経済統合は皆を得させるか?

今回は,近作
Christopher P. Chambers and Takashi Hayashi, Can everyone benefit from economic integration? February 2017.pdfはこちら
の紹介である.

経済と経済とが統合することによって誰も損をしないような資源配分ルール,より広く言うなら,所謂「グローバリゼーション」によって誰も損をしないような資源配分ルールというのは可能であろうか?

競争均衡解がこの性質を満たさないことは容易に示せる.2財の交換経済を考えよう(生産経済を考えることもできるのだが,これから書くのは不可能性の話なので,交換経済でさえ不可能なのに,いわんや生産経済においてをや,である). A,B,Cの3人は
 u(x_{1},x_{2})=x_{1}x_{2}
で表現される同一のコブ・ダグラス型選好(これに意味はない)を持つとしよう.

3人の初期保有は
 \omega_{A}=(9,1) \omega_{B}=(1,9)\omega_{C}=\left(12, 1\right).
で与えられるとしよう.

このとき, A, Bの2人からなる交換経済においては競争均衡は
 x_{A}=x_{B}=(5,5)\frac{p_{1}}{p_{2}}=1

一方, A,B,Cの3人からなる交換経済において競争均衡は
 x_{A}=\left(\frac{11}{2}, \frac{11}{4}\right) x_{B}=\left(\frac{19}{2}, \frac{19}{4}\right)x_{C}=\left(7, \frac{7}{2}\right) \frac{p_{1}}{p_{2}}=\frac{1}{2}
である.
 5 \times 5 =25>\frac{121}{8}=\frac{11}{2}\times \frac{11}{4}だから,Cが参加したことでAは2人経済のときと比べて損することが分かる.

統合前はAはBに財1を売ることで財2を得ていたわけだが,財1を相対的により豊富に有するCが参加することで,財1の相対価格が下がってしまったわけだ.これを,Aはただ「既得権」を享受していただけだ,と言ってしまうことも可能だが,だとすれば,我々はどの「既得権」が不当でどの「新規権」が正当であるかの理論を持たねばならないはずだ.


では,競争均衡解を所与と取らず,課税を通じた損失の補償などによって,経済統合によって誰も損をしないような資源配分ルールを作ることは可能であろうか?

「経済統合によって誰も損をしない」という要求をここでは統合単調性と呼ぼう.「常に一切の取引をしない」という解は統合単調性を満たすが,これはトリヴィアルだとしか言いようがないので,あらゆる集団においてそこでの配分がパレート効率的でならぬ,というのは真っ当な要求であろう.

統合単調性とパレート効率性のもとでは,あらゆる集団についてそこでの配分がその集団にとってのコア配分でなければならないことが示せる.だが,コア収束定理の古典的結果(例えばDebreu (1975))により,任意の経済を複製した経済におけるコア配分は複製の回数が大きくなるにつれてもとの経済の競争均衡に収束することが知られている.

説明のため上の例に戻ってくると,統合単調性とパレート効率性のもとでは経済ABを例えば100万回複製した経済(100万人のタイプAと100万人のタイプB)において配分はコアでなければならず,また,経済ABCを100万回複製した経済(100万人のタイプAと100万人のタイプBと100万人のタイプC)において配分はコアでなければならない.だが,100万回も複製すれば,前者の200万人経済においてはタイプAへの配分はもとの2人経済ABでの競争均衡でのAの配分に収束し,タイプBへの配分はそこでのBの配分に収束する.また同様に,後者の300万人経済においてはタイプAへの配分はもとの3人経済ABCでの競争均衡でのAの配分に収束し,タイプBへの配分はそこでのBの配分に収束し,タイプCへの配分はそこでのCの配分に収束する.

なので,100万人のタイプAと100万人のタイプBからなる200万人経済が100万人のタイプCからなる経済と統合すると,100万人のタイプAが損することになる.これは競争均衡解を所与としていないので,いかなる損失補償策を講じようとも,である.


ここまで読んで「いや,それはおかしい.例えば上の経済ABCにおいては,AとBは統合前の経済ABにおける資源配分 (5,5),(5,5)を今度は初期保有として交換に参加すれば,AもBもCも全員得するではないか?」と考えた読者がいるだろう,と推測する.その通りであり,ここでは問題の定式化それ自体に「隠された仮定」としての経路独立性があることに注意しよう.どういうことかというと,上の例では経済ABCは経済ABと経済Cの統合で生まれたと書いたわけだが,ひょっとしたら経済BCと経済Aとの統合で生まれたかもしれないし,経済ACと経済Bとの統合で生まれたものかもしれないのだ.

統合前の(そういう配分を恒常的に行っていたという意味での)資源配分を統合後の資源配分問題における初期保有と考えるということは,その経済がどのような統合経路をたどって生まれたものであるかに依拠することになるわけだが,「歴史が正しかった」などという保証はどこにあるであろうか?我々はただ「間違った歴史」に適応しているだけではないのか?「間違った歴史」に左右されたいためには,経済ABCにおける資源配分はそれがAB+Cから来ようともBC+Aから来ようともAC+Bから来ようとも同じ配分を与えるものでなければなるまい.故にこの問題では経路独立性を想定しているのである.

だが,経路独立性のもとでは,統合単調性とパレート効率性という極めて穏当な要求でさえ満たされないことが分かる.つまり,我々は経路依存性に真正面から取り組まねばならない.Politics should matter,というわけだ.


参考文献
Debreu, Gerard. "The rate of convergence of the core of an economy." Journal of Mathematical Economics 2.1 (1975): 1-7.

技術革新は皆を得させるか?

再び近作
Christopher P. Chambers and Takashi Hayashi, Can everyone benefit from innovation?
の紹介である.pdfはこちら.

貿易自由化や経済統合については,それが何らかの意味で「良い」ものだとしてもその「良さ」は何らかの価値判断に基づくもののはずだ,という了解がまだおぼろげながらに働きそうなものだが,技術革新に関しては,それが「良い」ことは価値中立的な「科学的真理」だとして捉えられがちであり,ラッダイト運動の評価を引き合いにだすまでもなく,これに反対する人はほとんどバカ呼ばわりされていると言ってよい.曰く,ラッダイトの誤謬,労働塊の誤謬,ゼロサムの誤謬:一時的に今の職は失うかもしれないが,長期で見たら他の生産性の高い職に移れるのであり,社会的には生産物がより安価に得られるのだから全員得するはずだ,云々.


だが,生産物が相対的に安価になるメリットを勘定に入れてなお,競争均衡解においては技術革新によって損する人が出てくることを示すのは容易である.

例1:2財の経済を考えよう.AB2人は u(x_{1},x_{2})=x_{1}x_{2}で表現される同一のコブダグラス的選好(である必要はもちろんないが)を持つとしよう.

Aの初期保有は(1,9)で,Bのそれは (9,1)とする.

このとき,生産のない交換経済では競争均衡解は
 p_{1}=1, x_{A}=\left(5,5\right),  x_{B}=\left(5,5\right)
を与える.ただし財2の価格は1に正規化されているものとする.

ここで,財2が財1から生産される技術が生まれたとし,例えばその技術は限界生産性が一定で2としよう.このとき,生産経済における競争均衡解(規模に対して収穫一定なので利潤はどのみち均衡においてゼロであるが,気になるならば例えば企業の所有率を半々と考えるなりすればよい)は
 p_{1}=2,  x_{A}=\left( \frac{11}{4}, \frac{11}{2}\right),  x_{B}=\left( \frac{19}{4}, \frac{19}{2}\right)
を与える.ここでは\frac{5}{2}単位の財1が投入剤として用いられ,5単位の財2が生産されていることが見て取れる.

そして, 5\times 5 =25>\frac{121}{8}=\frac{11}{4}\times \frac{11}{2}であるから,Aは技術革新によって損をしていることが見て取れる.どういうことかというと,Aはむしろ財1を生産に投入するよりも消費することを相対的に好むので,技術革新はこの投入財への要素需要を増大し,その結果財1が相対的に高価になるが故に,財2が相対的に安価になったという正の効果を勘定に入れてなおAは損をするのである.トウモロコシからバイオエタノールを生産することが可能になったおかげで飼料用のそれが高騰した例を考えれば分かるだろう.


もう1つ例を出そう.
例2:3財の経済を考えよう.AB2人は
u(x_{1},x_{2},x_{3})=x_{1}x_{2}x_{3}
で表現される同一のコブダグラス的選好(である必要はもちろんないが)を持つとしよう.

Aの初期保有は (9,1,1)でBの初期保有は (1,9,1)とする(大小関係以外は意味がない).

まず最初に財3が財1と財2から生産される収穫一定技術
 f(z_{1},z_{2})=z_{1}^{\frac{1}{2}}z_{2}^{\frac{1}{2}}
があるとしよう.

このとき,生産経済における競争均衡解(利潤はどのみち均衡においてゼロであるが,気になるならば例えば企業の所有率を半々と考えるなりすればよい)は
 p_{1}=p_{2}=\frac{1}{2},  x_{A}=\left( 4, 4, 2\right),  x_{B}=\left( 4, 4, 2\right)
ただし財3の価格は1に正規化されている.なお,それぞれ2単位の財1と財2が投入され,2単位の財3が生産されている.

ここで,線形の生産関数
 f^{\ast} (z_{1},z_{2})=\frac{\sqrt{2}}{4}z_{1}+\frac{\sqrt{2}}{2} z_{2}
で与えられる新技術が与えられたとしよう.この生産関数が先の生産関数よりも大きい関数であることを確かめるのは容易である.

このとき新技術下での競争均衡解は
 p_{1}=\frac{\sqrt{2}}{4},  p_{2}=\frac{\sqrt{2}}{2}
かつ
 x_{A}=\left( \frac{11+2\sqrt{2}}{3} , \frac{11+2\sqrt{2}}{6} , \frac{11\sqrt{2}+4}{12} \right),  x_{B}=\left( \frac{19+2\sqrt{2}}{3} , \frac{19+2\sqrt{2}}{6} , \frac{19\sqrt{2}+4}{12} \right)
であり, 4\times 4 \times 2=32>17.31 \approx \frac{11+2\sqrt{2}}{3} \times \frac{11+2\sqrt{2}}{6} \times \frac{11\sqrt{2}+4}{12}であるから,Aが技術革新が起こると損をすることが確かめられる.

どういうことかというと,Aは技術革新前は財1を投入財として売ることで収入を得ていたわけだが,技術革新によってもう一方の投入財の財2と比べて相対的に不要になってしまったので,財1が安価になった結果Aは所得を失い,財3が安価になったという正の効果を勘定に入れてなお,Aは損をしているのである.

ここで,Aが技術革新前に享受していた所得は「既得権」にすぎないのだ,と言うことはできるわけだが,とするならやはり先の経済統合の話におけるのと同様に,我々はどの「既得権」が不当でどの「新規権」が正当であるのかについての理論を持たねばならないはずだ.


では,競争均衡解においては必ずしも皆が技術進歩から得をしないことがわかったわけだが,市場解を所与とせずに,なんらかの損失補償策を講ずることで皆が技術進歩から得をできるような資源配分ルールが存在するかを考えよう.

ここでは,規模に対して収穫一定な技術の集合を考える.McKenzie(1959)の議論に従うと,「全ての生産要素」を考慮に入れれば,技術というのは規模に対して収穫一定なものである.「技術」と生産管理に用いられる資源とは区別せねばならない.「技術」それ自体は,いったんそれが生まれたらあとは複製可能なものである.なので,見た目の収穫逓減は生産管理に用いられる資源の希少性として考えられるべきである.

その上で,3つの公理を考えよう.1つは,技術革新によって誰も損をしてはならない,という要請.これを技術単調性と呼ぼう.2つ目はパレート効率性.

技術単調性を満たすがパレート効率的でない解として,「各々がその技術にアクセスして,自分の初期保有を使って自分の作りたいものを作って消費すればよい」というものが考えられる.これを自給自足解と呼ぼう.「技術」自体は複製可能であるという考え方に立てば,これは実行可能な解である.

皆がめいめい同じ技術のもとで最適化しているのだから,自給自足解は明らかに技術単調性を満たす.だが次の2つの理由で効率的ではない.

  1. 交換がない.例えば,実は投入財を生産に使わず消費したい,むしろ手持ちの量よりも消費したい,という人がいる場合,自給自足解だと単にその人は何もせずに手持ちのものを消費すべしとなるが,生産を社会化すれば他の人がいったん過剰生産に従事することを前提にその人は「逆生産」に従事できるので,手持ちよりも多くの投入財を消費できる.だが自給自足解だとそれができない.
  2. 生産要素の組み合わせが社会化できない.例えば,労働と物的投入財とが相補的である限り,労働はあるが物的投入財がない人と,物的投入財はあるが労働がない人が,それぞれ独立して生産活動を行うのが効率的ではないことは容易に見て取れよう.

だが,自給自足解は,おのおのが独立に技術アクセスできる限り得られる最低限の厚生レベルを与えるので,資源配分がある人にとって自給自足解よりも悪い配分を与えたなら,その人は生産の社会化を拒否して一人で活動するだろう.そこで3つ目の公理は,各人は技術に単独でアクセスして得られる配分よりも悪い配分を得てはならない,となる.これを自給自足下限と呼ぼう.

競争均衡解は,パレート効率性と自給自足下限を満たすが,技術単調性を満たさない.自給自足解が技術単調性と自給自足下限を満たすことは自明だが,効率的ではない.また,なんからの方法で「効用」を個人間比較可能な形で計算してその上で厚生の平等を与えるような解は,技術単調性とパレート効率性を満たすが自給自足下限を満たさない.では,3つの公理を全て満たす配分ルールはあるだろうか?


当該論文は,3つの公理を全て満たす配分ルールはあることはあるが,それは2つの望ましくない性質を持たざるをえないことを示した.

  1. ある財を生産への投入でなく消費に用いたい人がいるとき,技術革新がその人を傷つけないためには,技術革新がその人が生産への投入を好むような閾値を超えるまでは,そもそもその人に無生産における自給自足(つまり初期保有)での厚生レベルを上回るものを与えることはできない.
  2. (投入財が2つとして)ある投入財(財1)を他の投入財(財2)よりも他の人と比べて相対的多く有している人が,その財1を相対的に不要とする技術革新によって傷つけられないようにするためには,技術革新が生産の社会化が不要になるような理想的な技術を与えるに至るまで,そもそもその人に自給自足での厚生レベルを上回るものを与えることはできない.

つまり,3つの公理が満たされるためには,ある人々にとっては,技術進歩の利益は進歩が一定基準を越えた後の「おこぼれ」という形でしかありつけないものたらざるを得ない,ということである.

なお,技術革新が潜在的に複数の違ったパターンで起こりうる可能性を考慮できるなら,上の性質を反対の性向を持つ人に適用すれば,技術革新前には複数の人が自給自足での厚生レベルにとどまらざるを得ず,配分の効率性に矛盾する.よって3つの公理を満たす資源配分ルールが存在しないことが示せる.


参考文献
McKenzie, Lionel W. "On the existence of general equilibrium for a competitive market." Econometrica: journal of the Econometric Society (1959): 54-71.

主観的確率と帰結評価の二重不一致と「見た目の全会一致」

不確実性のもとで選択の評価を社会的にどう集計するか,という問題を考える.具体例はいくらでも浮かぶだろうが,敢えて言及しない.

静的な社会的選択論と異なり,ここでは「選択=帰結」ではない,なぜなら選択の帰結は諸々の不確実な要因に左右されるからである.そこでは,二種類の意見の不一致がある.*1

まず,選択の帰結の評価が人々の間では異なる.一つの帰結がある人にとっては望ましいがある人にとっては望ましくない,そして他の帰結については逆,などなどというのが常態だ.これは静的な社会的選択論で既にカバーされている話である.

もう一つは,不確実要因についての確率的予想の不一致である.*2究極的な意味においては,「正しい確率」などというものは存在せず,あくまでも確率は主観的なものに過ぎない.

この主観的確率と帰結評価の二重不一致が存在するときには,「見た目の全会一致」が起こる.Gilboa, Samet, Schmeidler (2004)による次の例を考えよう.2人はこれから決闘するか否かという選択に直面している.帰結の評価は,それぞれ自分が勝ったら嬉しいものとする(馬鹿げた仮定であるが,ここにツッコミを入れぬよう).主観的な予想は,それぞれ自分が勝つものと思っているものとする.なので,2人の選択に対する評価は双方ともに,「決闘することがしないことよりも望ましい」という全会一致になる.

ここで,「全員がXがYよりも望ましいと言うならば社会的にもXがYよりも望ましいとすべし」というパレート原理に従うならば(事後の帰結の評価でなく事前の選択の評価に適用されるパレート原理を特に事前パレート原理と呼ぶ),この2人は決闘すべし,ということになる.これを馬鹿げていると考えるか,受け容れるべきと考えるかは,「人は己の確率的予想に対して責任を負うか」に依存しよう.

形式的には同じ例をあげるとこうなる.Aは明日は晴れると思っており,Bは明日は雨だと思っている.ここで固定された資源の配分を考え,X=「晴れたらAが資源を総取り,雨ならBが資源を総取り」とY=「晴れでも雨でも資源を平等配分」の2択を考えよう.帰結の評価は,ABそれぞれ自分の資源の取り分が多い方を望んでいるものとする(ここに無関係なツッコミを入れぬよう).このとき,AB双方ともにXがYよりも望ましい,という全会一致が得られる.*3

前者の例ではこの「見た目の全会一致」を受け容れるのは馬鹿げていると思った人でも,後者の例では「それぞれ自分の信念があるんだから賭けさせてやっても良いではないか?」と思った人がいるかもしれない.とすれば,「人は己の確率的予想に対して責任を負うか」は帰結の苛烈さとマイルドさに依存すると考えて良さそうだ.

事前においては「正しい確率」などというものはないし,「100%」「絶対に」とか言わない限り事後においても「正しかった確率」などというものは分かりようがない.それは結果論でしかない.

もちろん,傍目には「バカな予想」にしか見えないものがある.そんなとき,どんな「バカな予想」であれ,本人がそれが正しいと信じて己の期待効用計算をしたうえで「この選択が良い」と言ったならばそれは一つの意見として聞くべきなのか,あるいは「あなたの帰結の評価は好みの問題だからそのまま聞きますが,あなたの主観的確率は『間違っている』ので,この『正しい確率』を使ってあなたの期待効用を計算した上で選択の評価をやってください」と一旦突っ返すべきなのか.

いつものことであるが,ここではそれに対する答えは出さずに,「人は己の確率的予想に対して責任を負う」という考えが社会的選択の他の次元での「合理性」とどれだけ折り合うか,あるいは折り合わないものであるかを見ることにしよう.

統計学の素養がある人ならば,次のような意思決定を「合理的」と考えるだろう.まず諸個人の異なる主観的確率を集計して「コンセンサス的確率」を作成し,そして諸個人の異なる帰結評価を集計して「コンセンサス的帰結評価」を作成し,その上で「コンセンサス的確率」でもって「コンセンサス的帰結評価」の期待値を取れば良いではないか,と.だが,事前パレート原理の下ではこれが不可能であることが知られている(Mongin (1995), Chambers and Hayashi (2006)).*4 *5

「人は己の確率的予想に対して責任を負う」という考えと,統計学的意思決定の「合理性」とは折り合いが悪いのだ.前者を取るならば,どんな「バカな予想」であれ,それに基づく本人の主観的期待効用計算をそのまま一つの意見として聞かねばならない.後者を取るならば,「あなたの主観的確率はコンセンサスから外れているので,このコンセンサス的確率を使ってあなたの期待効用を計算した上で選択の評価をやってください」というぐあいに個人の意見を一旦突っ返さねばならない.



参考文献
Gilboa, Itzhak, Dov Samet, and David Schmeidler. "Utilitarian aggregation of beliefs and tastes." Journal of Political Economy 112.4 (2004): 932-938.
Mongin, Philippe. "Consistent bayesian aggregation." Journal of Economic Theory 66.2 (1995): 313-351.
Mongin, Philippe. "Spurious unanimity and the Pareto principle." Economics and Philosophy (1997): 1-22.
Chambers, Christopher P., and Takashi Hayashi. "Preference aggregation under uncertainty: Savage vs. Pareto." Games and Economic Behavior 54.2 (2006): 430-440.
Chambers, Christopher P., and Takashi Hayashi. "Preference aggregation with incomplete information." Econometrica 82.2 (2014): 589-599.

*1:「帰結」だけが重要でない倫理的理由は他にもあろうが,ここでは問題にしない.

*2:そもそも不確実な状況において人間が抱く予想を確率分布という特定の数学的形式で書けるのか,という問題はあるが,ここではそれは脇に置くことにする

*3:ABそれぞれがゲーム理論的な意味で「合理的」であるならば,ここでAは「なんでBは雨に賭けるんだ?それには理由があるに違いない」と考え,Bも「なんでAは晴れに賭けるんだ?それには理由があるに違いない」と考え,それぞれ考えなおした挙句に「やっぱりYが良い」に落ち着くことが考えられるわけだが,ここではそういう読み合いを通しては解消しないような根源的な信念の不一致を問題にしている.

*4:質問があったのでなぜ不可能性に至るかを説明する.Mongin (1995)の不可能性の証明は純然たる線型方程式系の解の不存在に帰着するものである.だが,Chambers and Hayashi (2006)は事前パレート原理と帰結評価の状態(例えば晴れか雨)からの独立性との間に直接的な矛盾があることを示した.選択の評価が主観的期待効用理論を満たすには,帰結評価が状態から独立でなければならない.というのも依存していると、例えば晴れた時の効用が2倍なのか晴れの確率が2倍なのか区別が付かず、選択の評価を導く確率が一意に定まらないからである.一方,事前パレート原理に従うならば,2つ目の例のように,ABどちらの厚生を重く取るべきかの判断が晴れか雨かに依存するので,帰結の評価が状態に依存してしまう.

*5:我田引水続きで言うと,Chambers and Hayashi (2014)は非対称情報下でより弱いパレート原理を考えてもなお不可能性に至ることを示している.

"The Big Short"【ネタバレ注意】

観る前に私は不覚にも,これは「周りは誰も自分の言うことを信じないけれども,信念を貫き通して最後に一発逆転」系の話だと思っていた.つまり,大いに間違っていたわけだ.

この話の中心は,「自分の予測が正しいということは,即ち数百万の人が家と職を失うことに他ならない」のであり,自分の行う(クレジット・デフォルト・スワップ=CDSの購入を通じた)住宅ローン債権の空売りは「母国の危機が起こることに賭ける」ことに等しい,ということが分かってしまった(複数の)主人公の苦悩だと言えよう.たとえ自分が正しかったと明らかになった後でも,「それみたことか」などと喜んではいられないのだ.

それは後輩を叱るブラピのセリフに明瞭に示されているし,スティーブ・カレルが土壇場で部下に説得されるまでCDSの売却に踏み切れなかったのもそういうことであるし,クリスチャン・ベイルがこのディールを最後に自分のファンドを解散してしまったのもそういうことである.ライアン・ゴズリングだけが一応そういう苦悩と無縁であるが,彼はそのことに自覚的・自嘲的である,という皮肉屋の役どころである.

事前の立場ならば,市場が「間違えない」ような施策を取るべく意見表明したり運動を起こすこともできたかもしれない(それを人々が聞き入れるかは定かではないが).だが,話は市場が国全体として「もう既に間違っている」ところから始まっており,この間違いは早晩,膨大な富の消滅という形で正されざるを得ない.主人公たちの苦悩は,消えゆく膨大な富を少しでも救い出すには住宅ローン債権を空売りをするしか無いということであり,しかも始末が悪いことに,そうして救うことができるのはたかだか「金持ちの投資家」でしかない,ということなのだ.

飼い犬の名義で住宅ローンを組んでいた一家が家を追われてヴァンで路頭に迷い,乱脈融資を行っていた住宅ローン担当者が職を失いマックジョブを探してジョブフェア会場をうろつく,というのがこの映画のエンディングシーンだ.おそらく彼らは,少なくとも主観的には「普通の暮らし」がしたかっただけで,何かを致命的に間違った,何か大それたことをしたという感覚はなかったろう.だが本作は,「普通の暮らし」を送ること,「正しく夢を見る」ことが,とりわけ拡大した信用機会の下では困難なことを物語っている.

本作では,金融の世界には意外にも金融の「社会的使命」を素朴に信じている人がいるように描かれているフシがあり,スティーブ・カレルの役どころがそれであるように思える.その「社会的使命」とは,「今手もとにあるもの」が乏しくとも将来性のある人と技術が開花する機会を「正しいプライシング」によって提供することであろう(そしてもちろんそれは,利潤最大化行動であるからこそ可能なことである).確かに金融のおかげで,我々は「今手もとにあるもの」だけでやっていかねばならない制約から相当程度に解放されたのだ.

本作の素晴らしいところは,しばしば「今手もとにあるもの」だけでは不足と感じる人々に過大な夢を見させたうえで奈落に突き落としてしまうような,金融市場の「ままならなさ」を慨嘆しつつも,「だからそんなものやめちまえばいい」というような安易に後退的なスタンスには決して陥っていないところであろう.

センター試験政治経済第3問の問2について

今回のセンター試験の政治経済で,いわゆる囚人のジレンマゲームについての問題が出された.
http://www.toshin.com/center/s-keizai_mondai_0.html

といっても,「囚人のジレンマ」という用語もゲーム理論の前提知識(特定の解概念についての)も問題を解く上では必要なく,読解力と推理力のある受験生ならば問題文と表に書かれていることのみから解答を導ける推理問題として受け取るのが至当である.このような分析的思考力を問う出題がセンター試験の社会科でなされたのは歓迎すべきことであるし,今後もそうして欲しいところだ.

だが残念なことに,問題文と表から導けることといくぶんでも整合的な選択肢は1つもなく,推理問題としては破綻していると言わざるをえない.

これについては中島大輔さん @D_N_1975 はじめツイッター上で十分指摘されているし,私の発言も含めてまとめも出来上がっており
http://togetter.com/li/926602
これの屋上屋を架すこともないと思ったのではあるが,ブログのエントリーとしてまとめておいても良いだろうと思った次第.


選択肢1・2・4は論評しない.ここでは正答とされている選択肢3

3 A国とB国がともに「協調」を選択すれば,両国の点数の合計は最大化されるが,相手の行動が読めない以上,「協調」を選択できない.

に話を絞ろう.

こういう問題は消去法で解くのだから,選択肢3が「正しく」なくとも他が明らかに間違いなのだからこれを「最も適当」だとして選ぶのが「正しい」,という見解もあるが,言明としての破綻の度合いはどっこいどっこいだとも言える.馬鹿正直に「表から読み取れる内容」のみを根拠に本問を解こうとして立ち往生した受験生が居たとしたら気の毒というべきである.


破綻箇所は少なく見積もって2つあろう.1つには,各国にとっては,相手国が協調しようがしまいが非協調を選ぶのが自国の得点の最大化になっているのであり,これはゲーム理論を知らなくても表を見れば分かることである.その上で,問題文の

ここで両国は,自国の得る点数の最大化だけをめざすものとする

という設定に従う限り,

A国B国は,相手の行動が読めようが読めまいが非協調を選ぶ.

という命題が導かれる.
ゲーム理論では,相手の行動がなんであるかに関わらず自己にとって最適な戦略を支配戦略と呼び,ここでは非協調が各国にとって支配戦略になっているわけだが,上述のようにこの用語を知っていることは問題を解く上で必要ない.

選択肢3では「相手の行動が読めない以上」とある.「以上」とあるからには,相手の行動が読めないことが協調を選ばない(=非協調を選ぶ)ことの根拠となっている,と読むのが自然というものだ.だが,相手の行動が読めないことは非協調を選ぶことの根拠でも何でもない.


もう1つは,「A国とB国がともに「協調」を選択すれば,両国の点数の合計は最大化される」という部分.
「A国とB国がともに「協調」を選択すれば,両国の点数の合計は最大化される」というのは事実であるが,上述のように両国は自国の得る点数の最大化だけをめざすと設定されているわけで,点数の合計の最大化は各国の行動決定とは無関係である.

にもかかわらず,「が」という逆接の接続助詞が付いている.無関係なのだから,本来は順接も逆接も無いはずである.この「が」には別に意味が無いのであれば,全くミスリーディングであると言わざるをえない.また,この「が」に意味があるとすれば,「A国とB国がともに「協調」を選択すれば,両国の点数の合計は最大化されるので,相手の行動が読めるならば,「協調」を選択できる」という命題が先にあって,これのいわゆる反対解釈として選択肢3を得た,ということしか私には考えられない.だがこの反対解釈の元となる命題は上述のように明確に誤りである.


穿った見方になるが,選択肢3は出題のゲームそれ自体ではなく,「協力のジレンマ」一般についての「気分」というか「精神」を述べたものと言えよう.例えば,Stag-hunt gameという似てはいるが異なるゲームについては選択肢3の理解で確かに(それなりに)正しい.だがそれは,本問について「表から読み取れる内容」ではないのである.

部分均衡におけるメカニズム・デザイン

以前この記事
http://d.hatena.ne.jp/tkshhysh/20100528/1275125804
において

実務にタッチしていない理論家として(苦笑)一つ懸念を挙げるとするならば、やはり既に指摘されている通り、ある問題を、その「他」を所与として固定し、そこから切り離した上で改善しよう、という部分均衡論的アプローチにあろうか。ある問題(学校選択問題)を解決するために政策を変えた場合、各経済主体がその「他」のところで行動を変えるがゆえに(例えば居住地それ自体の変更や教育投資の変更、友達付き合いの変更)、それが今度は当該問題における彼らの価値基準それ自体を変えてしまい、政策が所期の目的を果たしえなくなる、という可能性がある。この懸念は本書でも常に念頭に置かれているし、わざわざコメントするのはフェアではないかもしれないが、読み進める上ではやはり常に念頭においておくべき事だと思われる。

と書いたが,今回Michele Lombardiと書いた論文"Implementation in Partial Equilibrium" (pdf はこちら)は,この発言の落とし前をつけようという試みである.

部分均衡メカニズムデザインにおいては,当該部門の主管者は各参加者に対して,その部門での決定対象のみについての選好順序を申告させる.例えば学校選択制であるなら,どの学校に行きたいかについての選好順序のみを申告させる.そういった選好が事実ある限りにおいては,誘引整合性条件を満たすメカニズムは,その選好が正しく申告されることを保証するものである.

そして,一般均衡モデルにおいては望むべくもない,即実装可能なメカニズムとアルゴリズムが得られるのも(典型的な成功例はオークションとマッチング),部分均衡アプローチによる問題の孤立化の故にである.

だが一般には,選好は部門間で分離可能でないのであるから,そうした部門の決定対象のみについての選好は一般には存在しない.例えば,どの学校に行きたいかはどこの住んでいるかに依存し,どこに住みたいかはどの学校に行けるか(つまり学区)に多分に依存する.あるいはまた,とある財の配分およびそれに付随する支払額が変化したならば,所得効果を通じて,あるいは直接的な補完性効果を通じて,他の財に対する支払い用意を変えるであろう.従って一般には,当該部門についての政策を変えた場合,それは他部門における各人の行動を変え,それが今度は当該部門における「選好」を変えてしまう,という一般均衡効果が考慮に入れられるべきである.

とすれば,部分均衡メカニズムデザインにおいては,当該部門の主管者は,参加者に対して,彼が部門間で分離可能な選好を持っているかのように振る舞うことを強いていることになる.

では,こうしたmisspecificationを所与の制度的制約として受け取ったならば,それは実現可能な社会的選択をいかにして制約するであろうか?そして,それによって我々は何を失うであろうか?これが当論文の課題である.

具体的には,各人は各部門の主管者にそれぞれ別々のメッセージを送り,各部門の主管者は受け取ったメッセージを部門間でやりとりできないようなメカニズムに関心を絞り,そこでのナッシュ遂行可能性を考える.

遂行のための必要条件はやや技術的になるが,

  1. Decomposability: 人々が部門間で分離可能な選好を持っている限りにおいては,各部門における決定は当該部門の決定対象についての人々の選好にのみ依存する.
  2. Maskin monotonicity: ある選好プロファイルにおいて選ばれた結果が,もし他の選好プロファイルにおいて相対的によりマシなものであるなら,後者においてもやはり選ばれる.
  3. Decomposable monotonicity: ある選好プロファイルにおいて選ばれた結果が,もし他の,部門間で分離可能な選好プロファイルにおいて,各部門において相対的によりマシなものであるなら,後者においてもやはり選ばれる.

である.

Decomposabilityが要求される限り,我々はパレート効率的な決定をあきらめねばならない.それができる唯一のルールは独裁のみである.というのも,我々は各部門において誰かを優先し誰かを後回しにせねばならないわけだが,部門内の決定に対する選好という情報だけでは,誰がどの部門においてより優先されるべきかが分からないからだ.例えば,本当はAさんが学校選択では優先されてBさんが住宅配分では優先されるべきにも関わらず,学校選択のみについての選好と住宅配分のみについての選好が知らされただけでは,逆の優先付け=「Bさんが学校選択では優先されてAさんが住宅配分では優先される」をしてしまうことを排除できないのだ.

拒否権不在の条件と,一定の選好領域条件のもとで,上記3条件は遂行のために十分であることが示される.具体的な遂行メカニズムは極めて直観的で,

  1. 人々が部門間で分離可能な選好を持っている限りにおいては,各部門においてスタンダードなナッシュ遂行メカニズムを構築し,各人にその部門の決定対象についての選好プロファイル(+タイブレーキングのための追加的メッセージ)を申告させる.
  2. 人々が部門間で分離可能な選好を持っていないときでも,各人に分離可能な選好を持っているかのように振る舞うことを求める.つまり,各人にその部門の決定対象についての選好プロファイル(+タイブレーキングのための追加的メッセージ)を,本当はそんなものが各部門について独立に存在しないとしても申告させる.

というものである.

つまりここでは,misspecificationに基づくメカニズムの運用が人々に強いる行動様式の経験的な性質=「かのように」を,メカニズムの構築にそのまま応用しているのだ.

坂井豊貴『マーケットデザイン』

マーケットデザイン: 最先端の実用的な経済学 (ちくま新書)

マーケットデザイン: 最先端の実用的な経済学 (ちくま新書)

献本御礼.

内容に関しては,おそらく今の日本で最も信頼出来る著者の一人によるものであるから,多言は要しない.私としては随所に見られる「坂井節」が楽しくてたまらない.

一例を勝手に引用させてもらうと,例えば「学生寮の部屋の交換方式」という一般の「経済的関心」からすれば「どうでもよいこと」の研究が腎臓移植マッチングの研究へと繋がっていくくだり.

部屋の交換は経済学で扱う問題としては小さなテーマです.財政政策(中略)といった大きなテーマと比べれば,ずいぶんとどうでもよいことのように思えます.
この「どうでもよいこと」を追求していったのがトルコ出身の研究者,アティラ・アブドュルカディログルとタイフン・ソンメツらです.

著者本人が意識していたかは定かではありませんが,私としては当然のことながら,この記事を思い浮かべます.

もう一つ,あとがきから.

マーケットデザインの知見が日本社会に多く採り入れられることと,ただ面白いだけの基礎研究が広く尊重されることを,ともに願っている.