はあなたにとって何の意味もありません。あなたの存在も私にとって何の意味もありません」を都市のモラルとして言祝ぐsk-44は、レヴィ=ストロースを自分に都合よく曲解していく。
その曲解の検討は後でするとして、「私の存在はあなたにとって何の意味もありません。あなたの存在も私にとって何の意味もありません」を都市のモラルとして言祝ぐことが僕には理解できるものではにゃー。都市には確かに好意的無関心というものがあるけれども、それは互いをニンゲンと認めているからだにゃ。「私の存在はあなたにとって何の意味もありません。あなたの存在も私にとって何の意味もありません」に個人の尊厳などどこにもなく、ここから帰結するのは女工哀史自動車絶望工場であり秋葉原ダガーナイフによる無差別殺傷、あるいは♀を「輸入」して強制売春させ、妊娠でもしたら強制中絶して血の一滴まで搾り取ることがほっておかれる、つまりは他者への恐るべき無関心と冷酷さが帰結することになるんでにゃーの。

根源的代替可能性

個々人が代替不可では社会システムは成立しにゃー。だから、ムラカミハルキのいうシステムというのは、個々人を代替可能なものとして取り扱い、または代替可能なものとして洗脳し馴化していきますにゃ。そしてシステムとして公正性と効率性を矛盾なく追求しうるのがローチの自由科学に基づくシステムであるといえるでしょうにゃ。ローチの自由科学はシステムとして正しい。


しかし
代替可能な存在であることは、ニンゲンにとって耐えられるものではにゃー。エリクソンアイデンティティということばで、「自分が代替不可能な存在であるという感覚」を表しましたにゃ。これがにゃーと、ニンゲンは生きていけにゃーんだな。
代替可能な存在であることを拒否するからこそ「死んだ子供」が祟るわけで。


「肝に銘じて知るもの」「退っ引きならぬもの」は代替不可ですにゃ。死においてもっともあらわとなるように、受苦(passion)とは誰も代わって引き受けることのできにゃーものだ。
そして、互いに顔の見える、相手の考えていることがわかるような関係性においては、相手の苦しみを自分が引き受けることができにゃーことに苦しみが生じてしまいますにゃ。苦痛にのたうつ家族や友人を見て、人は平静ではいられにゃー。これをcompassionという。普通は「深い同情」などと和訳されるけれども、ここは2007-03-22にならって「共苦」とでも訳しますかにゃ。
レヴィ=ストロースのいう真正なる社会とは、受苦・共苦による共同性と連帯が成り立ちうる社会、オクタビオ・パスのいう「内省」の通用する社会のことだにゃ。


そして共苦compassionとは何か?
目の前で顔のある存在が苦痛にのたうつとき、五感でその苦しみを感じるとき、僕らはアタマではなくカラダで想像する。
苦しむ者、死にゆく者の前にたち、目をみつめ、手を握り、声をかけ、カラダをさするとき、ふいに届く。
「目の前で苦しむのは、死にゆくのは、あなたは、確かにわたしである
 あなたの手を握り、カラダをさすっているのは、確かにあなたである」
と。
僕らは代替不可のまま、その存在を代替する。根源的な想像力によって。



都市においては、僕たちは知識として「あなたはわたしであり、わたしはあなたである」ことを知っていましたにゃ。田舎で食いっぱぐれ、あるいは何かやらかし、あるいは漠然と何かを期待して、身一つで都市にやってきた、わたしもあなたも同じような存在であることをお互いに知っていますにゃ。ルンペンプロレタリアートってそういうものだよにゃ。だから、相互に好意的無関心をつらぬけた。都市の好意的相互無関心って、もともとこういうもんだろうにゃ。
そして
都市のルンペンプロレタリアートの「あなたはわたしであり、わたしはあなたである」という、いわば機械的とでもいえる相同性というか連帯に、19世紀の革命の夢があったんだろにゃ。


まあ、確かに現在の都市は「私の存在はあなたにとって何の意味もありません。あなたの存在も私にとって何の意味もありません」になっちゃったのかもしれにゃーがね。それは言祝ぐようなものではにゃーよ。島宇宙を言祝いでどうすんの?
島宇宙ってのは、多様性・多元性が個々人にとっては何の意味も持たにゃーということにゃんぞ。


複雑性の縮減が多様性の縮減と直結することこそ私の憂慮することです。


自由主義の帰結といえる世界のマクドナルド化島宇宙化ってのは、実際には多様性の縮減だろうという指摘をきれいにスルーしたうえで、さらりとこんなことを言われてもにゃー(ぽりぽり
「私の存在はあなたにとって何の意味もありません。あなたの存在も私にとって何の意味もありません」ということ、つまり他者の存在による多様性が各個人において何も意味がにゃー多様性を言祝ぐのであれば、民族学のフィールドワークなんて面倒なことしてにゃーで、奪いつくし焼きつくし殺しつくして、戦利品を博物館に入れとけばいいだろ。大蟻食のいうとおり、みんななかったことになるだろにゃ。
「私の存在はあなたにとって何の意味もありません。あなたの存在も私にとって何の意味もありません」を言祝ぐ多様性というのは、「博物館にいろんな珍しいものがあります」という多様性でしかにゃーよ。


そういう多様性を拒絶するから、誇り高き唯物論者であるレヴィ=ストロースを引っ張り出して、受苦だの内省だの死んだ子供の祟りだの共苦だのといった宗教がかったオカルトをしゃべっているんだにゃ*2

呪術と科学:認識の二様式

以前のエントリで、「野生の思考」の第1章を僕なりに読んで以下のようにまとめましたにゃ。

  • 呪術=人間の知覚および想像力のレベルをねらった認識の様式。記号的であり、その把握する現実に人間性をもちこむことが容認され、または要求される。
  • 科学=人間の知覚および想像力のレベルを忌避した認識の様式。概念的であり、その把握する現実に対して全的に透明であろうとする。


そして「呪術と科学を対立させるのではなく、この両者を認識の二様式として並置する方がよいだろう。」とレヴィ=ストロースは言っていますにゃ。
さて
この呪術と科学の定義は、私見ではローチの「表現の自由を脅すもの」と「自由科学」とにキレーに対応しますにゃ。ローチは両者を対立するものとみなしているけれど、僕はレヴィ=ストロースにしたがって両者を並置させたいと考えますにゃ。なぜなら、呪術/科学は、真正な社会/非真正な社会にそれぞれ対応するものだからですにゃ。僕たちは、真正な社会/非真正な社会という二重の社会を生きなければならにゃー。二重の社会については、以前にもリンクしたものを引用して再リンクしますにゃ。


いまでは歴史学が明らかにしているように、近代以前の人々は、けっして村や地域のことしか知らずに暮らしていたわけではなく、けっこう広い世界と交流しながら日々を過ごしていた。(中略)/そのとき、自分の暮らすローカルな世界での行動と、その外の人々と付き合うときの行動は、はっきりと使い分けられていたのではないだろうか。自然や、そして村人たちと共有されているローカルな世界では、論理的には説明できない考え方や習慣も展開した。しかし、外の世界の人々と付き合うときには、一定の論理性、合理性が貫かれていた。たとえば藩や幕府にあてた村人の書いた古文書では、きわめて論理的に自分たちの主張が書かれているし、商品作物の取り引きなども合理的におこなわれている。(中略)/すなわち、論理性と非論理性をあわせて多層的に受け入れていく精神は、論理性と非論理性の折り合いをつけながら展開する、ローカルな世界を共有している人々の間で成立するものであって、すべての場面で適用されるべきものではないのである。だから、この世界を共有していない人々と交流するときは、むしろ、合理的、論理的な方法が用いられた。/この関係は、今日の私たちの日常でも受け継がれている。たとえば一番小さなローカルな世界である家族や、友人との世界では、私たちは論理的な付き合い方だけをしているわけではない。私の暮らす群馬県上野村のように、村とは自然とここに住む人間の共有された世界だ、という感覚が残っているところでも同様である。このように、小さな世界を共有している人々の間では、今日なお、論理性と非論理性が、多層的に共存している


[『「里」という思想』166-167 頁]
http://d.hatena.ne.jp/oda-makoto/20090326#1238050154 より孫引き*3


ムラ社会と公共性、というトピックに興味のある向きは、絶対に損はにゃーのでリンク先に跳んで全文を読んでくださいにゃ。
さて
リンク先で小田亮氏も指摘しているけれど、村人のこうした意識の使い分けは、ややもすると「ウチ/ソト」という世間の処世と見なされてきたけれど、ここに「真正性の水準」という概念をもってくることにより、多元性が現出することとなるってのもポイントね。

レヴィ=ストロースについていくつか


普遍的価値とは、万人がコミットして然るべき概念ということです。それをこそレヴィ=ストロースは懐疑しました。もちろん、彼は、普遍的価値を掲げる社会の構成員として、普遍的価値にコミットしている。シラク肝入りのケ・ブランリにも老身を押してコミットしました。ただしそれは、彼の明晰な頭脳が叩き出した結論から導き出されたコミットではない、ということです。当然、処世や渡世という話でもない。この種の乖離は、現代の知的世界にありふれている。処世や渡世として、また知的不誠実として、小谷野先生がよく指摘していますが。


いや、レヴィ=ストロースは呪術思考と科学思考が併置するものだといってるんだから、処世や渡世や知的不誠実でもなんでもにゃーでしょ。何の矛盾もにゃーわけで。


レヴィ=ストロースが言う迷信とは、「価値」を括弧に入れることが指し示す結論です。「自らを科学者と規定」する人類学者の彼はその結論を怖れなかった。 tikani_nemuru_Mさんが仰るところの「オカルト」とは、個人の実存の問題であり「退っ引きならぬもの」「肝に銘じて知るもの」の問題です。これは全然違います。


違わにゃーってば。
ここでレヴィ=ストロースの言っている迷信ってのは、「個人が総合的な社会に抹殺されることを防ぐ、多数の小規模な帰属集団や零細な連帯組織などであり、また総合的な社会自体が没個性の部分品的な原子に分解して雲散霧消するのを防ぐ組織でもある。」と著書で明確にいっており、その箇所を以前にも引用しているだろにゃ。そして、引用部の直後に真正な社会の話をしているのだにゃ。
つまり、「迷信」とは真正な社会とそこで実現されるもののことをいっているということになりますにゃ。
だいたいさ
レヴィ=ストロースが価値を括弧に入れていられるのは、オクタビオ・パスいうところの「内省」という宗教価値が民族学に最初から組み込まれているからだしにゃ。もちろん、ローチの自由科学にも組み込まれている価値がありますよにゃ。



約めれば、私たちの社会がムラ社会であることを免れないことと私たちがムラ社会を真っ平御免と考えることは両立しうるということです。レヴィ=ストロースが提出した人類学的知見において、そしておおよそ現在確立された「知識」において、いかなる社会もムラ社会であることは免れない。だからこそ、私たちはムラ社会を真っ平御免と考えるのだ、という話。そしてそれは、個人において当為を導き出す概念です。人が、立場と個別利害を超えて、何かにコミットする契機です。「価値」の問題とはそのことです。


違うにゃー。
レヴィ=ストロースがいっていたのは、ムラ社会とシステムの二重の社会を僕たちは生きなければならにゃーということなんだにゃ。呪術思考と科学思考は並置されるもの、ニンゲンの知覚と想像力のレベルに沿うか・そこをはずすかは共存するものなのですにゃ。何度でもいうけど、「私たちはムラ社会を真っ平御免と考えるのだ」ではすまにゃーんだよ。僕だってヤスクニは真っ平御免だけど、真っ平御免ですむ話とは思ってにゃーぞ。


――たとえば引用部において、レヴィ=ストロースが言っているのは、ルソー的な普遍的価値を私たちは懐疑せよ、という以上のことではありません。ムラ社会でない社会は過去にも未来にもこの世のどこにも存在せず、社会は自由と拘束のセットを必要としており、私たちが野蛮な迷信と規定してしまうそれは、時に正当で合理的であり、人類の社会資源である、と。言うまでもなく、彼はヘーゲル的な歴史段階論をこそ否定しました。


えええ? レヴィ=ストロースはルソー大好きにゃんぞ。「悲しき熱帯」最終章でも「ルソー、われらの師。ルソー、われらの兄弟。」とマジにいっているし。
「悲しき熱帯」最終章から引用するにゃ。


これらの問題*4を検討しながら、私は、ルソーがそれらに与えたもの以外には答えがないのではないか、と思わざるをえない。


中略


あらゆる秩序を無に帰した後で、新しい秩序を築くことを可能にするような諸原理をどのようにして見出せるのか-----われわれはそれを、ルソーのお蔭で知るのだから。
ルソーは、自然人を理想化するというディドロの過ちを、決して冒しはしなかった。彼は、自然状態と社会状態を混同するようなことはしていない。彼は、後者は人間固有のものであるが悪を伴う、ということを見抜いていた。残された問題は、これらの悪が、それら自体、社会状態に固有のものかどうかを知ることにある。それゆえ、悪弊や犯罪の背後に、人間社会の確乎たる基礎を探るべきなのである。


「悲しき熱帯2」中公クラシック版 P382〜383

世間のリサイクル


伝え聞く一澤帆布工業レベルのお家騒動など、現実でも昼ドラでも、幾らでも転がっている。そのことと表現の自由と、何の関係がありますか。「人間的本質は、個々の個人に内在するいかなる抽象体でもない。人間的本質は、その現実性においては、社会的諸関係の総体である」という話を私は退けるものではありませんが、それを退けるから表現の自由です、と申し上げました。プロの共同作業において民主主義は存在しない、などというのは当然の話です。だからそれと表現の自由といかなる関係が。


レヴィ=ストロースのいう「悪弊や犯罪の背後にある人間社会の確乎たる基礎」とは、互いに代替のきかない関係とシステムの二重性にあり、さらにいえば小集団への帰属と承認であると考えますにゃ。ここで世間なるものが絡んでくるんだにゃー。


「だからそれと表現の自由といかなる関係が。」
公共圏論として関係がありますにゃ。


「世間」は古来我が国の国家体制の下部機構として組み込まれたことはなかった。人々が「世間」を世の中として謳ってきたものは国家でも社会でもなく、人々が長い間育んできた原社会とでもいうべきものであった。おそらくそのはじめは地域の神々を中心とする信仰の場であったと思われる。いずれにせよ、人間が織りなす関係の世界であった。そのはじめは自然界と深い関係をもっていたと考えられる。


中略


国家形成が進み、都市化が進展し、近代化が始まると「世間」も変化を迫られた。なによりも自然環境の変化によって「世間」のなかで人間関係が強く打ち出されることになった。国家形成も都市化も近代化も必ずしも人々の生活にすぐになじむものではなかった。人々はこうした動きの中で抵抗の意志を秘めて「世間」意識を維持し続けたのである。「世間」は人と人を結びつける原基的意識形態であったからである。「世間」のなかにはときには政治の中枢にすりよるものもあったし、その近くで利益を享受するものもいた。しかしいずれの場合も制度そのものになることはなく常に制度の外に位置していたのである。


中略


「世間」は長い間現状を良しとしてきた。変革は望まれなかった。「世間」の現状がどのようなものであるかさえ問われなかった。それは人々の身体に付着していたからである。しかし「世間」が対象化され、客観的に分析しうるようになるとすれば、「世間」を変え、それを通して社会や制度を変えて行く道は開けるであろう。「世間」は柔らかな構造をもっているからである。


「教養とは何か」阿部謹也 P178〜179


多分、sk-44と僕の公共圏のイメージで1番違うのは、僕が中間団体を重視する点にあるような気がしますにゃ。そして、この国で中間団体を維持していくとなれば、「世間様」的なるものをどうするかを考えなくてはならにゃー。
そもそも世間とは「人々が長い間育んできた原社会とでもいうべきもの」「人と人を結びつける原基的意識形態」なのであり、レヴィ=ストロースのいう「悪弊や犯罪の背後にある人間社会の確乎たる基礎」といえるものですにゃ。こういうものに対し「真っ平御免」ではすまにゃーので、リサイクルしたいのですにゃ。
「世間様」の恐ろしさと凶悪さはちっとはわかっているつもりにゃんが、それでもその「柔らかな構造」をあてこんでいくしかにゃー。「死んだ子供」をそこに封じて、公権力の領域に「死んだ子供」がでてこにゃーようにしなければならにゃー。公権力の領域においてはローチの自由科学でいくべきなのですにゃ。

公共圏についての個にゃん的イメージ

  • 1)私的領域

家庭が典型。生存や再生産という価値が組み込まれている。ただし、いわゆる拡大家族はガンガン認めるべしと考えるし、DVや児童虐待への介入もするべきと考えるので、家庭といえども純然たる私的領域とはなりえないとは思う。

  • 2)公共圏1

ハーバーマスによれば、公共圏とはもともと私的領域の拡大したもの。ここでは、会社組織や地域共同体、あるいはゼミやサークル、宗教団体・教会、NPO、NGOなどの中間団体を想定している。それぞれの団体固有の価値が組み込まれている。
家庭ではないが、個人が直接所属し、個人を包含し、個人を抑圧もすれば守りもするもの。昔のムラ社会とちがって、現代ではある程度自分の所属する共同体を選ぶことができる。
それぞれの団体の性格にもよるが、内部での諸個人による討議はあってしかるべき。

  • 3)公共圏2

各中間団体相互での討議の場。マスコミなどの領域。オープンなネットにおける議論は基本的にこの圏域。ハーバーマスのいう「近代というプロジェクト」という価値が組み込まれている。この圏域で討議する諸個人は基本的には庇護されない。
しかし、公共圏1との回路は開かれているべき。

  • 4)公的領域

公権力の領域。諸価値に対して中立といいつつ、人権という価値が組み込まれている。公共圏2との回路は開かれているべき。


1)から4)にいくにしたがって、レヴィ=ストロースのいう「真正性の水準」は低下していきますにゃ。
1)〜2)においては、呪術思考、つまり人間の知覚と想像力をねらった思考が大手をふるうのは仕方にゃーでしょう。だからといって科学的思考が排除されるべきでもにゃーが。


3)においては、基本的には呪術思考があまりでかいツラをされては困るのだけれど、感情的なものを排除しきれるものでもにゃーかも。呪術思考はなるべく2)までに封じておきたいけれどね。ただ、この領域においては呪術思考に対する対抗言論も期待できるでしょうにゃー。
ここでは、ローチの自由科学のルールがベースとなるべきでしょうにゃ。


4)において、呪術思考、つまり「死んだ子供」に出てこられては困る。公的なるものが、公的権力の領域しかにゃーから、「死んだ子供」が公権力の領域にしゃしゃりでて、裁判で被害者の感情を慰撫するなどという話になるのだにゃ。「心の問題」で政治が振りまわされることを防ぐために、公共圏という緩衝地帯が必要になるわけだにゃ。
ここでは、ローチのいうとおり、「心の問題」は排除されるべき。


「世間」とは何か (講談社現代新書)

「世間」とは何か (講談社現代新書)

「教養」とは何か (講談社現代新書)

「教養」とは何か (講談社現代新書)

悲しき熱帯〈2〉 (中公クラシックス)

悲しき熱帯〈2〉 (中公クラシックス)

野生の思考

野生の思考

*1:強化外骨格「霞(かすみ)」を参照のこと

*2:オカルティストである僕が疑似科学を批判するのは、疑似科学がダメなオカルトだから

*3:内山節の著書では「貨幣の思想史」は読んだ。面白い本であったし著者の力量も感じたので、この本も読むつもり。とりあえず今は孫引きでご勘弁くださいな

*4:西洋の罪とラテンアメリカ社会、たとえばアステカ族の「邪悪さ」などをめぐる考察