纏向遺跡

2月2日の新聞各紙で報じられた奈良県桜井市の纏向(まきむく)遺跡発掘の最新の成果。邪馬台国卑弥呼の居館の一部とも考えられていた4棟目の建物は存在しないことが確認できたこと、しかしながら残りの3棟を取り囲むような形で溝が掘られていることがさらに具体的にわかった、というのがその成果でした。朝日新聞夕刊には‘邪馬台国を求めて’が連載中で、昨日はちょうど纏向遺跡発掘にかかわる3人の人物紹介。
これに関連して、前回の『信長の城』と同じ日に岩波新書として出版された『出雲と大和』は、この纏向遺跡三輪山との関係から語り始め、飛鳥から藤原京平城京を経て都が平安京に移るまでの日本の中枢地域の継承と断絶についての新たな仮説を打ち出した、たいへん興味深い図書でした。
こんな話がなぜ都市イノベーションかというと、この纏向遺跡。実は、「農耕具が殆ど出土せず、土木工事用の工具が圧倒的に多い事等々、他の一般的な集落とは異なる点が多く、日本最初の「都市」、あるいは初期ヤマト政権最初の「都宮」とも目されている」(桜井市埋蔵文化財センター編『纏向へ行こう!』による)とのこと。そしてこの遺跡の「調査面積は南北約1.5km、東西約2kmにもおよぶ広大な面積の5%にも足りず、未だ不明な部分も多い」(同)。
あの不人気だったNHK平清盛』がきっかけとなって歴史をさかのぼりここまで来てしまった私。2世紀から3世紀あたりです。「この先には都市イノベーションはないよね」などと確認しつつ、まだ日本の人口も現在の100分の1程度だったこの頃の暮らしや風景を想像しました。