「一投に賭ける」を読む。

一投に賭ける  溝口和洋、最後の無頼派アスリート

一投に賭ける 溝口和洋、最後の無頼派アスリート

 

 友人から借りた一冊。読む前から事前情報をある程度知ってたこともあって、期待以上に面白いという感じはなかったかな。コーチをつけず、独学でやり投げという動きを分析し、自分の身体を極限まで鍛え上げた結果、一時的にではあっても世界最高峰の記録を打ち立てることが出来た、という実績について一人称で解説するような内容となっている。ただ、正直な感想としてはもっとロジカルに競技を分析している人もいるんじゃないかな、という感じ。やはり、現代だと為末大のようなアスリートの方がロジカルかつ定量的な分析で自分の競技に向き合っていると思う。

すごく気になったのは、しきりに日本人と西洋人、という対比を使って表現する点。「日本人は下半身がしっかりしてる」みたいな表現とかを多用するんだけど、いわゆる主語が大きすぎて粗雑な分析に聞こえてしまう。彼なりに自分の感覚を何とか言語化してなるべく論理的に説明しようと努力しているのだろうけど、やはり競技者であって研究者とは言い難い。起業して成功した社長の「俺語り」を抜けだせていない。そして「西洋人は力任せに投げるだけで頭を使っていない」みたいな差別的な言動も多く、自分以外の競技者やメディアの思考だったり、ひいては社会全体での自分のアスリートとしての役割や価値について見えていない、自己にしか向き合わない独りよがりな競技者だったんだなという感触も残った。最終的には「俺は競技者の体に触れると調子が良いか悪いかが見える」みたいなアレなことも言っちゃってるし…。「タバコよりも遥かにやり投げの方が体に悪い」とか「生活のすべての動きを競技に応用できないか考えていた」とか「記録を残すために体を壊すことも厭わない態度とオリンピックなどのメダルを目指してスケジュールや体調を管理する態度は相反する」みたいな共感できるメッセージも多いのだが、生理学的に明らかにオーバーワークなトレーニングを推奨してるし、彼の理論が彼の大好きな「日本人」であれば応用可能かというと全くそうと思えず、再現性の低い、個別の体験談に過ぎないよなというのが最終的な結論。

「小説禁止令に反対する」を読む。

最近の日本文学からちょっと遠ざかってたなと思って読んだ一冊。そして、久々にいとうせいこう作品読了。創作論・SFものとしては面白かったけど、小説としてはちょっと不完全燃焼だったかな。2030年代の日本を舞台に、小説という形態の文章を作ることを禁じられた国で、随筆と言う形で小説がいかに詐欺的な文章かと否定しつつも自分の文章自体が小説的になってしまうという内容。色んなメタ的な表現をする実際の小説を取り上げ、逐一糾弾するのは面白いのだが、著者自身の身の丈に起きている事態というのがうまく読み取れなかった。いとうせいこう自身をモデルとしている男性が死の淵にいるというのは理解できたのだけど、最後は胡蝶の夢みたいなラストだったのかな?気になったフレーズは以下の通り。
・「書き手こそ、自分の小説の最初の読者だから」
・「自分が出てくる小説を、登場人物自身が読んでしまうとは」
・「読者は作中人物になり、作中人物は読者の立場に置かれる」
・二葉亭指名が語り手の身分を示さない語尾を作るにあたって、
敬語などの上下関係を感じない「過去形」で語る手法を作った。これは、当時の読者としては「どこに作者がいるか読者はまるでわからず、座標軸を見失ったような感覚」だったらしい。

統計学が最強の学問である」を読む。

「実践編」「数学編」「ビジネス編」とか色んなバージョンがあるうちの一番基本形なのかな。テキストマイニングの仕事で若干触れるようになってきた機械学習とかディープラーニング、過去に大学の必修で受講した社会調査法、映画のマネーボール(セイバー・メトリクス)とかマンガの「僕はまだ野球を知らない」とか、統計学に関するこれまでの知識や関心が高まってきたので本作を読んでみた。すげー面白かった。著者がこの本を書いた時、自分と同年代位だったというのがまた凄い。無味乾燥な統計学の数式を紹介するのでなく、フィクションだったりビジネスの現場だったり統計学村に住む統計学を使う人々の生態だったり、結構下世話な筆致や大げさなタイトルもあって派手で読みやすく、楽しめる。
あみだくじの必勝法という、無意識に選択する何気ない行動が統計的に分析するときちんと説明できる、という分かりやすい例から「統計リテラシーのない者がカモられる」ことを初っ端から説明してくれて惹きこまれる。個人の経験とか勘みたいなものを重視して無駄な熟考するより、統計学を使って最善最速の正解を出す方が良くない?というシンプルでぐうの音も出ない説明でひれ伏した。統計的に有意な差をきちんと踏まえて行動するという、生きてく上で指針にしたい考え方だ。著者の専門は疫学という領域になるそうだが、19世紀のロンドンで流行したコレラに対するスノウという人物の調査で、「知性も見識も十分にある彼らが知恵を絞って出したアイデアも、時間と労力をつぎ込んだ事業も、ムダか、もしくは有害だったのだ」という事態になりかねない。自分の専門や知識すら過信せず、データと向き合う姿勢が必要だと痛感。仕事だけに関わらず、政治や医療や教育の現場でも、こういったきちんとした根拠に基づく意志決定を徹底しなければいけないと改めて納得した。まぁ、近年の政府や官僚はその判断となる貴重な一次データを積極的に廃棄したり改竄したりしてるから目も当てられない状況であるが。
あと、基本として本書は図解や索引などの体裁がとても整っており、非常に親切で初学者にも優しいのがポイント。
とりあえず専門用語も多数なので、忘れないようにメモっておく。
・「「心臓病を発症するか否か」のような二値の変数と多様な調査項目の関連性を見るといった解析には、ロジスティック回帰という分析方法が一般的に使われる」
・分散処理するためのオープンソースJAVAフレームワークであるHadoop
オープンソースの統計解析用言語であるR言語
・「適切なサンプリングさえすれば、必要な情報を得るためのコストが激減する」「まず正しい判断に必要な最小十分のデータを扱うこと」を推奨する
・サンプリングした結果の標準誤差が0.5%だったとすれば、全数調査をした結果とほとんど変わらない。
・「果たしてその解析はかけたコスト以上の利益を自社にもたらすような判断につながるのだろうか?」という視点。
ナイチンゲールが挙げた最も大きな業績は、兵士の死因を集計して戦死の内訳を明らかにしたこと。
・「因果関係を考えない統計解析」では有効な施策が実施できない。意味のあるクロス集計をすべき。そして、因果関係には向きがあるので注意して、「フェアな比較」を行う。例として、「ゲームと少年犯罪の関係」など。
・その時、「誤差を考えない資産は皮算用」となる。p値5%以下を目指すべき。これを推し進めたのが統計学の父フィッシャーの功績。彼は自然科学だけでなく、「誤差」のある社会的事象も科学で扱うことを可能としたたため科学哲学を揺るがし、オカルトやペテンも統計学的手法で見破るための思考法を与えた。「実験計画法」という、農場の生産性を挙げるための手法として考えられた。
・得た結果はとりあえずA/Bテストで小さく試していき、有効な施策を比較していく。その時もカイ二乗検定でそれが「統計的に有意な差」なのかを検証する。
・「ミシン2台買うと1割引き」というキャンペーンで大ヒット。
・とはいえ、倫理的に許されない実験はダメ。ナチスの人体実験みたいな。「煙草と肺がんの関係」を調べるために被験者に煙草を吸わせ続けるとか。微妙なのが、「一部の貧困家庭のみに家賃の補助券を配る」みたいなもの。もらえる家庭はずるい!とか却って働かなくなるだろ等の色々反発も起きる。
・「揃えきれていない条件」にどこまでこだわるべきかは考えなければいけない。厳密性にこだわると意志決定が出来ない。
・一般化線形モデルと回帰分析。
・「全集団同士での単純比較は、その内訳となる小集団同士との比較の結果と矛盾することもある」
・オッズ比を用いるロジスティック回帰分析によって、
2変数間で「◇◇で○○だと、事象が起きる確率が××倍になる」
・「相関とは、「一方の値が大きいときに他方も大きい」という傾向を示しているだけで、「一方の値が大きいから他方も大きい」かどうかという因果関係とはまったく別物」
マーケティングの現場で生まれたデータマイニング。バスケット分析。amazonの関連商品も、カイ二乗値を使って関連性の強い商品をレコメンドしている。
・椅子と机を区別するための分析。データマイニングと回帰分析。
シェイクスピアは平民の割りに貴族社会の描写がうまく、同時代にいきたフランシス・ベーコンの変名だったんじゃないか?という分析がされたらしい。形態素解析テキストマイニングした結果、特に共通した特徴はなかったらしいが。
テキストマイニングの結果はカスタマーサポートの問い合わせ内容に使われてきた。「オペレータの報告書や問い合わせのメールに対して頻出後の集計やクラスタリングを行えば、「どのような内容の問い合わせが多いか」が明らかになる。それさえわかれば対応マニュアルやFAQの整備によってオペレータの人件費を削減できる」
計量経済学者は演繹的に統計学の手法を用いる。疫学では帰納的。
・迷惑メールの判別に威力を発揮するベイズ統計
エビデンスの確度に注意すべし。「系統的レビュー」や「メタアナリシス」は最高のエビデンス。専門家の意見や基礎研修は最下位。
エビデンスやデータや論文に対するアクセスはめちゃ簡単になっている。皆もきちんとしたデータを使って「不毛な議論」を脱出しよう。

目の見えない人は世界をどう見ているのか

伊藤亜紗史の著作2冊目。これも柔らかい文体で凄く良かった。難しい理論や厳密なデータはほとんど出てこない。基本は著者と交流がある視覚障碍者の方々と接する中で味わった色々な知覚の面白さを紹介するような形で語られる。
・「美学とは、芸術や感性的な認識について哲学的に探究する学問です。もっと平たく言えば、言葉にしにくいものを言葉で解明していこう、という学問です。」
・「四本脚の椅子と三本脚の椅子の違いのようなものです。もともと脚が4本ある椅子から一本取ってしまったら、その椅子は傾いてしまいます。壊れた、不完全な椅子です。でも、そもそも三本の脚で立っている椅子もある。脚の位置を変えれば、三本でも立てるのです。」
・「「意味」とは、「情報」が具体的な文脈に置かれたとき生まれるものなのです」
・障害者と健常者との関係について 「だんだん見えなくなってくると、みんながぼくのことを大事に扱うようになって、よそよそしい感じになって、とてもショックでした」(中略)福祉的な態度とは、「サポートしなければいけない」という緊張感であり、それがまさに見える人と見えない人の関係を「しばる」のです。」
「大岡山はやっぱり「山」なんですね」物理的に同じ場所にいても、視覚障害者がキャッチできる情報が健常者と異なるということ。逆にラーメン屋の看板を観てお腹がすくように、「視覚的な刺激によって人の中に欲望が作られていき、気がつけば「そのような欲望を抱えた人」になっています」「「意識にのぼってこない情報を追わない」という考えに至るまでの2,3年は、難波さんにとって、視覚を持たない新しい体がとらえる「意味」を、納得して受け入れるまでの期間だったという期間だったと言うことができるでしょう」
・「2006年に厚生労働省が行った調査によれば、日本の視覚障害者の点字識字率は、12.6%」
視覚障害者は話し上手な人が多い。友達の輪に入りたい時に話術で人を笑わせることが求められる。そのため、ラジオの語りを勉強したりする人もいる。

「こまねずみ常次朗」を読む。

吉本浩二作品としてこれも読んでみた。全く内容を知らなかったけど、青木雄二原作ということでかなり「ナニ金」っぽい仕上がりの作品だった。人や会社の名前がその人まんまな設定とかね。舞台は博多で、借金してバーを経営していた常次朗が利用していた日かけ屋に騙されてさらに多額の借金を背負って風俗店を経営するも立ち行かずマグロ船に乗って借金返済。その後自身も日かけ屋となって難しい債務者から回収を行うという内容。他の青木雄二マンガと同様、お金に関するアンチパターンとして人生の教科書としておきたいマンガ。
序盤は吉本浩二よりは青木雄二作品という感じで絵柄も寄せてる感じがするが、後半になるにつれて吉本浩二タッチが強まっていき、キャラが生き生きとする描写が増えたように感じた。ラストはちょっと打ち切り感強いけど。

細野晴臣 録音術 ぼくらはこうして音をつくってきた」を読む。

録音に興味持ってこの本も読んでみた。細野晴臣の70〜90年代の目まぐるしい機材の変遷があったアルバムを中心に、それぞれのアルバムを担当したエンジニアの証言や、著者自身が集めた資料やレコーディング地のトラックシートなどの情報を基に、どのように作品が作られたかを振り返る。楽曲のクレジットも勿論エンジニアやスタジオの詳細部分まで明記しており、きちんとアーカイブしようという気概が感じられて素晴らしいと思う。
ミュージシャンとしての細野晴臣の作品自体にはそれほど思い入れはなかった。学生時代、「hosono house」はシュガーベイブのような感触があって好きだったけど、その程度。本書に登場するエンジニアも日本を代表するようなスーパーな人達なんだろうけど、全然知らんかった。
豆知識としてメモったのは以下のような点。「フィル・スペクターがゴールドスタースタジオで生み出した「ウォール・オブ・サウンド」(中略)それは、エコー・サウンドを駆使したミキシング処理というよりも、使用していた狭いスタジオの音響特性によって、偶然生まれた産物だったということ。20人近いミュージシャンが一度に演奏したため、本来は拾ってはいけない楽器の音を複数のマイクが拾ってしまった。そのリーケッジ()かぶり音が、エコーにも似た独自の迫力あるサウンドを作った」「スタンウェイはクラシックのピアノなので、どうしても音が甘い」「レコーディング用のリハはまったくしてないと思う。スタジオで曲や音楽を作るのが常識だったから、そのころは。ヘッド・アレンジってみんなが言い始めた時期で、あの石川鷹彦でさえ、譜面書いてこなかったね。(中略)コード譜だけでキメも何も書いてこなかった。「書いちゃってもできねぇだろう」みたいなところもあったかな」「記憶に残ってればいいんですよ、音楽が」「エンジニアには2タイプあって、音を前にして、すぐにイコライザーをいじるタイプと、イコライザーをいじらずマイキングするタイプがありますが」「倍音を使わないと音が「ふくよかさん」にならないの」

「ボヤージュ・オブ・タイム」を観る。

テレンス・マリックの圧巻の映像美体験。「ツリー・オブ・タイム」でも随所に挟み込まれていた、生命や地球の顕微鏡レベルのミクロから衛星中継レベルのマクロまでの壮大な映像の延長線にある作品。この映像にブラッド・ピットケイト・ブランシェットがナレーション(というかポエム)を充てていく。
評価がイマイチなのは、やはり物語性が薄いところだろう。ポエムもメッセージ性が薄く、何となく雰囲気だけしか掴めない感じはある。映像美だけだったらナショナル・ジオグラフィックのドキュメンタリー映像の方がいいという意見も分かる。けど、この作品は擁護したい。テレンス・マリックが「物語」から解放されて、数十年撮りたかったであろう、凝縮した結晶のような「映像」としての表現を味わうことが出来るんじゃないかと思う。ただ、仕方ないとは言えあまりCGは使ってほしくなかったかなというのが正直なところ。「天国の日々」で奇跡のような美しい夕焼けを全てマジックアワーで撮った人なんだし。