むらかみ農園の日記

2010-04-03

桜はいいな 19:49

桜が今年は長持ちしています。やたら暖かいと思ったら恐ろしく冷え込んだりする天気にさすがにとまどっているようです。その証拠にいつもは早く終わるスイセンが桜が咲いてもまだ満開です。

3月はいろんな行事や会が目白押しでした。そのなかで、米奥小学校のコミュニティースクールの委員になって2回目の卒業式に行ってきました。昨年度と同じ、卒業生は2名。昨年度から統廃合の対象になっている、14名の生徒の通うこの学校を見て、はたして生徒が少ない小学校の何がいけないのか、なにが子供達に不都合なんだろうとおもいます。

成績も見劣りしない、優秀だと聞いています。書道も特選。元気もあって、笑顔もいい。総合学習の発表も劇もすごくよかった。卒業生の2人もなかなか立派で、優しくて、きくばりして低学年のみんなを良く皆を引っ張ってくれていたようです。うーん。学校の施設や周りの環境が日本一ぐらいよくて、統合して廃校にする理由はなに?たぶん腹の底から答えられる人はいないだろう。生徒の人数でどうこうとか教員の数がとか、そういう意味じゃなく、学校の問題を考えると、集落全体の将来像が見えてくると思います。学校をなくすということは、衰退、消滅を認めるようなもんです。

都会で700人の生徒が通う小学校を卒業した私にはなかった、小さいからこそ、の絶対に違う何かを得て卒業したんだと思います。いま分からなくても、いつかきっと生きてくると思います。

卒業おめでとうございます。

うちの集落にまた一家族移住組が入りました。0歳児がいるので、平均年齢がぐっと下がりますね。

旧姓こだま旧姓こだま 2011/06/05 18:51 こんにちは!ごぶさたしています。同じ中学校の一年後輩だったものです。よく村上先輩のお話は伺っていました。地域も農法もまったく違いますが、同じ農業を仕事にしているということで勝手に仲間のように感じています。ちなみに、うちの地域の小学校は一学年20人くらいで120人。1学年1クラスでこじんまりしてちょうどいいです。生徒数の少ない小学校って意外といいもんですよね。

2010-03-06 明日で42です

農業とは関係ありませんでしたが、8回にわたって震災の記憶をたどってみました。

あれから15年になります。

あのとき感じたことは今も鮮明に心に残っています。しかし、こうして文章にすると、もっといろんな出来事があって、いろんなことを感じたと思うのですが、歳月がかなりの部分を記憶の彼方に押しやってしまったようです。

いま、こうして自然の中で、どっぷりと浸って暮らしていると、人間に本当に必要なものは何なのかをあのとき教わった気がしています。そしてその本当に必要なものが、いま、自分の周りにたくさんあるということを、ああこれが「豊か」なんだな、とおもっています。

自然の中では、人間はほんとに小さくてひ弱で、一人では生きていけない。しかしまた、自然から離れても生きていけない。土があって、水があって、そして人々が助け合える集落の暮らしがある。この土地でこれから人生の後半を生きていけることをただただ、感謝、感謝、です。

香北より香北より 2010/03/07 08:49 お誕生日 おめでとうございます!
時々、震災の記憶を読ませていただきながら、
きっと大きな転換点のひとつなのだろうな〜と
感じていました
わたし(達)にとっては、
村上さんご夫婦が確かなきっかけとなりました
ひろちゃんちでの出会いに、感謝しています

2010-02-24 震災の記憶−8

 電車に乗って帰るとき、梅田駅で乗り換えた。そこでは、サラリーマンがふつうに仕事をして、ごくふつうに居酒屋がにぎわっているいつもの梅田の光景があった。わずか電車で30分あまりの距離なのに、このギャップにショックを受けた。ついさっきまで、ぞろぞろと給水車に並び、家を失った人が多数ひしめく避難所のある、壊れた町にいたとはとうてい思えない、どっちかが夢ではないだろうかと思うぐらいのギャップだった。

もしここで買い物をして再び西宮に戻るとすれば、途中で電車が止まり、長い距離を歩き歩いて、ガスと水道のない壊れた家に帰ることになるというのも、信じがたいというかなぜなんだろう、という不思議な感覚であった。

 戦争を経験した人は、震災と戦争体験を重ね合わせた人が多い。線路を歩いて買い出しに行ったことを、家の親せきは、当時小学生だった終戦後、大阪闇市まで歩いて(!)買い出しに行ったことを思い出した、といっていた。東京の会社の上司で、戦争体験者の方は、僕に、テレビでやっている神戸市のがれきと焼け跡が、終戦後の東京の町そっくりで本当に胸が痛む、とおっしゃった。


 その後東京では地下鉄サリン事件が起こる。日本中がとんでもない騒ぎになった年だった。


 数週間後再び西宮に帰った。家は取り壊しがすんで、更地になっていた。

 友人達と震災後に元気を出そうと飲み会を企画して、みんなで集まって飲んだ。僕のように西宮から出ていたやつもみんな集まった。M子は、退院をして、まだ車いすだが元気に参加してくれていた。自分たちの友人達が一人もかけることなく再会できたのが何よりうれしかった。

 それから僕の生まれた町は、懐かしい風景のほとんどが失われて、新しい町に様変わりしていった。

地震で大打撃を受けた商店街はほとんどの店が、それを契機に店をたたみ、再開発でマンションと駐車場になり、チェーン店コンビニと、ラーメン屋が目立つようになった。古い家が残る町並みや路地裏、未舗装の抜け道も無くなり、道は広くなり、建て替えた家が並ぶ新興住宅地のようになった。とくに駅前は面影もない。

なつかしい生まれ育った町が、明らかにあの地震を境に過去の物となった。ただ、夙川の桜並木が、変わらず毎年咲いていることが、西宮を離れている自分にとってなにより懐かしくまたうれしくもある。

2010-02-22

21:37

 とにかく水(=風呂、水洗便所)がなくて、あまり迷惑がかけられないので、東京に戻ることにした。安否確認のできない友人などもいたが、とりあえず新聞の犠牲者欄にのっていなかったので、みんなも大変な生活で手一杯だろうと思い、あえて探したり訪ねたりするのはやめた。

 町をひとまわりした。ああ、ここも、あそこも、なつかしい古い店や家がことごとくつぶれていた。近所では夙川沿いのマンションが一棟根こそぎ横倒しになっていたのがいちばんひどい被害だったように記憶している。街角には粗大ゴミの山が築かれていた。どう見ても壊れていない冷蔵庫などがつまれているのを見て、便乗ですてたな、と思ったが、あとあと考えるとはたしてどうだろうか。というのも、ある後輩が、震災のあと家の片付けをしているときに、あとから何で捨てたんだろうと思うほど、思い出の品とかもいろいろ捨ててしまった、なんか異常な心理状態だったようだ、と話をしていた。

 あきらかに、あの大震災の直後は、非日常にいきなり放り出され、一見落ち着いているような人も、心に相当負担があったにちがいない。がんばらないと、と踏ん張っているような緊張感は町のあちこちにあった。被害家屋の判定が出始めて、家の兄が当時勤務していた書店の入っているテナントビルは判定「赤」ということで、再開の見込みはなく、余震のある中、ヘルメットをかぶっておそるおそる片付けに行っていた。

 いやな話も良く聞いた。便乗値上げ、支援してくれて当然もっとよこせという態度、公衆電話泥棒(倒壊している公衆電話から部品を盗み出して、偽造テレホンカード製造に使える)。

 阪急神戸線の24時間の復旧工事がつづき、テレビはニュースとACのポイ捨て禁止のコマーシャル以外一切やらないし、国道にあふれる救援車両の渋滞は相変わらずあったが、食べ物もいろんなものも行き渡ってきて、物質的には普段と変わらくなっっていた。が、生活の根本がない。風呂、トイレ、仕事場、学校、に行けない、これからの先が見えない、という当たり前にしてきたことが全く止まったゆがんだ生活、それが、震災後の生活だった。

 

2010-02-15 震災の記憶−6

 翌日、母親がやっていた洋菓子のフランチャイズのお店を開けているというので、手伝いに行った。もちろん商品の仕入れはなく、店にある物を売るだけなのでほとんど品揃えはない。しかしお客さんは良く買いに来てくれた。男性がなんか食べるものないか、ときたので、日持ちするお菓子ぐらいしかないが、というとその一つを買っていったのを妙に覚えている。そのほかにも割とお客さんはいたようだった。

 そしてその近くの、学生の頃にアルバイトでお世話になっていたスーパーにもいってみた。社長他、みんなは無事で元気そうだった。大きな商品棚がそのまま数十?ずれた痕があっったが、建物自体には被害がなかった。震災の当日に、こわれた商品をかたづけ、シャッターを半分あけたら近所のお客さんが買いに来るので、そのまま開けていた。そしたら夕方のニュースか何かで写ったらしくて、客が殺到してパニックになりそうになってあわてて閉めたそうだ。

 母はとにかく仕事に対しても強い。売ることよりも店を開けることに意味があると思っていたのは確かだ。後日聞いたが、地震の後、うちの兄が私の東京の家にしばらく避難しよう、と提案したとき、「他のみんながこんな状況でもがんばっているのに、家もつぶれてへんし怪我もしてへんのに、なにをなさけないこといってんの」と言ってしかりつけたそうだ。まあ、乳飲み子を抱えている兄の気持ちもわかるが、他の人ががんばってるから自分たちも楽はできない、という気持ちが強かったのだろう。

 

2010-02-11

12:12

 M子は5時間生き埋めになっていた。地震発生から家の下敷きになったときに、手で顔をかばったのか、動けなくなっただけでなく、声が出せない状態だったそうだ。

 兄が消防に助けてくれるように要請したが、呼びかけに返事がないので妹さんはたぶんだめだろう、可能性のある人から順に救出する、ということだったそうだ。そのやりとりは全部聞こえていたそうだ。しかし声が出ない。その後、兄が近所の人などを呼んできてくれて、がれきをのけて助けられたそうだ。その間5時間。上空を飛ぶヘリコプターの音がうるさかった、とか言っていたが、その間の心情、本人以外では分からないだろう。

 その後、救出されてから母親は頭に怪我をして病院に行ったので、ついて行く。母親は入院。そこで、自分は帰る家がないから病院のロビーに寝ても良いですか、といい、他のけが人達とともにそこで一夜を明かす。そしてたまたま巡回してきた医師に、足の怪我をみてもらい、これは大変だ、ということで即入院。クラッシュ症候群(長時間圧迫されていた怪我による重篤な全身症状)とのことだった。このたまたまが無ければ、死んでいたかもしれない。

 病室を出てからも、何とも言いようのない体験に圧倒されていた。 

2010-02-04 震災の記憶−4

翌日は給水車が来るというので、水をもらいに行った。このころは定期的に給水車が回ってきており、事前に時間も分かっているので、さしたる混乱もなくもらえた。直後は何時間も並んだりしたそうだが。飲料水は何とかなるが、風呂とトイレが困った。トイレは小は流さず、大の水は近くの小さいドブ川の水をちまちまバケツにくんで脇に置いてた。冬なのでドブの汚れも匂いもなくて助かった。とにかく、水洗トイレは水がないとこれほど始末の悪い物はない。

風呂は数時間かけて隣の市の銭湯まで入りに行ってたそうだ。もちろん数日に一度。これも冬で助かった。とにかく、便利な物はいっぱいあるけど、最低限必要な肝心な物がないばっかりに、不便でストレスのたまる生活だった。うちらは家で家族だけでなんとか生活し、」寝れたからよかったものの、家を失い、仮設に入れるまでの期間、避難所で過ごした人のことを思うと、相当きつかったろうなと思う。

そのうち、友人から、M子は市民病院に入院しているという情報がはいった。よかった、とにかく無事だった、と、すぐに見舞いに行った。

病室のドアを開けると、笑顔があった。足は大けがをしてまだ歩けないようだが、元気そうだった。

「なんか、みんな苦労してる時に自分だけこんなベットでゆっくり寝て申し訳ないわ、きのうなんかハンバーグがでてんよ、みんなに悪いなーと思いながらたべてん」

「けが人があほなこといいなや。かめへんて。俺も何でも手伝うつもりで帰ってきたのに、昨日は焼き肉やって、お客さんあつかいやってんで」

お互いの無事(僕はもちろん地震に遭ってないので無事もくそもないのだが)を喜び合った。

2010-02-01 震災の記憶−3

(しばらくは農業に関係ないのですみません)

小学校からつきあいのある友人の家を順番に見に行った。古い家は激しく倒壊していたが、思っていたよりも全壊が少なかった。しかし、電柱が傾いたり、地面が所々隆起して歩道がひび割れたりしてるのを見ると、よくぞ無事だったなと思うばかりであった。とくに火災が発生してなかったのが救いだったと思う。

H氏宅は一階が完全に倒壊して、2階が1階になっていた。みんないつも2階で寝ているので無事だったそうだ。暗い中はい出したら一階だったのでおどろいたそうだ。私と同じく西宮を離れていたU氏宅は無事だったが、中はどの家もそうだがぐちゃぐちゃだろう。別でお店もやっていたからそこも見に行ったが大丈夫そうだった。(しかし建て直した。どこもそうだが、改修するより建て変えたほうが、安い、というのがほとんどだったのではないか。見かけは建っていても、ゆがんだり、傾いたり、予想よりひどいというのが後々になってずいぶん判明していく。我が家もそうであった。)

そしてM子の家に来たとき、唖然とした。屋根だけになっていた。これでは助かってないな、と思った。そしてすぐ近くにある避難所となっていた小学校に行った。自分の母校にこんな形で再訪するとは思ってなかった。懐かしいが何とも不思議な気持ちで校舎内を歩いて体育館に向かう途中、家庭科室に(遺体安置所)という手書きの張り紙があった。それを見たときはかなり動揺した。扉を開けることはできなかった。自分の記憶にある教室だっただけにショックだった。

結局、体育館の避難者名簿にも名前はなく、見あたらなかったので、その日は帰った。

兄の家で夕食をともにした。焼き肉とビールだった。なぜなら、電気は通っているが、水とガスが止まっているので、ホットプレートでほとんど調理せずに、みんなで食べることができるからということだった。物資は豊富だが、生活の基本的な物がないという奇妙な食卓であった。先進国の都市災害とはこういうことか、と思った。

2010-01-27

22:15

西宮が近づくにつれて、屋根をシートで覆っている家が増えてきた。

そしてリュックを背負った人がほとんどになってきた。

西宮北口の駅に降り立つと、まず最初に目に飛び込んだのが、法外な値段で弁当を売っている連中だった。こいつらあほか、と思ったが、それを買っている人が結構いて悲しくなった。

歩いて実家まで1時間ぐらい。電車を降りたときから、買い出しだろうか、荷物を背負った人の列が続く。それに続いてゆっくりと歩きながら周りを見る。大きなマンションは大丈夫そうだが、お寺が完全にひしゃげて屋根だけになっていた。ここでは2名なくなっていたそうだ。そして自販機や、公衆電話が壊れて倒れているのを見て、普段見慣れたものがあちこちで同じように壊れているのを見ると、大地震があった、というのを実感した。そして、歩きなれた道路で自衛隊の人たちとすれ違うと、ああ、やはり非常時なんだ、自分の町が被災地なんだ、と実感した。

実家は外見では比較的無事そうに見えた。屋根瓦が落ち、壁が一部落ちてはいるがちゃんと立っていた。中にはいると、両親がかたづけていた。連絡なしに行ったので(連絡できなかったので)驚いたようすだったが、いつものように迎えてくれた。家は中から見ると、所々隙間ができて、風呂や階段は外が見えるくらいだった。両親の寝ていた部屋の大きな家具は、幸いにも隙間無く並んでいて、家ごと揺れたらしくて倒れなかった。怪我ナシですんだが、これが寝ているところに全部倒れたら無事ではなかったろう。ところが、僕が元いた部屋は家具がぜんぶ中心に向かって倒れていて、僕が寝ていたら大けがをしてたとおもう。これもたまたま運がよかったと言うことだ。

もうひとつ、台所の食器棚が何ともなかった。これは、食器棚(かなり大きい物だが)の下の手前に、鍋ぶたがはさまって揺れを吸収する空間ができたようだ。揺れた瞬間に、鍋ぶたが飛んできて、下にがちっとはさまったらしい。のけようと思ってものかなかった。すごい偶然だなあ、と話し合った。

瓦の落ちた我が家にブルーシートをかぶせる作業をしてから、早速、友達の安否を確認するべく市内を回った。

2010-01-20 大震災−2

 それ以降、全く連絡がつかなかったので、東京にいる西宮出身の友人達と情報を交換したが、まったくらちがあかない。新聞みて、知り合いや友人がのってないか、この写真や一瞬写るニュース映像はどこのことか、目を皿のようにしてみていた。石川に移動して仕事をしたが、みな地震のことで話題はもちきりだった。自分は安否が確認できたからよかったが、そうでなかったらやっぱり飛んで帰っただろう。

 公衆電話が優先されるのは知っていたので、出張先の公衆電話から何度も電話して、3日目にやっと2回目の電話がつながった。みなは避難所を退去して兄のところで寝ているが、昼間は実家で片付けや物資の確保をしているとのこと。

 兄は生まれたばかりの子供がいて、当時の借家は、鉄筋コンクリートの3階建てで、かろうじて被害は少なかった。もちろん家の中はひっくり返っていたそうだが。

 阪急神戸線の高架のすぐよこで、数十メートル先で高架が横倒しになっていた。あと少し手前だったら、運悪く架線の鉄柱が倒れていたら、ぺしゃんこになっていたかもしれない。

 地震でどうなるかは本当に紙一重。亡くなった人も生き残った人も大して違わないとおもった。揺れが市内一様に来たのではなく、あるななめの方角にそってその周辺がひどく破壊されていると思った。そのエリアにのっかっているものは結構頑丈なものでも倒壊されていた。

 余震が続く中、何とか新大阪から西宮北口まで鉄道が開通したとの報道で、すぐに戻ることにした。

 東京では被害が甚大だった神戸市長田区報道が集中し始めていて、情報がなかなか入らず、友人のことが心配でならなかった。

 一旦東京に戻って、会社のみんなからあたたかいお見舞いと励ましを頂いて、水と日用品をキャリーバックいっぱいに詰めて新幹線に飛び乗った。

2010-01-18 大震災の記憶−1

 昨年六月から更新してませんでした。見ていて下さっていた方ごめんなさい。

 さて、農業とは関係ありませんが、これから少し、阪神淡路大震災のことについて書いていきたいと思っています。あれから15年。いつかは書き留めておこうと思っていましたので、いい機会と思って書いてみます。

 私は当時は東京にいました。西宮の実家は被災して全壊しましたが、幸い身内にはけが人もいませんでした。

現場にはいなかった自分は、震災5日後に実家に帰りました。そして見聞きしたことを、記憶が薄れる前にその前後を書き留めてみます。


 朝、7時前ごろだったと思う。電話が鳴って起こされた。その日は、ある食品機械の製造プラントの試験運転で、千葉と石川のメーカーの工場に4日ほど出張する予定が入っていた。当時の上司からだった。

 「村上さん、関西で大きな地震があったみたいだけど実家は大丈夫?」

 まさか関西で大地震が起こるなどと夢にも思っていなかったので、たいしたこと無いだろうと思ってテレビをつけた。ズームイン朝で福留さんが、大阪で震度4を伝えていた。工事現場のクレーンが傾いた様子を写していた。

 大阪で震度4ならたいしたこと無い、と思い、「大丈夫でしょう、予定どうりいきますんで」と答えた。

 今では考えられないが、この時点でまだ、東京ではこの情報しか入っていなかった。神戸のコの字もなっかた。

 9時ごろと思う。予定どおり、会社の人と待ち合わせの埼玉のある駅に着いたとき、「なんか関西で大変みたいだよ」といわれた。「高速道路が崩壊してるって」「ほんとですか?」

 10時にメーカーの現場に入った。この時点で、死者も出ているという情報もはいった。そして、大変だよ、西宮から芦屋にかけて阪神高速道路が倒壊している模様。死者数十名。というニュースを工場の人が伝えてくれた。

 電話を借りて(当時は携帯は未普及)実家に電話してみたがもちろん不通。状況を思い浮かべて、ああ、僕の両親は、死んだかな、と思った。あの、阪神高速が横倒しになっているのが本当なら、近くにある実家なんぞぺしゃんこのはず。家の状態からして、だめだろう、と覚悟を決めた。

 一応試験運転をすませて、昼休み再び電話をした。奇跡的につながった。親父が出た。

 「みんな大丈夫やけど家はめちゃくちゃや。やられたわ。もう住めへんで。」

 

 あとから聞いたことだが、このとき、親父は、電気の配線をつなごうとして、壊れた壁にある切れた線をつないだでいた。そしたら、それが電話線で、結んだ瞬間に僕からの電話がなったらしい。

 その後はまた、全く電話はつながらなかったが、この偶然の一回で、みんなの無事と家の状況がわかった。

 会社のみんなには戻れといわれたが、親からは帰ってこんでいい、と強く言われた。避難所にいる家族に会いに行っても、避難所に人が増えてみんなに迷惑がかかる。水もよけいにいる。とりあえず安全が確認されたから、予定の出張は続けることにした。

 ニュースでは火災と、うなぎ登りに増え続ける死者の数を伝え続けていた。とたんにたくさんの友達のことが心配になった。

2009-06-05 月いち更新

tmagri2009-06-05

もう六月に突入しました。

田んぼの作業も2週間遅れ(雨不足のため)で、始まっています。

このブログはむらかみ農園の農産物のラベルを見て訪ねてもらっている方もいると思いますが、がんばって月1回か2回の更新です。あいすみません。

出来るだけ農作物の情報を、と思うのですが、なんせ、これから夏に向けてあっという間に畑の様相が変わっていくので、なかなかブログがおっつかないようです。

小麦はもうすぐにでも収穫できるようになっています。

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奥に見えるのはこれももうすぐ収穫時期のトウモロコシです。

忙しいん農作業の合間、本当にいろんなことがあります。毎日が勉強ですね。

2009-05-07 忙中閑あり

tmagri2009-05-07

今年は低温傾向で、苗や生育は遅れ気味だ。

しかし山は順調に新緑を芽吹いている。

毎年この時期、農作業が一気に増えて、大変なことになる。そんなとき

忙中閑アリ、とつぶやいてみる。

さぼるときの格好の言い訳となる。

今年は黒潮町のTシャツアート展にちらっと行ってみたりもした。


農作業の段取りで頭が痛いときに、ふと新緑を眺めると、後ろのほうからこの悪魔のささやきが聞こえてくる。

農業をやっていて、この悪魔のささやきに負けることが出来たのはつい最近のことだ。先読みに自信が出来たからだろうか。

しかしそう甘くはない。絶対にどこかでツケが回ってくるようにできている。その真っ正直なところが農業の恐ろしさだ。


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オクラの芽が生えそろっています

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小麦も順調に穂が出そろっています

2009-04-14 春だねえ

tmagri2009-04-14

四月に入ってから、晴天が続いたので畑に出ずっぱりでした。おかげで生姜畑もようやく、準備が整いました。

畑を耕していると、いろんな鳥が虫しをねらってどこからともなくやってきます。今年は珍しくキジがきました。いつもはカラスコガラコジュケイなどがトラクターの音を覚えていてやってくるのですが、キジは初めてでした。山にいて警戒心が強いのですが、なに食わぬ顔で畑を歩いて虫をついばんでいました。

ソラマメも勢いをまして、今花盛りです。

虫もわあっと登場して、これからいよいよ、ってなかんじです。

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(全く分からないけどキジです)

2009-04-06 六ラプ

tmagri2009-04-06

という名で分かって下さる方が多いと思う。ほど、この映画がずいぶん多くの人に見られ、いろんな考えを与えたと思う。

内子の菜月農園さんにメールで返事を書こうと思ったけど、本文で。

拝啓 菜月農園さま、おげんきでしょうか。メールありがとうございます。松山での上映会は、いけそうにありません。残念です。愛媛の皆さんにもずいぶんご無沙汰していますが、みなさんおげんきでしょうか。ほんとにまたお会いしたいですね。

こちらは、港の土曜市オーガニックマーケットに参加して以来、忙しくてなかなか身動きが出来ません。愛媛県では苦し紛れのプルサーマルを受け入れて、着々と準備を進めている伊方を抱えていますから、松山での再度の上映会、うれしく思います。

過日、高知県では大月町で「低レベル」放射性廃棄物の処分場の誘致の動きがありました。放射線医療廃棄物や云々などと言いつつも、過疎地をねらった「なし崩し」戦略の入り口であることは簡単に想像がつきます。本家のガラス固化体作業がトラブル続きでうまくいってないのが救いといえば救いですが、まだ私は安心してるわけでも忘れたわけでもありません。アメリカ自然エネルギーを利用した「グリーンニューディール」に舵を切って、アメリカのまねが得意の日本も追随してくれればいいのですがどうでしょうかね。

今はとにかく、有機農業、自給的農業の価値を理解してくれる人を増やして、どんどん応援するのが私の役割だと思ってやってます。最近は特に農業をやりたいというのは若い女性が多いです。ある方は本能的に感じるからだと言っていました。食や農、を中心に据えた暮らしをしていると、スタイルはどうであれみんな通じるものがあるというのが、実感です。

大きいことは良いことだ、蛇口をひねれば簡単に、すわっていてもお金で何でもそろう、安けりゃなおおいい、そういう価値に疑問を持つ人がふえて、原発という巨大システムが、常識的に考えて無駄なものだ、非常に将来的につけを残すものだというのが、世論となってくれればいいのですが。(ほんとはそんな悠長なことではいけないのかもしれませんが)

こうしてパソコンを使い、軽油を燃やしCO2を出しながら農業を営んでる私ですが、今やることは他の人の「解決」をまつのではなく、自分の暮らし、仕事、そして住んでいる地域とほんの身近な自然環境を考えて、どういう形で守ることが大切だと思うか、自らに常に問うています。一人一人がそうすれば、良い地域や町や暮らしができあがっていくんだと思います。

長々と書きましたが、皆様によろしくお伝え下さい。上映会、盛況であることを祈りつつ応援せて頂きます。

敬具

 

yosidakeiyosidakei 2009/04/08 15:51 宮城県のあいコープでしょうがを取ったら、おもしろそうな生産者名「かまん」にひかれて開いてみました。六ヶ所村ラプソディーは宮城県でも数回上映があったのに、まだ見ていません。また、のぞきにきますね。おいしい野菜ありがとう。

むらかみ農園むらかみ農園 2009/04/08 20:53 ありがとうございます!
「かまん」の生姜は有機農業を始めた新規就農者の仲間ががんばって作っています。応援よろしくお願いします。

2009-03-30 3名の卒業生

むらかみ農園のある地域の、米奥小学校がコミュニティスクールの取り組みを初めて、その委員に選ばれて、初めて卒業式に出席しました。

そしてその牽引役として、小さくてもきらりと光る学校作りを、お題目ではなく実績を伴って進めて下さった校長先生も今期で定年退職されました。

明るい日が差し込む体育館に、プランターで全体に花が飾られ、卒業生3名が前に並ぶ。

自分たちの卒業式は、ひな壇に校長先生が立って卒業証書をもらうだけだったが、思い出を語ったり決意表明をしたりと、卒業生が主役の本当にいい式でした。泣いたのは校長先生だけでしたけどね(笑)。

卒業式のあと、近くの集会所で、退職、転勤される先生方と卒業生と親、PTA、地域の皆さんがあつまって盛大に謝恩会が開かれました。大人といっしょに飲んでさわいで送られる小学生も珍しいですが、これが田舎の小学校の良さだと思い、どっぷりと漬からせていただきました。ほんとにいいなあ、こういうの。

小学校の卒業式は、悲しみより、中学生になる不安の方が大きかった気がします。

この3名に数年後、このときのことをどんなふうに覚えてるか、いつか聞いてみたいと思っています。

内子 和田内子 和田 2009/04/04 20:35 お元気ですか?鎌仲監督が来られます。メールはとどいてますか?見られない?関係ないことでゴメンナサイ。

2009-03-19 三寒四温

2月の暖冬、多雨が誤算でしたが、3月は例年通り、「春に3日の晴れなし」「三寒四温」という、百姓泣かせの天気が続いております。

おかげで、作業が進まないことこの上ない。そうこうしているうちに桜が咲いていました。

このブログにも再三書いたのですが、やっぱり桜が好きなんだと思います。春になり、人が移動し、去っていき、始まっていき、とにかく何ともいえない気分になります。

まあ、飲もう、という気分ですかね。

そこに人の人生や生活のにおいがする。だからいいのかもしれません。

百姓になって、桜の季節は忙しい季節ですが、あらたに、桜が咲いたら日野地の田役、という自分にとってもうひとつの思いをはせる項目が加わりました。

今年は早く桜が咲きそうです。

2009-03-08 お久しぶりです

tmagri2009-03-08

久しぶりの更新となりました。ページを開いて下さっていた方、ごめんなさい。

コメントをいただいた神奈川ママ様、すみませんでした。

むらかみ農園では、今年からアルバイトが一人増えるのですが、なんとなんと本職の百姓の娘さんを預かることになりました。

それにあわせて体制を見直すつもりでしたが、ばたばたとしてるうちに、あっという間に3月。しかも高知では、2月というのに雨続きで作業がほとんど進んでいません。そんなこんなで課題はどうも先送りのようです。

自分の近況はミクシイのほうで書いてありますが、農園のブログもこのままえっちらおっちら更新していきますので、よろしくお願い致します。

さて、この高温と雨続きで、生育の悪かった麦はどんどん緑色を増しています。

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晴れ間をねらいつつ、これから例年より忙しい日々が始まりそうです。

私は先日41歳と相成りました。

本当に早いものです。就農して12年。ちょっと思うところもあって、今までのこと、まとめて書き残していこうかとも思っています。

2008-12-05 早くもあと一ヶ月

久しぶりの更新になりました。

相変わらずむらかみ農園はばたばた続きでした。しばらくブログをお休みしていたのも、実はパソコンが故障して今までのデーターなどがなくなってしまい、それ以降はちょっとパソコンはお休みしていました。

今年は台風もなく米、生姜とも無事収穫を終え、これから土佐文旦の収穫の手伝いに入ります。

来年からむらかみ農園では電子部門をリニューアル&スタートしますので、それまでお待ちください。

では又。

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神奈川ママ神奈川ママ 2009/01/11 11:07 初めまして〜こちらのホームページ有りますか?子供が色々なアレルギーで野菜とお米買えなくて困ってます。

2008-08-29 自然農法

tmagri2008-08-29

 8月が終わっていないのに急に涼しくなって、もう秋かな、と思って焦ってしまった。

今年の天候はおかしいですね。豪雨も高知の定番だったのですが、雨の降る原因といいますか、原理が違う。つまり気圧配置。東海北陸、関東が被害をうけて、こっちはゲリラ豪雨だけでも、いつもよりおとなしい。西からではなく東から流れ込んでくるし。んーここ数年でこんな感じは無かったような。台風の気配もないし。9月、10月はどうなるのか、要注意です。

 先日、福岡正信氏が95歳で亡くなられたというニュースがありました。有機農業に携わる者だけでなく、多くの人がご存じではないだろうか。自然農法、無の哲学を70年実践し、世に知らしめただけでなく、不耕起、無除草、無肥料無農薬の考え方は多くの人の生き方にも影響を及ぼしたと思う。

 私が「わら一本の革命」を読んだのは近畿大学在学中の今から20年前(!あれ、もうそんなになるんか!)。そのときはまさか有機農家になるとも、なろうとも思わず、環境問題の延長線上に農業があった。だから、かえってインパクトが強烈ですぐに読んでしまった覚えがある。近畿大学では昔、福岡正信氏の圃場を調査している。他の著書やいろいろ読んでみて、当時はどう感じたか大部分忘れてしまったが、福岡氏は哲学者であり、その哲学を不耕起連続直まきの圃場で実践し、証明して見せたんだと読み取った思う。だからなおさら、言葉や文章だけで「人知一切無用」と説かれるよりも、インパクトがあったんだと思う。

 そうは言われても、技術者にあこがれ、目指していた自分にとっては、人知一切無用じゃあどうすればいいんだろうか、いつかは自分も自然の中でそうなればいいなあ、で終わってしまったように思う。しかしそのとき自然農法は深く自分の中に刻まれた。

 つとめをやめて農業を始めたときは、有機農業で経営を成り立たせる事を目標に掲げていたから、相当現実的な手法でここまでやってきた。自然農法は個人の哲学を実践していく場だと思って、私は「輪作耕起、抑草除草、有機肥料無農薬」という自然農法とは違う農業を行っている。しかし、自然の摂理や原理原則は同じはずだ。だから結局、有機農業は自分の生き方にかかってくると思っている。自然は自然のままで、その距離の取り方が農法の違いではないだろうか。

 有機農業を始めてから、見学や就農相談に来る人で、福岡氏の自然農法にあこがれたり、感動したことが、就農の動機になった人がホントに多かった。(最近はあまりいないが)やりたいと言い張って去っていった人もいたし、あきらめた人もいた。実際に福岡氏に弟子入りを志願して断られた人や、話をしてきた人から、実際の農場の話を聞くことも出来た。でも結局同じ四国にいながら私は見学する事もお会いしてお話をお伺いすることもなかった。4冊の著書も大学以来読まずに本棚にある。

 そしていま、有機農業を10年やって、あらためて読んでみたらきっと全然違う感じ方や発見をするだろう。いつか読もうと思っていてもなかなか手に取れなかったが、近々再熟読してみようと思う。

 有機農家の先輩から「有機農家は同じ山をみんな違う道からのぼっている」という名言を聞いたことがある。ホントに名言である。その山に頂上があるとは思えないが、自然農がどこにあるのか分かるかもしれない。もちろん、農法の方法論(登り方)ではない。無の哲学が自分の道のどこにあるのか、探す意味もある。

お菓子工房笑美お菓子工房笑美 2008/09/09 00:11 福岡氏の本は3年前に出会い、今は『わら一本の革命』お店に置いています
都会から窪川に来て思ったのは『何でもある、何でも育つ、素晴らしい川と自然
なのに仕事がない?』でした(笑)
『ラク』をしてでも生きられる今の時代
便利ってなんだろう?って毎日疑問に思います

出来合いのものを使わずに、最初からお菓子を手作りすると
とにかく手間がかかり生産する数はたかがしれてます
『お金儲けをしようと思えば、出来合いのものを使えば楽ですが』

お金儲けより(貧乏ですが(笑))
窪川の素材を使えばこんなに美味しいお菓子が作れるんだ!!
というのを都会の人や町の人に知ってもらいたいのが夢ですね!!

お店で育てた綿も虫に食われながら、実がはじけました

メイドイン窪川の服も作れる環境にあるな〜とは毎日思います

この町には無限大の可能性があると感じるけど
人の心を動かすのは難しいですね
でも、あきらめなければ夢は叶うと信じてます

宮崎

2008-07-23 万願寺とうがらし

tmagri2008-07-23

むらかみ農園のメイン作物の一つ、万願寺とうがらしがいま最盛期を迎えています。

万願寺とうがらしとは、準京野菜(京伝統野菜34種には含まれない)の一つで、伏見甘長とうがらしとピーマンの交雑といわれています。

むらかみ農園で栽培をはじめて5年。いままでは初夏の台風に泣かされましたが、ことしはそれもなく、順調な生育ぶり。

ピーマンやシシトウの産地である高知県に合ってるはず、と栽培してみたところ、そのおいしさに「こりゃええ」。素焼きに生姜醤油で食べればビールにぴったり。

オクラとともにむらかみ農園の夏の味覚となりました。

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minominominomino 2008/07/31 16:56 こんにちは。
オーガニックマーケットで万願寺とうがらしを購入させていただきました。本当においしくて、10本あっという間に食べてしまいました。てんぷらにして食べたのですが、他にオススメの料理法はありますか?また、オーガニックマーケットへの出店楽しみにしています(^^)

2008-06-22 麦秋

tmagri2008-06-22

うっとうしい梅雨空が続いています。

この天気の中、小麦(シロガネ)の収穫が終了。

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いまは乾燥中。それから予冷庫で3ヶ月−5ヶ月寝かせてから粉にします。新麦は美味しくないのです。

今年は豊作でしたが、梅雨入りが早くて収穫できるかどうかばくちでした。

半分あきらめたところに晴れ間があって、無事終了。

ほっとしました。

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今年は大麦と併せて600k近くいったのではないでしょうか。麦は輪作の中でもたいせつな作物です。だから万一、梅雨で、病気や穂発芽(穂のまま芽が出てしまう)で収穫でき無くても土に返してやればそれなりの意味はあるんです。写真は収穫後の畑。麦のわらで畑が覆われていますが、それ以上に根も大切な有機肥料として土を肥やしてくれます。

この畑は、この後耕して7月に人参を蒔きます。

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収穫間近のスイートコーンの虫取り(メイチュウというやっかいな虫を手取りでとってます)をしながら、もう秋冬作の段取りを始めています。

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水田は今が一番美しいです。夜には蛍が飛んでいます。梅雨が明けたらあの猛烈な高知の夏ですね。

ようこようこ 2008/06/25 15:41 一番上の写真の麦の艶と、横で寝ている猫の毛が、同じ肌触りのように感じられます
きれいな艶ですね
題名が「麦秋」というのが気になりました
どんな意味が含まれているのですか?
それと、まだ蛍が出ているんですね
いつも思いますが、いいところに住んでるなーー

tmagritmagri 2008/06/25 21:35 >ようこ様
麦秋とは麦の実るこの季節の呼び名で、米が秋に実るので、それになぞらえてこの季節を「麦の秋」といいます。初夏の緑色の山や田畑にあって、麦の畑だけが一面茶黄色なので、知らない人は「あれ?」と思うと思います。
ふふ。いいトコでしょ。

2008-05-19 総合学習

この時期は一週間ごとに作物の様子ががらりと変わっていくので、写真をとってもアップする頃にはもう格段に生育してたりする。

スイートコーンは雑草とともに成育中。

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小麦は花が咲きました。大麦はあっと言う間に黄金色になりつつあります。

稲の作業は大幅におくれて、これから取りかかります。

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 先日、地元の高校から、総合学習の時間に話をしてくれ、ということで出かけてきました。テーマは「地域の将来....」。でも最初から担当の先生は「窪川農業や歴史については授業で出来るけど、地域がどうなっていくか、変わっていく農業については話す人がいないので、村上さんの有機農業でこれからやりたいことをはなしてくれたらいい」と言って下さったので快諾。

 実は教壇に立つのは3回目。一回目は会社員時代、友人の授業(高校の生物)を見学したいといったら見学はダメだけど、外部講師で話してくらたらいい、といわれ、やってしまいました(お互い今では考えられない無茶というか適当というか)。二回目は今回と同じ高校で、くぼかわ新聞いう観光協会と一緒に発行している地域情報紙の関係で。三回目の今回は本業でということになりました。やっぱり本業の話となると、あれこれ考えましたが、自分が彼らと同じ高校生から会社員を経て農業に至った道のりを話せばおもしろいしわかってくれるかな、と思って話をしました。

 生物の授業(だけ)が好きで農学部へ。植物の面白さ(農業ではない。構造や生理のこと)をおしえてくれた大学から社会人へ、物作りというか職人というか技術者というか、何かそういうモノにあこがれて、あれこれ就職活動、バブル期後半、メーカーは営業営業。唯一研究職で採用してくれた化粧品メーカーへ。都会での暮らしはお金がかかる。お金を使わないと生きてはいけない。そのために仕事をする。食べ物や環境について考えた。健康食品担当になって、食生活の矛盾とひどさに何とかしたいと、食品関係へ転職を決意。食べ物を作る仕事といえば「農業」。

 窪川に来た。水がきれいだ。それだけでもすごい財産。美味しいお米がとれる。意表をつかれた。高知ってこんなにいいとこなんだ。土と百姓がいればたいていのモノは作れる、ということを、今もいろんな人から教わっている。

 穂が出始めた大麦と小麦をみんなに見せながら問いかけてみた。麦から何が作れる?パン、うどんビール、麦茶などなど。なぜ作らないのか?買った方が安いし楽だ、作っても面倒で高くて売れないしそれでは生活はできない、という理屈。

 綿の種をみせた。「これはなんですか?」「???」「わかった!綿棒の先っちょ」「正解!」。窪川産の綿。ジーパンもTシャツも作ろうと思えば作れる。都会では買うしかない。田舎でも買っている。自分もユニクロを着ている。でも全く生み出せない環境とやろうと思えば出来る環境とは雲泥の差。

 健康的で食べ物も薬もとれる自然環境と、自分で、この手で作ることが出来る、田畑や百姓というものの財産がどれだけすごい事を内包しているかを話しました。

 時間の関係上あえて有機農業などには触れませんでしたが、話をしていて、ああ、そうなんだな、有機農業とはこういうことなんだと思いました。話が自分でもおもしろかったので、ブログに書き留めておこうと思いました。

 現実はどうあれ、生きていくための根本的なものはこれからも失ってはいけない、というのが将来の農業を語る上で大切と思います。簡単な感想を後日送って頂きましたが、伝わったようで嬉しかったです。

 都会の子供たちとちがって、田舎では当たり前の恵まれた自然環境なのに、それを認識することなくゲームや携帯で遊ぶ。とにかく百姓はもうダメだといわれる。田舎にはなにもないとおもってしまう。それを少しでも変えていければ、と思っています。

2008-05-02 5月は噴出

エネルギーが山や畑全体から噴出している感じ。新芽も吹いて種も発芽する。

生姜の植え付けが一段落。

生姜は、知らない人が見たらびっくりするぐらい大きな種芋を使い、密植にする。すこし混み合っている方が生姜は機嫌が良いようだ。

高知生姜の栽培技術は高い。無農薬で作る場合の違いはあるにはあるのだが、適地適作としての作物と貯蔵も含めた技術あってのこと。

一方で農薬漬けとか言われ、一方で無農薬は病気で不可能だとか言われるが、そう単純なものではない。長年プロの農家で培われた農業技術はやっぱり的を得ているので、無農薬の場合でもすごく参考になる。

もともと有機農業は、資材や農法ありきではなく、土地や作物の性質を理解し機嫌良く生育させてやることが一番だと思っている。自然に学ぶと言うことは、自然と対峙してきた篤農家の先人たちの技術に学ぶともいえると思う。

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先日、保育園トウモロコシの種まきをした。

食育の交流会と4Hの堆肥試験も兼ねてのことだった。畑に子供がいる。手伝いもするがあそびもする。子供たちは「畑でなんかやったなあ」という記憶とともにトウモロコシというものの味と土や畑のニオイが結びついてくれたら良いと思う。

嬉しかったのは、「里芋の事教えてくれたおんちゃん」って覚えてくれていた子がいたこと。うん、それでもいいや。

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2008-04-16 4月は戦争

春が遅く、気温のひくい日が続いて野菜の苗類はおくれぎみです。

しかしこの気候が麦の生育にはよかったみたいで、ここに来て見違えるようになってきています。

写真ではわかりにくいかもしれませんが、大麦は穂が出ました。

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小麦ももうすぐ穂が出ると思います。

4月にはいると、生姜の植え付けやオクラの播種、田んぼの準備など急激に仕事量が増えます。それを晴れの合間にやるのですからたいへんです。

どの仕事を優先して片づけるか、が勝負です。しかも状況によって刻々と変化させていく必要があります。今年のように「雨−雨−晴れ」が続くと、畑を見ながら軍師になったような気分です。

で、生姜の準備は負けました。段取り失敗でたぶん半分の植え付けは大幅に遅れると思います。しかしわかった上で遅らせるわけです。無理をすれば他の作業にも影響し、実りも少ないものです。気は焦りますが、良い仕事をするためには我慢我慢。

こんな感じでこれから一年畑とつきあっていきます。

港の土曜市、オーガニックマーケットに来て頂いたお客様、ありがとうございました。

今は話題になったこともあって出店者もたいへんですので、至らぬ点は多々あるかと思いますが、ご容赦のほど。今後とも宜しくお願い致します。

次回出店は5/10の予定です。

(注*5/3と雨天はオーガニックマーケット自体がお休みになります)

2008-03-30

港の土曜市と題して、オーガニックマーケットが3/22から開催されました。

むらかみ農園は3/22.3/29と出店し、たくさんのお客さんに来て頂きました。本当にありがとうございました。

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初日は、駐車場が満杯になって捌ききれず、禁止区域まで車がはみ出して港湾からおしかりを受けたそうです。2回目は何とかなりましたが、まだまだ始まったばかりで、事務局もいろいろ大変そうです。本当にご苦労様です。出店者も準備とお客さんの販売に忙しくてなかなか周りを見渡す余裕もなさそうでした。私も自分の農産物とお客さんの顔しか見てられませんでした。2回目は少し落ち着きました。

盛況なのは嬉しいことですが、思ったよりも大変ですね。

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4月は生姜の植え付け作業などで忙しいのですが、生姜のご予約も頂きましたし、引き続き出店しようかと思っています。

ゆくゆくはバイオマス食育のことも高知のお客さんと一緒にとり組んでいきたいのですが、まずは高知の土曜市がオーガニックマーケット(高知の自然と人が生み出した手作りのものを、直接販売する市)として定着するようにして行ければと思っています。

皆様もぜひお立ち寄り下さい。

2008-03-11 オーガニックマーケット開催

tmagri2008-03-11

ご無沙汰しておりました。

11月から、あっと言う間に3月。その間いろんな事があって、あわただしく過ぎてきました。

この春、40歳に相成りました。感慨などほとんど無く、まあこんなもんかな、と。

ようやく画面に向かい、ネット社会に復帰しました。また、農業周辺の話題を書いていきます。宜しくお願いします。


さて、この春、「港の土曜市」と題して、オーガニックマーケットが高知県高知港桟橋で開かれます。

これは、イベントではなく、有機農家や手作りの加工品や工芸、日曜品を作る人たちが自ら販売する「市」です。

詳しくは(http://kochiom.web.fc2.com/)です。

毎週の出店はハードルが高いのですが、農産物があるときはなるべく出店致します。

同じ価値観を有する「市」での直接販売は、いろんな「こと」が生まれてくるような気がします。

先日は会場の下見。

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こんなところです。

3月22日、始まります。

むらかみ農園の出店予定を書いていきますので、お見逃し無く!

では、会場でお会いしましょう!

2007-11-07 手作り

tmagri2007-11-07

先日4日に愛媛県内子町で手作り市が開催され、参加してきました。

たくさんのお客さんに、焼きトウモロコシ生姜を買って頂きました。

「手作り」というものの意味と価値を改めて実感できました。

作った人の思いと、買う人の思いがきちんとつながったり通じ合う、もの作りの一番大事な事だと思います。

ほとんどのものがお金で安易に手にはいるようになった時代、効率最優先で来た経済に、作り手も買い手もどこかしら疲れてきている、すごく冷たい商品がうわべだけのサービスで出回っている、そんな気がする人が僕だけでなく、たくさんいるんだなあとも感じました。

だから、この場所にあれだけの多くの人が来て、子供たちの声がして、売り手と買い手の会話が弾む。

楽しく、また貴重な一日でした。

皆さんありがとうございました。f:id:tmagri:20071107213750j:image

2007-10-27 引き続きお米

tmagri2007-10-27

もみすりが終了。(→写真はもみすりしたあとのもみ殻。)

あとは玄米で保管、順次出荷。

おかげさまで、予約が多くて収穫した分は全て行き先が決まっております。

作ったものが喜んでもらえる、これに勝るものナシ。

故に農家は自分で売った方がいい。顔の見える関係は有機農業の大きな柱であります。

良いものをつくれば喜ばれる、喜んでもらえるためにがんばって作る、技術が上がる、また喜んでもらえる、そういう好循環を目指して。病害虫にめげないためには、これが必要なんです。

まあ、畑に出向く原動力は村上の農産物を買う人あってのことのなのです。感謝しております。

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2007-10-19 稲刈り終了

tmagri2007-10-19

朝晩が冷え込んで、秋らしくなった。

稲刈りが終了。と言ってもまだ黒餅米が残っているが.....

今年は台風がなく、イノシシも集落でやった共同柵のおかげで心配がなくなって、楽な米作りだった。もちろん全部うまくいったわけではなく、イモチがでたり雑草が生えたりしたところもあった。

無農薬米は「できすぎない」のがいちばん。病害虫や台風害をへらしそこそこの収穫量を得るための「バランス点」が存在する。

今年は「いいコメ」がとれた田んぼが2枚、27aあった。病害虫がなく、目標収穫量の5俵あって、プックリ穂先から元まで実が入って、止め葉が立って、きれいな黄金色になった。

全てうまくいくようになるには、さて、あと何年やれば出来るかなあ。

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