英語教育の明日はどっちだ! TMRowing at best Twitter

2006-04-30 『あの鐘を鳴らすのはあなた』

世間ではGW最初の土日、本業で朝から晩まで。日曜午後は日焼けで肌が痛い。自転車漕ぎすぎて筋肉痛。

合間を縫ってGWの読書生活に備えて、以下を購入。

  • 都留重人(2006年)『市場には心がない』岩波書店
  • 柴田元幸(2006年)『翻訳教室』(新書館)
  • 読売ぶっくれっと(2005年)『時代の証言者「ヒットメーカー」阿久悠』読売新聞社
  • 読売ぶっくれっと(2005年)『時代の証言者「漫画」水木しげる やなせたかし』読売新聞社

の4冊。都留氏はこの執筆時93歳。「『市場には心がない』というが、市場の参加者にはしばしば「邪心」がある。」という一節は先日テレビで「エンロン」の一連の特集を見た後だけに実感できた。『翻訳教室』は村上春樹も特別出演で学生とのやりとりが。この本を買ったのは「東大の学生ってどんな感じ?」という素朴な疑問からだったんだけど、質問がチープで陳腐なものだから、作家による自作解説を有り難がるみたいな感じでどうもいただけない。読者としても批評家・研究者としてもそれでは負けだろう。学生の誤訳を分析するとか翻訳論を楽しむとかどころではないかも。『読売ぶっくれっと』は恥ずかしながらその存在を初めて知った。

おまけで、

  • 『クイックジャパンVol. 65』

を「サンボマスター徹底特集」「初対談 大瀧詠一・山口隆」に惹かれて買ってしまった。大瀧詠一が「俺の下の世代でジャズジャズって言っているのは村上春樹ぐらいじゃないかな」といっていてちょっと気になる。特集の中に阿久悠氏のコメントもあって、阿久氏を引っ張り出してきたこと自体はなかなか良かった。総力特集「音楽」のインタビューで近田春夫がこう言っていたのが印象的だった。

  • 「日本のバンドって最初は弾けてても、結局、バラードを歌い出すじゃん。音楽的な体力がなさすぎるんだよ。」

この連休中に読み終わるかわかりませんが、そのうちレポート致します。

高2のGW課題として、「両親・家族に訊く私のうまれた頃の話」を設定。昨年と少し切り口を替えて次の大きな活動につなげる予定。

英授研の発表用に「わかりやすい」話を考える。柄にもないことを…とも思いかけたが、これはこれで方向としては正解だな。今回は大学入試問題を斬らねばならないし、高校のライティング授業を斬らなければならないし、はたまた、こういう研究会や日本の学会の論文でのライティングの扱いをも斬らなければならないから、できるだけ口当たり良く、肌触り良く入り込めて、でもそのあとに「ドキリ」とさせられるようなものを作ることができれば成功か。

「僕と君の全てをロックンロールと呼べ」なんていうのが邦楽のアルバムタイトルになる時代なので、「僕はこの実践を君と共有して、それからライティングで英語教育の世界を変えたいんだ」とかいっても許されるだろうか?

  • 「新しいことしようが何しようが、とにかく人に響かなきゃ意味ないんですよ。」(山口隆)
  • 「俺は優越感とか劣等感とかないんだよ。そういう概念がない。あるがままの事実を語っているわけ。それだけなんだよ。傲慢に見える人がゴマンといるだろうし、謙遜だと取る人もいるだろう。それはその人の心の反映ではないかとさえ思う。だから俺を傲慢に思う人は、たぶん自分の傲慢さに気付いている人なんだろうな。」(大瀧詠一)

tmrowingtmrowing 2006/05/01 18:19 サンボマスターの新譜を聴きながら加筆訂正しました。

2006-04-28 質問と批評の文化あるいはreflective language teaching再考

木曜日は、夕方からFTCへ。当日は現任校の歓送迎会もあったのだが、FTCは山口県宇部市から音読塾を主宰する藤本さんが来ると言うことでこちらを選択した。いつものFTCのメンバーとはちょっと違った顔ぶれが多かった。懇親会までお邪魔して、日付が変わるギリギリで帰宅。懇親会でも話題にしたのだが、今回の参加者の中に春のELEC同友会のワークショップと語研の春期講習会でも見かけた高校の先生がいらっしゃった。質問はするのだがその後、そのissueに関して残って聞き出そうというようなことをしないあたりは全く同じ行動様式。これはどんなものなのか。研究会に参加するくらいだから、そうでない先生よりも熱心でまじめではあるのだろうけれど、本当の意味で自分の内省につながったり、自分の授業の改善につながっているのだろうか?一昔前のキャッチコピーの「かわらなきゃも、かわらなきゃ」を思いだした。前回自分でFTCの発表をしたときは、主催者にお願いして、参加者でメールアドレスを知らせてくれている方それぞれにメールを出して、発表の評価をお願いした。返事が来たのは半分もないのだなぁ。良いにつけ悪いにつけ、評価やコメントを与える文化が育っていないということなのか?たとえ低い評価であってもそれを適切に伝えてあげることは少なくとも発表者にとっては重要な意味を持ちますので、私の発表を聞いた人はコメントをお寄せ下さい。お願いします。

高3ライティング授業は、自己紹介・自己PRシリーズの続き。水曜日とは違うクラスなので、市販教材を紹介。「コロケーション」の説明に『英単語ピーナツ』(南雲堂)を音源ごと紹介。日本語と英語の対応を基礎語彙のレベルで考えるとコロケーションは避けて通れないのだが、いまや英語教育界は「コーパス」一色ではないのか?黒川泰男氏の一連の著作のような日本語の基礎語彙を精緻に分析した論考をもっと取り上げてみる必要性があるのではないか?例えば、日本語での「〜する」というコロケーションで、以前気になったものに「充実する」というものがある。かつての『現代英語教育』の特集だったように記憶しているが『語彙指導を充実する』という他動詞的な使い方に違和感を感じた。当時の同僚にも同じ質問をしたのだが、期待するレスは得られなかった。編集部に問い合わせておくんだったなあ。と述懐すると、ほら、さっきの先生と同じ行動様式。訊くは一時の恥。「の充実を図る」「を充実させる」がデフォルトではないのかなあ? H.K.さんお願いします。

少し話が逸れたが、授業ではさらに「表現ノート」のネタ探しに使う雑誌類の紹介。FTCに行くついでにお茶の水の丸善で購入しておいたのだが、『週刊ST』『婦人画報インターナショナル』『ネイチャー・アジア版』『フィギュアスケートマガジン』などなど。まとめ買いして会計したので、合計金額にびっくり。レシートを見て、ネイチャーがあんまり高いのでさらにびっくりした。

自己PRの手紙を書くまでの一連のタスクでは、「言いたかったけど英語で言えなかった表現」に関するピア・レスポンスの第1回。「効果的なコメントを与えるのは難しい」「そんなこと聞かれてもわかんないよ」ということに気付けば、「では、どういう問いかけをしたら突破口が見えてくるか」と考え「自分なりに、こういうアプローチをしてみた」ということをまず打ち出す必要性が出てくる。とはいえ、今回は手法の導入のみ。習熟度に差があることが前提でも、テーマによって、triggerによって難易度は変わってくるので、ピアレスは焦ってはダメ。連休をはさんでしまうのだが、実際のライティングはtimed writingで直接見たいので、タスクは進めずに「表現ノート」の方を進めておくように指示。連休明けには「表現ノート」第1回事前相談会。

高2は Dan Forgelbergのleader of the bandの続き。歌詞の細かいところに関しては解説(日本語でですよ)、その後さらに聴かせて最後のタスクを記入させ回収。Vocabularyに関しては、disabled peopleの解説でクリストファー・リーブとスティーブン・ホーキングの写真を見せて、例文の意味を考えさせた。PCの観点で、dumbではなく、speech impairedというのだというような知識の前提として、dumbbellの意味を考えさせた。思い返すと、去年も同じ話をしたのだが、去年は3年生の授業で「亜鈴」の「亜」について説明したのだった。本来は聾唖の「唖」(本来の字がでない。口に「亞」だったはず。)今は「亜」だから「二番手の;似て非なる」みたいな意味でとらえられているということか。亜鉛の亜、とかインド亜大陸の亜という感覚。モモンガとムササビの英語での名称とか、ラッコとカワウソの英語名を考えたりするとき、も似たような感覚にとらわれることがある。物差しの違いとか相似形をとるときの規準の違いなど、言葉が異なれば変わってくるものがある。Metaphor以前にこのあたりの感覚が母語である日本語でどうなっているのか、英語教師も少しは気にした方がよい。

tmrowingtmrowing 2006/04/30 03:01 森住衛『単語の文化的意味―friendは「友だち」か』三省堂(2004年)は基礎語彙の日英比較文化論というような切り口で、ことばの肌触りを感じるアンテナを微調整してくれる本だと思います。
施川ユウキの漫画で、『サナギさん』というのがあるのだが、今週読んだ話に「(髪の)生え際は生え際側からみたら「生えなさ際」だ」というようなのがあって笑った。この人はことばにこだわりのある人なんだと思う。過去の連載分の抜粋がこちらのサイトで紹介されてます。↓
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/6596/

tmrowingtmrowing 2006/04/30 20:11 訂正です。
「生え際は」「生え側」からすれば「生えず際」だ!
でした。

2006-04-26 居心地の悪い授業

昨日は、いつも大変お世話になっている編集者の方に、東大の阿部公彦先生を紹介して頂いた。私の知人で大学で米文学を教えているS先生もお誘いして、吉祥寺で会談(?)。とりたててテーマがあったわけではないのだが、阿部先生の関わっている「若手の会」などの話も伺うことが出来た。私を除く3人は文学が専門なので共通の知人の話題などで盛り上がっていました。結構な時間を過ごして散会。皆さん、お疲れ様でした。

水曜日は飛び石で、1,3,5限の授業。高3ライティングは、自己紹介に用いる形容詞を5つ選び、それを具体的な動作・活動を表す動詞でいいかえる口頭練習を3つペアに組み替えて行ったあと、個人でワークシートに記入する作業。評論文などの読解が中心となりがちな高3生は、意外に動詞の持ち駒が貧弱である。市販教材を教室に持って行き、「再入門の社会人用教材には事欠かない日本の市場だが、高校生の日常を表していて、しかも高校生レベルの英語力ですぐにお手本に出来る、まとまった英文を書く教材はほとんどない」ことを強調。そのかわり、「アンテナ」さえ敏感に張ることが出来れば、どんな英語も教材となりうることを指摘。

高2は4月の歌第二弾。昨年度と同様ダン・フォーゲルバーグ(Dan Forgelberg)の leader of the band。歌詞の内容はやや複雑な物語なので、主題や人間関係をつかむのは前回の曲よりも骨が折れるはず。だからこそ、この曲を扱っているのだが、特に男子で「自分が解らないことを前提としてタスクの解答を記入することを嫌がる」、つまりその部分を白紙で出す者が目立つ。ええかっこしいもたいがいにしろと言いたい。なぜ、答え合わせを基本としないで歌の課題をやっているのか。わからないときに何もしないのでは意味がないのだ。悲しいほどよくわからない経験を踏まえて、わかることから解きほぐしていくという語学の基本姿勢を早く覚えてもらわないと。

その後、第一課の語彙を概括するワークシートで練習方法を説明。中1など入門期にはあれほど易しかった語や表現にもかかわらず、練習を繰り返したはずなのに、高2、高3とコトバそのものが難しくなってくると、意味を理解しただけで先に進み練習が貧弱になっている傾向を指摘。練習方法を一から見直すよう強調。

今年度は未だ文法の説明をしていないのだが、授業後に、他の授業か何かで扱ったのであろう文の質問に来た生徒がいた。

  • 1) I had my passport stolen.
  • 2) My passport was stolen.

「私はパスポートを盗まれた」という時に、なぜ2ではだめなのか、というのだ。「それまでに何の話をしていたか、を考えると、どちらがより自然か、ということにはなるが、1文だけとりだして『あってる、あってない』ということに余り意味はない。1は『私のことについての話』、2は『私のパスポートについての話』」と答えたら、2だと「stolenで私のパスポートは盗品です、という意味になるのでは」と来た。おいおい、さっきと質問していることが違うでしょ。わからないから質問しているんじゃないじゃないか!!こういう人を値踏みするような質問の仕方が気に入らないなぁ。それを差し引いても、stolen が名詞で盗品っていう理解をされても困るので、「stolen = 盗品って誰に聞いたの?どの辞書に出ていた?」と逆に聞いておきました。そもそも塾・予備校であれ、学校であれ、ある先生が説明したことに関する質問なら、その先生のところに行ってしつこく食い下がればいいだけのこと。こういう、安心できる立ち位置でしか動き回らない行動様式を高校生くらいで身につけてしまうのは感心しない。

きめ細かく配慮され計画されお膳立ての整った「生徒主体」の授業がもてはやされ、じれったさとか、もどかしさとかを痛感するような瞬間がどんどん授業から失われていってはいまいか?教師として授業の伏線は張っておくものの、何でもかんでもサクサク進むテンポの良さは警戒したい。意味のある居心地の悪さ、学びの奥の深さ、教師の持つ得体の知れなさ加減を追求したいと思いながら帰途についた。

2006-04-24 4月読書録

今月購入して読み始めた本から幾つか紹介。

  1. 荒木茂『群読指導入門』民衆社(2000年)
  2. 太田洋・日臺滋之新しい語彙指導のカタチ 学習者コーパスを活用して』明治図書(2006年)
  3. 塚田泰彦編著『個人と協同の学びを支援する 国語教室のマッピング』教育出版(2005年)
  4. 『文字 終刊号 近代思想の幕開け--- 明治の知識人』ミネルヴァ書房(2006年)
  • かつて『現代英語教育』で、荒木茂『音読指導の方法と技術』(一光社)が紹介されていて、目を通したことがあったが、この人の音声表現の指導は骨太である。「群読」の定義の曖昧さ、実践のバラツキも含めて国語教育での実践の輪郭や肌触りを感じることは出来るだろう。なんといってもCDがついているので実際の授業をイメージすることができるのがよい。英語の授業実践で「音読」を取り上げるとした時、その指導過程がビデオやDVDでなく音声のみだったとしたなら商品として成立するだろうか?群読に適する教材の条件として挙げられているジャンル・文体の解説などは、翻って英語教育に於ける音読指導での教材観・教材論を見直すヒントとなるだろう。詩人の自作詩朗読肯定派・否定派の紹介なども面白く読んだ。
  • 『新しい…』は180ページ足らずの本だが、中学生の学習者コーパスから得られたデータが紹介されており、外国語学習者の発達段階を考えるのに貴重な資料である。国語教育の分野では井上一郎氏の著作などで、児童の語彙の発達段階がまとめられているが、英語教育の分野での語彙発達研究の端緒と言えるだろうか。
  • 『…マッピング』は、英語教育でも最近普及しつつあるidea generation& organizationの手法としてのマッピングを国語教育でどのように実践してきたかが記されている。国語教育の分野では20年間程の歴史があるとのこと。特に注目すべきは、「語彙指導」「読むことの指導」「書くことの指導」とそれぞれ分けてマッピングをどのように指導しているかを紹介している点。pp.164-165での生徒とのやりとりが英語教育に於ける最近の流行に対する重要な示唆を含むものである。
  • 「じつはこの生徒はもともと情報通信分野に関心が高く、このテーマに関してはかなり専門的な知識を持っている。にもかかわらず、このように主旨の伝わらない文章を書いたのはなぜか?面談をとおして彼のつまずきを検討すると、ー分のもっている情報が多すぎて、それを吟味・整理できずに、思いついたものを思いついたまま書いてしまった、◆悒妊献織襯妊丱ぅ鼻戮砲弔い峠淑咀嚼しないまま、文章に取り込んでしまったため、文章構成に混乱が生じた、ということがわかった。」
  • 『文字』に関しては、いつもお世話になっている編集者の方に教えて頂いた、石川九楊の責任編集ということで書店で探したら、みつかったのはなんと終刊号。あらあら、という感じ。収録されている論考のそれぞれが、ものすごく負荷が高い印象を持った。ここで述べられる語のひとつひとつの質量が高いとでもいおうか。疲れたぁ。草森紳一「咄嗟のカマイタチ」のなかで、荒木比呂彦の『バオー』が紹介されていたのにはびっくりした。

4月11日付けの記事(http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20060411)で触れた frighteninglyだが、今日、大修館書店の編集部からFaxが届いた。一応、南出先生にお伺いを立てたようで、ようやく不適切な記述を認め、「なるべく早い機会に」訂正したいとのこと。

  • frighteningly 副 1 [強調語]びっくりするほど、恐ろしいほど。2.ぞっとさせるように。

Faxには、「1.の意味で使われることがほとんどであるということです。」と丁寧に記してあったが、辞書には反映されないのだろうか。

tmrowingtmrowing 2006/04/27 07:20 荒木茂氏が運営しているサイトでは、「表現読み」指導の歴史なども詳述されている。興味のある方は是非。
http://www16.ocn.ne.jp/~ondoku/rekisi1.html

2006-04-22 跳ぶ前に見よ

とあるメーリングリストで「和訳先渡し授業」をあげつらって、個人に対して誹謗中傷すると言う騒動があったそうだ。現代のネット環境では健全でいて突き抜けた議論が難しいことを知るには払う代償が大きすぎたのではないだろうか。このブログでも、「和訳先渡し」というフレーズのみが先行し、実質何をやっているのか判然としないようなfollowersに関する批判は繰り広げてきた。私が一貫して言い続けているのは、「和訳先渡し○○」とした時の「○○」にはいる活動や技能がきちんとわかっていますか?ということが第一点。「○○」が「リーディング」とした場合の私のスタンスをコンパクトにまとめているのは、2006年3月29日の記事の最後の部分である(http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20060329)。第二点は、翻訳での和訳と内容理解のための日本語の活用とを峻別することは難しいということである。

全英連を契機に一気に全国に普及したかに見える「和訳先渡し」であるが、本家ほど緻密かつ柔軟に取り組んでいる学校・教師はそれ程多くないようである。本家は「和訳」や「訳読」を否定しているわけではないのに、followersの方は傾向として安易な「和訳批判」に陥りやすい。そういうのはエピゴーネンというべきだろう。一方、現在の実践で既に「量」を確保できている、英語の単位数の多い私学や英語科・国際科などの学校では「和訳先渡し」で更なる量を稼ぐより、高2までは今のやり方で進めていき、高3で国公立個別試験型入試問題でゴリゴリと文構造や語彙・品詞を徹底した方が英語力の伸びに貢献するかもしれない。時間は十分にあるのだから高2までの英語I, 英語IIは訳読、高3のReadingは和訳先渡しで1学期で教科書を終えるというオプションも考えられる。はじめから最後までたくさん与えてたくさん無駄にしていないかという振り返りにも意味はあるのだ。

和訳批判はたやすいと思われているのか、「和訳先渡し」や「多読ブーム」、「ハト感ブーム」に便乗したのか最近結構元気のよい批判が目につく。和訳批判の論拠として、和訳に依存した内容理解というものがある。では彼らがそれに取って代わる認知のプロセスとして何を概念としてあげているかというと、「イメージ」や「フィーリング」である。

We have two dogs at home.という英文を見て、dogを「犬」といちいち日本語に訳すのではなく、単語からすぐにdogのイメージを思い浮かべて内容を理解するのが望ましいと言うのだ。ではそういう人は、次の英文からどのようなイメージを持つのであろうか?

  • Blackbirds are singing in the dead of night.
  • A bus is standing at the bus stop.
  • My father has a receding hairline.
  • Dorothy pulled a long face at the news.
  • Children are throwing snowballs at each other in the playground.
  • 文化差があり翻訳では実感がわからない生物
  • 動詞の意味特性と相
  • 動詞の意味特性と分詞
  • イディオム
  • 名詞の数と進行相

学習者は学びの発達段階のどこでこのような英語の特徴を自動化してくることを想定しているのか、中学高校のシラバスは答える義務があるのではないだろうか。その意味では日本語を使ってでも教えて済むことなら教えてしまえばよい。安易な和訳批判は自分の底が浅いことを露呈してしまうので注意が必要だ。

本家が主張していることは「和訳することで授業や授業の準備に多くの時間を費やしていて、今までやりたくてもできなかった英語授業で行うべき活動」なのであるから、その新たに提示された活動の中身こそを批判しなければ、この「和訳先渡し」を批判したことにはならないのである。結局問われているのは英語の「授業」でありそこで育て・鍛える「ことば」なのである。

「和訳先渡し授業」の先にあるものがちゃんと見えているなら跳べばいい。

2006-04-21 思案坂

授業も一回りしておおよその見当がついてきた。今日は、高2で昨年の生徒作品・発表などのDVDを見せてガイダンス。片方のクラスはリスニング活動&音読のバリエーションも試してもらった。視聴覚室を予約しておいたので、最後にChild of mineの合唱をビデオに撮っておいた。今年度の最後に見ると面白そう。

研究室で雑談をしていたのだが、他の日本人の先生から「高校生の時に先生の授業を受けてみたかった」という仮定法過去完了の社交辞令が。「生徒は短期間だから持つんですよ。高校3年間とかだとたぶん持たないから。あと、高2,高3くらいの英語力を前提として、そこにのっかっちゃっている授業だから生徒にしてみればアップアップですよ。」と答えておいた。

昨年・今年と講師でご一緒しているM先生から、Pre-reading活動で生徒に書かせた英文へのフィードバックに関して助言を求められた。「生徒の書いたFragmentからでも主題をうまく引き出すことができるように、『英語で言おうと思ってたんだけど言えなかったことをひとつだけ』日本語で書かせて集めておきクラスに投げかける」という小ネタを紹介。たとえば「自分らしさ」とか英語で言えなかったとして、myself と一語で書いたものと my self と二語で書いたものの意味の違いを説明するのは難しいので、what I am とか my identityなどといったコトバとの対比をクラス全体で考えさせて、出てきたアイデアから習熟度の低い生徒へのヒントを導き出すことも可能である。時間はかかるけど。

帰りに修理に出していた眼鏡を受け取る。予想より安く済んだのでその分、The songs of the month2曲目以降の候補を色々物色。昨年度は年間合計18曲。今年はそのうち3分の1は共通で行く予定だから10曲以上は新たにテーマに関連させて選ぶことになる。いつもは教材研究をしている途中に閃くのだが、去年と同じ教科書なのでテーマとの関連で意外に悩む。

Waterboysといえば、今の若い人にとっては男子高校生がシンクロナイズドスイミングに青春している映画(ドラマ)なのだろうが、私にとっては誰がなんと言ってもスコットランド出身のマイク・スコット(Mike Scott)率いるバンドThe Waterboysである。この人たちはうまいことケルトに出会ったなぁ。97年のMikeのソロアルバムStill Burningはクレジットをよく見るとドラムがジム・ケルトナーだった。久々に聴いて鳥肌の立った Love Anywayもさることながら、シンプルの極みOpenの歌詞(詩)がやっと実感を持ってわかるようになったのが嬉しい。こういうのを授業で使いたいんだけど厳しいかなぁ。松鶴家ちとせ状態。一番だけ紹介。

  • Open to the world/ open to spirit/ open to the changing wind/ open to touch/ open to nature/ open to the world within/ open to change/ open to adventure/ open to the new/ open to love/ open to miracles/ open Beloved to You ("Open" lyrics by Mike Scott)

アート・ガーファンクルのSo Easy To BeginはJules Shearバージョンがないのが残念。

  • It's So Easy To Begin, but it's so hard to stop, this love,/ It's just so hard to stop./ When a heart that's lookin' for lovin' leads you in,/ It's So Easy To Begin. ("So Easy To Begin" lyrics by Jules Shear)

などというCarole King的なシンプルな歌詞を書いていた彼も、今では

  • If the buttoning meant so little/ how can the unbuttoning mean so much ("You Anyway" lyrics by Jules Shear)

というようなさりげない技巧派に。Carole King的つながりを考えると、このあたりで今年らしさを出しておけば去年との差異化が計れるだろうか。

大きく路線ごと変更して、Stevie Wonder あたりも考えた。『誕生日』とか『電話だよ』とかではイヤなので、 72年作品のMusic Of My Mindにあたりをつける。このアルバムに収録されている Happier Than The Morning Sunは瑞々しくて伸びやかな声で心惹かれるのだが、なにぶん、5分超なので使えるとしてももっと後。N先生に教えてもらったAnn Sallyのカバーバージョンはやや短く、声も軽やかでいいのだが、歌詞がかなり変わっているのでどうしたものか。

こういう悩みだといつまでも持つのだけれど、来週くらいまでに決めなきゃ行けないからね。まあ、もともと「私の授業でしか耳にしないだろう曲中心」という規準で選んできたので、落ち着くところに落ち着くでしょう。

2006-04-20 ”So Easy To Begin”

不思議な天気の日だった。昼前は台風かと思うほどの風雨、その後晴天。日が暮れてからはかなり肌寒かった。

ジュールズ・シアー (Jules Shear) の新譜 "Dreams Don't Count"を聴きながら出校。

授業後、新宿のタワレコでアート・ガーファンクルのソロCD (81年作品)を買う。私が高3で、受験勉強をしていた時によく聴いていたアルバム。ジャケットににやけながら、その後ジュンク堂へ移動して時間を潰す。

たまたま『広告批評』(マドラ出版)のバックナンバーフェアーをやっていたので、色々見回した挙げ句、

  • 「ことばの体力」1996年10月号
  • 「コトバがそこにいる」1999年10月号
  • 「歌のコトバ」2006年3月号

の3冊を購入。どの号も「言葉」という漢字を使っていないのが気になった。

「村上春樹への18の質問」が掲載されている1993年2月号を探したのが、残念ながらその号だけなかった。

「ことばの体力」では立川昭二の「からだことばが消えた」は9年経った今も現実味を帯びている。医学部志望の学生に「血」という字の入った言葉を書かせるのだが「血圧」「輸血」「血液型」は出てきても、「血色」「血の気」「血潮」などは出てこない、というもの。私が思いついたのは「血眼」。「その人がその言葉についてどんな語彙を持っているか、それはそのままその人の文化なんです。」という立川氏のことばは英語教師にも耳が痛い、身につまされる。

「コトバがそこにいる」には村上春樹のロングインタビューが。編集長自ら渾身の24ページ。時期的には『アンダーグラウンド』『スプートニクの恋人』の後だろう。私は何故、この人の小説以外の言葉にはすんなり入れるのだろう、と思ったらインタビューの最後に「文体」の話を自らしていた。私はきっと村上春樹の小説の文体をまだ信頼しきれていないんだろうなぁ。

『歌のコトバ』には吉本隆明が寄稿。ただ原稿を書かせるのではなく、一青窈、クラムボン、そしてサンボマスターの歌詞を語らせている。この雑誌のキャスティングは秀逸だと思う。

商業主義と無縁ではいられない英語教育の雑誌も、『広告批評』などの視点と立脚点に少し学んでみたらどうだろうか?

夕方からは同友会の常任理事会。参加者が少ないのは新年度早々だからか?研究大会の講演者を誰に依頼するかで難渋。紋切り型思考からなかなか抜け出せないなぁ。

近況は慌ただしくなってきた。

  • 6月に1件ライティング関連の発表をすることになりそう。70分で豊富な実践例を踏まえてという注文。腕が鳴るというもの。
  • 7月には福岡でライティングのワークショップをやることが決定。つい先日宇部には行きましたが、九州に行くのは久しぶり。コーディネータとそろそろ詳細を詰めないといけない。トニー・ラズロではないが、やはり同じ抜くなら「度肝」がいいよね。

帰宅してアート・ガーファンクルのアルバムのクレジットをまじまじと見て、5曲目はジュールズ・シアーの作だったことに今日初めて気付いた。25年越しで色んなものがつながり腑に落ちた気がする。

ガメラガメラ 2006/04/21 23:43 松井先生、ハンドルネームをこの前メールでお知らせした「ガメラ」です。7月のライティング研究会、楽しみにしております。今年は、例の研究プロジェクトが終了し、N先生との共同研究のテーマの1つはライティングですので、じっくり取り組みますので、また御指導ください。今年のテーマの1つは、訳読先渡しでよく使われるCrown Readingを使う授業を取り入れて、あの教科書が本来目指す4技能統合型の授業をすることにしています。あの教科書の補足の部分にある要約やエッセイライティングまでを1つのユニットにする授業を来週から組み込んでいます。従来行ってきたディベートに関連するクリティカルライティングやCriterionの指導をもう少し見直してより体系的なライティング指導を行いたいと思います。来年の最終到達指標は、長い講義を聞いてのライティング指導です。ライティングの能力記述の見直しも、実践を通じ行うことがこれから数年のテーマです。先生の「度肝」を抜くお話しを期待しております。

zokkonzokkon 2006/04/24 23:13 ガーファンクルのこのアルバムはたぶんぼくが初めて自分で買った洋楽のレコードでした。中学1年のころ。彼は自分では曲を書かないけど、選曲眼はなかなかいいですね。スタッフに恵まれてるということかもしれませんが。

tmrowingtmrowing 2006/04/24 23:33 zokkonさん、先日は資料をありがとうございました。このアルバムのジャケットを覚えていますか?首筋に、ちっちゃなバンドエイドが貼ってあるのです。アルバム収録の Scissors Cut(ジミー・ウェッブの曲)の内容がわかると、思わずにやりとしてしまいます。私、このネタは渚十吾氏の書いた「渚のボードウォーク」(雑誌『LOO』に連載されていた)で読んで初めて知りました。

tmrowingtmrowing 2006/04/24 23:36 ガメラさん、お世話になります。九州は何年ぶりになるのだろう?度肝を狙いたいですが、河豚のおいしい土地柄ですから肝くらいは抜いておかないと安心して現地の良さを味わえませんね。内容に関するリクエストがあれば言って下さい。

tmrowingtmrowing 2006/04/24 23:44 zokkonさん、私は世代的には遅れてきたJimmy Webbマニアなのですが、彼のオリジナルのScissors CutはAngel Heartというアルバム(1982年)に収録されています。彼はそれこそ地味なのか、日本での評価が芳しくないのが残念です。

zokkonzokkon 2006/04/25 17:25 Jimmy Webb の歌う Scissors Cut も一度だけ聴いたことがありますが,渋くていい声ですよね。
実はまさに同じアルバムについて書いたことがあります。
http://www.nosouth.com/verdean/log/eid24.html
絆創膏の件は20数年経っても気づいてませんでしたが……

2006-04-19 On being a homeroom teacher

久々の更新。3日空いたのは珍しいかな。

週末は小雨交じりの寒空の中本業。日曜日には隅田川まで行って来ました。疲労の色濃く、週明けの月、火と大変でした。

高3ライティングは、pre-testの解説と周辺教材の説明から。

Pre-test解説は、日本語の干渉によって適切な主語を選択できていないものを重点的に。短文・単文を孤立した状態で扱うと結構「正しい」かどうかを決めにくいことを理解してもらいたかった。さらに、出来なかった問題でも、ただ単に「知らなかったから出来なかったので、覚えてしまえば済む」タイプのものを便宜的に「大佛次郎型」と命名。それ以外の、「文を作る上で不可欠の英語力」に関わるタイプは時間がかかるよ、と指摘。

関連教材。今回は、

  • 『英語で書くコツ教えます』(桐原書店)
  • 『大学入試基本例文200』(旺文社)
  • 『ドラゴンイングリッシュ』(講談社)

などをどのように活用するか例文をあげて説明した。

その後、コロケーションに関わる資料と、「表現ノート」のサンプルを配布し、今後の進め方の説明。コロケーションに関しては、名詞 and名詞 など、ペアのコロケーション、形容詞+名詞のコロケーション、動詞+目的語のコロケーションをまずおさえるように指示。目的語に関しては、例によって日本語の「掘る」で考えさせた。「表現ノート」については、ネタは「絶対に」自分の興味関心の持てるものですることを強調。それでも「リーディングの単語帳ではダメだ!」ということは最初の提出回でダメ出しされないとわからないかなぁ。

高2はマクミランの辞書活用のワークブックを参考に辞書引き活動を幾つか行う。生徒は今後、授業の中で英英辞典的定義を否応なしに使わなければならなくなるので、その導入。エクササイズの中に、Lesson 1のキーワードなどをちりばめておいた。実は、歌の課題のChild of mineの中にも、<助動詞+完了形>など重要文法事項は入っているのだが、歌えるようになれば、そのうち気付くでしょう。覚えていればそのうち良いことがありますよ、きっと。

今月の歌のコメント集(B4両面印刷)を返却して、お互いのコメントにある英語表現をチェックする活動。各自が英語で書いた文を、コメント集には添削して掲載してあるが、生徒のワークシートは全く朱を入れていないので、英語で書いた生徒は自分のワークシートの自己訂正が必要になる。続いて「自分が言いたかったけど言えなかった内容を英語で言ってくれているコメント」「○○カスタマーレビューから抜粋した表現」で用例をチェック。その後、歌詞の音読練習をして、一回通しで音楽に合わせて合唱。今年のクラスは歌える人が多い印象。片方のクラスがとても声が大きい。とりあえず誉めておいた。

授業後、高2の担任の先生が「先生の授業でわからないことが出てくるのにそこを質問できないので生徒が困っています」というような悩み話に。「何組ですか」と確認したら、さもありなん、というクラス。「そのクラスは直にキャッチアップしますから、大丈夫です」とだけお答えしておいた。私のクラスでは毎年あることなのだが、担任としては気が気じゃないのでしょう。でもそういえば高3の担任の某先生も「うちの生徒も戦々恐々としてますよ」などといっていたなあ。ご心配おかけしております。本当に頭が下がります。親業が parenthoodだったら、「担任業」はなんと言えばいいのだろう?

生徒も生徒で、高3生はともかく、高2生は、現高3生に情報をもらえばいいと思うのだが、あまりそういう縦の連携は多くないのだろうか?高3生で他の先生の所に用事できていた生徒の付き添いの生徒が「先生の授業はなにげに今までにない視点があって面白い」というような感想を述べてきた。「たとえばどういうところが?」と聞き返したら、「なんか違うんですよ。でもすごく期待してます」とその生徒もよくわかっていなかったので、「じゃあ、こんど具体的なネタを持ってきて。私も自分の授業を客観視したいから」とリクエストしてお別れ。

今年度は週5日出校なので、今日で中日終了。今週もあと2日。現在の勤務校は研究日の制度があるので、専任も出校日は5日だということに最近になって気付いたのであった。

2006-04-15 『いったい現実を把握している者はいるだろうか』

4月とは思えない肌寒い朝。5時起きで本業へ、昼前に帰宅。資料の整理をして、午後はライティング研究部会。年度計画を詰める予定だったが、校務多忙等でN先生と、新たにお誘いしたN先生と3人で英語教育放談となった。その後、K先生が合流して4人でミニ懇親会。そうそうたるセレクションに時事放談ならぬ、地酒放談となってしまった。申し訳ない。N先生、これに懲りず、また参加して下さい。

帰宅したら、別のK先生から男児出産のご報告メールがとどいていた。おめでとうございます。

『英語教育』5月号(大修館書店)の特集は、「英語力と国語力をともに育てるためには」。

特集への率直な感想は、英語教育側は自分の守備範囲を出て模索しているのだろうか、ということ。自分の居心地の良い立ち位置に国語教育を引き寄せようとしているだけなのではないかという思いが強い。

冒頭の対談は豪華な顔ぶれだが、言語教育放談で終わっている。せっかくディベート教育の大家松本茂氏を英語教育の分野の代表として対談させているのだから、もっとお互いの痛いところにも切り込んでみてはどうだったのだろう。dogをいちいち「犬」と訳さなくても英語が使えるようになるのは、dogと犬がほぼ同じ概念を表していることと、現実の世界で犬を知っているからである。学生や子どもに「覚えるな」というのだ、という山田氏も、では実際にご自分が外国語を自然に身につけるまで、待っていたのだろうか?多くの中学生高校生に、果てしない時間を与える余裕などありはしない。pp.15-16での松本氏がいう、日本の高校までの国語教育は文学教育の域までいっていない、文学教材がおもしろくないのは教師が作品に対する思い入れがないからである、にいたっては暴論であろう。

まずやるべきことは、「自分の母語体験」「自分の国語学習」を客観視する練習・訓練であり、一般の読者である英語教師もその観点でこの対談を読み直してほしいと思う。明治図書や国土社などの国語教育で定評のある出版社の国語教育を専門とする雑誌の編集長を一人加えるだけでも、この対談の付加価値は上がったのではないかと思う。仕掛け人は安心できる人材を集めてはいけないのである。

教育関係に限らず、P.24で示されているような、国語と英語の図式(ベン図)を用いて具体的なイメージを語る人が多いのだが、ベン図は集合論であり、概念モデルとしては極めてmisleadingなものであることが十分認識されていない。ベン図の重なりの部分を見ると説明文に分類される文章の特徴が挙げられているようなのだが、日本語と英語の説明文それぞれの特徴を本当に分析した上で「トピックセンテンス」などと言っているのかが疑問である。生徒が英語の説明文に出会うのは、中学校1年生の終わりくらい。高校入学時でも初体験から2年ほどしか経過しないわけである。その間にどのくらいの説明文の変種・亜種に出会い、特徴を理解し、文章理解能力と表現能力を伸ばしているのだろうか?検定教科書での英語文章へのexposureと母語である日本語の文章へのexposureの圧倒的な差をこのようなベン図での概念モデルで簡単に片付けて良いものなのか不安になる。さらには、このような概念モデルに基づいた指導の結果、どちらの言語にとっても周辺的なもの、本質的でないものしか身につけられない可能性がある、ということを考えているとは思えないのだ。

「学校ぐるみの『言語技術』授業」(pp.25-27)にも同様のナイーブさを感じる。この原稿を、国語科の教員が書いていれば、たぶん違った印象になったのではないかと思う。ここで示されている「言語技術」は、三森ゆりか氏が所長を務める「つくば言語技術研究所」の指導助言に基づいたシラバスらしいのだが、このシラバス自体がそもそも西欧的な言語観に支えられていまいか。対話・討論中心で、4技能を有機的に関連づけた指導で実際にどのような「語彙」「文章」を産出できるようになったのかが全くわからないので評価できない。私のここ数日のブログで言及している内容と比較してくれれば、私の危惧していることがわかってもらえるだろうか?

国語科はもっと地に足のついた、豊かな、教育実践の伝統と成果を持っているのである。なぜ、まずそれを謙虚に学ぼうとしないのか?小学校英語の絡みで紋切り型の「まずは国語力から」という英語教育関係者に、そう注文を出しておきたい。

今号では江利川春雄氏の「英語教育時評」の内容こそ特集する価値がある。

今年度は『英語教育』の購読をやめ、英語科の研究室に届くものを読むことにします。

kathleenkathleen 2006/04/16 10:04 同感。同感。すべて同感。あの特集、発想を変えるべきですよ。英語教師が国語教育の不備を語るっていうのはよくあることですけど、それって、悪い言い方をすると、自分は偉い、といっているのに等しい。そうじゃなくて、国語教育から見たら、英語教育がいかにちゃらちゃらしているかを語らせたほうがいいと思いますよ。
 私は、国語教育と英語教育はばらばらでもいいと思います。いや、少なくても、まず一度そういう前提から進めないことには、議論は出てこないと思います。
 あの特集号、みんな、いい子ちゃん。誰もじつは差しさわりのあることを書いていない。だから誰の心にも届かない。

OkeyDokeyOkeyDokey 2006/04/16 17:10 まったく同感です!三森さんの主張が西欧的言語観に基づいているという指摘、重要です。国語には言語技術を教える以外に重要な役割があるはず。いくらグローバリゼーションの時代といっても日本人が皆西欧的発想をすることが本当に求められているわけではないでしょう。
あのような座談会において皆差し障りのない意見を述べているということはきわめて日本的で、ディベートの名手たちの意見のやり取りとは思えない。それとも英語で同様な意見交換の会を持ったら、皆もっと先鋭的になるのかしら。それならそれで面白いけれど。

tmrowingtmrowing 2006/04/16 18:08 久々に熱いコメントが。kathleenさんありがとうございます。「英語教育がいかにちゃらちゃらしているか」という批判に耳を傾けられる英語教師でありたいと思います。
タイトル一部修正しました。私より上の世代で洋楽好きならタイトルで反応してくれるのではと期待しました。「ちゃらちゃらしている」ということは「ろくでなし」ということでもありましょう。とすれば、…。お粗末様でした。

kathleenkathleen 2006/04/17 10:51 ああ、なるほど。どこかで聞いた題名だと思ったら、Chicago、ですよね。シカゴはアルバムを出すごとに軟弱になって、Saturday in the parkなんてのが出たときには、あーあ、と思ったものです。わたし、シカゴを聞いてロックに目ざめたんです。あの頃はブラスロックというのがはやっていて、チェイスとかBlood, Sweat &Tearsというのもありましたねえ。BSTの最初のアルバムは、アル・クーパーが参加していたとか、もう、なんだか遠い彼方の話です。
 話を戻すと、国語教育の世界は奥が深いんですよね。たとえば、要約というか粗筋をどう読み取らせるかということについては昔から実践があるわけだし、英語劇に相当するようなこともいくらでもやっているわけです。わたし、英語教育の世界から、大村はまや齋藤喜博や、これは国語教育じゃないけど林竹二や、水道方式の遠山啓やらを越える「教育」学者は出ていないと思います。
 それから、国語教育との連携ということを考えるときに、たとえば、漢字教育の伝統のように、文字主体の、訓練が重視される教育と、英語教育の「自由にやりましょう」的な考え方との両立をどう考えるか、なんて視点も大事だと思います。国語教育のほうでなんと言われているかしりませんが、「文字」「書字」ということを大事にする石川九楊の言語観と、音声ファーストの言語観の伝統が強い外国語教育と、対立点はいろいろとあるんですよ。

kathleenkathleen 2006/04/17 17:02 ちょっと言い過ぎちゃったかな。「ちゃちゃら」は本当にちゃらちゃらしている、というように言いたいのではなくて、国語教育のほうから見ると、外国語教育というのは、えらく技術的に見えるんじゃないかな、というぐらいの意味です。外国語教育には外国語教育流の立場は当然あっていいと思います。要するに言いたかったのは、国語教育の人たちの伝統をもっとちゃんと見てほしいということ。これは座談会の参加者の問題というより、そういう立場の人を入れるべきだった、ということなのです。昔は、こういう場になると、若林俊輔、宮腰賢という二人が議論したものですが。

tmrowingtmrowing 2006/04/17 17:48 時々同僚と話すのですが、「英学」華やかなりし頃と違って、今の私(「たち」って言えるかしら?)の世代では「英語教育」の分野に言論人としても世代を代表する、世間に影響を与えられる大きな存在がいないのではないか、などという思いに駆られることがあります。文学や言語学など英語を専門とする方なら世界的に評価されている人物はいるのでしょうが「英語教育」となるとやっぱり世間の人も世界の人も冷ややかな評価なのではないかなどと思うわけです。では、現場の磁場に目を移して、教育実践で国語など他教科に比肩する「英語教育」の世界の人材は?というと、ここでも悩むわけですね。kathleenさんのご指摘は耳の痛いところです。

2006-04-14 Pride and Pretense

木曜日と金曜日で、今年度の持ちクラス全てに出ることができた。高2は早速歌のタスクを行い、歌を聴いて空所を補充するのに答え合わせをしないまま続く一連の活動をこなしてもらった。まあ、そのうちこの活動の意味がわかるでしょう。高2に1名、米国からの留学生がいた。彼は日本語の授業を受けなければいけないため、毎時間私の授業に出るわけではないので、どんな関わり方ができるのか来週以降専任のA先生(英語母語話者教員)と相談することに。高3ライティングは「主語の選択」に焦点を当てたpre-testの実施とその解説。

今でこそ、書店の語学コーナーでは雨後のタケノコのように、のこのこと次から次へと音読教材が並べられるなど、音読ブームを呈しているが、CLTが声高に叫ばれ、オーセンティックでコミュニカティブな活動でなければ実践に値しないかのような受け取られ方をしていた90年代には、英語教育の専門誌で、英語母語話者の教育関係者から「音読」は自然な言語活動ではないなどという理由で糾弾されていた。音読と同様に、芳しい評価を得られていなかった活動に「視写・筆写・copying」がある。次の記述を読ませてあげたかった。

  • 「書くこと」の指導を怠っている教師も、読むことの指導の中で、ときたま書かせることがあるのだろうと思います。そんなとき、子どもたちの筆写速度が、意外に遅いこと、遅速のバラツキのひどいことに気づくと思います。これが指導の手の加わらない、教室の実態なのです。こういう状態では、うまく授業にとりこめません。すぐに「書くこと」をやめてしまいます。しかし、この実態も順序をふんで指導すれば早くて、二か月、おそくとも三か月でみちがえるようになってきます。書く力が上昇してくると、指導の展開に、いろいろなバラエティーをもたせることができるようになります。(「第三の書く」の展開、『第三の書く 読むために書く 書くために読む』青木幹勇、国土社、p. 43)

そして、この後、非常に具体的な授業での指導手順が記される。これが母語である国語教育の土台の確かさである。

この春行われたELEC同友会のワークショップで「問いを立てるスキル」という代打の講座を持った。その際、参加者の質問に「先生の言っているのは『生徒が』問いを立てるスキルのことですよね?」というものがあった。良い視点・着眼点である。英語の授業において「発問」は授業の成立に大きな意味を持っているといってよい。内容理解を深める、確かなものにするための発問の原理原則は以前のブログでも言及した。では、次の文を読んでどう感じるだろうか?

  • 発問中心、発問依存で一時間をぶっ通すような授業にもすぐれた授業があるでしょう。わたしも、ひところ、この手の授業に没入し、これで、この授業がかなりの線にいっているなと自負をもっていたことがありました。しかし、そういう授業が、ほんとうにいい授業かどうか、たしかに参観者にはもてはやされやすい授業であるかもしれませんが、それが、子どもたち一人一人に浸透していく授業、つまりどの子も、その学習に集中できていたかどうか、何人かの応答者が、にぎやかに話し合い、学習がもり上がっているかに見える授業ではあっても、大多数の学習になっていると保証できたかどうか、それは疑わしいものでした。いや、この発問依存の授業が、理解力の充実、ことに表現力の向上にはさほど効果的でないことがわかってきたのです。洗練された効果的な発問は、授業展開に不可欠の手段だとはいえますが、この手一つが決め手ではありません。また、どんなにすぐれた発問にも限界のあることを知るべきだと思います。現在国語教室にみられる発問過信は猛省されなければなりません。(上掲書、pp. 119-120)

『第三の書く…』の冒頭に、研究授業に関わるこんな記述がある。

  • 子どもたちが、五分も十分も黙ってものを書くというような地味な授業は、参観者には飽きられます。もっと派手な、かっこうのいい、見ておもしろい授業をと考えます。いちばんてっとり早いのが発問を工夫し、子どもたちを対教師、対級友の形でエキサイトさせることです。(「研究授業に問題はないか」、p. 32)

国語教育と英語教育とはその基盤もスタート地点も異なるから安易な比較は出来ない、という人がいるかもしれない。それはそうだろう。ただ、英語教育に関して、現在国内の多くの研究指定校(「研究していこう!」でもいいんですが)やSELHiで立てている研究主題の多くは、上述の「参観者にもてはやされやすい授業」を志向してはいまいか?その研究主題を推し進めていく中で「どの子も、その学習に集中できてい」る授業が成立しているだろうか?文法訳読を却下したのは良いが、cognitiveな側面に関しては生徒一人一人が塾・予備校・通信講座・参考書・問題集など学校外での自助努力で伸張させていて、その能力に依存していながら、教室で「理想的な」授業を成立させているつもりになっていないだろうか?

そんな矜持と忸怩の間で揺れ動きながら始まった4月第一週であった。

明日は朝から本業、午後からライティング部会である。

2006-04-12 授業開き前夜

今日は授業準備のため自宅で仕事。合間に青山南(2000)『アメリカ短編小説興亡史』(筑摩書房)をパラパラと。脚注が面白い。

磐崎弘貞(2005)『意味重視・量重視・総合的指導の3指導法が高校生ライティングに及ぼす影響』のレジュメに目を通す。

昨年の「英語コーパス学会第26回大会」での発表で、最も気になるものであった。私は資料をZokkonさん(http://d.hatena.ne.jp/zokkon/)より送って頂き、どのような研究であったかを考察の途中である。英語教育プロパーの学会や雑誌でこの発表が取りざたされていないことも大きな問題だと思うが、今風の指導実践をしている人から見ればかなりショッキングな内容であろうと推察する。私見では「ライティングはライティングとしてきちんと指導すること」の重要性を示唆しているように思う。その場合の「きちんと」という部分を具体化するための1つの指標となる研究だろう。昨今のSELHiなど、すぐに技能統合でdebateをやりたがる風潮に対する警鐘となるものだろうと考えている。今年度のライティング部会でこの内容をきちんと扱っていきたい。

この磐崎の研究でも先行研究として取り上げられている平林輝男(1993)「書く能力を何で測るか:高校生の自由英作文におけるcohesionとcoherence」STEP Bulletin 6、は再評価されて良い論文だと思う。とかく、海外の論文に目を奪われがちな若手研究者には是非、このくらいは消化した上でオリジナルなものを書いて欲しいと思う。

新学期授業に備えて、座席表の作成、pre-testの作成、「今月の歌」の選曲とワークシートづくり、昨年度の生徒アンケートから「後輩へのアドバイス」ハンドアウト作成、『表現ノート』サンプル選定、期末試験答案サンプル選定など一通り印刷物が完成。

今月の歌。高2は昨年同様 Carole KingのChild of Mineで行くことにした。ワークシートは昨年の実践をもとに改良。アマゾンのカスタマーレビューだけでなく、昨年度の生徒のコメント集も踏まえて仕掛けを作る。さてさてどうなることやら。今年度は昨年と違い40人クラスなのでグループ分けや発表活動のサイクルなど多少変更しなければならないかもしれない。

高3ライティングは昨年と異なり、30人と34人の中規模クラス。昨年が40人クラスだったのと比べれば、トータルで10人以上少ないので楽である。授業開きは、昨年度生の「後輩へのアドバイス」と、答案サンプルなどを見た上で、どんな取り組みを期待されているのかを実感してもらう予定。あとは、文構造と日本語の干渉に関わる小テスト実施して終わりかな。

『朝日ニッケ英文エッセーコンテスト 高校生優秀作品集』(日本毛織)から数篇を読む。随分お世話になったコンテストなので、終わってしまったのは寂しいなぁ。18年続いたので、私の教師生活とかなり重なっているのだ。こうして冊子として眺めると、日本の高校生のライティングコンテストとして極めて大きな功績を残したことがわかる。これに代わる良質のコンテストが現在ないだけに残念である。この冊子は英文とともに対訳もついたので教材としても活用できるだろう。全英連のものよりも英文が生き生きしているように感じる。

K先生からお借りしたEnjoy English Writing Teacher's Manual (教育出版)。旧課程の英語IICの教師用指導書だが、この時代にWritingを標榜するだけあって極めて良くできている。著者代表は金子稔氏。永久保存版かな、K先生しばらく返却できそうにありません。ご容赦を。

2006-04-11 frighteningly misleading

今月のNew Yorker(4月3日号)で俳優ショーン・ペンに関する論考が掲載されていた。立ち読みで済みそうな分量ではなかったので購入を思案。結局買わず終い。誰か既に読んだ人がいたら評価をお寄せ下さい。(マイケル、ショーン、クリス三兄弟はいつも誰が上で誰が下なのかわからなくなってしまうので、「はてな」かどこかにきちんと書こうかなと思って調べていたら、なんとクリスは今年の一月に亡くなっていた。女優ウィノナ・ライダーの追悼の言葉などがこちらに→http://film.guardian.co.uk/news/story/0,,1695239,00.html。ちなみに長男のマイケルはミュージシャンで、エイミー・マンの夫です。これを書いている今聴いている音楽が、Aimee MannのカバーしたニルソンのOne。"One is the loneliest number that you'll ever do."で始まる歌詞がなんとも不気味で昔は好きになれなかったなぁ…。)

先日、某編集会議にてダブルK先生、U先生と一緒の席で、派生副詞の扱いと訳語について問題提起をした。その際に使った例がfrightenという動詞の分詞から転用された形容詞frighteningから派生するfrighteningly。私が「『ジーニアス英和』(大修館書店)の記述は間違いだろう」、といったら皆さんそんなマイナーな事柄は気にしていなかったらしく、早速電子辞書で調べていた。(そうです、電子辞書に収録されている英和辞典は圧倒的にGなのです。そういえば、全く同じ顔ぶれで、「使役のhaveの語法解説でGは第2版と第3版で記述が変わっているが、これは勇み足を正したものだろうか?」と談笑したこともありました。)Gの記述は以下の通り。次の副詞の訳語はgrossly mistakenである。

  • frightening 形 ぎょっとさせる、ぞっとさせる
  • 〜 ly 副 ぎょっとして、こわがって

frightfullyという語もあるので、エントリーとして載せるのであれば、語義訳語に関しては執筆者以外がちゃんと目を通しておいた方が良い。編集部には以前からお知らせしているのだが、「一介の英語教師の戯言に過ぎぬ」と取りあっていないんだろうなぁ…。雑誌『英語教育』のクエスチョン・ボックスでは、Gの記述についての適否がとりざたされ、「次回改訂で対処致します」なんてやっているのだけれど、一般の辞書ユーザーはそんな雑誌の記事を読まないのだから、自社サイトで情報提供するか、電子辞書ユーザー対応でカードで正しい情報に書き換えられるような製品化を真剣に考えて欲しい。

本題。辞書において派生副詞は追い込みで処理されることが多いのだが、外国語として英語を学ぶ身から、さらには「書き手」の心理から言うと、こういうところにこそ解説や用例が欲しいのである。ことここに限っては英英辞典にモデルを求めていてはダメである。追い込みが機能するのは、その前の形容詞の記述が明解で用例豊富な時だけだろう。frightenの用例を充実させるくらいはどの辞書でもやっているはず。問題はそこから先である。Gは『ジーニアス大英和』でも同じ扱いで正されていない。電子辞書に収録されたデータは現在のところ訂正ができないので困りものだ。Gは語法注記の容認度の検証や、インフォーマントの信頼性確保と同等かそれ以上に、訳語の吟味に人的資源を投入したらどうだろうか。英和辞典の存在意義の第一義は「訳語」ではないのか?私は用例検索くらいでしかGを使わないのだが、それでもこの辞書の訳語は時々不安になる。

『ウィズダム』(三省堂)では、訳語のみシンプルに、

  • frightening形 恐ろしい、ぞっとさせる
  • 〜 ly副 怖いくらい、恐ろしいほど

としている。大人である。

『ロイヤル英和』(旺文社)はfrighteninglyは追い込みで品詞を示すに留まり訳語さえつけていないが、形容詞としてのfrighteningを9行に渡って記述している。訳語は「ぎょとするような、恐ろしい(ような)、こわい、驚くべき、すごい、すさまじい」。さらには句用例が3,フルセンテンスの用例が2という扱いである。ある意味潔い。

以上の例は、「爺さんは時々御しきれんよ、トホホ」という程度のリアクションで済むことで、実際に分詞というものが正しく理解されていれば全く問題ない。本当に怖いのは、frightfullyの語感の方である。古風な例と映るのだろうが、以下の例では、awfullyやdreadfullyと同じく強意の副詞として用いられている。

  • You're frightfully good at this sort of thing.
  • I'm frightfully sorry.

派生副詞に解説・用例が必要なことが判ってもらえるだろうか?

2006-04-10 You are what you write.

『15』中嶋洋一・幸若晴子・大津由紀雄・柳瀬陽介・佐藤礼恵、ベネッセコーポレーション

『STOP!日本語的発想 英語で書くコツ教えます』大井恭子・伊藤文彦、桐原書店

新刊を紹介。手放しで誉めるわけではないが、どちらも良い本です。

『15』は中嶋洋一氏の今までの中学生英詩指導の集大成。私も高2で「英詩のある授業」の実践をしているし、多くの中学・高等学校で卒業文集指導・実践が行われていると思われるが、この単行本のように「かたち」になれば教師冥利に尽きるだけでなく、収録された作品を書いた生徒(当時)も感慨深いだろう。今回の単行本化で最も感銘を受けたのは、「訳詩」を担当した詩人の幸若氏のことばづかい。呼吸が感じられるいい言葉でした。要所で記される著者それぞれのコラム、対談も英語教育プロパーの雑誌などで語られるよりも「声」が生きているように感じられた。私は先日の英授研の会場展示でこの本を購入したのだが、知人にも薦めている。できるだけ多くの人に目を通して欲しい本である。中学校の英語教育における1つの到達点がここに示されている。(著者のひとりでもある柳瀬氏のサイトで本書が紹介されているのでご参考までに→http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/review2006.html#060410

ただ、英語教師がこれに触発されて「自分の授業でも同様の実践をしよう」という時には注意が必要であるように感じる。(ここからの記述はあくまでも、いわゆる「追試」をしようという時の注意点であって、本書の価値に言及するものではないので誤解無きよう願います。)

「なぜ詩なのか?」「なぜ、国語の時間ではなく英語の時間に詩を書かせるのか?」「読み手はいつ、どこでこれらの作品を共有するのか?」「指導のプロセスは?」「ことばは育っているか?」などといった課題設定の必然性を自分の英語授業の底流に位置づけておかなければ失敗するだろう。逆に、そういった問題意識を備えた教師が、この『15』での「ことば」にさらに教室で命を吹き込めるのであれば、その「追試」はとても意義深い実践になることだろうと思う。英語教育は「ことば」の教育である。そこまではいい。しかしはじめに「感動」ありきではまずいだろう。「感動」はあくまでも真摯な授業実践の付録・ご褒美であることを肝に銘じておきたい。詩人荒川洋治が言うように、詩人にとって「読者がいたら、こまる」という感性(『詩とことば』岩波書店、pp.135-137)もあり得るのだ、ということを少なくとも指導者は知っておくべきだろう。教師としての自分の中で、表現活動の位置づけがはっきりしない人には、まずは大村はまの著作を、そして少し古い本だが、青木 幹勇(1986年)『第三の書く—読むために書く、書くために読む』(国土社教育選書)を読むことを薦めます。「私は英語教師であって、国語教師ではない!」という輩には、Sam SwopeのI Am A Pencil: A Teacher, His Kids, And Their World Of Storiesでもオススメしておきましょう。

『英語で書くコツ…』の方は、原則として文レベルでの自然な発話を支える英語の根本的なルール(=文法)を書くというモードで練習することで身につけていこうという問題集というか書き込みノートである。同著者による『「英語モード」でライティング』(講談社インターナショナル)の姉妹編とでもいえる位置づけ。見た目は「和文英訳」なのだが、かつての松本亨氏の『英作全集』のように、英語らしい文を身につけるミニマムエッセンシャルズが示されている。大人の再入門にもピッタリだが、中学校3年生から高校1年生くらいでここまでやっておいてくれると、高校での科目としての「ライティング」は本来のライティング指導ができるのではないか。高2,高3でも、つまらない「ライティング」の検定教科書を使って、欺瞞的な指導をするくらいなら、この本をテキストに使って半年くらいでしっかり基礎基本をおさらいしてくれた方が生徒は助かるだろう。こちらはテキストであり、問題集であり、ノートであるから、著者の意図を踏まえてどんどん使い倒すことで、アラも見えてくるだろう。その際には出版社に注文をつけて、よりよいものへと育てていけばよい。

個人的に、一部のページでは「なるほど、あのメールはそういうことだったのね…」という記述もあり、楽しめました。

柳瀬陽介柳瀬陽介 2006/04/11 19:03 いつも勉強させてもらいながら読んでおります。
広島の柳瀬です。

『15』を紹介してくださいましてありがとうございました。


英語教育は「ことば」の教育である。そこまではいい。しかしはじめに「感動」ありきではまずいだろう。「感動」はあくまでも真摯な授業実践の付録・ご褒美であることを肝に銘じておきたい。


これはその通りですね。
英語教育は必ず職人的な教育(あるいは訓練)を
通らなければなりません。
そこを怠ると絵空事になってしまいます。

私がこのブログで学ばせていただいているのも
そのような、良い意味での職人的なところです。

今後のご活躍をお祈りしております。


あ、あと、細かいことですが、私は、自分は
「書評」はできない、と思ったので、昨年から
自分のホームページでは「読書」と名乗っています。
「紹介」でもいいのですが、いずれにせよ、
批評は自分はなかなかできないと思ってしまいます。

冷静な心が必要ですからね。

すぐに熱くなってしまう自分に反省です。

tmrowingtmrowing 2006/04/11 19:15 コメントありがとうございます。字句一部訂正しました。

2006-04-09 『説明文理解の心理学』

本業が開幕で大忙し、土日は朝5時起きで出かけて夜8時半まで。疲れました。

さて私の最近のライティングの講演・ワークショップではかならずテクストタイプの話をするのだが、なかなかフロアーに理解されていないように思われる。表題の書籍は、岸学著、北大路書房刊(2004年)。小学校国語科教育での説明文指導に関わる基礎理論としての認知心理学・教育心理学の知見を示したものである。

一般的な英語教師との接点をどう作るかという意味で、日本語でこの分野を詳述している書籍を探していたところたまたま見つけたので、どの程度この分野での定評があるのかは不明。ただ、英語教育に於ける「リーディング」についての様々な研究でも十分に説明されていないテクストタイプについての問題点・留意点が、この本によって少し見えてくるのではないだろうか?

ここで取り上げられている大まかなポイントをあげる。

  • 国語教育で、読解におけるテクストタイプがどのように扱われているか
  • bottom-upとtop-downの処理がどのように行われている(と理解されている)のか
  • 文章構造の理解はどのように発達するのか
  • 説明的文章を書かせる表現指導における留意点

それぞれが簡潔に示されているのも有り難い。

「伝達する知識」という観点での説明文の文章に関しては、

  • 宣言的説明文
  • 手続き的説明文

とを対比して文章の特徴、児童の発達段階を論じている。宣言的知識と手続き的知識、という理論的枠組みは今や英語教育界でも周知のものであるだろうが、この枠組みを説明文のテクストタイプに当てはめて論じているあたりが、現在のL2での読解研究とスタンスがやや異なる点なのではないか、という印象を受けた。

文章構造に関しても連接(文間論理関係、論理構造)と配列(段落間構造)が教科書の中でどのように扱われているかを示した上で、児童の発達段階を論じており、中学高校の英語教師にとっても生徒が小学校段階で日本語のどのような文章を読み、教えられてきたを理解する手がかりとなるだろう。とりわけ、小学校3年生で説明的文章のパターンはおおむね出尽くしているという指摘。にもかかわわらず、3年生から6年生までそのパターンは余り変わらず、読みの教材として示される説明文の4割以上は、前後の文との内容のつながりのみで結びついている文章という指摘は注目して良いだろう。

まず、「読み」の段階での発達段階をきちんと理解していなければ、「書く」活動を真に理解することは難しい。

外国語教育に於ける読解指導研究では、以下の重要な指摘があるにも関わらず、相変わらず低次レベルの処理を効果的に鍛える教材・シラバス・指導法が確立されていない。

  1. 高次レベルの言語処理ストラテジーは重要であるが、読解力そのものを決定する主な要因でないこと
  2. 学習者が読解の最中に使用している高次および低次レベルの読解ストラテジーは相互作用していること、さらに、
  3. 特に言語処理というプロセスにおけるつまずきが深刻な、読解力の低い学習者の場合は、文字、音韻、語彙、文構造認識を含む低次レベルの言語処理が土下記能力を高めるために不可欠であるという点である。(高梨・卯城『英語リーディング事典』研究社、pp. 12-13)
  • 卯城(1995)では、絵などを用いたトップ・ダウン的な活動で英文の理解が深まっても、困難語句への理解が必ずしも増していないことを明らかにしている。教師は一般的に、学習者が用いている英文の概要を理解すれば、そこに含まれている語彙や構文をある程度克服したと考える。しかし、実際には、その困難語句などの情報が埋められないまま、前後の情報だけで英文の全体的なイメージをつかんでいる場合があることが窺える。(『英語リーディング事典』、p.56)

低次レベル処理の更なる研究のためには、表題の書籍で示されているような母語である日本語・国語での読解指導と発達段階の研究から学ぶことも不可欠に思える。英語教育界を担う若い人たち、頑張って下さい。

帰宅して、『なぜ「英語」が問題なのか?』中村敬(三元社)を再読。大学の英語科教育法などで必ず取り上げてほしいテーマである。今、pp.156-167,での「書名の意味論」について考えている。これは、高等学校用の英語の検定教科書72種類につけられた英語の名前・書名の分析から英語教育を論じるもの。書名の原文に近い日本語訳、書名の意味するところを「翻案」したものを全教科書に対して示しているところが秀逸。二三例をあげると、

  • Birdland 文英堂 「鳥の国」?(鳥の国の鳥のようにピーチク・パーチク英語で話してみよう)
  • Mainstream  増進堂 「中心」 「英語をやれば差別されません」
  • Polestar 数研出版 「北極星」「人生の目標に英語で到達しよう」「英語は人生の目標を明らかにしてくれる」

ここで取り上げられているのは1999年当時の高校用教科書。その後改訂を経てどうなったか、教科教育法のレポートなどでも使えるのではないだろうか?

数年後に迫るといわれる小学校英語必修化。教科化されなかったとしても、教材は必要です。その時のテキストにはいったいどんなタイトルがついているのでしょうか?

tmrowingtmrowing 2006/04/10 17:24 一部字句修正しました。

2006-04-06 再読の絶対値

時間割が何とか解決して安堵。危なく、1限のみのために出校になるところだった。自分自身、かつては時間割を組む係だったので、教務係の苦労はわかるが、今回のミスは軽率なもの。結果オーライだったから良いけれど…。時間割のミスといえば、公立の専任だった頃、隔週で土曜日が休みだった時代に、時間割を隔週で替えるという学校にいたことがある。月曜日の午後が空いていて、そこに隔週で土曜日の1,2限を入れる週と、土曜日の3,4限を入れる週をつくるという仕組みである。当然、土曜日に授業を入れる人は月曜日にも入るわけで、非常勤講師の確保など、管理職だけでなく教務係泣かせのシステムだった。ある年、私の土曜日の時間割が4時間連続で、月曜日の時間割が午前中4時間連続で確定してしまったことがある。見た目は、月曜午後は空いているので、教務係も連日の仕事で疲れた頭では私の本当の時間割が見えていなかったのである。祝日に当たらない限り毎週月曜日は6時間連続授業。結果、見た目は週に16時間ではあるものの、1年間、隔週で土曜日に4連発、1日空けて月曜日に6連発という過酷なスケジュールを生き抜いたのであった。(もっともその間の日曜日は本業に朝から晩まで費やしていたわけだが…。)その翌年は、総合学習的な週1時間のコマも含めて、高1から高3まで授業を7種類持ち、そのすべてが1クラスだけという隙間産業のような仕事もした。これはきつかった。7種類の教材研究をこなし、授業のどの種類も毎回真剣勝負。どこかのクラスの反応を見て軌道修正、などという悠長なことをいっていられないわけである。

その後、私学に移り、高校2年生1学年6クラス全部、計250人と高校3年の選択科目のライティングを一人で持つ、という超変則的な1年を送ったこともあった。この時は時間割の都合というよりは、英語科内の担当科目の割り振りの問題ではあったが、定期考査では答案が300枚近く出てくるので、気が狂いそうになったものだ。作文の教師冥利に尽きるととらえるか、冥途に送られるととらえるのか、とにかく1年間ライティングのみ。

そういう経験を踏まえて今「ライティング指導評価におけるマネジメント問題の重要性」を説いているのである。まあ、リテンションのトレーニングと一緒でやっているうちにたくさんこなせるようになるのは確かなんだけれども、経験値が上がるから必ずしも幸福とはいえないもの。プラスもマイナスも全部飲み込んで、ポテンシャルの大きさに転化する絶対値のような価値観というか、虚々実々、複素平面に自分の立ち位置をプロットするというか、そういう懐の大きさを目指したいものだ。

さて、今日は昼から某B社へ出向く。ライティング関連のミーティング。新たな展開を企画。2時間以上語ってきた。詳細がわかればまた告知します。

神保町の三省堂で、改訂された中学校の検定教科書を買おうと思ったのだが、16日以降の入荷ということで断念。代わりといっては何だが、奥西正史『考える英語教師』(三友社出版)、小野義正『ポイントで学ぶ英語口頭発表の心得』(丸善株式会社)を購入。店員はけっこうな年齢に見えたのだが、まったくこちらの話を聞かずマニュアル通りの対応で、紙のカバーを巻こうとしていた。この老舗にしてファーストフード店なみということか。

お茶の水経由で帰ろうと思って駅へと歩いていたら、普段本業でお世話になっている大学の後輩Mさんにばったり。就職活動の帰りだとか。新宿で別れたところで、ふいにferrierさんの言葉を思いだし、池袋で途中下車、ジュンク堂へ。店員は新人なのだろうか、ここでも正にマニュアル対応。『水声通信』の小島信夫特集を買う。

執筆者それぞれ各人各様の語り口で、ホログラムのように浮かび上がる小島像というところか。語り下しの小島氏本人による「チェーホフを読みながら」は演劇論としても傑出した小論として読めるのではないかと思うが、小島氏はここで指摘される舞台の持つ制約というか宿命の袋の中に手をつっこみ、袋をぐるっと裏返して中身を解放するように小説を生きている、というのが私の読後感。大橋健三郎氏、飯島耕一氏も寄稿していてこの編集者の力量と小島信夫という人の底知れなさを感ぜずにはいられない。以下、気になった言葉を二つだけ。

大庭みな子氏:

  • 小島氏は一生涯ずうっと、座り込んで泣き出したい心境でこの世を見つめてこられたと言ってもいいだろう。

阿部公彦氏:

  • 言葉はいつもジャストミートせず、芯を外している。

tmrowingtmrowing 2006/04/07 06:12 一部加筆修正しました。

2006-04-04 『草枕』

ようやく新年度の学校カレンダーと時間割が届いたのだが、肝心の講師の委嘱状が入っていなかった。大丈夫なのだろうか?今年は、週5日出校。朝一で入っている日が多いので専任時代と変わらない印象。さっと来て、さっと帰れればいいのだがそういうわけにも行くまい。そう思いながら、時間割をよくよく見ると、3月にもらっていた時間割と違っている箇所が…。まいったなぁ。主任に問い合わせをして教務係に確認してもらっているが、時期が時期だけに厳しそうだ。

最近、「教えて! Goo」の英語質問コーナーをよく見ている。『英語教育』(大修館書店)の「クエスチョンボックス」のような洗練された問いは少なく、質問のもとになっている英語自体が間違って転記されていることも多い。ただ、「体系的」に文法を教えているつもりの英語教師は、こういう「体系を未だ持っていない学習者」の視点からものを考える訓練を意図的にしなければならないのではないか?と思い、時々、回答も寄せている。

最近、こんな内容の質問があった。英文は以下のもの。

Those of us with daily occupations have, on the whole, far more free hours than had previous generations.

これに対して、「than以下がよくわからない。」とのこと。この人の疑問は次の通り。

  • 関係代名詞thatが省略されていると考えるのか?
  • previous generations hadではなく倒置になっているのはなぜ?

いろいろな回答が寄せられているのだが、ネット環境ではどの板にも「常連さん」がいるので、深入りは慎重な判断のもとにされたし。さて、この質問例のようなthanの後の倒置は、結構一般的なものと言えるのではないだろうか。以下、特に出典は明記しません。

  • We feared the heavy snow and so we set our start one month later than the previous expedition. But this year in Nepal the weather was unstable and we met a greater a mount of snow than had the previous expedition.
  • Although Clinton discussed AIDS more often than had his predecessors, he failed to propose the kind of comprehensive plan that activists had expected.

このような例では、主節は過去形なので、than以下のhadは過去完了形の助動詞と考えられる。

ただ、倒置で前置されるのは助動詞だけなのかどうかが気になるのでググッてみると以下のような例が出てきます。

  • Modern mums have machines to do the dishes, while another machine washes the clothes and yet another dries them. They have machines to clean the floor, fridges to keep the food cold, which leaves them with a sight more time on their hands than had previous generations.
  • WE HAVE MORE IN COMMON WITH EACH OTHER THAN HAD PREVIOUS GENERATIONS.
  • Parents have greater career aspirations for their kids now than had past generations.

では「このhadは過去形でいいのだな」、と断定する前に、<現在時制+than+過去完了>というパターンは英語で許されないのか?という問いを立てて検証してみることが可能だろう。

  • "Today women are more likely to reflect upon their inner selves and behavior and think about how to accomplish their goals than had women of previous generations," said Barrios.

この例では、主節は現在時制。ただし、「所有」のhaveではなく、助動詞的な表現でしかも reflect uponという動詞句です。こうして比較すると、than以下のhadを「所有」の過去と見るのはどうなのか?また、この英文を書いた人の文法力はどうなのか?という疑問が生じてくる。

現在完了形というのは時制としては限りなく現在形。そういう目で次のような例を見るとどうだろうか?

  • We women now entering our forties, fifties, have had the benefit of better medical care, better physical fitness and diet advice, to keep us physically and mentally fit, than had women of past generations.

こうなるとhadは本当に過去形なのか、それとも過去完了形の助動詞なのか、というのは、学習者には簡単に見極められないということがわかるのではないか?私も、どちらかと言えば文法語法オタクなので、こういうことを調べたり考えたりするのは大好きなのだが、これを学習者にそのままぶつけても消化吸収は難しいだろう。体系的、と思っていくら整備しても漏れる部分、またそもそも体系が見えていない学習者にはひっかからない部分は多い。授業のいいところは、行きつ戻りつ、こういう部分と付き合っていけるところだ。なんでも教師が準備して、完成品をデリバリーするのでは学習者はいつまでも自立できないだろう。「学習者中心」というと、とかく生徒の「心情」や「動機付け」にスポットライトを当てがちである。それも大事だが、分からないことへの不安や自己変革を要求されることへの不満などといったことを全て飲み込んだ上で、英語という言葉の仕組みや働きに関して、cognition「認知」の部分で何がわかりにくいのか、では、とりあえずどう対処すればいいのか、という学習者の「知」の部分へのアクセスにもっとエネルギーを投入することが、とりわけ高校段階では重要度を増すのだと思う。

tmrowingtmrowing 2006/04/05 07:57 明け方に、石原千秋『「こころ」大人になれなかった先生』と、飯島耕一『漱石の<明>、漱石の<暗>』(ともにみすず書房刊)を読んでいたら、後者にあった付記(p. 91)に気付く。「俳人藤田湘子は、主宰誌『鷹』の本号が出て間もない四月十五日に亡くなった」とのこと。知らなかったなぁ。自分の関心のある世間との接点くらい維持しておかねば…。

2006-04-02 心機二転三転

日曜日とはいえ午前中は本業で5時半に家を出て、10時過ぎに一時帰宅。昼ご飯も食べずに、英授研のある筑駒へ。午後の部から参加。会場近くでK先生とばったり。(私の知人はイニシャルKの人が多いなあ…)。ちょっとお茶してから会場入り。超満員。200名を超えていたと思う。NHKラジオ講座「レベルアップ英文法」の太田洋先生や、最後の講演「文法指導に役立つ(かもしれない)認知科学」の大津由紀雄先生がお目当ての人も多かったとは思うのだが、私のお目当ては研究実践発表をする筑波大附属中の久保野りえ先生。FTCでは中1の入門期のデモンストレーションだったが、今回は中3の教科書を扱ったもの。「教科書の英文に命を吹き込む」という副題。看板に偽り無し。先輩を形容するのに失礼かとは思うが、今一番安心できる授業だなぁ。オーソドキシーの強みとでも言おうか。次にチャンスがあるとすれば2年後?高校の英語教師は本当に優れた中学教師の授業を見るべきだと思う。レジュメの参考資料を再読するだけでも新学期の授業を襟を正して始められるのではないだろうか。調子に乗って懇親会までお邪魔しました。無事帰宅。

昨日に続き、語研講習会アンケートから:

  • 現任校は底辺校でなかなかwritingの指導ができるような環境にありませんが、できるところから授業にとり込んで生きたいと思いました。
  • 1クラス45名でやっていますが、peer reviewを利用してwriting活動がもっとできるかもしれないと思いました。
  • 上位のクラスとはいえ、ここまできちんと書かせるには本当に細かい配慮があると思います。ただ書かせるのではなく、書くための準備、それまでに読ませておく準備など、あたり前のことなのでしょうが、自分は今までやっていませんでした。まずは自分が学び、きちんとmanagementができるようにしていきたいと思いました。
  • (自分が受けた)writingの授業でpeer reviewは余り好きではなく、先生が言うことのみを信じる傾向があり、今日の話を通して、peer reviewをやらせるにしてもstepが必要なことをすごく感じました。
  • 頂いた資料をゆっくりと読ませて頂き、ライティングがんばってみます。
  • 自分の書いたものや添削に自信が持てない。それでも授業をしなければならないし、そうした中でどういうことをやればよいのか当惑しています。
  • どのレベルまで生徒の原稿を訂正するか、にいつも悩みます。
  • 個人添削をしていると、生徒のレベルが上がるほど、ネイティブレベルの判断が要求される答案が出現してきて、managementが崩壊してきます。先生には無い悩みなのでしょうか?

みなさん、新年度を迎える大事な時期に、当惑したり、意欲を固めたり、高めたり忙しいことと思います。「いいことを聞いた。そうだ、これでいこう!」と勇んで始めて見たものの、「おかしいな、こんなはずでは…」となり、今度は別な誰かの「コツ」や「助言」を求めて…、というアプローチではうまくいかないのではないでしょうか?

最後の「悩み」ですが、私にも当然ありましたし、今でも悩んでいます。ただ、native speakersでもwritingは学ぶものなのです。日本語母語話者で考えても、書くのが下手な人は下手なわけです。日本語を母語として使用し、学校内外で学んできた人でさえ、「書くこと」は難しいのであり、「書かせる」指導は難しいのです。外国語ではなおさらでしょう。英語力も確かに要求されるのですが、問題はそれだけではないでしょう。書くこと、ととことん向き合うことの方が私には重要に思えます。

今回の講座の参考資料にBratcher, S. の著作を挙げました。この人はL1の作文教師・教師の教師です。我々のL1である日本語の作文指導、彼らのL1である英語の作文指導でいったい何をしているのか、という部分から私は随分学んだと思います。

基本的に授業では一連のタスクも幾つかに分け、書かせた後のfeedbackが次のタスクのためのpre-writing の作業になるように仕組んでいます。どんなに丁寧な指導をしたところで、訂正・添削の労はなくなりはしませんが、まずは何を書かせたいのか、という主題設定を突き詰めるだけでもその後の指導手順が明確になります。また、一般にpre-writing活動、などといわれる作業は、idea generationとかinventionの指導だけですぐに書かせていることが多いのですが、この段階でのテーマ語彙指導(当然理解確認も含む)とかコロケーションの指導をすることで、随分と生徒のproductionのベクトルをコントロールできるようになります。教室でこそできることは何か?通信添削ではできないことは何か?という観点で課題を見直してみて下さい。

もう一つの観点は、「好きなことを自由に書かせない」ということです。講座の中でも指摘しましたし、『英語青年』の原稿にも書きましたが、「レベルが上がる」という時に「レベル」が何を指しているかを吟味することが大切です。私も含め、北米型のマッチョな、straightforwardでrigidなパラグラフの構成を求めるアカデミック・ライティングの指導が好きな人は、とかくその完成へと急ぎすぎる傾向があります。ライティング活動に慣れ、習熟度が上がった生徒により社会性の高いテーマを与え、さらにより長い英文を書かせようとするアプローチを見直すことです。TOEFL(R)のエッセイ対策教材などで模範として示されるような英文のbodyの部分に空所を設け、「主題を踏まえた上で、このトピック・センテンスに対する理由付けを書いて文章を完成させなさい」などといった作業を課すことでも、十分に上位者を伸ばすことができます。例えばの話ですが、変数が2つあるとするならば、一度にその両方を変えるといたずらに難易度が上がってしまうので、どちらか一方だけを難しくするわけです。もう一方はそのままか、時にはより易しく(優しく?)してもいいでしょう。テーマが難しくなったら、書く量を減らす。全体としては長い文章だが、途中まで書いておいて最後だけopen-endedなタスクにする。所用時間を延ばす。タスクを分割し、一度にやることを減らす。ペアやグループで助け合う。語彙を与える。英訳先渡し(?)をする。などなど。今回のワークシート・ハンドアウト集、添付資料をよく読んで頂ければ、いろんなことが見えてくるはずです。

心機一転とはよくいいますが、その「すっかり」の度合い、いわば回転の角度は意外に見落とされていませんか?もし360度回ったとしたら、それは元通りですか?

じたばたすることを少し楽しんでみてはどうでしょうか。

tmrowingtmrowing 2006/04/03 13:09 一部字句修正しました。

2006-04-01 「残念だ…」

このブログのタイトルにもある本業で山口県は宇部市へと行ってきました。

飛行機の中で読もうと持っていった『小説修行』小島信夫・保坂和志(朝日新聞社, 2001年)は読めば読むほど悩みの渦へ。自分が理解していたと思っていた小島像が崩れていき、小島のことを誰よりも理解しているのではないかと思える保坂に対する嫉妬心のような感情も沸き立ってくる往復書簡であった。わからなさ加減もここに極まれりという感じではあるが、フィクションを生き直すには優れたテキストではあると思う。もう少ししたらまた読んでみよう。

家に帰ると、ジャンクメールが47通と、語研の講習会の受講者アンケートが届いていた。

消化不良の方が数名おられたのだが、そのうちの一例を紹介し、その声に対する私の回答のようなものを記しておきたい。

  • おっしゃることはわかるのですが、講演として資料と話す内容をもう少しまとめてほしかった。また内容がfast learnerには良いとは思うが、それ以外の大部分の生徒には少ししんどいように思いました。英作文に関する造形(ママ)の深い方だと思うので、もう少し現場に即した(どの時期に、何を、どのように指導するか)ということを話してほしかった。

若い方なのでしょうか?「わかる」ことと「受け入れる」ということの違いを端的に示すアンケートですね。「おっしゃることはわかるのですが…」とくれば、「でも納得はしていないし、言うことは聞かないぞ」という反応であることがほとんどです。和文英訳からの脱却だけを話しても、ライティング指導を語ったことにはならないし、プリライティング活動だけを示したところで、どのように生徒のプロダクトが発達するのかは見えにくいものです。今回は、ライティングの地平を見渡すための講座でしたので、大多数の英語教師がいる足場よりも少し高いところから果てしない地平を眺めてみたわけです。ほとんどの方が足を踏み入れたことのない地平、または見たことのない地平線が遙か彼方まで続いている時に、「地平線の果てしなさ感にめげそうになるので、どこかキリのいいところまでの地図を示してほしい」と言われても、私は「地図を継ぎ接ぎしていっても現地までのリアリティーは得られませんよ」と答えるしかないのです。「しんどい」と思われたのなら、その「しんどさ」こそがリアリティーなのです。そこを自分で受け入れるところからしか新たな実践は始まらないと思います。「現場に即した」ものをという要望ですが、今回示したのは正に「私の対峙している『現場』」です。今回は、私が、私の現場でどの時期に、何を、どのように指導したか、を示したわけです。厳しい言い方になりますが、私には私の現場があり、あなたにはあなたの現場があるのです。どの現場、誰にでも当てはまる最大公約数を抽出して提示したとしても、結局は同じ感想を持たれたのではないかと思います。私のこれまでの研究成果として得られた、疑似客観的な内容をもっともらしく説くのではなく、徹頭徹尾、自分の実践のみで迫ったつもりです。ことさら自他の違いを意識するのではなく、例えば、大きさ、面積は異なれども「相似形である」ということを感じ取ることこそがこのような研修会での健康的な消化吸収の仕方ではないか、と思います。結局問われているのは、あなたの立脚点がどこにあり、あなたの視点はどこを向いているかということで、その問いに気付きさえすれば、今回の資料の中にその答えは含まれていることがわかるはずです。私にできることはこの辺までで、後は次に続く人が、自分の現場でできることを積み重ねていってくれることを期待します。

『小説修行』の中にこんな一節がある。

  • 新しい世界観や人間観はいつの時代にも現れる。私が年をとったときに若い人が私に向かって、私が小島先生に言ったようなことを言ってきたとしたら、私も小島先生と同じ返事をするだろう。そしてもしそのときに「残念だ」と思われたとしたら、「残念だ」と思われることがすでにじゅうぶんに価値のある何ものかなのだ。(保坂和志→小島信夫、p. 171)

明日は英授研です。

tmrowingtmrowing 2006/04/04 18:40 3月26日に世田谷文学館で小島・保坂の対談があったそうな。知らなかった。書籍・DVD化を待ちたいと思います。

ferrierferrier 2006/04/05 18:59 『水声通信』の小島信夫特集って読まれましたか?(以前にも言ったかしら)

tmrowingtmrowing 2006/04/05 20:21 以前、教えて頂いて気にはなっているのですが、まだ読んでおりません。

tmrowingtmrowing 2006/04/07 09:43 ようやく購入しました。