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力なき言葉の会話劇――アッバス・キアロスタミ『ライク・サムワン・イン・ラブ』評

 窓ガラスがぶち破られ、エンドロールが始まる。むしろ清々しさすら覚える唐突な結末がさらけ出すのは、映画から言葉の力が失われる瞬間だ。
 たとえば明子は弁が立たないため、コールガールの仕事を断るのにも恋人のノリアキへの言い訳にも失敗する。幼稚さの残る口調で受け売りのジョークを披露する様はさながらオウムのようだ。ノリアキもまた感情的であるために、他人との距離を踏み越えてストーカーや無法者じみた行動に出てしまう。二人を導く年長者となるべきたかしは老いらくの恋の演出に躍起であり、ノリアキへの人生訓の伝授はおろか明子との乾杯すら叶わぬ始末だ。
 そもそも留守番電話や監視魔の隣人が暗示するように、言葉は常に一方通行的なものだ。生まれ育ちに始まり多彩な要素が言葉を規定し、人と人との間に決定的な溝を生む。故に衝突を避けようとする対話は、表層的でとりとめのないものとならざるを得ない。
 だが結局三人はそれにも失敗する。終盤、たかしの自宅にノリアキが殴り込む長回しのシーンでは、もはや映画が会話劇はおろか視線劇であることすらも放棄し、喜劇の舞台と化している。
 ノリアキは激昂し、明子は怯え、たかしはただうろたえる。ここでようやく三人のシンプルな感情が露呈するに至るのだ。
そして窓という象徴的な舞台装置を破壊して映画が終わる。おそらくそこに告発の意図はない。ただ俳優の存在感を引き出すためにすべてが費やされた結果であろう。
 中でも明子役の高梨臨についてその目論見は成功している。秀美な面立ちに言葉にならない感情を宿らせ、知的に洗練されていない女子大生が見事に演じられている。
 とりわけタクシー車内の場面が素晴らしい。祖母からの留守電に涙がにじみ、顔がくしゃりと歪みかかるその瞬間、振り向いて、うわずった声で、明子は運転手に話しかける。
 耐え切れずに振り向いたかのようでもあり、それを認めまいとするかのようでもあるその表情に、女優・高梨臨の魅力を見た。

※ 『キネマ旬報』2012年11月下旬号 「読者の映画評」1次選考通過原稿より全文掲載