英語教育の明日はどっちだ! TMRowing at best Twitter

2006-03-29 読めなければ書けない

研究会、ワークショップ、講習会から解放され、少し頭が冴えてきたので、読解について少し書いておこうと思う。「読まずに書けるか」と語研で息巻いたが、この過去ログで直接該当するのは、次の2つだろうか?

こういう時にブログは便利だなあ。この2つの記事は、

  • 西林 克彦 著 (1997)『「わかる」のしくみ;「わかったつもり」からの脱出』新曜社

を下敷きにしたもので、98年くらいに高校生用に作った教材と、授業用のハンドアウトで書いていたものに少々手を入れ、問いかけてみた。その後、同著者により2005年に

  • 『わかったつもり 読解力がつかない本当の原因 』光文社新書

が出ているので、西林氏の著作は結構読まれているのではないかと思うのだが、英語教師はあまり関心がないのだろうか?

英語教育に於ける読解系解説書というと、次の書籍あたりが今風な「リーディング指導」の裏付けを与えているのではないだろうか?

  • 高梨康雄・卯城祐司編 (2000)『英語リーディング事典』研究社
  • 門田修平・野呂忠司編 (2001)『英語リーディングの認知メカニズム』くろしお出版
  • 津田塾大学言語文化研究所読解研究グループ編 (1992)『学習者中心の英語読解指導』大修館書店
  • 同編 (2002)『英文読解のプロセスと指導』大修館書店

これら今風の本とかなり性格を異にするのが、

  • 田鍋薫『英文読解のプロセスの指導』渓水社(2000)

大修館の本とは一字違い。(この田鍋氏の本は、過去ログ http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20050301 で紹介しているのでそちらも参照して頂きたい。)

私は断然田鍋派である。西林派といっても良いかもしれない。訳読・遅読が批判されるとすれば、それはbottom-bottomの読みで終わっていて、いつまで経ってもtopへとたどり着けないから、統一した主題へと突き抜けてくれないからである。今はやりの「和訳先渡し…」の手法がreadingで用いられるとするならば、学習者はいつ「部分の記述から統一文脈を引き出す」訓練をするのか?最近はチャンキングの利点ばかりがもてはやされているが、なぜチャンクに区切って情報処理をしても「腑に落ちないのか」という部分をクリアーしない限り、精読を超えたことにはならない。

「読めない」という時に、そのほとんどは、語彙と文法(統語処理でも構文解析でも好きな呼び方でどうぞ)が自分のものになっていないために、使いこなせていないからである。

「自動化」と言うのは簡単だが、どうやったら多種多様な文法構造を自動化できるのか?成熟した語彙を使いこなせるのか?

例えば、英文を読む時、日本語で同じレベル、またはより高いレベルの「足場」を構築できている学習者は、読み手として自分が作り上げたスキーマが、書き手のスキーマに重なるか包括するわけだから、「読めた」と思える「話型」とでもいうものを自分の中から引っ張り出してくることが可能なわけである。それは英語を読んでいるのではなくて、自分の中にプールした、または再構築した「意味」を読んでいるだけではないのか?

では本当にその英語が読めているのか?その英語は自分のものになっているのか?

「意味は読めたけれども、英語は6割くらいしか自分のものになっていない」とか「いやこのレベルの英文であれば100%自分のものとして取り込んでいる」、というような、ぐずぐず、どろどろした作業が教室での読解の訓練ではないのか?

その意味では、中学高校、塾や予備校も含めて、教師の指導法、学習者の読解方法を文法訳読などと十把一絡げにするのはまずかろう。

今風の指導に適した教材で、今風の指導を受けているのに、なぜTOEFL(R)のレベルの英文読解ができないのか?一字一句に囚われ、逐語訳をしているから?それは嘘だろう?読むスピードが遅いから?

現象としてそれは正しい。では、なぜ遅いのか?

TOEFL(R)のリーディングセクションが時間切れになる、という人は、センター試験の問題ならはじめから順に解いていって最後の物語・随想の読解問題まで時間内に終わるのだろうか?ICUの読解問題であればスラスラ読めるだろうか?慶応のSFCの問題は大丈夫だろうか?では東大後期文系の読解問題はどうだろうか?では京大の和訳問題で出される英文はスラスラ読めるのだろうか?

学習者はどこかでハードルが高いと感じているはずなのである。とすれば、教師の仕事は?

  1. 跳躍力そのものを鍛える
  2. その前にもっと低いハードルをたくさん跳ばせて、「跳べた!」感を高めて、ハードルを越える技術を鍛える
  3. とりあえず補助をして跳ばせてあげる

あなたなら、どれを選ぶだろうか?

書くために読むのであれば、その選択は生命線である。

mikamamamikamama 2006/04/05 22:14  毎日膨大なブログを書き続けていらっしゃることに敬意を表します。
 ところで、読解の指導は、どうあるべきなのか、悩んでいます。ボトムからトップへ(または逆)のギアシフトは、どうあるべきなのでしょうか。うまくやらないと、エンストを起こしてしまいそうです。
 概要をつかませるだけだと、生徒は英文を深く読み取れているのか、疑問に思えてしまうことがありますし、一方チャンクごとの意味にこだわりながら読ませて、英文を日本語に置き換えられたとしても、本当に内容が理解できているのかなあ、と思うことがあります。
 「読んでわかる」とは、どういうことなのか、西林氏などの本を読んで勉強しようと思います。ご紹介感謝します。

tmrowingtmrowing 2006/04/06 06:34 コメントありがとうございます。自分の専門分野だと英文読解が楽に感じることがありますよね?あの状態は本当に英語を読んでいるのか時々疑問に思います。英語で自動化された読解をしているのか、それともパラレルな日本語での意味内容を惹起しながら読んでいるのか?そんなところから私は読解のプロセスを見直そうと考えています。教室では上の記事の、1から3まで全部やらないとだめなわけですが、その組み合わせや段階、素材文の難易度などをシラバスに組んでいくところではまだまだ課題が多いと思っています。今後ともよろしくお願いします。

mikamamamikamama 2006/04/06 20:21 お返事ありがとうございます。母語で読んでわからないものは、習熟度の低い外国語で読んだら、なおさら理解できないものですよね。
 英語の教科書には、私自身がよく知らない分野の話が出てくるので(バイオマス、遺伝子組み換え食品、ある特定の国の風俗など)、図書館の児童書コーナーに、立ち寄り、図や写真がたくさん出てくる本を借りてきたりします。最近の教科書は、ノンフィクションの題材が中心になっているため、知識は豊富にはなるのでしょうが、生徒に読ませるには、ハードルが高くなりがちだと思います。
 読解のプロセスについては、とても興味深いものがあります。また、引き続き、ブログを読ませていただきます。こちらこそ、どうぞよろしくお願いします。

2006-03-28 SELHiの成果を検証する

今回の語研の講習会では、モデルシラバスとしてこういうものが望ましい、という提案や、評価基準としてこういう枠組みが相応しいということは示さなかった。最終的にこういう英文が40分で2本書けるようにするにはどうすればいいのか?逆算で指導手順を考え、生徒・学習者が困難に感じる要因を想定してみるという作業が受講者にも要求される過酷な講座であったかと思う。

いわゆる自由英作文の評価の枠組みとしては、ベネッセコーポレーションがSELHi校の実践や研究成果をデータベースとして公表している(http://benesse.jp/berd/center/open/kou/view21/2006/sp/selhi_database/index.html ) ので、そういうトレンドと比較して頂ければ、今回の私の言わんとするところをくみ取って頂けるのではないだろうか?

例えば富山県富山南高校の「自由英作文採点基準」(こちらでファイルがダウンロードできます→http://benesse.jp/berd/center/open/kou/view21/2006/sp/selhi_database/detail/tokai_hokuriku/toyama/034/material/toyamaminami05.doc )と今回の私のワークシート集7,8に示したSelfcheckのリストを比較してもらえれば、どのような英文を良い英文だと考えているのか、が根本的に異なることがわかると思う。

データベースを概観してみて、現行のSELHi校で、ライティングに関して理論と実践のバランスのとれた真っ当な指導評価をしているのは福岡県立香住丘高校ではないだろうか?県下有数の進学校でもある中で、英語科がチームとして有機的に機能しており、どのようなことができれば英語の力があるといえるのか、どのように英語力を伸ばしていくのか、を技能間連携を含めてcan-do statementを整備するなど、次世代SELHi校のrole-modelたり得る取り組みだと考えている。(http://benesse.jp/berd/center/open/kou/view21/2006/sp/selhi_database/detail/kyushu_okinawa/fukuoka/051/051s1.html

講座でも駆け足で説明したが、これからのライティング指導では

  • プロセス・ライティング
  • ピア・レスポンス

などは普及し流行するだろう。

しかし、なぜプロセスなのか?書き手の数だけストラテジーがあり、上位者の用いるストラテジーを下位者に強要しても上手く行かないことがわかっているのに、ストラテジー先行でprocess-orientedな指導を推進しても大きな成果は得られないだろう。

根本にあるのは、教室でのライティング指導においてdirect feedbackを与えることは極めて困難である、という制約である。であれば、どのように擬似的なdirectさを演出するか?その仕掛けこそがwhile writing phaseの取り出しであり、プロセスライティングなのだろうと考えている。

そしてなぜピア・レスポンスなのか?ESL型のピア・レスポンスを取り入れる際に、学習者の習熟度を均質化してしまうと恐らく失敗する。学習者間のProficiencyのギャップをうまく活かすことを考えるべきである。そのためにも、教授者・教師が普段からどのようなfeedbackを与えているかを明示し、整理する必要がある。ピア・レスポンスを活かすためにはガイダンスとモデルと段階的導入が不可欠であることを心の隅、頭の端に置いておいて頂きたい。ここを考慮せず、ただピア・レスポンスという手法を取り入れておいて、「習熟度が高くないと効果的なレスポンス、フィードバックを与えることができなかった」とか「与えられたフィードバックを学習者が適切に処理することができなかった」などという研究成果を出すのは恥ずかしいと思った方が良い。

冒頭であげたデータベースだが、これは本来、SELHiというお祭りを仕掛けた文科省の仕事ではないのか?研究授業や公開授業をアーカイブにして、アクセスできるようにする計画があると、昨年度のフォーラムでは豪語していたのに、こちらは計画倒れなのか?屋台骨のSELHiの企画そのものが倒れないことを切に願う。

「検定教科書にも検定の段階で優・良・可がある。赤点じゃなければやっぱり検定は通るんですよ」とかつての教科書調査官から聞いたことがある。お粗末な教科書は採用しなければ、消費者である生徒も被害を受けない。ただし、教師が教科書を選べるのは高校だけである。

教科書と同様、SELHi指定校にも指定の段階で優・良・可があったとするならば、今年可のついた高校が次年度単位を取れる保証はあるのか?もし不可となってしまえば被害者は生徒であり、保護者であり、教職員である。せっかくデータが公表されているのだから、世間一般の人の目がSELHiの動向にきちんと行き届くよう英語教育界は努力する必要があるだろう。

2006-03-27 語研春期講習会

朝一で、卯城先生のreadingに関する講義から参加。昨日の今日だけに流石にきついが、有意義な講義だった。テーマはありふれたものではあるが、細かいところを見ると、Top-topやbottom-bottomでない方法論を考えるヒントをちゃんと示してくれていたのだが、どのくらいの受講者がそこに気付いていただろうか?直接お話する時間は取れなかったが、今後押しかけるつもりでおります。その節はよろしくお願いいたします。

私は、田尻先生の講座の後を任されていたので、本当に緊張した。

9回表で走者一掃の逆転安打を放ったイチローのあと、打席に立つ松中の心境か?「いや、9回裏をピシャリと抑える大塚のつもりで話をします」と言い切って始めた。

司会をしていただいた四方先生から帰宅後メールで「豪速球」というお褒めの(?)言葉をいただいたが、とりあえずボールは投げたかな、という感じ。投げっぱなしジャーマンスープレックスというべきか。

ただ、ライティング指導は実際のproductがなければ話ができないし、さらには指導のprocessが見えないと議論にならない。実際に書かせた経験のない人に実践のレベル、喜びと苦悩を理解していただくのは難しいのだが、今回の資料として添付したワークシート・ハンドアウト集をゴールからスタートまで逆算で眺めて行き、さらにそれをゴールへと辿り直してみると必ず「見えてくる」ものがあるはず。うちの高3生がわかったことを英語教師や教師志望者がわからないわけがないと信じています。『表現ノート』と『英語俳句』が時間の関係で紹介できなかったのが残念。

参考資料やシラバス化にあたっての疑問点などはメールをいただければ誠実に対応いたします。

Sentence level accuracyに関しては最後の質疑で理解していただけたことと期待するが、例えば、

助動詞と時制のズレで

You should have known better than to drop such an offensive remark about her.

または仮定法で

If I won the lottery, I would buy a mansion.

という英文を和文英訳や、空所補充や整序完成で作り上げるとしても、「つねに予め答えとして要求する英文はそこに存在している」課題をこなしているに過ぎない。Open-endedな、開放型の課題の中で、

You should have ….

の…の部分を言わせる(書かせる)

If I ..., I would....

の空所を言わせる(書かせる)ような状況設定とトレーニングを課すことが望ましいし、そういうトレーニングがあって初めて「文法演習」の意味づけが変わると思うのである。中学段階では田尻先生が正に指導している。そしてそのために3年間の仕込みがあるわけである。では高校段階での仕込みとは?英語I,英語IIの普段の言語活動の改善。音読・筆写、シャドウイングで型・パターンを馴染ませたら、頭に浮かんだ意味を、英語によって表す活動を課す。いわゆる「自由英作文」的な活動がパラグラフライティングである必然性はないのである。一文を自由に書かせる、とするなら何を書かせるのか?この発問なら、この項目が活かせる、このトピックならこのパターンを使わざるを得ない、というのは生徒に書かせ続けていれば見えてくるものなのだ。

その点では、今流行の認知意味論や脳科学の成果をそのまま授業改善に取り入れようとしても期待する成果は得られないだろう。現場感覚があるのみである。まさにK先生の言う「現場の矜持」である。

講座のタイトルの「ライティング指導の明日はどっちだ?」で、結局どっちなの?!という不満にお答えするなら、もう一回講師で呼んでもらうしかないでしょう。よろしくお願いします。

講習終了後は、同郷同窓でもあるT氏と商談(?)。終了時間を見計らって中野まで来てくれているところが流れ石。本当に久々に北海道話で笑った。あとは文学談義。ポストコロニアル文学の話や最近私が嵌っている詩人のSuji Kwock Kimの話等々…。良い仕事が生まれそうな予感。気を遣ってくれ、なかなか早い時間に帰宅できました。多謝。

本当に疲れました、本日はこの辺にしとうございます。

tmrowingtmrowing 2006/03/28 04:26 一部字句修正しました。

2006-03-26 「教科書著者による指導法ワークショップ」

日曜日はELEC同友会のワークショップ。

中学校の教科書改訂のタイミングもあり、中学の部は盛況でした。高校の部は会場が普通教室で手狭と言うこともあり参加者に不便を感じさせたかもしれません。それでも会場を使わせて頂けて多謝深謝です。

前日の夜に、講師の一人がインフルエンザでダウンという知らせがあり、急遽ピンチヒッターで朝一の講座を担当することに。「問を立てるスキル」ということで考えて準備したのだが、最後の生徒の発表 (acrostic) まで首尾一貫性があったか、といわれると正直不本意な内容。ただ、

  • fact-finding questions vs. personal involving questions
  • display questions vs. referential questions

の枠組みはとりあえず英語教育界では常識かと思っていたのだが、そうではなかったことがわかったのは収穫。

斎藤栄二先生や吉田研作先生が力説されていることでもまだまだ浸透していないのだから、私が何に対して問題提起をしているのかをわかってもらうにはまだまだ時間がかかるでしょう。

私が普段使っている、global-local とinferential-literalの軸を交差させてマトリクスをつくる枠組みも提示、さらにopen-closedのタイプ分けをして、教師・生徒が使いこなせる質問のスキルを上げましょうという趣旨。チャンスがあれば、もっと練っておきたいネタです。

ネット環境でしか存じ上げない広島の山岡大基先生と初顔合わせ。こうやって知り合いが増えていくのは嬉しいものです。

午後の講座は「教材研究」に関して。こっちがメイン。

  • テクストタイプに配慮せよ
  • outputを急ぐな、安易な自己表現に逃げるな
  • top-top, bottom-bottomになっていないか自問せよ
  • 映像のインパクトだけではなく、「ことば」で勝負せよ
  • 紋切り型ではなく、テクストタイプとしての型をしっかり教えて、内容で個性を出させよ

ということです。

講座はその場のノリとかダイナミクスがあるので、わかったつもりになりますが、結構難しい問題に切り込んでいるので、家に帰ると「結局何を言ってたんだろう?」ということになりがちです。付録でつけた、書籍リスト、生徒のアンケートなどを落ち着いてじっくり読んでもらえれば何か響くものがあるでしょう。

疲れました。明日は語研です。

うずめうずめ 2006/03/27 20:15 こんにちは。ご挨拶させていただいた広島の者です(笑)貴重なお話を聞かせていただき、ありがとうございました。ワークショップではとても考えさせられました。tmrowing先生の問題提起を読み取れたかどうかは不明ですが、教材の意味内容に関わってコミュニケーション志向の活動を行う前に(あるいは、それだけでなく)言語面からでも教えるべきことはまだまだあるのだな、という思いになりました。私自身を振り返ると、特にディスコースや言語の機能面に関する知識がまったく不足しているようだということがよくわかりました。なお、発問の分類に関しては、ある程度は常識と言ってよいと思いますし、無意識的にもそういった分類をしている教員は多いのではないでしょうか。ただ、”display/referential”といった用語はあんまり浸透していないようですし、ということは、そういった用語を目にするような勉強をしている教員が多くはない、ということかと思います。私はといえば、tmrowing先生のお話を聞いて用語も概念もすぐに理解はできましたが、普段から意識的に整理しながら発問を作っているかといえば、全くできていない、という状態です。

tmrowingtmrowing 2006/03/27 21:35 コメント深謝。私のような現場上がりの人間の存在意義はまだあるということでしょうか。やはり高校段階は今こそ「ことば」の授業を取り戻すことが肝要なのだと思います。発問に関しては、あくまでも例を示しただけですので、あとは自分の授業の目的と学習者の実情に応じてさじ加減をふるって欲しいと思います。
今回は2つも見ていただいてありがとうございました。

tmrowingtmrowing 2006/03/28 04:55 翌3月27日の語研の春期講習会で筑波大学の卯城先生によるReadingの講義がありました。そこでは発問の3タイプとして、FF型、Inferenceを要求する型、タイトルを付けるなどGeneralization型という分類を示していました。
referentialに関しては、質問に関して日本でこの用語を広めたのは上智大の吉田研作先生ではないかと思うのですが、ASTE(上智大出身の英語の先生方の研究組織?)のサイトに過去の資料があるのではないでしょうか。George Yuleが1997年に発表した、Referential Communication Tasks (Second Language Acquisition Research Series Theoretical and Methodical Issues) などで用いられているreferentialという語の用いられ方とは異なるので注意が必要です。

2006-03-24 期間限定

村上朝日堂がweb上で復活とのことで覗いてみた。

  • 僕は世間では「ろくでもないやつ」みたいに思われていることが多いようです。だから僕だって、自分が村上春樹であるということをできるだけ隠して、こそこそと生きています。あなたなんかまだ他人だからいいですが、本人としてはずいぶん大変なのです。隠れキリシタンどころか、天草四郎が山の中を逃げ回っているようなものです。「ふん」と馬鹿にされるくらいで傷ついていてはいけません。がんばってください。でも人前であまり「村上春樹が好きだ」とか言わない方がいいかもしれませんね。アンリ・ルソーが好きです、くらい言っておけば、向うもそれ以上追求してこないと思います(たぶん)。 村上春樹

読者&村上春樹フォーラム 06年3月8日〜3月10日 (http://opendoors.asahi.com/asahido/forum/002.html )

加藤典洋の『村上春樹イエローページ』(荒地出版社)や『村上春樹論集』(若草書房)が出てもなお、私は、努めて村上春樹にコミットすることを避けて生きてきたのかもしれない。とすれば、山の中を逃げ回っている天草四郎から逃げ回っていたと言うことか?そうすると逃げ回っているもの同士の大いなる遭遇がいずれあるのだろう。期待しよう。

締め切りの迫っていた、

中央教育審議会教育課程部会「審議経過報告」に対する意見募集について(http://www.mext.go.jp/b_menu/public/2006/06022805.htm)

に意見を送ってみた。目安箱に入れた書状はかならず上様がお目通しになりますから、というシステムなのか?誰が上様なのかが今ひとつ実感が湧かないあたりは、村上朝日堂より心許ない。

ちと長いが全文引用。

  • 「2 基本的な考え方 1. 具体的な教育内容の改善の方向 2)国語力・理数教育・外国語教育の改善」に関して、英語教育に特化して意見を述べるものである。
  • 「また、教育課程実施状況調査では、書くことが良好ではなく、特に内容的にまとまりのある一貫した文章を書く力が十分みについていない。このため文字や符号を識別し、正しく読み、書くことができることを確実に定着させることはもとより文レベルでなく文章レベルの訓練が必要ではないか。」とあるが、指導要領でさえ、英語において「書くこと」の能力を定義づけられていない現状では無理な注文というものである。英国でのナショナルカリキュラムにおける8段階(+例外的能力)のバンドスケールのように、またはカナダに於けるCanadian Language Benchmarksのような発達段階と現実に「何ができると書く力があるといえるのか」という具体的な能力指標をまず明らかにする必要がある。
  • その観点では、「例えば、1分間150語程度の速さの標準的な英語を聞き取ることができること、与えられたテーマについて1分間程度のスピーチができること、300語程度の英語を読んで概要をとらえることができること、与えられたテーマについて、短時間で5分程度のまとまりのある英文を書くことができること、など具体的な到達水準を設定して、理解力・表現力等の育成を進めて」いくことは不可欠である。
  • その際に、「同じ1分間で150語の速さで話される(読まれる)英語であっても、言語材料の違いによって聞き取りの困難度は異なる」ということを、教師・生徒のみならず世間一般の人々にも広く理解をしてもらわねばならない。話すこと、読むこと、書くことにおいても同様である。Can-do list/ statementなどのproficiency scalesを整備していく中で、言語材料と定着・発達の段階を精査していくことこそ有識者・学識経験者に求められている作業であろう。
  • 英国ナショナルカリキュラムの例を出したが、その後英国の教師たちは、Inspectionに対応することを余儀なくされ、成果を報告するための夥しいpaperworkを課され疲弊してしまっている。John Cosgrove (2000), Breakdown: The facts about stress in teaching , Routledge Falmerではその様子がリアルに描かれている。日本の教育改革を推進する方たちに是非目を通して欲しい本である。
  • 現場教師たちの人的リソースが健全に活かされるような改善を心より求めるものである。

こちらの遭遇はどうなっていくのだろうか?

2006-03-23 授業の視点と立脚点

今日は習熟度別クラス編成作業。非常勤講師の参加は任意という案内だったので、初参加しました。習熟度別編成は、英語力の養成はもちろんのこと、生徒個々の動機付け、内部推薦への対応など制度そのものは様々な課題を孕んではいるものの、今回の作業を見る限りではとても良心的な取り組みをしていると感じた。自分の担当クラスなどは一応わかってはいるが、新学期のお楽しみということで。

ELEC同友会のワークショップ、語研の春期講習会とも、準備完了。同友会の方は持ち時間が45分しかないので、参加者に実際に考えてもらうquestionを絞りに絞った。異なるQだが問われていることはほぼ一貫していると思う。最後に10分程度語りたい。

語研の講習会は27日分は定員50名に達して既に締め切られたとのこと。こちらは80分で「高校生にふさわしいライティングの地平」を見渡すので相当に忙しいですよ。私の前の田尻先生の発表に感動の余り目がウルウルしていたら、資料のどこをやっているのかわからなくなっちゃうから気をつけて下さい。

高校段階でこれだけのことができますよということを示すことも狙ってはいるが、それよりも、巷のライティング指導で主流であったり、効果的だと言われている指導法を取り入れる際に、ここに気をつけないと失敗しますよ、ということを示したい。

『英語教育』4月号(大修館書店)を読む。今月の特集は「指導の基礎・基本に立ち返ろう」。新年度ですから、まあ妥当なトピックでしょうね。

卯城祐司氏(筑波大学)による「教案作成の基礎・基本」は手堅い印象。それでも気になるところが。p.13で、

  • 「言語理解のプロセスの意識化」は、教える生徒にとっての未習事項そして苦手な既習事項を把握し、つまずく箇所を予測することである。これが意外と難しい、何故なら、われわれ英語教師は、教科書で扱う英文であれば、おそらくほぼ無意識に処理することができるからである。」

というのだが、本当だろうか?

高校段階の素材を扱う場合には、無意識に処理して、自分では理解しているつもりで、読み間違えている場合がことのほか多いのではないだろうか?また、ここでいう「理解のプロセス」は暗黙のうちに、listeningやreadingの活動を想定していないだろうか?卯城氏は、私が今最も注目している大学人の一人である。語研の講習会では27日の1コマ目を担当されるので、じっくりと話をしてみたいのが、そのチャンスはあるだろうか?

同4月号からは、「授業のここにフォーカス」というELEC同友会による授業の紹介とポイント解説の連載開始。第1回は、本多敏幸先生の授業を関典明先生が解説するもの。どのくらいの反響があるだろうか?ビデオで1回の授業を通して見て、それについて講評する、というスタイルを同友会は貫いてきたのだが、授業の目的に応じて使い分けるべきではないかと最近は強く感じる。いいとこ取りでパッチワークになったビデオを見ても得るところはないが、50分通して見たとしても「視点」がなければそれほど多くを得ることはできない。この点に関しては、昨年の『語研ジャーナル第4号』で、2004年度研究大会公開授業の学生の部の講評で河村和也氏が書いていることが的を射ていると思う。該当部分のみ引用。

  • 「ビデオを視聴しながらの解説では、必要に応じて映像を止め、特に学生が見落としがちな点については丁寧に解説しておられた。また、授業は1回きりのものではなく、年度当初から積み上げてきた教員と生徒の人間関係の上に成り立っているものであることを力説された点は印象的であった。教員志望の学生諸君の中には、実際の授業を見学したいという要望が数多くあるようだが、たった1つの授業をただ眺めているだけでは学ぶところはないと言ってもよい。大切なのは授業の見方である。」

「ライティング」という科目の指導を考えた場合に、oral introductionやoral interactionでの言語材料の導入が本当に最終的なproductの向上に効果的であるか、残念ながらよくわかっていない。ライティング力を伸ばすにはライティングを教えることが有効である、そのためには「良いライティングとはどういうものであるか」を教える必要がある。では「良いライティング」とはどういうものなのか?今回の語研の春期講習会では、視点を提供するとともに、立脚点を確かめてみたい。

Enzo Enzo  2006/03/26 01:58  はじめまして。福島で高校教員をしている者です。27日の語研の研修会を希望しましたが,残念ながら定員により受けられないと断られてしまいました。来年度4月から本格的にライティング指導を始めたいと思っていましたのでなんとか先生のお話を聞きたいと思っていたのですが,研修会の存在を知るのが遅かったようです。次の講演予定かまたは先生の著書などがあればぜひ教えていただきたいのです。よろしくお願いいたします。

tmrowingtmrowing 2006/03/26 04:30 語研は定員があるので事前予約が必要、ともっと早く告知するべきでした。申し訳ない。
ライティング指導に関しては、
GETC writing training というベネッセコーポレーションの通信講座の監修をしています。ほぼ、私の年間シラバスを踏襲していますのでご参考までに。

tmrowingtmrowing 2006/04/05 08:08 7月に福岡でライティングの研究会を予定しています。8月にELEC同友会でサマーワークショップがあり、11月にELEC同友会の全国大会があります。

2006-03-22 My Baseball

Baseball is caring. Player and fan alike must care, or there is no game. If there's no game, there's no pennant race and no World Series. And for all any of us know there might soon be no nation at all.

The caring is whole and constant, whether warranted or hopeless, tender or angry, ribald or relevant. From the first pitch to the last out caring continues. (Sports Illustrated, October 8, 1956)

こんなリズムで、作家のWilliam Saroyanがスポーツ雑誌の『スポーツ・イラストレイテッド』に寄稿した3ページ足らずの文章は始まっている。この話は1993年にCrescent Booksから単行本化されたBaseball という野球に関するエッセイ集の最後を飾っているのだが、つい最近までサロイヤンの文章が収録されていることに気が付かなかった。本は最後まで読むものですね。1956年と言えば、ワールドシリーズはヤンキース対ドジャース(LA移籍前でブルックリンを本拠地にしていた)のニューヨーク対決であった。

1954年以降、約40年にわたって掲載された数々のエッセイから感じ取れるのは「野球を前にすれば、自分に嘘はつけない」とでもいえるアメリカ人の行動様式・思考様式で、その意味では極めて相応しいエッセイで締めくくったと言えるかもしれない。

「登場人物は何げない男女であるが、現代という太古の中に生きているといった感じである」とサロイヤンの作品を評したのは熱烈なファンであり訳者でもあった小島信夫であった。

サロイヤンの物語の登場人物が備えている、「善良で」「人間的」な価値観・資質、私のような英語教師を魅了してきたアメリカの「魂」は今や風前の灯火なのだろうか。

2006年3月21日。日本代表チームはWBCで優勝を果たした。キューバ対日本の決勝戦の開会セレモニーでアメリカ国歌が流れた時、極めて大きな違和感に襲われた。この大会でのアメリカという国(民)の在りように関しては、内田樹氏が自身のブログで書かれていることに共感を覚える。(「アメリカの凋落」http://blog.tatsuru.com/archives/001612.php

たかが野球、されど野球である。野球教の信者、無神論者はもちろん、殉教者にさえ必要なのはプロパガンダでもモダリティーでもなく健全なユーモアなのかもしれない。

サロイヤンは自分のエッセイをこう結んでいる。

Well, is it a game? Is that all it is? So the Dodgers win it again in 1956. So the Yanks win. What good does that do the nation? What good does that do the world?

A little good. Quite a little.

And there's always next year, too.

イチローと大塚はアリゾナへ、日本チームは成田へと帰っていった。次の「喜劇」の幕が開くのは3年後のはずである。

2006-03-21 モノ書けば懐寒し入り彼岸

K先生のお誘いで、某予備校の東大入試分析会なるものに参加。データの説明は後付けの理屈みたいでよくわからない。教科別の入試問題分析は、担当講師が二人。メインの講師の話は今ひとつ深みに欠けるもの。東大の英語で差が付くと思われるリスニングの分析も、ライティングの分析も甘甘。特に再現答案をもとにしたライティングの採点がちょっとお粗末だった。余録のような位置づけで最後をまとめた講師の方が「予備校行くなら、こういう人の話を聞かないとなぁ」と思わせる内容で良かったです。その後の情報交換会では、全国の「やっぱり、みんな東大でしょ」という高校から「めざせ東大!!」という高校まで各教科の先生が話に花を咲かせていましたとさ。いやーっ、疲れた。

語研の春期講習会用ハンドアウト集、印刷とホチキス止めが面倒になって、結局コピーセンターに頼んだ。中野サンプラザまで持って行くことを考えると重たいのは嫌なので両面コピーで。ページ当たり1.3倍のコスト。完成したのは良いんだけど、講師謝礼から足が出てしまいました。ガックリ…。

今日は、高校入試英語問題第二弾。

東京都立八王子東高校の出題を取り上げる。(pdfファイルはこちら→ http://www.tnet.metro.tokyo.jp/~T067/06nyuushi/18eigo-all.pdf )

例によって、大問の2は対話文形式。ただ設定がちょっと面倒。「授業の中でビデオを見てその後クラスでディスカッションする」というのを長々と読ませるもの。リスニングでやればいいのにねえ。状況設定のト書き部分43語の中で既に注が4つもついてしまっている。対話の後半、ビデオ視聴から、クラスでのディスカッションになったと思しき部分でのやりとりが以下の対話。

  • 先生:So, any comments? Yes, Jessica.
  • 生徒:I think people in the story are tied to the clock.
  • 先生:Tied to the clock? What do you mean?
  • 生徒:Well, they worry about being on time.

この対話、自然に聞こえますか?

注の付いている語はなんだと思いますか?

comment「意見」、be tied to ...「…にしばられている」、on time「時間通りに」

この注の付き方に違和感を感じませんか?

Tied to the clockの意味は、問い返しを受けて明らかにされるのだから、そのあとの言い換えがわかれば注は不要でしょう。そこに注をつけたら、原文で言い換える必然性がなくなっちゃうもの。ところが、言い換えて説明している語句にさらに注が付いている。注をつけましたという既成事実が必要だということでしょうか?

今回最も感心しないのは、問9。

日本人生徒と思しきYukiがどっちつかずの感想を述べるのに業を煮やしたBenが、Oh, Yuki, what is your opinion? と問いつめるわけだが、その質問の意図を問うもの。

正解は ゥ.Ben wants to know Yuki's opinion.

この設問では、この英文一文が理解できていることを問いたかったのか、それとも文脈を把握した上で対話を理解していることを問いたかったのか?

出題者は「内容理解を見たかった」とでも言うつもりだろうか?

関係者の「ご意見」を聞きたいものです。

2006-03-19 これでいいのか、高校入試英語問題

昨日は英授研。

会場入りしてすぐにK先生から、「『英語青年』、書店で売り切れでさあ、まだ読んでないんだ。」と声をかけられる。K先生なら、大学入試批評に鋭くつっこんでもらえるかなと思っていたのだが、またの機会に。会員になったのと、K先生に誘われたのをいいことに、調子に乗って懇親会にもお邪魔した。関係諸氏、ご迷惑をおかけしました。

今回の講演(?)は、高橋一幸氏(神奈川大学)による「教科書検定を考える」。検定制度ではなく、教科書執筆編集に関わる視点・哲学などを熱く語るもの。付録に付いていた「平成18年度版中学英語教科書各地採択結果」を見たが、採択制度をなんとかしないと、著者の苦労が報われないだろうなぁ。著者をやっていれば、確かに採択が伸びれば嬉しい。会社もそうだろう。ただ、ある県では、どの地区も特定の一社の教科書しか使っていない。そして、そんな県が一つではないのだ。北からみていくと、岩手県、宮城県、福島県、茨城県、福井県、愛知県、滋賀県、鳥取県、香川県。しかもその全てが、同じ出版社。営業部の壁面に区域が割られた日本地図があって、採択地域は赤で彩られ旗が立っていたりするのだろうか?

ある都道府県で、統一シラバス、統一評価基準を作成する必要上、その都道府県すべての公立中学校で同一の教材を使わなければいけない、などという理由があるのだとすれば私も我慢できるが、どうやらそうではなさそうだ。先日(3月17日)に報道された「特殊指定」廃止の方針を考えると、中学校の教科書採択には大きな不安を感ぜずにはいられない。(「特殊指定」廃止、に関しては→http://www.asahi.com/national/update/0316/TKY200603160359.html

英語教育に関して「世間」に知らしめていないことはまだまだ多い。

この時期、公立高校の入試も一段落だろう。

大学入試英語問題に関しては『英語青年』4月号で取り上げられているが、公立高校の入試問題というのは、最近きちんと批評されているのだろうか?高校でのライティングに関わる発表をする際に、「全国の公立高校入試を広く眺めると、既に多様なライティングの出題が取り入れられていることに気が付きますよ」という趣旨のことを述べているのだが、公立高校の先生は自分の地域の入試問題しか知らないことが多い。最近の東京都立高校のように、独自入試といって、公立高校が自分の高校の入試問題を自分の所で作っているところもある。限られた人的リソースの投入という制約を鑑みた時、健全に入試作問批評がなされる必要性は高いだろう。

ということで、名門、都立日比谷高校の18年度入試問題を取り上げる。高校批判が目的ではないので誤解なきよう。

出題方針・解答も含めて、http://hibiyaweb.web.infoseek.co.jp/annex/exam/H18/index.html からpdfファイルでダウンロードできます。(このサイトが同窓会関係のサイトであって公式サイトでないことにはちょっと驚いたが…。)

大問は3つ。1.はリスニングなので都立高校共通のはず。2.は対話文の長文に基づく出題。3.は物語文に基づく出題。

2.の対話文長文に関しては、独自入試を行っている都立高校に共通の枠組みらしく、とにかく長い対話を「読まされる」のだ。このブログでも、大学入試の事例として首都大学東京の出題を批判した(http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20060112)が、コミュニケーション志向を打ち出したいのであれば、リスニング問題こそ充実させるべきである。

高校入試の物語文は読み物として考えた場合には高校での速読用教材として重宝するのだが、この日比谷の出題はいただけない。約1000語の文章。

設問で最も感心しないのは、問2.

a.からf.までの6つの空所に、対話文を補充して、対話を完成させるもの。対話は連続している。しかも6つも。さらに、解答方法は、正しい組み合わせを選んで記号で答えるもの。(ここに転記するのも腹立たしいくらいの設問なので、是非実物を見て下さい。)知性とはおよそ無縁の認知負荷を要求する。しかも、その設問は問題の中程にあるため、この対話が全滅だった受験生は、そのあとに続く文章の読解に大きく支障を来すことになる。

問1.でもセリフが1カ所空所になっており、そこに4つの選択肢から1つ正しいセリフを選ぶ設問があるのだが、この問1と問2が同じ配点(4点)なのですよ。私なら問2を捨てるね。

問3.では、本文中の一文に下線を引き、物語とは別に、登場人物の日記を持ち出し、その日記の記述を完成させるもの。

問6.では、本文の内容と合う英文を5つのうち1つだけ選ぶもの。約1000語あって、そのうち真ん中でセリフが6つ抜けているんですよ。その文章をもう一度読み直して、一つ選ぶの?

問7.は本文の主題に関わるいわゆる「自由英作文」。30語以上で答えるもので、配点は12点。採点基準は例によって非公表。

この約1000語の物語文に、語句の注が21個です。指導要領では必修語は100となっているので、注をつける語の目安は検定教科書7社で3年間に一度も扱われていない語ということになるだろうが、もしそうだとすれば、はじめの40語、50語を読んでいてわからなかった語がある受験生には、文章の900語ほど先、一番最後についている注を見て、さらに本文にもどってという作業を課しているわけである。注をつけなければならないような長文を出したいなら、傍注(側注)にしたらいいだろうに。この注の実数の多さは、日比谷高校に限らず、独自入試を標榜している都立高校に共通する問題である。「未習語の割合は50語に1語なのだから、200語の文章で4語に注が付いているのと同じことでしょう」とか「確かに難しい語は入っていますが設問には直接関係ない語で、しかも注がついているんだから受験生は読めるでしょう」という理屈なのだろうか?

関係者の猛省を促したい。

mousemouse 2006/03/19 20:52  高校入試での単語の注釈は、私が聞いた話では、その地区で使われる教科書に使われていない単語、と聞きました。独自問題を作成した人の話では、takeが出たとしても、持っていく、という意味で出ていたとしたら、時間がかかる、という意味では使えない、というようにあまりにも制約が多いと話していました。
 その結果が、あの注釈の多さで、公立高校入試の過去問を調べたところ、すごい数でした。一部の中学校では、「長文を始める前に、注釈を見なさい」と生徒にいっているようです。そうすれば、だいたいの内容が分かるからだとその先生は話していました。これでは、何のための長文のなのか分からなくなってしまいますよね。

tmrowingtmrowing 2006/03/19 22:02 コメント深謝。長々とした記事におつきあい下さり頭が下がる思いです。
都立高校は制度上は学区がありませんから、建前としては全ての地区で用いられている教科書を精査する必要があるはずです。

2006-03-17 晴れのち雨

木曜日は昼過ぎから茗渓会館へ。福田陸太郎先生お別れの会。ほとんど最年少グループだった。かなり場違いな感じ。安藤元雄氏の言葉が良かった。引いていたのは『ある晴れた日に』。私の好きな作品だ。

同席していただいたK先生とお茶の水から神保町へ。数冊の買い物。

  • 『ジャズの本』ラングストン・ヒューズ著、木島始訳(晶文社;1968年)
  • 『夕鶴・彦市ばなし』木下順二作(岩波文庫;1982年)
  • 『映画で英詩入門 愛と哀しみ、そして勇気』松浦暢編著(平凡社ライブラリー;2004年)
  • 『19世紀のアメリカ人が集めた 中国のマザーグース』ロビン・ギル(北沢書店;1991年)
  • 『英語の恋の味わい方 アメリカン・ラブソングの世界』畑中佳樹(筑摩書房;1996年)
  • 『生きることと読むこと』高史明(コ・サ・ミョン)(筑摩書房;1991年)

『ジャズの本』の表紙はオリジナルの白地にオレンジでJAZZなのだが、古ぼけた感じが何とも言えない。『夕鶴…』のあとがきは堀田善衞(ほったよしえ)との対談。面白い。『生きること…』の最後にも堀田の「広場の孤独」が取り上げられている。大学生の頃、『夕鶴』の木下氏と『マクベス』の訳者としての木下氏が同一人物と知って愕然としたことを覚えている。戯作者としても超一流の氏なればこその名訳なのだ。『夕鶴』といえば、『日本語について』( 抱樸舎文庫;1997年)の中で、今回のあとがきでの対談と同じ種明かしをしていた。こちらの本は、以前公立高校で進路指導担当として進路通信で「書くために読む本」という連載記事を書いていて、そこでの推薦図書にあげてみたのだが、全く反応がなく寂しかった。

雨も落ちてきて、旧冨山房書店の地下のカフェで休憩。早期英語教育の音声指導のあり様について持論を述べ意見を伺った。こういう話ができる人が身近にいて良かった。日も暮れ、雨も激しくなる中、理事会へと移動。年度末ということもあるのか、出席者は少なかった。皆さんと夕飯をご一緒して、その後S先生とA先生の地元で二次会へ。11時をまわり、帰宅しようと駅に入ったら、強風のため電車が止まっているとのこと、迂回して深夜に帰宅。

一夜明けて今日は終業式。午前中から学校へ。ただし私はELEC同友会と語研の発表に備えての資料整理。だいたい終わった。あとは語研の講習会で使う、ハンドアウト集を綴じるだけ。B4裏表で10枚。結構な出費だなぁ…。参加される方はこの資料集だけでも、受講料の元は取れると思いますよ。明日の授業ですぐに使えるアクティビティ集ではないので念のため。目の付け所に気付くための資料集です。

終業式を終えた2年生が研究室に質問(相談?)に来た。「文法を深く追求したい」「つっこんだところまで学習したい」とのこと。危ない兆候だ。「つっこんでどうしたいの?」と問い返す。無言。たまたま、「教材研究の目の付け所、そして落とし穴」の資料を整理し終えたばかりだったので、高3生の授業後の総括アンケートのサンプルを読ませ、英文と教材研究での私のメモ書き(というにはあまりにも細かい多量の書き込みだが…)を見せ、授業で「意味」を読んだら、「英語」を読むように説明。高2,高3、入試レベルの英文でも音読が大切であることを指摘。「読む際は大まかに鷲掴みに読めるが、書く時は『鷲放し』というわけにはいかないでしょ。著者の思考プロセスを辿るには、自分の手で最初から書き写しながら考えるのが一番。面倒だし時間がかかるから、100人に1,2人しかやらないけどね。」とアドバイス。最後に、まっとうな学習参考書をいくつか教えてあげた。春休みに基礎体力をつけておいてくれると良いのだが。

2006-03-15 Confessions of a pop-eyed guru

滑り込みで確定申告を終えた。declareするほどの収入もないのだがそれでも慌てるとろくなことがない。ただ私の場合、内田樹氏がご自身のブログで嘆いていたような心配はないので一段落。

ELEC同友会のWSもレジュメ完成。今回のWSに営業ではなく編集スタッフがくる教科書会社はどのくらいいるのだろうか?もっとも、全部で12名の講師で、裏番組になっている著者以外は動ける訳なので、10人の編集部代表が見に来ることが可能だ、とも考えられるのだけれど。私は、馬場哲夫氏の裏番組。

10年ほど前の教材研究用ノートに次のようなメモがある。年度末か年度初めに書いたもののようである。

読解のポイント

1. 役に立たない読み→誤読

2. 読むことと和訳すること

3. どう読むのか?

・ 訳

・ 遅

・ 粗

・ 乱

・ 速

・ 精

・ 音

・ 即

・ 約

4. パラグラフとロジック

・ パラグラフの構成

・ パラグラフ内の結束性→メインとサポート

・ 文脈を作る語句

・ 話題と主題

5. 文を作る約束事

この最後の「文を作る約束事」=いわゆる文法、に関して、7分類100項を整理している。当時はこのあたりにこだわりがあったようだ。1分類のみ紹介。

VII.助動詞

1. 番付表→横綱//大関・関脇・小結//平幕

→ will/ can/ may/ must/ have to/ should/ ought to// need

have + ed/en

be + -ing

be + ed/en

do + 原形

2. 形の表す意味 

・ 査定時に同じ

・ 査定時以前

・ 時制の一致

3. 張出横綱 → be able to

4. 準助動詞的表現

・ 動詞

・ 形容詞

・ 副詞

5. 仮定法

・ ifの3タイプ

・ 話者の心的態度

今読み返すと have toの扱いが中途半端な気がするがまあまあわかっている方ではないかと思う。でも、「100項目」にわざわざ分類するあたりを見ると、当時は自分のわかっていること、知っていることを全部生徒に教えたかったんだろうなぁ…。申し訳ない。 

2006-03-14 Welcome aboard!

このブログを広島大学の柳瀬先生がご自分のサイトで紹介してくれたせいだろうか、急激にアクセスが増した。

初めてこられた方は、一通り10日分のタイトルを左のアンテナで眺めて,面白そうなところをざーっと読んで見るというのが良いかと思います。あとは、過去ログから気になるものを読まれるなり、検索窓にキーワードを打ち込むなり、ご自由に探索下さい。コメントは匿名でもハンドルネームでも結構ですからよろしくお願いします。「ことば」について、「英語」について、「教育」について、気軽に書き込んで下さい。

語学教育研究所の春期講習会のレジュメを郵送。あとは実際の定期考査とハンドアウトに加え、実際の生徒のプロダクトを縮小して資料として印刷するだけ。「80分でライティングの地平を見渡します」、といった手前、見せねばなるまい。駆け足になるか、一っ飛びになるか。流れとしては、incidental writingから 科目としての「ライティング」へと発達段階を辿っていくと絶対に時間切れになるので、思い切って「最終到達点」をお見せして、どうやってそこまで行くのかを考えたいと思います。特に、高3の期末考査の問題と、その解答例で驚いて下さい。理想的なシラバスを求める人はGTEC Writing Training(ベネッセコーポレーション)をどうぞ!!

ELEC同友会のワークショップの方は、私の教材研究用ノートの実物を見せたかったのだが、高校の部は普通教室が会場で大スクリーンがないということなので困った。会員の構成比で圧倒的に中学校教員が多いのでしかたないですね。私はライティングが好きでライティングをメインに指導しているのだが、今回のWSは特に「リーディング」系を専門にしている人に見て欲しいと思っている。ELEC同友会の方は「教科書著者による」WSと銘打ったものなのだが、私の場合検定教科書の著者は今年度本が改訂されると終わりです。現時点で既にフリーですから、どこか教科書出版社の方(某T社以外ね)、ご連絡お待ちしています。私でよければいいもの作りますよ!

いつもお世話になっているO先生から、文法に関する質問メールが来て、簡単だと思ったら結構悩まされた。その際のやりとりで語研の春期講習会の話題に。そこから一部紹介。

  • 語研では時間的な制約があり、意を尽くせないでしょうし、それこそ博識を十分開陳できないでしょうから、是非ともブログのことを聴衆にお伝えすることがmust かと思います。一回の語研のお話の内容に匹敵するものが毎日のブログで吸収できますよ、とか。でも、実物を見るためにはこういうところに出てこないと駄目ですよ、とか(笑!)

ということですので、みなさん乞うご期待!

2006-03-13 Still waters run deep.

少し古い話になるかもしれないが、ヘラルド・トリビューンで紹介されている、

Commentary: U.S. students need more math, not Mandarin

By Andy Mukherjee Bloomberg News MONDAY, JANUARY 23, 2006

に対して、ACTFLの代表がコメントを表明していたのを目にした。(どちらも、ACTFLのサイトから読むことができます。→ http://www.actfl.org/i4a/pages/index.cfm?pageid=4262

アメリカ合州国の「世間」における外国語の位置づけを垣間見た気がする。

今風の英語教育(外国語教育)を志すとすれば、ACTFLの提唱するさまざまな原理原則は素通りすることができない。(到達目標(技能)の具体化の観点でCommon European Frameworkが現在注目を浴びているが、それとて、ACTFLの示してきた能力指標やCanadian Language Benchmarksの成果を抜きにしては語れないのだから。)

そんな世界の語学教育をリードするACTFLが編集者へのお手紙(反論?)を自前のサイトで紹介するという形でしかコメントしないのが残念である。これでは「世間」への影響力という点で日本とそれ程変わらないのではないのか?

『英語青年』(4月号)特集の靜哲人氏の主張がMIXIで話題になっているらしい。私はアクセスできないので残念である。どれほどの人が実際に誌面に目を通しているか、それを受けて、どれほどの人が真意を読み取れているか、非常に気がかりである。私個人としては、「振り子を振っておくことも大切」と思っているので、今回の靜氏の主張はもっと過激な物言いでも良かったのではと思うくらいである。今のところ、中高の若手教員は「その振り子につられて振れつつある状態」であり、「つられたくない、振れていきたくない」派がまだまだ多いというところなのだろうか。

例えば、靜氏が『STEP英語情報』で連載していた、「テストで伸ばす英語力」の第1回では、テスト理論・実践に関して「海外の理論が役に立たない理由」として、極めて良質の主張を行っている。ここでの発言は、今回の『英語青年』での発言と底流でつながるはずである。中高教員で「靜流」に弟子入りしたいと思う人たちは、今目にしている川面だけでなく、源流を確かめることも必要だろう。

靜氏の発言を少し溯ってみよう。

『現代英語教育』(研究社)1999年3月号の特集「21世紀英語教育への遺言」に寄せて、靜氏は「必要性と習熟度:テキヤのニイチャンに学ぶ」として、次のように述べていた。

  • 「ある国の国民の外国語習熟度のレベルは、その国民がその外国語を必要とする平均レベルの関数である。国の政治的統一の上で外国語が不可欠であったり、大学教育が外国語でしか受けられなかったり、国民ひとりひとりが、外国語を使って商売できなければ外貨を稼ぐにも困る、というように、必要レベルの高い国では、当然習熟度レベルは高くなる。これに対して、外国語を学ぶ必然性がほぼゼロといっていいアメリカの、国民の平均外国語習熟度は限りなくゼロに近い。外国語学習方法論の研究は世界一進んでいるはずのアメリカの国民の外国語レベルが最低なのは、問題が方法論にないことの証明である。」

このような言説を、「だからコミュニケーション一辺倒ではなく、英文和訳、和文英訳、文法・構文をやっておかなければダメなのではないか!」と自己保身にしか使えない英語教育関係者では困る。

  • 教室の外に必要性がないから、学習者は本気でやらないのであれば、教室の中に必然性を作り出すしかないだろう。
  • テストは、教室の中に必然性を作り出すのに最も有効である。

という共通基盤に立った上で、靜氏の主張を受けとめなければ、健全な議論にはならないだろう。

私はやはり、「教室内に外界の言語環境を取り入れることによって必然性を作り出そう」という方法論にはあまり頷けないし、テストで必然性を作り出すというのも「方法論」の一つだと考えている。ただ、テストの方法を変えれば、必然的に教え方(その合わせ鏡としての学び方)が変わるというのは真理であると思っている。

英語教育の世界では、さまざまな掛け声が飛び交うのだが、その声に潜むモダリティとでもいうべき要素を感じるアンテナを持っておきたいものである。

見た目が静かでもその奥は極めて激しい流れなのである。

tmrowingtmrowing 2006/03/14 06:51 HTによれば、合州国で2007年度につけた予算が13億ドル。翻って日本はどうか?
2004年度の数値ですが抜粋。
『英語が使える日本人』の育成のための行動計画」を推進するために,総額11億1700万円の予算が盛り込まれた。内訳は以下の通り。
 「スーパー・イングリッシュ・ランゲージ・ハイスクール」5億1000万円
 「教職員派遣研修」2億7700万円
 「英語教員の資質向上のために研修」1億9600万円
 「高校生の留学促進」1億500万円
 「英語教育に関する研究グループ等」2900万円

文字通り桁が違いますね。

2006-03-12 話題≠主題

語研の春期講習会のレジュメ完成。

ELEC同友会の教科書著者ワークショップと並行なので、今、どちらの内容をやっているのか混乱しないように気をつけないと。

さて、桐原書店、Provison English Writingの英文で気になるところを今日は取り上げておく。

第28課 エコシステムを守ろう (pp.28-29)。p.28ではStudy Pointsとしてパラグラフの構成が導入されている。

  • 導入=これから書こうとする内容を提示する
  • 本論=前のパラグラフの内容について、具体的な例をあげて説明する。thus, in the first place, for example などの連結語句を有効に使う。
  • 結び=自分が伝えたい内容を簡潔にまとめる。

という説明があり、これを受けて、p.29で Writing Guidesが示される。

  • 1. 最初のパラグラフで問題を提示する。
  • 2. 次のパラグラフで問題点を具体的に示し、例をあげて発展させる。
  • 3. 最後に、結論をin summary, in conclusionなどの語句を使って書く。

これはこれで、まあ、もっともなことを述べている。問題は、この1,2,3に即した英文の方である。

  • 1. Forests play a vital role in our lives. They not only provide us with timber and fuel, but also support a great variety of animals and plants.
  • 2. However, they are vanishing at the rate of twenty million hectares every year. The situation is particularly serious in those countries which have a wide area of rainforests.
  • 3. In conclusion, it is vital that we take action immediately. For instance, rich countries should make efforts to reduce imports of timber from threatened areas.

この英文は、上述の、1,2,3に合致しているだろうか?

1. は単なる状況説明としての事実の提示であって、何も問題点を示していない。第1文のvitalという主観的形容詞が読者に対して説明責任のある部分だが、それは第2文で示されていると考えられる。

2. で問題となりうる状況が提示される。唯一、読者とのギャップができるとすれば、2文目の seriousという形容詞。ここで読者は、その状況がいかにseriousなのか、twenty million hectaresがどのくらいの面積なのか、というようなサポートの記述を予想するのではないだろうか。

3. では、その予想に反して、in conclusionと急転直下で結論が示されるのだが、ここでの it is vital that we take action immediately.は余りにも唐突。なぜなら、この主張は、1,2の中で全く示されていないからである。さらに、結論部分で、例示をしているようではそれ以前の本論が機能していないことを物語っている。

このWriting Guidesは「ガイド=案内人」として機能しているだろうか。結局、この文章の「主題」が何なのか、どのような目的で、誰に対して語るのか、が全く見えてこない。話題つながりならなんでも文章になるわけではないのである。高校生が書く英文を考えるなら、例えば次のような文章をモデルとしてはどうなのだろう。

  • It is vital that we preserve forests. Forests play a vital role in our lives. They not only provide us with timber and fuel, but also support a great variety of animals and plants. In fact, they are vanishing at the rate of twenty million hectares every year. The situation is particularly serious in those countries which have a wide area of rainforests. We have to hand down the great supporter for life to the following generations. (77 words)

「実践的コミュニケーション能力」の養成を標榜するということは、ただ、カタログとして文章の構成やつなぎ語を示すことではないはずである。

2006-03-11 「結論」ではいったい何を結んでいるのか?

昨日のブログでは、三省堂のCROWN Readingを取り上げて自己表現活動を取り入れる際の問題点を指摘した。

教科書批判が目的ではないので誤解のなきよう。三省堂の英語教科書に関連した機関誌に著者代表者のコメントがあるので参照されたい。(http://tb.sanseido.co.jp/english/h-english/pr/04_summer/special_1_1-1.html)

今日は桐原書店のProvision Iを取り上げる。(http://www.kirihara-kyoiku.net/textbook/eigo/eigo_provision.html

新出語の多さと見た目の英文の難しさが幸いしてか、進学校などで採択の順調な教科書の一つである。この英語 Iのレッスンのうち、Lesson 6, Lesson 10,とLesson 11のCommunication Workshopのセクションを主として、「安易な表現活動」がいかにコミュニケーション能力の養成にとって問題であるのか、時として阻害しているかについて考えてみたい。

Lesson 6の題材は「科学・自然環境」。ターゲットとなる表現・機能は「理由・原因を述べる」「示唆する」である。

Communication Workshop(以下CW)では、短いスピーチを作る Save the Giant Panda。指導手順としてQ&Aで理由を述べる短文を作らせ、それをもとに、Introduction/body/conclusionの型に当てはめてパラグラフを完成させ、スピーチさせるというもの。そのWritingとして示されているものを抜粋する。

Introduction:

  • Only a thousand pandas are left in the world. In order to save this endangered species, what can we do? I'd like to suggest two things.

Body:

  • 1. First of all, we should ….
  • 2. Second, we should ….

Conclusion:

  • Whether the pandas will be an extinct species in the near future depends on our efforts. Let's try to save the giant panda together.

ライティングの観点で見た場合には困った活動である。典型的な日本人英語が出来上がることになる。

導入部で can; suggestといっておきながら、本論ではshould, 結論部では let's; try toという具合に、助動詞のレベルが揃っていない。

また主張の型としてみた場合に、序論で主張・意見・主観、本論では例証・論証・事実、結論では主張の言い換えまたは再強調という流れが望ましいのに、序論で示唆、本論で意見、結論で呼びかけというような展開となっている。中学段階、英語誼奮でこのような表現パターンが身についてしまった場合に、それをパラグラフライティングやアカデミックライティングの型へと移行させるのは骨が折れる。意見や主張をパラグラフで書く活動は高校のライティングできちんとやるから、それまでは無理にパラグラフなど書かせないで欲しいと思うくらいである。

Lesson 10の題材は、「人種差別の問題・公民権を背景とした友情・共生」とでもなるだろうか。ターゲットとなる表現・機能は「補足説明を求める」「同情する」である。

CWでは「台湾にある姉妹校から日本人の友人を求めるe-mailが来た」という設定で、e-mailを書かせるもの。

読んでいた英文の題材そのものはどこに行ってしまったのか?「e-mailを出して友達を作ろう」という動機づけで本文の読みが深化すると本気で考えているわけではあるまい。この活動で題材・主題に対する理解は深まるだろうか?表現技術は向上するだろうか?

Lesson 11は「国境なき医師団」。表現・機能は「嫌悪を表す」「結論づける」。

CWでは「写真を見て感想を述べる」。写真はエチオピアの飢餓で苦しむ少年。タスクの導入部分での質問が4つあるのだが、

  • 4. What do you think of this situation and what could you do to help him if you were there?

ここで生徒は何を答えることを想定されているのだろうか?

  • 「同情する」「励ます」→それで何のhelpになるのか?
  • 「食事を配給する」「水を確保する」→食事も水も足りないから飢餓なのでは?
  • 「内紛を止めるよう政府や軍部に訴える」「平和のための行動を世界に呼びかける」→嘘くさくないですか?

結局の所、自己表現などといいつつ紋切り型から一歩も踏み出さないのである。

こんなタスクを教科書に入れるくらいなら、教科書会社の自社websiteに掲示板を設置し、世界に向けて発信する方が良かろう。心ない利用者による荒らしがいやなら、教科書採択校にはパスワードを発行するとか工夫すればよいのだ。教室の中にもっともらしい外界を取り込んでauthenticな活動をしたつもりになるのは最近の英語教育の悪い癖である。

この課の最大の問題は、「結論づける」という表現機能を練習させる時に、つなぎ語の練習しかさせていないということである。そんなものがなくても、それ以前に明確に展開された論を結んでいれば、それが結論なのである。そこまでに何を述べているのかを全く示さず、つなぎ語とその後の短文をいくら書かせたところで論理的な文章にはなり得ない。

論理展開に関しては桐原書店の同じシリーズProvision English Writingでも首肯できかねる英文を示している。こちらについては明日以降引き続き論じてみたい。本日はこれにて。

2006-03-10 「寝ている時くらい眠っておけよ」

昨日は成績評価の入力をしに学校へ。その後水道橋へFTC。

菅正隆氏の講演。初生菅氏だったので興味深く聞かせてもらった。今回の菅氏を招聘した仕掛け人の一人でもある元同僚のW先生とも久々の再会。『英語青年』買いましたよ!という若い先生もいて宣伝した甲斐があったというもの。開成高校では英語科で定期購読しているそうです。懇親会まで参加し帰宅は深夜。

今日は、ELEC同友会の「教科書著者によるワークショップ」向けに各社教科書の下調べ。

今回は「教材研究」ということで、普段教科書を扱っていて私が気をつけていること、気になることを中心に据え、それに加えて各種研究授業を見ていて、本文の読みにあまりにもこだわりのない最近の動向に対して警鐘を鳴らすことが主眼。最終的には「安易な自己表現」でお茶を濁した授業の追放まで迫りたい。聞く時にきちんと聞かせているか、読む時にきちんと読ませているか、という当たり前のことを当たり前にやることの大切さを再認識してもらいたい。

たとえば、「リーディング」という科目の教科書はReading SkillsとかReading Strategiesを前面に出した構成・内容になっていることが多い。ところが、「パラグラフの構成」については要所要所で説かれているものの、文章そのものの分類は、物語文、描写文、説明文、論説文という名称に触れるだけで、どのような目的とスタイルがあるのかがほとんど説明されていない。さらには、スキャニングだのスキミングだのといったskillsとの兼ね合いで、教材のほとんどが説明文であり、論説文の良いモデルを目にすることが非常に少ない。それでいて、Post Reading Activityで英語を話させたり、書かせたりするのである。これは英語 I、英語 II でも同様である。インプットとして与えられる英文の語彙とトピックが合っていれば生徒はすぐにでもアウトプットができるとでも思っているかのようである。

生徒に要求する英語のプロダクションはせいぜい50語から100語であろう。であれば、その分量でどのように豊かな内容をそのレッスンで扱った言語材料を活用して表現できるかを示すべきである。その際にtext typeへの配慮を忘れている教科書が余りにも多い。

CROWN Reading(三省堂)を例にとってみる。この教科書では、唯一 Lesson10のヒトクローンの話題のOPTIONで80語程度の主張が3パターンあり、アウトプットのモデルとしての機能を果たしている。ただし、あくまでもオプションであるからやる必要はない。この第10課の英文の最終段落を抜粋する。

While recognizing these possible problems and dangers associated with nanotechnology, we should not let our fears of new technologies deprive us of their potential benefits which we might enjoy by exploring the unknown. After all, as Feynman pointed out, there's plenty of room at the bottom. (p.136)

教科書の説明文にありがちな、明確な主張をせず、バランスをとって終わる文章である。最終段落に来てなお may/ might; some/ many/ plenty of などといった具体性に欠ける、断定を避けた文章をもとに、どんなskillを養成しようというのか疑問であるが、この手の文章をいくら読んだところで、「自分の意見を述べる」ことには寄与しない。3人なら3人の意見を50−100語でそれぞれ示し、その意見の根拠としての客観的事実をまとまった文章として読み、検証する。その後、冒頭の3人の主張のどれに自分の意見が近いかを考えさせ、フォーマットをそのまま活かして自分の意見を書かせる。同じ意見なら、コピーさせる(実際に手を使って書き写させる)というような手順を踏んで初めて「自己表現」が完結するのである。

次の質問について自分の考えを英語でまとめグループで話し合いなさい。

  • What are some of the causes of global warming? What can we do individually to help solve this problem? What can we do as a country, or as a global community? (Lesson 3, p.38)

などといった活動をPost Reading Activityと称して課す前に、While Reading でいったい何をやっているのかをきちんと突き詰めたらどうだろうか?Top-downといえば聞こえは良いが、topの表面を滑っているだけで全くbottom、深部へと深まっていかない、肝心な部分に届かない読みで終わっていないかを自問するべきなのだ。Reading Comprehensionはtop-down的アプローチでも構わないが、writingは最終的には一文一文をつなげてまとめなければならない以上top-downというわけにはいかないのである。

真の意味で topとbottomをつなぐ読み、それこそ教材研究で求められる読みであろう。その鍵は「英作文的読書」にある。もし「英作文的読書」をするのであれば、その読みは必然的に主題を踏まえて細部の表現を吟味するtop-downの読みになるはずであるし、その時に頼りになるメタ言語はL1ではないのだろうか?和訳を廃して、今風の読みをしたつもりになっていて、その実何が残ったのか?

読んでいる時くらいは読みに集中した方がいい。

ferrierferrier 2006/03/11 12:39 抜群の冴えです。

2006-03-08 ナラティブマスターは君に語りかける

『英語青年』4月号発売。

今号から、表紙・装丁が大きく変わった。

特集は「大学入試英語問題を批評する」。見出しの順番に紹介。中身は是非とも購入して読んで欲しいと思います。

  • これでいいのか、大学入試英語問題・英語教育およびテスト理論の立場から(靜哲人)
  • これでいいのか、大学入試英語問題・予備校の立場から(小林功)
  • これでいいのか、ライティング問題・高校の立場から(松井孝志)
  • 英語教育史から見た入試英語問題(江利川春雄)
  • 注文の多いテスト屋さん・大学英語入試作問事情(金谷憲)
  • 大学入試は高校の学習指導要領を超えてよいか(水光雅則)
  • 入試英語問題の批評空間を作り出す(柳瀬陽介)

これでいいのか?という視点で3人が論じているのだが、靜氏はリーディング、小林氏は語法、松井はライティングと三者の領域が棲み分けられたようになっており、しかも論じ方は三者三様。靜流家元と異名をとる靜氏の論考は、最後の柳瀬氏の論考と合わせ鏡のように読めば、この特集の面白さが倍増することだろう。柳瀬氏の静かで精緻な語り口が印象的。

これを機会に、若手教員も『英語青年』にアクセスしてくれるとなお嬉しい。新連載(リレー式のようであるが)の「英語・英文学・英語学<教育>を考える」(実際は教育という字句のフォントが大きいのだが<>で表した)の第一回は大津由紀雄氏(慶応大)が書いている。私が一番興味を引かれたのは、付記2としてあげられた、「大学英語教育に関わる別の問題として、児童(早期、小学校)英語のための教員養成がある。」というところ。これは英語教育の根幹にかかわる問題であるが、『英語教育』(大修館書店)のような教育系の雑誌ではおそらく正面切って料理できないだろうから、この雑誌でこそ論じて欲しかった。

「海外新潮」では、水越あゆみ氏の、英詩の韻律教授法に関する英国事情が、評者の顔が見えるようで良い。

新連載の目玉は「医学と英文学」。第一回はナラティブに関するもの (pp.25-27)。

  • 病気と医療の現場にはナラティブが満ち溢れている。
  • 量的情報から一般法則を導こうとする物理学や天文学とは違い、医学・医療という学問・営みの中心は、質的情報から個性とタイプを確定することであり、その意味で、医学は、文学研究をはじめとする人文学とよく似ている。

「やられた!」という感じ。

医者・教師・政治家など「せんせい」と呼ばれる職業人は、ナラティブのマスター(マイスター;マエストロ)であるべきなのです。

2006-03-07 酸っぱい果実

今日は高校の卒業式。昨年は2月以降出校していなかったので、卒業式の案内があったことも知らなかったが、今年は出席。事前に出席を申し出た書式に、住所を書く欄があったので、式次第などが自宅に郵送されてくるのかと思いきや、前日まではもちろん当日学校に行っても何もなし。講堂へと移動し、受付があるのか、と言えば、出席者名簿にチェックするでもなし。保護者は別に保護者控え室があるので、そちらで受付を済ませているのだろうか?

シンプルな式次第をもらってさあ会場へ、と思ったのだが、教職員席とか保護者席とかの指定がなく、会場の外で保護者の列に混じってしばし待たされる。会場の座席数は明らかに出席者よりも少ないため、会場に入っても式が終わるまで結局ずっと立ち通しでしたが…。まあ、送辞も答辞も教えているクラスの生徒だったので、新たな一面も見られたことが良かったことと言えるだろうか。ただ、最近はみなデジカメなので、電子的な起動音が耳障りだなぁ。一通り式を見て、K先生と一緒に講堂をあとにしました。午後は特に予定もなく時間もあったので、お茶の水から神保町へと足を伸ばしたところでK先生から携帯にメールが。「お弁当が用意されていたそうです」とのこと。学校が違えばしきたりが違うのは判るが、もう少し段取りを考えて欲しいものだ。今日の様子を見る限り、普通は専任の教員以外は出席しないものなのだろうなあ…。来年も考えなきゃ。

今日購入した本は、

  • 鶴見俊輔・小田実 (2004年)『手放せない記憶ーー私が考える場所ーー』(SURE)
  • 中野好夫 (1979年)『酸っぱい葡萄』(みすず書房)

鶴見・小田とくれば、「ベ平連」だが、その当時の回想も含めての2004年の対談(放談?)。これまでにしらなかった鶴見のエピソードなど興味深く読んだ。

中野氏の方は、ハードカバーではなく表紙はイソップ寓話の狐が葡萄の木に寄りかかっている銅版画が使われているもの。内容はといえば、1937年から1949年までに書かれた随筆である。リンカーンのゲティスバーグの演説の一節、the government of the peopleのofの用法を説くことから始まり、民主主義に対する知識人の態度を論ずる標題の「酸っぱい葡萄」(1948年)は発表された時代を考え合わせると勇気のある言説といえるのではないだろうか。それ以外で面白かったのはやはり語学について述べる下り、pp.300-330,での「語学ーー如是我観」(1938年)。一部を抜粋する。

  • それにしても特殊的境遇にある学生を除けば、実際に英語を使う時間が一日平均一時間以上であることはほとんど不可能だ。二十四対一ではほとんど話にならぬ。それかといって、学生の大部分が外国人の家に住みこみ、朝から晩まで英語を聞いて、喋舌って、書いて…考えるだけでもいやなことだが、おかげで役人も、サラリーマンも、番頭も、電車の車掌までが、英米人との応対は自由自在ということになりーーーさてそれがどうなるというのだ。
  • では何を読むべきか。一言、生きた英語の読書力と答える。生きた英語というと、またしてもすぐ何かトーチカだとか、遊撃隊だとか、際物の時事英語をさえ覚えれば万事了れりという、穿き違いをする人もあるようだが、こんなのは覚えた瞬間に死んだ英語になること請合いである。
  • いくら生きた英語だからといって、新聞と時事英文だけの人間では、何かニュース映画劇場のようで、なんとなく浅薄さが見え透くのだ。
  • 人間は一流だが、語学は五流だというのは、必ずしも恥にならぬが、語学は一流だが、人間は三流というのは実際始末が悪いのだ。

中野氏が英語の学びに関してこう書いてから68年。今でも正論だと思う。しかし、当時でも氏のこの言葉は世間には響いていなかったと推察する。そして、今も語学に関して、英語教育者の言葉は充分に浸透していない。語学というものが、手が届きそうで届かない、食べたくても食べられない、そんな存在だとすれば、それは教える側の失策であろう。期待と失望が世代間で受け継がれてきたとすれば、世間の学校英語に対するルサンチマンもその年月の分積み重なっているということなのだろうか?「桃李言わざれども…」は「美しい花」もあるからこそ愛でる意味があるのである。

まずは、頑張れば手の届く果実を育て、そして口にした時に酸っぱくてもおいしいと感じてもらえるところから始めなければならない。

tmrowingtmrowing 2006/03/08 06:33 タイトルと本文を一部修正しました。

2006-03-06 Compulsory or Compulsive?

荒川静香選手が、トリノ五輪のexhibitionで使った曲目が "You raise me up"なのだが、あるTVニュースで、女子アナが「ユー・ライズ・ミー・アップ」と読み上げていた。言い直しやその後の訂正が無かったところをみると自信のある人なのだろう。

期末試験の採点もほぼ終わり、反省点を整理。オーセンティックな素材を活用するのはいいが、語彙の定着を考えると、小テストのない私の授業ではいかに、手を変え品を変え復習の作業に意味を持たせるかが重要である。

綴り字で多かったミスは apparentをappearentと書くもの。動詞appear; 名詞 appearenceの干渉であろう。

総括の中には「文法をやって欲しい」という声もあったが、文法に対する姿勢や意識を授業内、そして定期テストを通じて充分に伝え切れなかったのは残念である。テストでも文法力が問われる設問に対して初めから諦め、無解答の者がいる。音読シリーズを始め授業中の活動・作業の中で、文構造を把握する力が常に問われているのだが、そこに気が付かない生徒には明示的に教えてあげる必要があるのだろう。

中学生のころに読んでいたいわゆる少女漫画に『愛のアランフェス』(槇村さとる)というフィギュアスケートものがある。主人公の少女が、苦手意識を持っている規定演技(当時)で要求される数々の技術が、実は幼い頃からコーチとしての父に教わり、かつ自分が楽しんで取り組んできた練習種目の中に含まれていることに気付くシーンがあるのだが、その感覚をどうすれば持たせることができるか。本当に目利き腕利きのコーチというものは、学ぶべき技術や知識を自ら体系化し自家薬籠中のものとしつつ、それを個々の選手に合わせて指導に当たっているはずである。それこそまさにFocus on Formをシラバスに位置づけるということなのではないか。今の私の最大の課題である。

塾や予備校で問題演習をこなすことにより、文法をしっかりやっていると思いこんでいる生徒がいるとしたら、彼らの意識を少し大きく揺すぶっておかないといけない。短文の空所補充による文完成問題や、書き換え問題、並べ替え問題、4択問題など、いかにも文法問題ですという形態をとった出題に正答することが文法を身につけたことだという意識が強い生徒には、今回の期末考査の無解答・誤答部分での猛省を促す必要がある。流石に私の所に「今回の出題は暗記していればできる問題じゃないですか!!」と文句を言ってくる者はいないのだが、真意を理解してもらわないと、お互いの平和からは遠ざかってしまう。私の授業・テストでは、広範で正確な語彙力と骨太の文法力もしっかり問われているのだ。だからこそ、帰国子女と呼ばれる生徒も真剣にテスト前の勉強をせざるを得ないわけである。教科書の素材文というのは暗記した上で、それをどう使いこなすか、そこがポイントなのである。今回で最後なので、答案返却の際にしっかりと伝えておきたい。

tmrowingtmrowing 2006/03/07 05:52 『愛のアランフェス』は1978年から80年まで『別冊マーガレット』(集英社)で連載されていたということです。

2006-03-05 Teachers in their dressing room

次の授業実践報告を読んでどのような感想を持つだろうか?

  • ラウンド制をとると、1課を終えるのに時間がかかりすぎる。3年なので、できるだけ教科書を早く終えて演習に切り替えたいと考えていたが、なかなかそうはいかなかった。授業時間内にしかできないことと、家庭学習でもできることを再考し、ラウンド制を活かしながらも早く進め、量を読めるようにしていかなければならない。
  • 11月頃からは、生徒は目先のセンターテストばかりを意識するようになり 「とにかく選択肢の中から選べたらいい」という考えを持つようになる。和訳や自己表現は4月からもっと充実させておくべきだった 「生徒は、どの時期にどんな心理状態になり、何を求めるのか」を含めて。年間計画をたてる必要がある。
  • 語彙の定着を音読ばかりに頼っていたため、定期テストをしてみるとスペルミスが目立つ。音と綴りが結びついていないためで、フォニックスを早い時期にどう取り入れるか考える必要がある。効果的な確認テストの配置についてもっと検討すべきである。
  • 今年度、大変雰囲気の異なる2つのクラスを担当した。1つは、成績がよく英語好きも多いのだが、おとなしく音読活動の声も小さいクラスと、もう1つは元気で積極的で音読でも大変よく声の出るクラスであった。テストをするといつも5〜10点、声の小さなクラスが上であった。ほぼ同じ活動を両クラスにさせてきたが、いつも反応は声の大きなクラスのほうがよく 「そのうちにきっと成績も逆転する」という仮説をたてていた。ところが、結局最後まで成績の開きは同じで、センターテストでも約10点声の小さなクラスが上回っていた。声の大きさと成績の伸びにあまり相関が見られなかったのは残念である。クラスの雰囲気の良さをもっと利用して英語力を伸ばす方法がなかったのかと反省している。模擬試験のクラス別・分野別分析で、声の大きなクラスの方が発音・アクセント・文強勢の分野で声の小さなクラスを上回ったことがあったので、他の成績は悪くても発音の分野では「声の大きなクラスが成績もいい」と仮説をたて、過去の模擬試験の結果を調べてみた。しかし、結局4回の進研マーク模試において、声の大きなクラスが上回ったのはその1回だけであった。やはり声の大きさと成績には相関はなかった。

私は、3学期期末考査の採点をして自分の今年度の授業を総括したばかりだったのだが、自分のクラスのことを言われているような錯覚を覚えた。ここに紹介したのは、

  • 滋賀県立米原高校 「平成14年度〜平成16年度 SELHi研究開発実施報告書」より、リーディング (3年普通科文系) の授業に関する報告

である。(PDFファイルは以下のアドレスからダウンロード可 →http://www.maibara-h.shiga-ec.ed.jp/SelhiReport_ThreeYears.pdf)

昨年度のSELHi Forumで大好評を博した米原高校であるが、いわゆる普通科は普通の高校と同様に苦戦しているのである。私は昨年のForumで直接、英授研の発表で再度、米原高校の授業を見せてもらい、その指導の背景なども充分聞かせてもらった。それでも、英語科ではなく普通科にはどのような実践が活かされているのかは判りにくい。今回この冊子に目を通す中で改めて、「今風の指導方法」が本当に効果があるのか、もっと精査する必要があることを痛感した。このような普通科の地道な実践を発展させることにもっと人的リソースを注げないものだろうか?華やかな活動や成果のみに目を奪われることなく、地に足のついた実践をいかに共有し、内省を深めることができるか、年度末から次年度への移行期にこそ目を向けなければいけないことがある。

今年のフォーラムは以下の日程で行われる

平成18年3月17日(金曜日) 9時30分〜18時

パシフィコ横浜 横浜市西区みなとみらい1−1−1

 電話:045−221−2155

(もっとも残念ながらもう予約申し込みは終了しているようである。私は会場が横浜と遠いので今回は不参加を決め込みました。)

ゆぅじゅうゆぅじゅう 2006/03/06 22:22 初めてコメントさせていただきます。riversonさんに大変お世話になっているものです。riversonさんに紹介していただき、今一番最初のものから順番に読んでおります。
途中で木島始さんの『ぼくの尺度』を探していらっしゃるとありました。もう見つけられているのかもしれませんが、先ほどジュンク堂さんのウェブサイトで調べたら、わずかだが在庫があるみたいです。余計なお世話かとは思いましたが、「コメント」を書きました。
まだ木島始さんのところまでですが大変勉強になることばかりです。このあともどんどん読み進めたいと思います。
大したコメントではなくてすみません。
それでは失礼いたします。

tmrowingtmrowing 2006/03/06 22:54 ゆぅじゅうさん、コメントありがとうございます。
一番最初からとは、有り難いことです。
今後ともよろしくお願いします。
『ぼくの尺度』は9/22のコメント欄にも書きましたが、その後ジュンク堂で発見しました。
最近読んでいるのは『日英対訳現代詩集 楽しい稲妻』(木島始編、土曜美術社、1998年)です。

ゆぅじゅうゆぅじゅう 2006/03/06 23:30 大変失礼しました。本文のみをコピー&ペーストして印刷して読んでいたのでわかりませんでした。
A4(50字×50行)147枚のほとんどを蛍光ペンで塗りつぶしてしまいそうです。
こちらこそよろしくお願いします。
私も木島始さんの本を読んでみたいと思います。
またコメント書かせていただきます。

2006-03-03 Metaphors we are deceived by

今日は出校日ではなかったのだが、「英語俳句」のコンテストで入賞した賞状・賞品を届けてくれるというので学校で担当者の方をお待ちしていた。来週になってしまうと卒業式後だからなかなか生徒に連絡つけられないからね。今回は3位までには入れなかったが、1名入賞者を出したので、学校賞の賞状と盾もいただけることとなった。全国の高校での英語俳句の指導にあたられている先生の実践などを簡単に紹介したコメント集が一番の収穫。これを参考に来年度はさらに充実した指導をしてみたい。

さて、英語学習に限らず、学習に比喩はつきものである。ところが比喩は必ずしも真理を伝えないことを忘れてしまいがちである。以前このブログでも、「車の両輪」の比喩の誤謬は指摘したが、今回はその延長線(これも比喩ですね)にあると思われる話を。

何かで目にしただけなのでネタ元がはっきりしないが、「お灸を据える」という表現は日常で「懲罰を与える」意味で使われている。これに鍼灸に関わる団体が噛みついた(これも比喩ですね)というのだ。現実の鍼灸の世界では、「お灸」は治療目的で「据える」のだから、「あいつには一度お灸を据えてやらねばなるまい」などという表現は誤用であり、灸というものに関して誤解を招くものである、そのような誤用を助長することのないよう国語教育でしっかりと指導して欲しい、というようなことであったかと記憶している。そんなこと言われたら比喩表現は日常でほとんど使えなくなってしまうんじゃないのか、という印象を受けた。でも、実際問題として、比喩と簡単にくくってしまうけれど、その比喩によって何を主題として表しているのかがよく分からないものが多いのは事実である。

1.「英語漬けになる」というのだが、「英語に何を漬けているのか?」「漬ける前と漬けた後で何がどう変わるのか?」「何の目的で漬けるのか?」

2.「英語のシャワーを浴びる」というのだが、「水」とか「お湯」に当たる部分に「英語」を当てはめて何を表しているのか?「それまでに身についていた汗や汚れ」として何を想定しているのか?「母語の汚れを洗い落とすのか?」その場合の「汚れ」とは「母語から生まれる類推・干渉」か?「シャワー」ではなく、「英語の浴槽に浸かる」のではなぜダメなのか?

少々あざとい書き方だったが、結局の所、1.は「英語の成分を自分に染みこませるために、その中に入れてしばらくそのままにしておく」とでもいう意味であろうから、「英語の学習時間を増やす」「英語の使用時間を増やす」「日本語の使用に頼らず英語を使用せざるを得ない環境に自らを置く」ということを意図した比喩であろう。では、2.の「シャワー」の比喩は?と考えるとよく分からないのである。シャワーを浴びる目的は何なのだろうか?「爽快感」?「清潔感」?

英語学習について「世間」と対話を図るのであれば、比喩をいったん離れることで、ことの本質をもう一度確認することが大切である。

ferrierferrier 2006/03/06 17:44 レイコフですね。人を使嗾しない言葉はない。人を使嗾しなくなったとき、それはもう言葉ではないだろう。これ、小林秀雄「様々なる意匠」の冒頭だかにあった言葉ですけど、比喩とはまさに人をして「使嗾」せしめるもの。英語のシャワーというと、僕は「風呂で覚える英単語」というのを思い出すなあ(笑)。いまはシャワーじゃなくてイマージョンでしょ? 漬けたり、浴びたり、沈めたり、どうして英語は「水」のイメージ、しかも丸ごと水につかるイメージなんでしょうねえ。ほかに何かあるかしら。

tmrowingtmrowing 2006/03/06 19:01 「言葉は流体で、素早く流れ去り、掴むことは容易ではない」とでも考えているのでしょうか?英語でもpick upを使いますね。日本語では「聞きかじる」などと言いますが、これは「大きな全体のうちの一部を自分のものにする」という感じですかね。
外国語の運用に関して日本語では「ぺらぺら」「すらすら」などの擬態語が用いられますが、ここにもなんらかの比喩が働いているのでしょう。「すらすら」は好ましい運用に用いられるのですが、「ぺらぺら」は本来必ずしも好ましいと感じていないことを示唆しているはずなのですが、こと外国語に関しては流暢さを表すのですね。

2006-03-02 Fears and Tears On Isochrony

やっとの思いで以下の本を入手。

Poetry Speaks to Children (Sourcebooks Media Fusion, 2005)

以前紹介した一般向け商品の子供版。95篇の詩のうち、52篇に音源付き。そのうちの29が作者本人の朗読によるもの。このアンソロジーのためのオリジナル音源が37とのこと。子供向けとあって詩人もより現代に近く、収録作品も平易な印象をあたえる題のものが多い。Billy Collinsの詩も2篇収録。もちろん本人の朗読である。来年度に向けての資料が揃いつつある。FTCでの発表でも知らせたかったなあ。

このところずっと英詩と韻律について悩んでいたのは「等時性」の問題である。等時性とは、

  • Come
  • Come to tea.
  • Come to tea with John.
  • Come to tea with John and Mary.

で、強勢のある部分が一定の間隔で現れる現象を指していると考えておいていいだろう。私が中学生の時の英語の先生は北米に留学されていた方で、自然な教室英語を駆使していたように記憶しているが、中1の1学期中間考査の後くらいで、やっと文らしいものが出てくると、指し棒で机をたたいてこのようなリズムをとりながら音読練習をさせていた。

これが嫌だったのだなぁ。当時の私には、この等時性を強要されるのが不快だったのだ。それ以来、中3の12月まで英語の授業が嫌で嫌でしょうがなかった。(当時の様子はここでもご覧下さい→http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20050308) 自分が教師になってからもこの等時性を強要したことはない。中学校の先生などで、メトロノームやリズムボックスを使う人がいるが、本当に生徒に喜ばれているか考えてみて欲しい。

最近の音声学や音韻論ではこの「等時性」はどのような扱いなのだろうか?佐藤寧氏の書いた音声学の入門書では、Lehisteの論を引いて、「意識」の問題であるとしていたし、ピーター・ローチの概説書でも、「そのように主張する学者がいるが物理的な検証は得られていない」というような趣旨のことが書かれていた。「あり得べき姿としての等時性」という解釈で良いのだろうか?Lehisteの論文は1977年。もう30年が経とうとしている。自分自身、大学時代は実験音声学を主としてやっていたので、英語は強勢拍リズム、日本語は音節拍リズムというのは定説ではあるが、実際は厳密に区別することは難しいことは分かっていた。当時のマック用 (?) ソフトVisi-Pitchでは最長8秒までしか測定・表示・保存ができなかったのでより現実的な発話をすぐに再生分析することができなかったが、それでも音調を目に見えるようにしてくれたのは衝撃であった。(当時ゼミ生だったアジア系の言語を母語とする留学生は、吉沢典男先生がこの機械を導入した時、空き時間この機械の前で列をなし、自分の発話を記録しては眺めていたものだ。)tone とpitch そしてintonationというものを初めて実感した瞬間でもあった。

今や、等時性云々のまえに、コンピューターの画面に波形を映し出して見せれば簡単な時代になった。渡辺和幸著『英詩のプロソディ プロは英詩をどう読んでいるか』(英宝社、2002年)では、Visi-Pitchを初めとした最新の音響音声学の解析ソフトを使用して伝統的な韻律分析と実際の朗読とのギャップを埋める考察を展開している。

善意のメトロノームやリズムボックスの使用がノイズとならないよう、テクノロジーの恩恵は甘受したい。

tmrowingtmrowing 2006/03/04 07:22 東京外国語大学が英知を結集したと思しき「TUFS言語モジュール」の中に 「えいご for KIDS」という何語のタイトルか判りかねるタイトルのページがある。その中に「えいごってどんな音」という項目があり、さらに「リズム」という項目が立てられている。もうおわかりでしょう。手拍子でリズムをとっているのですね。しっかりしてくれTUFS!!

2006-03-01 March Hare Wisdom

『英語教材の見方教え方 英語教育体系宗拇豕文理科大学内英語教育研究会編(金子書房;昭和24年=1949年)を読んでいる。著者は星山三郎氏。面白い。先日のFTCの発表「英詩のある授業」の下調べで昔の韻文の扱いに関する資料を探していて、現任校の研究室でたまたま見つけたもの。現在教材研究などと一口に言っているが、そのことだけで1冊の実践書になっているのである。ここでは散文・韻文・会話体の3つの分類をさらに、内容と語法にわけ、それが中学校の3年間でどのような配列になっているかを考えている。頻繁に取り上げられる詩人や作品も掲載されている。具体的な指導法、教案の書き方など昭和22年(1947年)の指導要領試案を受けての「新教授法」への橋渡しのような性格も持ったものと推察するが、戦前の英語教育に関する記述は注意深い考察を要する。例えば、教科書について。今、いわゆる検定教科書は6社から発行されている。1社1冊である。プログレスやトレジャーなどの検定外教科書を入れても10点程度だろう。かつてはどうだったか?

  • 昭和5年頃わが国で発行された中等英語教科書は当時の記録によると57種類以上にのぼる。昭和11年度でも文部省検定済みとして認可されたものが27種に及んでいる。(p.60)

この背景には、高等小学校で英語教育がかなり普及していたことがあるのではないだろうか?

福原麟太郎監修『ある英文教室の100年』(大修館書店;1978年)に収録されている「附属小学校の英語」(pp.100-104)や松村幹男著『明治期英語教育研究』(辞游社;1997年)の「高等小学校英語科の意義」(第曲埖茖絃蓮pp.359-402)などを読むと、現在世間を賑わしている「小学校英語教育必修化」議論の突き抜けなさ加減が気になるのである。必修化反対派の主張の根拠のなさ、推進派の乗っかっている諸外国の事例・論文で明らかにされた知見など、足下の何を見てきたのか、という気がする。やはり、国内の事例をもっと精査するべきなのだ。文科省はフォーラムの後援などに現を抜かしていないで、明治大正期とはいわない、戦後だけでもいいから「研究指定校」での成果をしっかりとまとめて世間に示す必要があるだろう。

今日の記事で言及した書籍は全て、現任校の書架にあったものである。本当に、現任校の整備している資料には唸ることが多い。もっとも私がこれまでそういうものをよく読んでいないだけなのだが。(古いものだけでなく、最新のアンソロジーやモノグラフ、TESOL系のジャーナルも定期購読しているのは流石と言うしかない。)

歴史・伝統のある学校に勤務されている若い先生も、年度末など時間のある時に一度資料庫などを覗いてみては如何だろうか?