ホメロス『オデュッセイア』

ホメロス オデュッセイア〈上〉 (岩波文庫)

ホメロス オデュッセイア〈上〉 (岩波文庫)

 ちょっと前に買って本棚に積んだままの『啓蒙の弁証法』だとか『ミメーシス』をパラパラめくっていたら、どっちの本にも『オデュッセイア』について触れている文章があった。ということで、いいきっかけだし取りあえず『オデュッセイア』を読んでみることにした(ついでに『啓蒙の弁証法』所収のオデュッセイア論「オデュッセウスあるいは神話と啓蒙」も併せて読んでみた)。

 物語の大枠としてこの叙事詩はどっからどう見てもモロに貴種流離譚なわけで、本当のところそれ以上に他に言うべきことは何も見つからないんだけれど、もうちょっと視点を絞ってみると、オデュッセウスという英雄である一人物を巡る負債とその弁済の一部始終を描いた、ある種の交換の図式を形づくる物語という像が浮き上がってくるように思う(……という点は、実はすでにホルクハイマー/アドルノも指摘している)。
 オデュッセウスのその後十年に及ぶ苦難に満ちた漂泊の旅は、大地の神ポセイドンの眷属ポリュペーモス(一つ眼の巨人)に打撃を与えた結果、その報いとして逃れがたく決定づけられている。オデュッセウスは返済(贖罪)義務を負う者として故郷イタケーへの帰郷を望みつつ地中海の島々を流浪し、果ては冥界にまで船を漕ぎ続けねばならない境涯に(さながら自転車操業に喘ぐ経営者みたいに)陥ることになるわけだけれど、しかし他方で彼は、イタケーの邸において彼の帰還を待ち続ける妻ペネロペイアーを囲む無法な求婚者たちの前には、その暴令な振る舞いの数々に死をもって贖いをつけさせる暴虐な復讐者(債権者)として姿を現わすことになる。大筋として見れば、オデュッセウスの帰郷の物語はイタケーという最終的な決済の場へと向かって幾重にもあざなわれた経済的諸連関の束を形づくりながら進行していく、価値交換の連鎖のとどまるところを知らない流れのように読まれることになる(魔女カリュプソーの棲むアイアイエーという島に最大七年の足止めを食らったくだりはその意味で、オデュッセウスの冒険において数々彼を襲った危難の中でもとりわけもっとも危うい難局を示していたように思う。オデュッセウスの漂泊においては彼の死すらがポセイドンに対する負債のなにがしかの返済を約束するものだったとするならば、そこにおいてもっとも避けねばならない事態とは、以上の意味での交換過程の流れの停止、現状以上にも以下にも動くことのなくなった流れの停滞にこそあるだろう)。
 しかしまた、物語の大枠としてはこの叙事詩をそのようなものとして把握してもいいかもしれないけど、そこで起こる数々のできごとを個別に、もっと詳細に見ていくと、はなしは決してそんな単純なものじゃない。(できごとの中でもっとも見やすく交換の形態を形づくっているよう思われる)ロートパゴイ(蓮食い族)の集落の蓮の花だとか陽の神の所有する家畜だとかのオデュッセウス一行に対する関係は、単純に贈与とか収奪が形成する等価報償の関係に還元することはできないだろう。あるいは見方をずらして、オデュッセウスの冒険を通じて彼を援助する女神アテネこそが、オデュッセウステレマコスの親子の道程において、彼女への貢ぎ物の対価としての寵愛を終始変わらず授けているという見方も可能かも知れない(さすがにこれは牽強付会が過ぎる気もする。だいいち、視点の取り方が大雑把すぎて、何も言っていない等しい)。
 ともあれ、イタケーからトロイアへと出征し、戦争で勝利をおさめながらもさまざまな試練と紆余曲折を経て、ようやく故郷に帰還することの叶ったオデュッセイアの交換的踏破の円環は、つまるところ、収支プラマイ0の場所に落着することになる。言ってしまえばこれは(素朴にワクワク楽しみながら読む限りでは)貴種が乞食さながらにまで身をやつしながら、再び土地の首領の地位をめでたく取り戻すというだけのお話で、オデュッセウスの交換経済には資本主義的な過剰(自己増殖する資本に相当する契機だとか真の恐慌の可能性みたいなもの)は、当然ない(紀元前の叙事詩にそんなものを見ようとするほうがどうかしてる)。

 
 ところでホルクハイマー/アドルノオデュッセイア論における読解の優れているところは、このオデュッセウスの物語の中の交換関係の図式に、まったく別の次元の交換を見いだしてそのモメントの逐一を丹念にすくいあげてみせてくるところにある。彼らがそこで取り上げるのは「犠牲」という、やはり交換を核心に据えた概念だけれど、ここで取り沙汰される犠牲の問題はもはやそれじたいとしては(一義的には)オデュッセウスと他者とのあいだの直接的な交換を形づくるものではない。端的にそこでオデュッセウスは、外的な自然に対する犠牲の儀礼を(理念的には)いっさい停止し、あらゆる野蛮な犠牲を自己の内面へと集約し解消し(否定神学的に内面化し)、その結果掴み取られることになる「諦念」の位相において近代的市民の原像を弁証法的に形成するという、特権的な形象として描かれることになる(自己をみずから危機に曝した者だけが自己を神話的蒙昧から立ち上げることができる。ってことらしい)。すなわちホルクハイマー/アドルノはここで明確に、神話的な互酬関係(供犠と神々の返報、罪科と贖罪、みたいな交換関係)の循環を解体しつつ保存する(「啓蒙の弁証法」)、近代的主体の契機の古代における萌芽をそこに見いだすことになる。まあ普通に物語として『オデュッセイア』を読んでいてもなかなか出てこない着眼だと思う(ソノ発想ハナカッタワ)。

もし、交換が犠牲の世俗化であるとするならば、犠牲自体はすでに合理的交換の呪術的図式であったと思われる。つまり、それは神々を支配するための人間の企てであって、神々は、まさに神々に対して捧げられる崇拝のシステムによって、その座から追い落とされるのである。(112頁)

 ホルクハイマー/アドルノの全般的な主張が妥当なものなのかどうか、問題が馬鹿でかすぎて判断する能力はないけど、『オデュッセイア』という「物語」のアレゴリカルな解釈としてそれを「小説」の読みとは別個に括弧に入れて読むかぎりで、これはとても面白く、またよく出来た読解だと思う。

啓蒙の弁証法―哲学的断想 (岩波文庫)

啓蒙の弁証法―哲学的断想 (岩波文庫)