”Yes, that’s what became of my play”

彩の国さいたま芸術劇場小ホールで、来年の1月8日に蜷川幸雄と宮本亜門の対談があるとのこと。これは、埼玉県の文化事業の一環で、「Ninagawa 千の目(まなざし)」という対談企画。チケット希望者は葉書による抽選ということらしい。応募しなければ。
学校は期末試験。明日が高2の試験なので、生徒が覗きに来ているのだろう。アクセス数が増えた。私の場合は、高3のライティングで必修の文法事項を盛り込んだ例文の暗記を求めるテスト以外、小テストというのは行っていない。それにしたところで、そのテストの後の解説を読ませるための便法に過ぎないので、そのテストを行うことが主体ではない。その分、授業中の「活動」や「練習」を一所懸命にやらなければならないわけである。記憶の定着には「反復」が欠かせない、ということで、英語学習では小テストは「デフォルト」と思われているのだろうが、小テストという形式で繰り返させる、ということ「は」私の授業ではしていないのだ。これは、多くの生徒、保護者、そして同僚に限らず、英語教師からも奇異な目で見られる。
私から問うてみよう。では、小テストの目的とはいったいなんだろうか?

  • 放っておいたら、生徒は復習をしない、ゆえに定着しない、そしてテスト前に詰め込み、テストが終わったら忘れてしまう。だから、こまめに小テストを行い、生徒に小さな成功体験を保証し、より大きな課題に向かって取り組む意欲を持たせるのだ。

とでもいうのだろうか?実際には、基準点に達しなかった生徒の再テストや、毎回の小テストの点数の管理、全体の成績への反映など、教師の側の事務的な処理の負担が増えること間違いない。
私の授業では、小テストなどがなくとも「繰り返し」に耐えうる素材・教材を盛り込むこと、を第一義としている。こういうことを言うと怒られそうだが、中間期末などの定期考査までに全員が全てを理解し、習得する、ということを想定はしていない。「授業」=「一定の期日で、教師が完成した商品を売るサービス」とは考えていないのだ。そうではなく (= on the contraryということね) 、学ぶ者が自分(たち)で作り上げていくもので、たとえ、試験が終わっても、ある日、「あれ、そういえば、あのときのBilly Braggの歌に、こんなフレーズあったな」といって、ワークシートを読み返したり、CDやMDを聴き直したりする。「Child of mineってほんとはこんな歌だったんだ」という気づきがある。または、生活経験、人間関係の経験知が増えてくることによって、「ああ、あのとき読んだ、Grace Nicholsの言葉は、きっとこういうことを意味していたんだろうなぁ」と振り返ったりする、ということの方を重視している。ある生徒や生徒集団の、あるテストでの点数が高かったときの理解・表現が、その生徒・生徒集団にとって必ずしも最良の学習の証ではないかもしれない、という畏れを常に忘れないようにしている。私は今は教師として、教室での授業に関わっているが、自分よりも高い「知性」、豊かな「感性」の存在を常に想定して授業に臨んでいるつもりである。後生畏るべし。
テストが終わって、さらに高校の授業が終わってからも、繰り返しその言葉に触れるだけの価値があり、しかも英語のしくみや言葉の働きを考えたときに、「英語らしさ」を体得するのに適したもの。そういうものを教材・素材として扱い、さらにはそれを自分のことばとして身につけるための学習方法を試行錯誤してもらう、そんな授業でありたいのだ。ペアワークもスピーチもサマリーライティングもディスカッションもエッセイも教室内だからこそ成立する学習方法である。所詮は「擬似的な」「作り物の」活動に過ぎない。だからこそ、その作り物に命を吹き込む「知性」「感性」が問われるのだと思う。
演劇をやったことのある人、また演劇鑑賞の好きな人は、この感覚がわかるのではないだろうか?主役なら主役で、再演ごとにその劇の理解や印象は変わっていく、端役であれ、同じこと。ましてや、初めは裏方だったが、舞台に上がる側にまわり、さらにその劇に深くのめり込んだり、自分が演じた役を他の役者が演じるのを見て、初めて自分の演技を客観視できたり、自分が演出にまわって初めて、その劇の主題に気づくというようなことがあるだろう。奥行きというのか、深みというのか。底なし具合というのか、得体の知れなさにこそ、醍醐味がある。
本日の心のBGM: I wrote a play (Cole Porter Selected Lyricsより)